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仕事の話のち大喜利の話

20代、広告デザインの事務所で初めて正社員になった僕はこう思っていた。「誰も見たことが無いものを生み出さなきゃいけない」こんなことを掲げたら当然仕事は苦しみでしかなくなる。当たり前だ。不可能を目指しているのだから。当時、僕は調べるということをほとんどしなかった。他人が似たような課題にどんな答えを出しているか、ヒントを得ようともしていなかった。0からの閃きみたいなものが純粋にあると信じていたのだ。その事もあったし、尋常じゃなく忙しかったこともあって、完全に心が終わってしまった。それから5、6年悲惨だった。精神は曲芸飛行のように移り変わり、ずいぶん自分を痛めつけたし、人にも迷惑をかけた。おっとそれは本題じゃなかった。今、僕はweb関連の仕事をしている。まあデザイナーと言って良い仕事だ。かなり楽しい。なぜか。「パクろうが模倣だろうがインスピレーションを受けたとか何でもいいけど、形になった時、それはどうしようもなくオリジナルなのだ」と思っているから。出来上がったものが、パッと見何かに酷似していたとしても、与えられた条件や要素が異なるものを一つにまとめ上げる作業自体はコピーでは無い。全くオリジナルの作業だ。そして僕は、その体験を楽しいと思える。これだけは才能かも知れない。今の仕事について、僕はめちゃくちゃ調べるようになった。積極的にヒントを探しに行く。与えられた課題のキーワードを打ち込み、一般的な解決方はどんなか、ちょっと奇抜なのはどんなか、失敗してるのはどんなか、文字通りググッている。そして良いと思ったもののエッセンスが僕に吸収される(これは慣れないとマジでパクりになる)。もちろん自分の中にもいくらかの手札はある。その辺がうまく溶けあって成果物が生まれる。いつしか仕事と遊びの区別はなくなった。家に帰っても何かしら作業していることが多い。幸せだと思う。さて、タイトルが嘘にならないうちに大喜利の話。たまに、大喜利も同じことの繰り返し、昔の人がやったことの焼き直しをしてるだけという話をされる。だから何?って感じ。「パクり」なのか「思考の類似」なのか、違いは誰だって分かってる。新しいお題と向かい合って、一つのボケをまとめ上げる過程はその人にとってかけがえのないオリジナルな体験だし、それが楽しくてやってるんじゃないのか?その結果、似たようなボケが過去にあったことが分かっても虚しくなったりしなくていい。もちろんこの手の事はデザインや大喜利に限った話じゃないのも明らか。繰り返しだし新しいのだ。これは矛盾してない。矛盾しててもいいし!ちょっと難しくなってきたな。まとめるのはまたいつか。バカにされても楽しいからやる!俺は!

おわり

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