幸福な夢を見よう
彼はどうしようもなく疲れていた。
疲れ果てて夜勤から帰宅した後は、ずっとネットで動画を漁って笑ったり、泣いたりしていた。
額と頭頂部の丁度真ん中あたり、脳内がピリピリ痛んできても、ノートパソコンの前から離れることができなかった。 彼の楽しみのお供には必ずインスタントコーヒーがあったが、朝方になるとコーヒーカップには乾燥し焦げ茶色の汚れがこびりついていた。
彼はそろそろ眠ろうと思った。
朝方から寝始めると、仕事中もそれほど苦痛ではない。
眠る前に少し体操をした。彼は運動が好きだった。
酒も煙草もやらない。食も適量を守って水分をよくとっていた。しかし、眠る時間だけは仕事の関係上不規則になった。そしてそのために彼の自律神経はボロボロになっていた。
布団の中に入り、体を横たえると全身の力が抜けていくのを感じた。
ここ数日は眠りも浅かった。起床時間に体を持ち上げると右の肩甲骨の奥と筋肉と筋が柔軟性を失ったゴムのように軋むのを感じた。
――今日はよく眠れるかもしれない。
そんな彼の願いが天に届いたのか、彼は五分も経たずに眠りに落ちた。
彼は気が付くと、見知らぬ庭の真ん中で椅子に座っていた。目の前には木の丸テーブルがあって、ガラスのティーセットとクッキーが置かれていた。
ポットには紅茶が入っているようだ。赤と黒と白と光と影の 美しい濃淡に見とれていると、じわじわと水滴が現れるのに気が付いた。その水滴を彼はじっと見つめていた。
「どうして食べないの?」
顔を上げると、どこかで見たことのある女性が立っていた。顔は美しい、というよりかわいらしい印象で、黒髪は肩まで伸びている。
どこの国の民族衣装かは知らないが、体のラインがはっきりとわかるぐらい体型にぴったりと合っている服、ドレスを着ていた。 細い肩と腰だった。
「食べていいんですか?」
彼は恐る恐る尋ねる。
「なんで敬語なの?」
彼女は笑ってから彼の目の前に座った。
椅子は二脚。 彼女は彼のために紅茶を注いだ。 温かい香りはゆっくりと彼の鼻腔に侵入し、唾液を分泌させた。
「クッキーも美味しいよ」
彼はゆっくりとクッキーを口の中に運んだ。かみ砕くと、甘い粉が口の中に広がった。
「美味しい」
「でしょ?」
イタズラを成功させた子供のように彼女は笑った。
その後、数時間、彼らは話をしていた。
彼が何となく上を見ると、自分が藤の花の下にいることに初めて気が付いた。
薄緑の空から、紫と白の淡い雨粒が、彼に向けて降り注いでいた。
「綺麗だなぁ。僕、藤の花が一番好きなんですよ」
「知ってるよ。だからここに呼んだんだ」
「え?」
「また私を選んでくれて、ありがとう」
彼は目を覚ました。
相変わらず右肩が痛かった。
その後、彼は眠るのが楽しみになった。
彼はその理由に気が付いていなかった。動画を漁ることも止めた。そんな時間があるなら睡眠時間に費やそうと思った。
「お前、ちゃんと寝れてるか」
「目の隈、やばいぞ」
「しっかりしてよ。ここ、ミスしてる」
「ぼんやりしてると車に引かれるぞ」
同僚や友人からそう言われることが増えた。彼はそれほど気に留めていなかった。
ある日、嬉々として眠りにつくと、そこは夜の荒野だった。みすぼらしい恰好をした禿頭、白髭の男がいた。
「そろそろあの女が怪しいと気づいているんだろう? あの女は妖怪だ。魔女と言ってもいいがね」
「何のことだ?」
「でも、自覚はあるはずだ。だんだんと体の感覚が鈍くなっているのだろう? もう一度彼女に会えば、命はないぞ」
「‥‥‥。あなたは僕を救ってくれるのか?」
「私は助言するだけだ。助かるかどうかは君次第だ」
「そんな無責任なことを言うためにわざわざ来たのか。あんたのように訳知り顔、得意満面の顔でご高説を垂れる輩を、僕は良く知っている。救う気もないのに手を差し伸べるのは罪だ」
「もう、手遅れだったようだ」
老人は消えた。
もう一度瞬きをすると、藤の花の庭に座っていた。
「私を選んでくれたのね」
「うん。僕には君以外、大切なものはないから」
彼は夢の中では騎士タンホイザーで、彼女は賢者から忌み嫌われる魔女だった。世界が終わりを告げるまで、一生離れることはない。
夢の賢者も、現の人々も、彼の心を変えることはできなかった。
ところで、最近何かと耳にする藤の花の花言葉を知っていますか?
「決して離れない」 だそうです。
自作自注:元々別の小説投稿サイトにアップしたモノを少し直して投稿。言い訳させていただくなら、これを書いた時、私はとても疲れていた。
「タンホイザー」はハイネ『精霊物語』に出て来る騎士。ワーグナーのオペラとして有名らしいが、そちらには全く触れていない。騎士と魔女の禁断の恋の詩。
「藤の花」は私の好きな花。『鬼滅の刃』でも取り上げられていた。私の庭に春ごろ咲いてはうなだれている、とても奥ゆかしい花。
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