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6月9日のお話

2020年6月9日

昼間は30度に届くような気温でも、陽が傾くとすっかり過ごしやすい…。なるほど、梅雨の前と後の季節の違いは昼と夜の境目に実感できるものだったのね。

木戸山コンノは買い物から帰る道すがら、そんなことを考えていました。彼女は、30代後半のメディア系バリキャリ独身女子というカテゴリーに属します。右手に下げている大きめの買い物袋には、缶ビールと2、3点の食材が入っているだけ。

ひとり分の食事をつくるほど、面倒なことはありません。コンノはこれまでは大抵外食で済ませていましたが、COVID-19の感染症対策で自宅勤務になってからというもの、食事といえば、簡単なおつまみと缶ビールが定着してしまいました。

そういう生活にクヨクヨしたりはしないけれど、どうにも面白くない。そんな日に、コンノは決まって神社を通り抜ける帰り道を選びます。今日もそうして、大鳥居を潜り、本殿を傍目に通り過ぎ裏手の公道に続く階段へ向かっていました。

その時。

彼女はふと足を止めると、後ろを振り返りました。階段の手前にある、併設された稲荷神社の朱塗りの台輪鳥居の上に、動くものがあったように感じたのです。

猫?

と思いましたが、そこには何もありません。けれども何か視界を横切ったような気がして、コンノは普段通り過ぎるだけの稲荷神社の鳥居の方へ歩みを進めました。

稲荷神社はそんなに大きな敷地ではないのですが、三つ目の鳥居をくぐったあたりで、ふいに目の前にふくよかな微笑みをたたえた女性が現れました。その手には季節外れの稲穂が握られています。稲刈りの季節でも、この都会のど真ん中の小さな神社で、稲穂を持つ人を見かけることはまずありませんので、これは大変不思議な光景でした。

え…?

コンノが、不思議な状況に巻き込まれたことを認識した瞬間のことです。ザァっと木々の葉を通り抜ける風の音がして、それが合図だったように、たくさんのキツネがどこからともなく現れました。

え。キツネ?

それはあっという間の出来事でした。

気づけば、車座に座るキツネたちの真ん中に、コンノは佇んでいます。先ほどくぐったはずの台輪鳥居はどこかに消え、キツネたちの向こう側に広がるのは、大きな草原の只中にいるような風景です。

もしや、これがよく言うキツネに化かされているというやつなのかしら。

コンノが考えてもどうしようもないことを頭に巡らせた時、キツネたちの間をふくよかな微笑みの女性が歩み寄ってきました。近くで見ると、その身長は少し小柄で、そして微笑みは少し困っているようにも見えました。

こんにちは。突然申し訳ありません。

不思議な状況の中なのに、その女性は意外なくらい普通に話しだしました。要約すると、こうです。

自分たちは普段は人々の願いを聞き入れる立場にいるものである。普段はそれに専念しているが、今年は世界的な感染症拡大を受け、同業者の中で「良い機会だからちょっとここ一世紀くらいの人間の変化というものの調査をしてまとめてみよう」ということになった。そしてそれは、毎年10月に行われる同業者の集会で、発表される予定である。しかし、このままでは良い発表にならないと感じており、助けてもらえないかと相談したい。

と言うのです。コンノのリアクションは全く意に介されず、さらに話は続きます。

自分のもとに寄せられる人間の願いのは、いつも、自分の出世か組織の繁栄が中心である。それは彼女がそのような願いを聞き届ける役割を担っているので仕方がないとは思っている。しかし、それにしても、過去と比べてみると昨今はそれが利己的になりすぎているように思う。試しに「利己的な願いが占める割合」を数値に出してみたら、100年前と比べて、およそ60%増という悲しい結果が出てしまった。

などと言うのです。コンノはいよいよ顔をしかめ、これは、神様とかそう言う存在の何かに巻き込まれたのではないかと、居心地の悪い気持ちになってきました。

その神様らしき女性はさらに訴えを続けます。

100年前は、自分の出世を願う人々はもちろん多いが、その先には、世の中を良くするために、国の未来を繁栄に向かわせるために、という公共的な大義があった。しかし今はどうだろうか。今の勤め人たちは、そのような大義がなあのではないかと心配する。

あなたの意見を聞きたい。

女性がその言葉を言い終えた時、再びザアッと風が吹き抜けました。

そして次の瞬間、女性もキツネたちも風にかき消された砂のように消え、コンノは稲荷神社の本殿の前にひとり佇んでいました。周囲はいつこまにかすっかり陽が暮れて、振り返るとちゃんと三つの鳥居がありました。その先の電灯に照らされて見える風景も、コンノがいつも通り過ぎる日常のそれでした。

一体、なんだったのだろう。

理解できないことが続くときにたまに起こる、脳が痺れたような感覚を抱えながら、コンノは先ほど言われたことを考えつつ家路を急ぎました。

大義がなくても頑張れるのか。

そう問いかけられて、即答はできなかったけれど、自分や周囲の人々に置き換えて考えると、大義がなくても勤め上げることはできるのだろう。例えば家族のためとか、お金が欲しいとか遊ぶためとか、そういう理由でも頑張ることはできている。

でも…。と、コンノはそこまで考え、視座をひとつ高いところに上げてみました。

公共的な大義がなくても頑張れるのであれば、世の中を良くするために、この国の未来を繁栄に向かわせるために、と考えて日々の勤めを果たしている人は、いないのか。

そう考えて、コンノは「あっ」と思いあたりました。ちょうど今日、先ほどまで仕事でオンラインインタビューをしていた教育者が、そのようなことを言っていたのです。

「子供たちは未来を作っていく存在である。そんな子供たちが良い未来を作ることができるようにするのが教育というもの。だから教育は教師と親だけの仕事ではなく、良い未来を迎えたいと思うすべての人が自分事として関わるべきものだと信じている。」

教育を良くすることは、未来を良くしたいと願う気持ちが原動力になる。

そんなことを、コンノはメモしたばかりだったのです。メモをしながら、素晴らしい考え方だと感激し、子供を持たない自分も、未来のために何か教育を良くするアクションを取れないだろうかと考えていました。

よかった。こういう思いは、ちゃんと今も存在している。100年前とは少し違うかもしれないけれど、自分が共感したように、世の中の利己的に出世を願うだけだった人々の心も動くかもしれない。

コンノは帰宅すると、買い物袋をキッチンに置いて、中身を出すこともせず、つけっぱなしにしていたパソコンに向かい書きかけの記事を読み直した。今の自分にできることは、この共感をできる限り多くの人に届けることだと思えば筆も進みます。

いつもの半分程度の時間で納得のいく記事を仕上げたコンノは、良い仕事ができた達成感とともに空腹を感じ、置きっぱなしにしていた買い物袋の中を改めました。

あれ?

すると、不思議なことに、買ったはずの食材がひとつ、なくなっていたのです。

なるほど…そういうことか。

コンノは冷やし忘れてぬるくなった缶ビールを飲みながら、いよいよ色々なことに合点がいきました。

まぁ、煮詰まっていた執筆を捗らせるための対価が、上尾の油揚げ一つというのなら、安いものかもしれない。決して安くはない油揚げだけど…

と思いながら、代わりのおつまみはないかと冷蔵庫を開けていました。





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