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8月4日のお話

「ねぇ、ヒイズ。さっき言っていた”必要な負け”って、どういうこと?」


これは私たちが暮らす世界とは少し違う世界のお話です。風景や生き物、人間と呼ばれる種族がいることなど、その世界は私たちの世界ととてもよく似ていますが、彼らは何度かの突然変異と文明の入れ替えを経た長い歴史を持っています。

今は一部の人が魔法を使い、多くの人が科学技術を使う時代。人間の居住区にだけ都会の街並みと自然が共存し、その他の大地は荒れ果てている。そんな世界のお話です。

4205年8月4日 

太陽が昇らなかった日を発端に増え続けた不登光症候群。

医科学的には全く問題はないのに、さまざまな不調を訴え、しだいに生きることが困難になってしまう恐ろしいこの病は、ウイルスや細菌が見つかるわけではないので治療薬も作られないまま、少しずつ感染者を増やし、多くの人の心をむしばみ続けています。その感染者数はここ3年、増加の一途をたどりました。

しかし、最近になって回復の兆しを見せる者がぽつりぽつりと現れはじめました。まだ把握できている絶対数が少ないため、何が患者を回復に転じさせているのか、特効薬は何かということまではわかっていません。それでも、回復した人がいるという「事実」は、世界を少しだけ明るい気持ちにさせるには十分なニュースでした。


本業の側ら、不登光症候群の治療を行っていたヒイズとカリノが今日訪問した患者も、訪問を続けて3年目にして、少しだけ、回復の兆しを見せた人物でした。

その人物は、著名な政治学者でありながら、この世界の変化によってもたらされた激務の中でいつの間にか罹患していたマルドー伯爵、50歳です。

罹患がわかった初期の段階ですぐにヒイズが治療に向かいましたが、数ヶ月に一度の治療も、効果が出ないまま2年が過ぎました。もともと頭の良い人物だったマルドー伯爵は、長期化する自分の病に対し「もう治らないのだな」と悟ると、治療を「治すため」ではなく「悪化させないため」のものに変更させました。ヒイズの治療がある日からしばらくは調子が良いため、そういう前向きな期間を利用し、病と付き合う方法を模索するのが自分の役割だと考えました。そして、ヒイズとともにその体系化に取り組んでいました。

治らない、というのは語弊があります。不登光症候群も、そのごく初期の段階に「発症を抑える方法」を探り合ってることができれば、再発と悪化を未然に防ぐことができます。実際、ヒイズと共に活動をしているカリノも、一度だけ、不登光症候群とみなされる症状に悩まされた時がありました。カリノにとって、それから救い出してくれたのがヒイズで、再発を止めてくれているのもヒイズなのです。そういう存在が見つかると良いのですが、彼女の様な幸運な立場はなかなか多くありません。

今回のマルドー伯爵も、未然に防ぐ手立てが見つからないまま症状が悪化した人物の一人でした。そんな伯爵が回復したのは、何があったのか。そういうことを調べるために、今日はヒイズとカリノがやってきたのでした。

「治療ではないから」

普段の治療は、ヒイズと患者が一対一で行うルールになっていたので、カリノは別室で待機していたのですが、今回は治療ではなく報告だからという理由で伯爵からも快諾を得て、カリノも一緒に状況を確認することになったのでした。

「じゅう・ドウ?」

「柔道ですよ。古代武道の一種で、組み合い投げることで力の優劣を競うスポーツです。」

回復傾向が出た頃から、何か生活に変化があったかという問いに対し、マルドー伯爵が答えたものに「柔道」という単語がありました。スポーツ自体に興味の薄いカリノは聞いたことがなく、発音を鸚鵡返しにするだけでしたが、ヒイズがフォローするように隣で説明をしてくれます。そういえばヒイズは同じく古代武道の剣道・剣技・剣舞を趣味としていました。古代武道に詳しいのかもしれません。

マルドー伯爵の話では、親の教育方針で幼い頃から柔道にうちこんでいた経験があったようです。「大人になり、仕事に追われる様になってやらなくなったのですが。」という伯爵に、ヒイズが「なるほど、体つきは確かに柔道で培われた様な印象はありますね。」と相槌をうちます。

「はい、体も大きいので、去年、時間もあるしまた始めてみようかなと思ったのがきっかけです。」

そうして、週に数回、稽古に通う様になった伯爵は、若い頃の基礎があったことで一気に道場の老齢のエースとなり、数ヶ月後には試合に出るまでになったと言っていました。

「しかしですね、道場では強い強いともてはやされるのですが、試合となるとそうはいきません。どうにも勝てないんですよ。」

マルドー伯爵の年齢は50歳です。しかし、試合には、ブランクの一切ない20代の選手や、老齢に差し掛かっても師範クラスの選手がたくさん出てきていました。

「最初のうちは、勝てると思った相手にさえあっさり負けるんです。脳内は現役の動きをイメージしますが、20年以上のブランクがある肉体は、その頃の動きを再現することはできないのですよね。」

悔しいなーと思って、試合を終えて、また翌日から稽古をする。そして稽古では、なぜ負けたのかということを考えて、自分を修正していく。これの繰り返しですね、僕にとっての柔道は。そういうと、伯爵は出されていたコーヒーを飲み干し、それでね、と続きを持ち出します。

「試合というものは、毎回、絶対に負けるんです。だってトーナメントですからね、優勝する一人以外は、必ず負けるものです。そして僕は優勝は流石にできませんから、絶対に試合に出れば、初戦を勝ったとしてもどこかで負ける。絶対に負けるんです。」

と、妙に楽しそうに「負ける」ということを話しました。そんな様子をみながら、ヒイズは「あー、なるほど」と何かに気づいた様に肯いています。

「マルドー伯爵、あなたは、負けられる場を見つけられたということですね。必要な負けを手に入れたんだ。」

そういったヒイズの言葉に、伯爵はそうそうと大きく頷きながら「負けられる場、そうだね、その表現は言い得て妙だね。」といいました。そして、何かに気づいた様に、こう、独り言の様に言葉をその場にそっとおきました。

「負けると、すごく勉強になるんだよね。」


ーーーー

「ねぇ、ヒイズ、きいてる?さっき言っていた”必要な負け”のこと、そろそろ教えてよ。負けが回復に必要だったっていうこと?」

伯爵との話を終えた帰り道、カリノはヒイズにそう訪ねました。カリノが柔道のことを知らなかったこともあり、彼女は、ヒイズと伯爵が会話していた内容だけでは、どうしても回復のきっかけが何かがわからなかったのです。

「んー、ああ。マルドー伯爵はね、回復に負けが必要だったというより、罹患した原因が”負けられないこと”だったという結末だよ。」

「原因?」

カリノは首を傾げました。不登光症候群は、あの、太陽が昇らなかった日の不連続さが不調の原因だから不登光症候群なのではなかったか。そんな疑問が頭をよぎります。

「最近僕は思うんだけどさ。あの日、太陽が1日だけ昇らなくて、みんなが一気に不安になって、世界中で同時多発的に”不安のダムの決壊”が起こったのが不登光症候群なんだろうなって。」

でも人間は、毎日の生活の中で、少しずつ、不具合や不安をダムに蓄積していて、まぁ、普通のひとは決壊する前に放流したり調整したりするんだろうけど、とにかく太陽が昇らない日がこなくても、誰にでも不安のダムはあり、そこに一定水位の不安は溜まっているものなんだと思うんだ。

「一定水位の不安。」

そのヒイズの表現は、罹患経験のあるカリノには、心当たりのあるものでした。確かに、カリノが落ち込んでしまった時も、その根底にあったのは、太陽が昇らなかった日以前から、なんなら幼い頃から、感じていた孤独感や違和感だったのです。

「伯爵の仕事は、ミスや失敗、つまり”負け”は許されない仕事だったんだと思うよ。」

だから負けない様に、負けない様に、負けを避け続けて大人になって、それが未来に不安を抱かせたんじゃないかな。

「もしかしたら、自分の学びが止まった様な焦りもあったかもね。負けることから学ぶ、というスタンスだったみたいだし。」

ヒイズの説明に、カリノはなるほどと納得しました。確かにカリノも、今の仕事についてから、大きく負ける、失敗するということをしていません。うまくそつなくこなすことを覚えると、確かに、急成長というきっかけは、掴みづらい様な印象は想像ができました。

「負けると、すごく勉強になるんだよね。」

そう楽しそうに言っていた伯爵の顔が、急にカリノの脳裏に蘇りました。負けることは、いけないことだと思っていたけれど、負けて学ぶ機会を失うことと交換だとすれば、負けないことはそんなに良いものでもないような気がします。

負けないことも、負けてしまうことも、人生の中で、順番に来る様な生き方の方が、もしかしたら不登光症候群にかからない生き方だとすれば。今の世の中の大人たちは、あまりに、逆行する様な生き方を子どもたちに教えているのではないか。カリノはそう考えると、黙り込んでしまいました。



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