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8月3日のお話

地上から離れて雲も眼下に見える高さで出会う夜明けを、あなたはみたことがありますか。

その鼓膜を引き裂く様な静けさと、目を覆うほどの透明感は、そこが人間の生きられる世界ではないことを教えてくれます。とても綺麗なはずなのに、心の中はじわりと恐怖に支配される、それが高度1万メートルの上空の世界です。

その美しくもかき消しがたい恐怖を隣で共有してくれる相手がいたら、あなたは高い確率でその相手のことを運命の人だと思うでしょう。それは、恐怖と安堵の対比が感情を助長させる現象で、体が触れ合っていたりしたら、その暖かさが心の恐怖を溶かしていく感覚を味わうことまでできます。

新婚旅行で海外にいくカップルが多いのは、この経験を得たいためだ。と、かなめはぼんやりと考えていました。

この経験が何かを勘違いさせ、お互いが守り守られ、温かな存在であり続ける幻想を強固なものにしてしまうのでしょう。だから、少し上手くいかなかったり、衝突したりすると、それが事件となり違和感に育つと「僕に暖かさをくれる人は別にいるのかも」などと思うのです。それが幻想だということも気づかぬままに。

飛行時間が8時間もある国際線に一人で乗ると、そんなくだらないことばかり考えてしまいます。かなめは、機内持ち込みのカバンに、一冊しか本をいれてこなかったことを心の底から後悔しました。映画は興味がないし、隣は若い学生の様な外国人の女の子が、ぐっすりと眠っています。帰国するための旅路でしょうか。リラックスし切っている様子をみると、うらやましくなります。

かなめのフライト目的は、もちろん仕事です。国際カンファレンスに参加するという経験は、はじめてではありませんが、遠方は久しぶりでした。

どうしても眠れないことに観念し、かなめは再び窓の外の夜明けの風景を眺めることにしました。この飛行機は夜明けから逃げる様に飛んでいます。地球の自転の方が少し早いのでしょう。じわじわと光の面積が多くなっている様な気はしますが、まだしばらく、すっきり明けるわけではなさそうです。

この、すっきり明けないという長い夜は、まるで自分の人生のようだわ、と彼女は考えました。明けようとしている兆しは、最近、確かにあるのです。あの頃から比べると、いくぶん希望や明るい未来の予感を感じられることは多くなっていました。それは、2年前に出会った一人の男性の存在が影響していることも、認識しています。

色々と失敗をして、傷ついて、苦しんだ夜の時期、かなめはその中で恋や愛の本当のところを学んだような気がしました。知識は真実の中ではなく、間違いの中にあるという言葉は、学びの本質をついた名言です。恋の見極め方や、大切な人の愛し方を間違えたからこそ、少女の頃に夢見ていた「運命の人」はどこにもいないということに気がつけたのです。

2年前に出会った彼のことを、かなめは「ほんものの運命の人」だと思っています。幻想とほんものの違いは明確で、ほんものの運命の人は定期的に、”決して逃げられない自分の課題”を突きつけてくる存在です。

素敵な魅力を持っている。一緒にいて楽しい。甘い言葉もたまに囁いてくれるし、胸を高ならせるような表情で、日々の生活に彩りを与えてくれます。そこまでは、幻想の運命の人とあまり変わりません。

しかし彼は、それだけでは終わらないのです。その幸せを一気に冷ますかの様な「現実」を容赦無くつきつける。それがあるのが、ほんものの運命の人です。その人といると、幸せだけでなく、自分の課題を克服することを定期的に要求されるのです。

心理学者のユングは、あなたが向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる、という言葉を残しています。運命は様々な形で目の前に現れ、自分自身が向き合わなければいけない課題を突きつけてくる存在だと、教えてくれているのです。

運命とは、決して優しいものではないのです。

それなのに、テレビドラマの影響も手伝ってか、ロマンを追い求める男女は「運命」を自分の味方の様に思っています。だから、真昼の太陽の様に温かな光を注ぎ続けてくれる様な相手を探し、裏切られたと騒ぐのです。裏切られたのではなく、そういうものだと思えていたら、突きつけられた現実に、自分が向き合うことができていたら、破綻しなかったはずの恋や愛で世界は溢れています。

厳しくても、つらくても、それは自分に必要なもので、乗り越えて再び心地の良い時間をすごそうと思えた頃に、素敵な異性と出会えればみんな幸せになれるのに。

かなめは30代後半になって、ようやくそう思える様になりました。そんな遅い出会いだったため、若い頃に出会う男女の様に、すぐに一緒になるなど急展開は望めません。年齢を重ねると、仕事や周囲の環境も積み重なるのは仕方がありません。それでも、そういう相手と巡り合えたことで、彼女の人生は確実に夜明けを迎えようとしていました。

夜明けから逃げる様に飛ぶこの飛行機が、いつか夜明けに追いつかれる様に、ゆっくりとゆっくりと幸せが追いついてくるのを楽しめるような大人になること。それも、きっとほんとうの運命の人である彼が突きつけてきている課題なのかもしれません。

もっと容易い課題にしてくれても良いのに、と思う反面、今の自分には決して耐えられないものでもないという自信がついていることも、今の彼に出会ってからの年月のおかげです。

あとは、かなめの存在が、彼にとってもほんものの運命の人になれたらいいなと、先ほどよりまた少し明るくなった透明な夜明けに向かって祈りを捧げました。いくら彼女が数々の失敗から愛することの本質を学んだとしても、相手に関するそこだけは、相手を信じることしかできないのです。

2022年8月3日。フライトはまだ数時間続きます。

少し考えが前向きになったところで、かなめはようやく眠気を感じることができました。このまま夜明けを眺めていようかと一瞬迷いましたが、それは自分の人生に訪れるのを感じればいいやと考え直し、眠気に身を任せる様に、そっと目をとじました。

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