5月31日のお話*

2021年5月31日

最近は、暑くもなく、寒くもない。一年のうちにこんなに快適な日が存在していたことを、私はずいぶん忘れていました。思い返せば、学生時代などは、妙に散歩に出掛けたくなる陽気の日が確かにあって、授業と授業の合間に芝生に寝転んだり、窓をいっぱいに開けて風を感じながら読書をしていました。

それが、大人になってからすっかりと感じることがなくなっていたようです。理由は明確で、オフィスで仕事をしているから。早朝に通勤し、空調のきいたオフィスの中で過ごし、夜に帰る。気持ちの良い「陽気」を感じる時間はありませんでした。

外出する仕事の時は、アポイントに追われ、次から次に足早に電車を乗り継ぐだけ。足を止めて、風を感じるような瞬間があった記憶は残っていません。

それが今や。

やっている仕事は変わらないのに、社会と仕事のやり方が大きく変化したのです。感染症対策として、夜の飲み会は悉くなくなり、生活に体力的な余裕ができたこと。通勤がリスクと称されるようになり、こうして自宅で仕事をしているから、昼休みは家の外にふらりと出ることもできるようになりました。

私の家は小さめのマンションっと地元の人の住宅が並ぶ閑静な場所で、昼間も聞こえるのは近くの小学校にかよう子供隊の声くらいです。ビルの谷間の飲食店街で、12時ちょうどに昼休みに入った同僚たちの喧騒の中、我先にと店に向かわなければいけなかったあの頃では考えられません。

これまでの社会人人生で、こんな昼間の過ごし方ができる日が来るなんて思いもしませんでした。最初は少し寂しさも感じましたが、今ではそれも楽しむことができています。

コツは「ないもの」ではなく「あるもの」に意識を向けることです。

同僚がいない(ないもの)→「寂しい」を、一人で自宅付近を散歩する時間ができる(あるもの)→「穏やか」に変換することができます。旅行ができない(ないもの)→「つまらない」を、その時間でDIYに挑戦(あるもの)→「意外と楽しい」とか。

人間に関しても同じかもしれません。

相手にないものばかりに目くじらを立てるより、相手が持っているものの価値を見るほうがお互いに良い関係になります。

さらにもう一つポイントがあります。あるものを見た方が良いからと言って、あるものばかりを見るのではありません。それよりも、3回に1回、ないものにも目配りをするのです。

あるもの、あるもの、ないもの。
という具合です。

これを証明するのに、ちょうど良いエピソードがあります。先日、私の母がコロナ自粛をきっかけにDIYを始めた父の作品がみるみる上達しているという話をしてくれました。それまで、仕事に明け暮れ、土日も接待のゴルフに忙しかった父ですが、家にいるようになったことで庭にウッドデッキやテーブル、椅子、花壇、柵など、様々なものを手作りし始めたのです。

そんな様子を聞いていて、私はふと、父の父、私の祖父も確か家のDIYをよくやっていて、器用な人だったことを思い出しました。

「お父さんも、おじいちゃんの子なんやね。血を受け継いでるんや。」

すると母がこう言います。

「そうそう。本当にそっくり。器用で、まめだったけど、雑だったんだよね。おじいちゃん。おばあちゃんが言ってた。そんな雑なところまで、お父さんはそっくりよ。」

私はこの言葉を聞いた時、おじいちゃんに対するおばあちゃんの愛情と、父に対する母の愛情の深さに、ハッとしました。

器用で、まめで、センス良い人だったよ。と、あるもの×3で語られるより、器用で、まめで、でも雑。と、あるもの・あるもの・ないもの、で語られた方が深く大きな愛情のように思えたのです。

それはきっと、1つのないものも含めて、認めているというメッセージが、愛情の振れ幅を大きくするからだと多います。

あるもの・あるもの・ないもの。

そう口ずさみながら、近所のコンビニまでのんびりと歩きます。在宅勤務で歩かなくなった代わりに、休憩時間は積極的に外に出て散歩ができるようになりました。ひとりでのんびり歩くから、口数は少なくなったけれど、周囲の風景をいつもよりじっくり見るようになりました。でも、コンビニの常連になっておやつがやめられません。残念。
と。思いながらも、ないものが適度にある、充実しすぎない生き方に、どこか安心するのです。

あるもの・あるもの・ないもの。

これは、私のささやかな発見です。

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