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いつまで続く泥濘ぞ

(2023/03/29記)

 2011年のアラブの春に際し、もし池内恵さんが敢然と立たなかったら、日本のSNS界隈があれをどのように曲解していたか、じつは想像を絶するところがある。

 韓国との関係がどん底まで落ち込んだ数年間に、木村幹さんの、時に飄逸な、時に身も蓋もないエントリが、易きに流れようとする隣国評をどれほど我に返らせたことか。

 細谷雄一さん、篠田英朗さん、鈴木一人さん、この三人の理知的で説得的なツイートとその拡散が、一定数の保守とリベラルを共にその位置につなぎ止めていなかったら、今現在、この国の世論はどうなっていただろう。

 とりわけウクライナ戦争以降の小泉悠さん、東野篤子さん、高橋杉雄さんらの奮闘、ここ数週間の大庭三枝さんの本格参戦は、一連のやりとりを望見する数万に及ぶ人々に、歴史に学ばず礼節をわきまえず、狭隘かつ稚拙な持論を開陳する衆愚の醜さを見せつけた。

 一方的にではあるが、かねて深い敬意と友情を抱いている研究者たちが、SNS上で度し難い有象無象と諍う様子を見るのは正直つらい。

 もうおやめなさい、ムダだから。どうせわからないし、そもそもわかろうとする気もないし。そんな輩を相手に消耗するより、きちんとモノを書いた方が良いですよ。

 そんな言葉が何度も喉元までせり上がった。でも言えない。あの賢い人たちは、そんなこと百も承知で闘っている。

 今ここで食い止めないと、世の中がおかしなことになるかもしれない、取り返しのつかないことになるかもしれない、そう思って流れに棹さすSNSと必死に向きあっているのだ。

 それは、議論の前提となり発展的に下支えするはずの「書物」がまったく機能していない現状と相俟って、編集者という生き方への徒労感や無力感となって私を苛む。

 私に出来ることはあまりにも少ない。どれほど共感を表明しようと、当人たちからは「おまえは何一つしてくれないではないか」と責められるかもしれない。

 でも、せめて目を背けないでその様子を観察し、伴走しようと心に決めている。私は彼らの最後の友人でありたい。

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