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6月12日のお話

昔、ここには山肌に寄り添うように拓かれた集落がありました。小さな島の限られた土地に生活の場を求めて、人間はどんなところにでも家と畑をつくります。海からも近く日当たりも良い、広い耕作地は望めないながらも、海の幸と山の恵み、それからたまに港に船を寄せる唐からの商船たちのもたらす交易品でこの地の人々は充足した暮らしをしていました。

そんな人間の時間にして1,000年以上の時間を生きる大楠には、いつのころからか人格が木霊として宿り、時に少女の姿で、時にあたたかな聖母のような姿で、集落の人々の前に姿を見せては心を通わせていました。都の王朝が変わっても、周囲の海が海賊の根城になっても、東の都が作られた時も、異国から開国を迫られた時も、大楠と木霊はただただここにいて、この小さな島とそこに暮らす人々の緩やかな移ろいを見つめていました。

そんな大楠も、いよいよ寿命を全うしようかというある年のこと。

1878年6月12日、前日まで続いた長雨が原因で、大楠が根を張る山肌よりももう少し高いところの斜面が土砂崩れを起こしました。大楠は今でもその日のことを鮮明に覚えています。ごうごうと音がして、周囲の動植物たちが一気に騒ぎ出しました。山が崩れる。斜面の上の方の植物たちが断末魔のような悲鳴を上げて根こそぎひっくり返されていきます。そんな中でも、彼らは枝を大きく空に伸ばして、自分の幹に暮らしていた鳥や虫、小動物たちを逃がします。

大楠の元へお行き。大楠の根ならきっと食い止めてくれるから。

そうして音が迫る中、大楠の高い高い枝の上には、我先にと非難する動物たちがひしめき、大楠は彼らを守るためにいつも以上に大地を根で強くつかみました。そして、声にならない声を張り上げて集落の人々へ危険を知らせようとしました。彼らは動物たちの様に素早く逃げられない。どうか、一人でも多く気が付いて。

そんな大楠の言葉を感じ取った人間のひとりに、背の小さな少女、ミチがいました。いつも大楠のそばでお細工物をしていて、大楠の木霊とも姉妹の様に仲良くしてたのです。たまたまふもとの家から大楠の元へ向かう途中だったミチは、大楠の根元まで来た時にその轟音と大楠の悲鳴を聞きました。

異変に顔を上げたミチの瞳は、動物たちを枝葉に抱えて膨れ上がった大楠とその向こう側から押し寄せるように迫ってくる土砂の壁を捕らえました。

ミチ、私につかまって。

大楠はミチを高い枝の上に引き上げようと、必至で枝を伸ばしますが、たくさんの命をすでに枝葉にかくまっていたため、思うようにいきません。

ミチもミチで、精いっぱい森の命を守ろうと踏ん張っている大楠に、自分を守るために枝を下してとはどうしても言えません。そうしているうちにも、上からの流れに圧迫された空気が顔をかすめるくらいに、土砂が迫ってきました。もうだめだ。そう思ったミチは、恐怖を飲み込んで、大楠に言いました。

もっと枝を上げて、もっと幹を強く伸ばして。動物たちを、森の命をちゃんと守って。私の大好きなこの森を守って。

土砂が大楠の幹にぶつかりながら流れ落ち、海辺の方の集落までを飲み込んだのは、それから一瞬のことでした。土砂が流れ続けている間、大楠は必至で枝を上に伸ばしながら、それでも木霊の瞳は見失ったミチを探し続けました。

また必ず会いにくるから。その時まで、この森を守って。

轟音がやみ、大楠の体の半分を埋め尽くした土砂の動きが止まった静寂の中で、大楠はミチのそんな声を聴いたような気がしました。

大災害でした。それからというもの、この山肌から集落は消え、反対側の港町の方に人々は住むようになりました。森はゆっくり息を吹き返し、大楠に守られた動物たちは次の命を育み始めます。

結局、あれ以来人の手の入らなくなったこともあり、枝の付け根あたりまで土砂に埋もれた大楠は、その後もそのまま、半分を土の中に埋めたままで生き続けることになったのです。

もう尽きようとしていた寿命を感じていたのに、まるであの時に土砂に流された人々の寿命を代わりに引き受けたかのように、大楠はその後も生き続けました。ミチがまたいつか会いに来るまではと、山を守り、森の生命たちをはぐくみ続けたのです。

そして、2028年6月12日。

老婆とその娘が、大楠の元を訪れました。娘は以前から何度か足を運んでいます。大楠はその娘に何か懐かしさを感じ、また来て、また来て、と語り続けていたからです。そうして何度目かの来訪の時、娘は70歳にもなろうとしている老婆の手を引いて、ゆっくりした足取りで大楠の元へ戻ってきました。

お母さん、ついたよ。ここが、あの写真の場所。

娘が大楠の元で撮った写真を母親に見せた時、もう年を取ったから旅行なんてと言っていた母親が、そこに行きたいといったことから、母子の訪問が決まりました。じゃあ来年のお母さんの誕生日の旅行はここにしよう。そうと決まれば、毎日歩いて、足腰を元気にして。

そんな母子のこれまでの会話が、ふたりの歩く姿から見て取れます。

その老婆を見た時、大楠は、全部の葉が裏返るような気持ちになりました。老婆の方も、大楠を視界に捉えた瞬間にハッと息をのみ、溢れる涙を止めることが出来ない様子です。

え、やだ、お母さん?!

慌てた娘が、鞄にしまったハンカチを探して、顔をあげると、そこには小さな少女と優しそうな若い女性が姉妹の様に手を取り合っていました。

え?

母親はどこに、とあたりを見回しましたが、自分とその姉妹以外は周囲に誰もみあたりません。ぐるりと後ろまでみまわして、もう一度大楠の方を見ると、今度はその姉妹の姿がなく、大楠の前の祠に跪いて、手を合わせている母親を見つけました。

お母さん?

娘はキツネにつままれたような気持になりながら、気を取り直して母親にハンカチを渡します。

ありがとう。

そういった母親の声に、もうひとつ、女の人の声が重なった気がして、娘は再びきょとんとしましたが、母親の若返ったかのような元気な笑顔に、つられて微笑むと、来てよかったと、心にじわりとするものを感じて、大きな楠を見上げました。今日は梅雨の晴れ間。枝葉の間から見える青空は、ビックリするほど透き通り優しい色をしていました。


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