見出し画像

文士文豪の恋文

(2018/10/31記)

 かつて文豪の全集には、長篇小説、短篇小説、そしてエッセイなどの巻に続いて書簡集が収められることが多かった。

 しかし時代は変わった。文豪など疾うに死に絶え、その断簡零墨の収集は容易でないし、そもそも今や手紙よりメールである。

 いずれは書簡集に替わって「メール集」などを含む個人全集が出来る日が来るのかもしれないが、今のところは想像も出来ない。

 戯れ言はともかく、文を生業とする作家たちの手紙、それも恋文などというものは、時に異様な世界の扉になっていたりすることもあって侮れない。

 作家・倉田百三の名は知らなくても小説『出家とその弟子』のタイトルなら知っているという人は多いのではないだろうか。

 浄土真宗の開祖である親鸞とその門人たちを描き、大正六年(一九一七)に岩波書店から発売されるや大ベストセラーとなったばかりか、時ならぬ親鸞ブームを巻き起こしたことで知られる名作である。

 明治二四年(一八九一)年、広島に生まれた百三は、旧制第一高等学校に入学すると芥川龍之介らを押さえて首席となるほど優秀であったが、性愛の問題に激しく懊悩する一面もあったという。

 結核の療養のために一高を中退すると、度重なる家族の急逝や実家の窮乏などを背景に、京都にある修養施設・一燈園に身を投じるなど、キリスト教や浄土真宗といった宗教への関心を強め、聖なるものへの憧憬と卑俗なものへの惑溺を、重要なモチーフとして自身の作品に取り入れていった。

 そうした感性は、学生時代の燃えるような恋愛と失恋の絶望から筆を執った『愛と認識への出発』(大正一〇年)、最初の離婚と再婚経験の中で書き継がれた『一夫一婦か自由恋愛か』(大正一五年)、初恋の思い出を綴った自伝的小説『光り合ふいのち』(昭和一五年)などに色濃く見出され、『出家とその弟子』においても、親鸞の弟子でありながら遊女に恋い焦がれる若き僧侶の葛藤というかたちで現れている。

 百三が凄いのは、その恋愛遍歴が若き日にとどまらず、二度の結婚と破綻を経て、晩年まで続いたことだ。

 その究極の姿が、のちに書簡集『絶対の恋愛』を生み出す、山本久子とのやりとりに現れている。

 文学を志し、教えを受けたいと手紙を送ってきた久子との文通は昭和一一年(一九三六)一二月に始まる。このとき百三は四五歳、久子は一七歳である。

 手紙を交わすうち二人は熱烈な恋に陥り、まもなく旅先で落ち合っては肉体関係を結ぶようになる。

 情愛は往復する手紙の中で濃度を増してゆき、「私の求めているものはただの子弟の愛ではありません。熱い、濃い愛」といった告白を経て、やがて「私の舌はあなたの可愛い、鋭い糸切歯を痛い、甘い感覚で覚えてしまいました」という生々しい回想へと変化してゆく。

 翌年久子が上京し、二人は東京のアパートで同棲をはじめた。しかし、わずか三日後に久子の兄が乗り込んでくる。

 兄は百三を殴りつけると久子の腕を掴み、引きずるようにして出て行った。その関係は一年ほどしか続かなかったのだ。

 しかし、短い期間に交わされた膨大な書簡を百三はすべて手元に保存していた。そして未練を断ち切れなかった百三に、それを自ら処分することはできなかったのである。

 結局、書簡は編集者・松澤太平にあずけられた。昭和一八年(一九四三)に百三が亡くなり、あずかっていた包みを開いた松澤は、初めてその中身が書簡であることを知る。

 遺族とも相談の上、昭和二五年(一九五〇)書簡集の刊行に踏み切ったが、赤裸々な内容と相俟って社会的な議論を呼んだ。

 とにかく、この書簡集の発する「やっちまった感」はハンパない。怖い物見たさで手にしてもいいが、頭を抱えて身もだえすること請け合いである。

 手紙、それも恋文などけして残すモノではない、という恐るべき教えは、ハードディスクの中のエロ動画を残したまま死ねない、という「異世界転生」ラノベにありがちな(笑)今日的モチーフにも繋がる。

 まあ、そうは言っても男と女、とかく浮世はママならぬものである。例えば、もしこの恋が成就していたなら、彼女はもっと多くの作品を生み出すことが出来たのではないか、そして、あれほど早く世を去らずに済んだのではないか……。

 わずか二四歳で病に倒れた樋口一葉と、今では忘れ去られた作家・半井桃水の秘められた恋のやりとりには、そんな想いを抱かずにいられない。

 一葉は明治五年(一八七二)、東京府庁に勤める樋口則義と多喜の次女として生まれた。幼い頃から読書に親しみ、私立小学校の高等科を首席で卒業するも、女子に学問は不要と考える母によって、それ以上の教育を受ける機会を得なかった。

 だが一葉には文才があった。それを見出した父・則義は一葉に和歌を習わせると、明治一九年(一八八六)、ついには知人の紹介で明治期の代表的女流歌人・中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門させる。

 多くの公家や政治家の娘たちが通う萩の舎で、平民の娘に過ぎない一葉はみすぼらしい存在だったが、溢れる出る才気は隠しようもなかったという。

 父・則義が亡くなり経済的に困窮した一葉は、萩の舎に内弟子として住みこむが、ともに同塾の二才媛と呼ばれ、姉弟子にあたる田辺龍子(三宅花圃)が小説『藪の鶯』で高額な原稿料を得たことを聞き、小説の執筆を決意する。

 萩の舎の住み込みを離れて本格的に執筆を開始した一葉は、明治二四年(一八九一)、小説家として身を立てるため、当時、東京朝日新聞に所属していた作家の半井桃水に師事し、指導を受けることになった。

 一葉は初めて桃水を訪れた際の様子を後に「耳ほてり唇かわき」と記し、その後もたびたび教えを乞いに出かけた。翌年、半井が創刊した雑誌「武蔵野」に一葉は処女小説『闇桜』を寄稿し関係を深めてゆく。

 しかし、男女の別に厳しい時代のこと、生活の苦しい一葉の面倒をみる半井に周囲は厳しい目を向けた。

 じつのところ二人は共に独身で、今の感覚ならば「それくらい良いじゃない」と思うのだが、結婚を前提としない男女の交わりというのがいけなかったらしい。

 一葉自身が「変な具合」と書くように、二人の仲が噂となり、わずか一年余りで師弟関係を保つことすら出来なくなってしまうのである。

 桃水に宛てた手紙には、そうした事情を窺わせる慎重な書きぶりが目立つ。「お兄様のような気持ちで……お力にすがりたい」。あるいは「男女の別さえなければ……風流な遊びもできる」のに、といった具合である。

 それでも、身分違いの悲恋を描いた作品を立て続けに発表していた明治二五年(一八九二)七月、二〇歳になった一葉が三二歳の桃水に送った手紙には、ほとばしるような思いの丈が垣間見える。

 「なにごとにもよらず、二人共々でとお考えいただければどんなに嬉しいことでしょう」。

 これは、口さがない世間や時代、あるいは家族に起因する困窮に抗い、一葉が筆にのせることができた最も強い気持ちの現れであったのかも知れない。

 まもなく一葉は『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』といった佳作を世に送り、文壇のみならず世上から多くの賛辞を受けることになるが、すでに彼女に残された時間は多くなかった。

 明治二九年(一八九六)肺結核で死去。二五年にも満たない生涯であった。

 一葉に加えることわずか二年、二六年余の人生にもかかわらず、石川啄木の生涯は常に貧困と病と放浪の中にあった。

 歌は高く誇るべき自らの拠り所であり、明治四三年(一九一〇)に第一歌集『一握の砂』を刊行する前後には、一日に一四〇首、三日で二六〇首を詠む、と豪語するほど口をついて出たが、ついに彼の生活を豊かにしてくれることはなかったのである。

 明治一九年(一八八六)、岩手県盛岡で曹洞宗の寺の長男として生まれた啄木は、旧制盛岡中学に進み、終生友人として交わり、時に生活を支えてくれることになる先輩の金田一京助や、のちに妻となる堀合節子らと知り合う。

 上級生たちの影響を受けて文学に心を寄せるようになった啄木は、当時、そうした若者たちの通過儀礼でもあった与謝野鉄幹の主宰する雑誌「明星」に魅せられ、自ら短歌会を組織するほど、とりわけ与謝野晶子らの短歌に傾倒してゆく。

 明治三五年(一九〇二)には東京へ出て、「明星」を刊行していた同人結社・新詩社の集会に参加し、与謝野鉄幹・晶子夫妻の知遇を得るものの、希望した出版社への就職は叶わず、結核を患ったことなどもあり、失意のうちに故郷の盛岡へ戻ることになる。

 しかし、その翌年には新詩社の同人となって「明星」に短歌や長詩を掲載するなど、一躍歌壇の注目を集めるに至った。

 明治三八年(一九〇五)に節子と結婚した後も生活は安定しなかった。啄木は単身盛岡を離れ、函館や札幌で代用教員や臨時雇いによって糊口をしのぐ生活を続けたが、結局、明治四一年(一九〇八)に再び上京すると新詩社で文芸活動を続けることになった。

 同社には全国に散らばる同人たちから送られてくる短歌の添削指導を行う「金星会」という組織があり、生活の糧を与えようという鉄幹の配慮でそこを任されることになった啄木が菅原芳子に出会うのも、やはり短歌の指導がきっかけだった。

 芳子の詠む歌が啄木の琴線に触れたことは間違いない。芳子宛の手紙の中で、東京で行われる新詩社の同人の集まりに与謝野晶子を除くと「一人としてこれぞと思ふ人(女性作家)もなかりし次第」で、「若し御身でも東京に居るならと、その時小生の心の中にて残念に存じ候」と述べているほか、啄木は一首一首に丁寧な添削をほどこしながら長文の手紙を書き送っており、まもなく芳子からも身の上話を交えた手紙が届くようになる。

 芳子は遠く大分の臼杵の在住で、二人の間は容易に訪ねあうことができない距離で隔てられていた。

 芳子の詠む歌への純然たる評価は、どうにも会えないもどかしさから、やがて啄木の中に物狂おしい気持ちを育てていったのかも知れない。

 「あたたかき手を取り」「黒髪の香を吸い」「燃ゆる唇に口づけする」ことを願い、「接近を欲するは遂に恋の最大の要求なり」という言葉はまさに啄木の偽らざる欲求だったに違いない。

 一年ほど続いた二人の文のやりとりは、じつは啄木のささいな思い違いから、あっさりと終局を迎えている。

 まもなく啄木は東京朝日新聞に校正係として採用され、と同時に有名な「ローマ字日記」をつけ始める。しかしこのとき、啄木の余命は三年も残されていなかった。

 かつて肺結核は労咳とも呼ばれ、日本人の死亡病因の上位を占めていた。

 一葉や啄木ばかりではない。日々の生活に追われ、あるいは衛生・栄養状態もけして良いとは言えない生活を送っていた大勢の文学者たちが、この病魔に冒され倒れていった。

 明治三七年(一九〇四)に東京に生まれ、ロマン文学の旗手であった堀辰雄もその例に漏れない。

 大正一四年(一九二五)、東京帝国大学文学部に進んだ辰雄は、旧制第一高等学校以来の同期である小林秀雄らと共に本格的な創作活動を開始し、当時、淡い恋心を寄せていた片山総子(芥川龍之介の恋人・片山広子の娘)をモデルとした処女作を皮切りに、いくつかの同人誌に作品を発表する。

 しかし芥川龍之介に強く影響されていた辰雄は、昭和二年(一九二七)の芥川自裁に強いショックを受け、心身疲労から大病を患い死線をさまようことになる。

 結核を発症し、この頃から、保養地として知られた軽井沢をたびたび訪れるようになった辰雄は、そこでの日常をモチーフにした作品や、結核治療のための施設の名称から「サナトリウム文学」と名付けられる作品を執筆している。

 辰雄の代表作の一つである『美しい村』は、文字通り「美しい軽井沢」が舞台である。同作には、そこで出会い、後に辰雄と婚約するに至る矢野綾子が登場している。

 綾子もまた肺を病んだ身の上であった。昭和一〇年(一九三五)夏、二人は同じサナトリウムに入院するが、同年の末、容体が悪化した綾子は卒然と世を去った。

 この悲劇的体験を物語として昇華したのが、サナトリウム文学の傑作とされ、二〇一三年にスタジオジブリが長編アニメ映画の原作としたことでも知られる『風立ちぬ』である。

 自宅と軽井沢を往復して療養に努める辰雄だったが病勢は好転せず、まれに神戸や京都に旅行することもあったが、その一方で絶対安静となることも少なくなかった。

 そんな中、知人に紹介されやはり軽井沢で出会い、辰雄の終生の伴侶となるのが九つ年下の加藤多恵である。

 昭和一三年(一九三八)四月、二人は室生犀星夫妻を媒酌人として結婚している。残されている書翰のなかでも、結婚前の昭和一二年に交わされた二通は、いくつかの悲しい恋や別れを乗り越えた末の、明るく穏やかで、思いやりに満ちた内容となっている。

 この頃、辰雄は日本の古典文学、とりわけ王朝文学に関心を寄せ、折口信夫の指導を受けるなどしていた。

 「トンボ日記はよかったな。僕の奴も蜻蛉日記の焼直しみたいなものだが…」とあるのは、同年の雑誌「改造」一二月号に掲載された「かげろふの日記」のことを指しており、藤原道綱母の日記『蜻蛉日記』の「蜻蛉」が「かげろう」とも「トンボ」とも読めることを掛けた軽口である。

 妻となる人へは「君の顔を見たので急に元気になった」と書き送った辰雄だったが、結婚後も体調は思わしくなく、終戦後はほとんど床に伏せたままとなり、創作活動もままならなくなってゆく。

 昭和二六年(一九五一)、軽井沢に念願だった新居を構えるが、その二年後、増築した書庫の完成を見届けるようにして辰雄は世を去った。四八歳であった。

 病に倒れる文人が少なくないなか、自ら命を絶つ者もいる。

 明治一一年(一八七八)、有島武郎は藩閥政府に連なる典型的な明治のエリート家庭に生まれた。

 六人兄弟の長男に対する父母からの重圧は大きく、与えられた課題を果たせないと容赦ない罰が与えられたという。

 武郎自身が後に述懐しているように、とりわけ厳格な父親との関係が、自分の気持ちを殺しても相手の意に従ってしまう武郎の性格を形作っていったと思われる。

 エリートの集う学習院中等科を卒業した武郎は、多くの同級生たちのように高等科へ進学するのではなく、農学者を目指して札幌農学校へ進んだ。

 そこには息詰まるような特権階級の生活や独裁的な父親の圧力から離れる意図もあった。

 農業学校卒業後も、志願兵として一年間の軍隊生活を送ると、さらに渡米。三年に及ぶ留学のなかで社会主義や西洋哲学を吸収して明治四〇年(一九〇七)に帰国する。帰国後、弟の有島生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い、同人誌「白樺」に参加している。

 転機は大正五年(一九一六)に訪れた。明治四二年(一九〇九)に結婚した妻・安子が、肺結核のため二七歳の若さで亡くなるのである。

 そして同じ年、長らく武郎の人生を抑圧してきた父が死去したことで、いよいよ本格的な作家活動に入ることになる。

 『カインの末裔』、『生まれ出づる悩み』と立て続きに話題作を発表した武郎は白樺派の中心人物と目されるようになり、大正八年(一九一九)には長編『或る女』を世に送る。

 しかし、父の死後の資産処分や母との関係など名家の嫡子には多大な心労があり、それは次第に創作に対する意欲をむしばんでいった。

 大正一一年(一九二二)秋、武郎は『婦人公論』の記者・波多野秋子と出会う。七年連れ添った前妻と死別した後、武郎は再婚していない。

 ただ『或る女』を完成させるためこもった寺には数人の女性の姿があったし、帝劇の女優・唐沢秀子とは恋愛を公言する仲であった。

 それでも、年長の夫を持つ身でありながら執拗に迫ってくる秋子を、武郎は拒むことができなかった。

 唐澤秀子に宛てた手紙からは、武郎が秋子にどのようなプレッシャーを受けていたかが窺える。

 「あなた(秀子)と私(武郎)とが『お仲良し』なのか、それならばそれでいいけれどもと言って来ました」。「それならばそれでいいけれども」という秋子の言葉がじつに思わせぶりである。

 秋子の気性に危うさを感じていた武郎は、大正一二年(一九二三)三月、逢い引きを約した場所へ赴かず離別を申し出る。それが同月一七日付の秋子宛手紙である。

 おそらく死を仄めかしたのであろう秋子を「死んではいけません」と諭し、秋子の夫である「波多野さんををあざむいて、愛人としてあなたを取りあつかうことは……出来る事ではありません」という言葉は、このとき武郎の偽らざる心境だったに違いない。

 これが、武郎にとっても運命の分かれ目であった。この手紙の後、再び秋子に会ってしまった武郎は強く情死を迫られ、同年六月九日、軽井沢にあった別荘・浄月荘で心中する。

 発見されるまで一月近くかかったため、腐乱した遺体は酸鼻を極めたという。

 自業自得とは言えまったくひどい話である。しかし、武郎ほどの例はそうそう転がっているわけではない(あとは姪を妊娠させてしまう外道・島崎藤村くらいか…)。

 一方には自然と酒を愛し、旅の歌人とも呼ばれる若山牧水(本名:繁)のような、心温まる生涯を送った文人もいる。

 繁は、明治一八年(一八八五)、現在の宮崎県日向市に生まれた。父・立蔵は二代続いた医師で、若山家は近在でも一目置かれる名家であった。

 明治三二年(一八九九)、県立延岡中学校に進んだ繁は短歌と俳句を始め、一八歳のとき、母・マキの名と郷里の自然を合わせて俳名を牧水とする。

 そして明治三七年(一九〇四)、郷里の期待を背負って早稲田大学文学科に入学した。

 早稲田では同級の北原白秋らと交わり、雑誌「新声」に数々の歌や小説を発表するなど大いに文名を上げる。

 大学三年の春には、知人の紹介で出会った園田小枝子に生まれて初めての恋慕の情を抱いている。

 友人に宛てた手紙に残る「恋ではない、繰り返す、恋では決してない」の一文に牧水の動揺を見ることはたやすい。

 しかし小枝子は若くして結婚しており、この時すでに二人の子持ちであった。そして、なぜか小枝子はそのことを牧水に告白しなかった。

 明治四一年(一九〇八)、各所に借金を抱えて刊行した処女歌集『海の声』の商業的失敗と、いつまでもはっきりしない小枝子との関係は牧水を煩悶させ、皮肉にもそのことが新たな歌を生み出させる。

 翌年、尾上柴舟の門を叩いた牧水は、同じ年の春、かねて面識があり、房総で療養生活を送っていた女流歌人・石井貞子に手紙を出している。

 貞子は小枝子とは異なる美点を持ち、知性と情感豊かであった。牧水はこの二歳年長の閨秀作家に「事業の失敗」と「女との永別」を嘆き、「なお茫然と生きているのが不思議」と書き送った。

 もちろん貞子の側にも同情や憐憫のような淡い思いはあったかもしれないが、「あなたのお名前を連呼した」い、「お写真を一枚是非下さい」という牧水ほどの情熱はなかったようだ。

 この間、帰郷し老父母の面倒を見るよう迫る姉や親族からの叱責に抗うように、新聞社の記者を勤めたり、いくつかの出版社を立ち上げ、雑誌「創作」を主宰するなど苦節していた牧水は、明治四四年(一九一一)、ついに運命の人となる太田喜志子と知り合う。

 翌年、友人であった石川啄木の臨終に立ち合うことになった牧水は、その日も「恋しき喜志様」に手紙を送っている。

 「石川啄木君が今朝の九時半に死にました。私は独りその臨終の枕もとに坐っていたのです」。「今夜もこれから行って通夜です」。

 牧水と喜志子の間には何度も長文のやりとりがあった。

 その中で牧水は、小枝子との恋の顛末や自身の病のことなども包み隠さず告白していた。

 率直で裏表のない態度に、喜志子は男らしさと牧水の愛の深さを感じ取った。

 だからこそ、実家の親兄弟に黙って単身、牧水のもとへ奔るよう「破壊的行動をあなたに執っていただき度いのです」という牧水の求めにも、本当に着物の一枚も持たずに応じたのだろう。

 自らも歌人でありながら伴侶として牧水に尽くし、昭和三年(一九二八)の牧水没後は代わって「創作」を主宰して、後世にその精神をつないだ喜志子との出会いは、旅する歌詠みにとって得がたい僥倖だったに違いない。

 文人文豪を数えるなら、まずは双璧とも言うべき漱石と鴎外に指を屈するところだが、漱石の向こうを張ってヘソを曲げ、最後に敢えて谷崎と鴎外を採りあげてみよう。

 明治一九年(一八八六)、東京日本橋に生を受けた谷崎は早熟な神童だった。

 小学校の高等科で文学に目覚めると、仲間たちと回覧雑誌を立ち上げ、旧制第一高等学校でも文芸部委員として活躍した。

 東京帝国大学国文科へ進んだ谷崎は、明治四三年(一九一〇)に小山内薫や和辻哲郎らと語らい第二次「新思潮」を創刊する。

 谷崎の処女作とされ、フェティッシュな男の性癖と女の魔性を描いたことで知られる短篇『刺青』が発表されたのは、この雑誌上である。

 耽美主義的であったり、通俗的であったり、マゾヒスティックであったり、谷崎の作品に現れる女性たちはいずれも独特の官能にあふれており、作家の女性観がかなり特異なものであることを想像させるが、その片鱗は、「校友会雑誌」への投稿をくり返していた一高時代、書生として住み込み生活の面倒を見てもらっていた家の女中に手を出し、追い出されたことにも見て取れる。

 谷崎は生涯に三度結婚している。大正四年(一九一五)に結婚した石川千代子をめぐっては、佐藤春夫との間で「小田原事件」「細君譲渡事件」があったことは広く知られるところだが、正式に離婚が成立し、千代子が佐藤に再嫁した翌年の昭和六年(一九三一)、谷崎は担当編集者だった文藝春秋の古川丁未子を妻に迎えている。

 しかし昭和七年に転居すると、まもなく隣家の住人であった根津清太郎の妻・松子と不倫関係に陥ったため結婚生活は長続きせず、昭和九年には丁未子と離婚。

 そして翌年早々には、すでに同棲関係にあった森田松子(清太郎と離婚し旧姓に復していた)と結婚し、添い遂げることになる。

 女性関係については破天荒とも言うべき谷崎が、妻となる女性たちに宛てた手紙もまた独特の女性観で貫かれている。

 あるいは過剰な期待は引き潮のような幻滅を伴うのかも知れないが、実質的に一年ほどしか結婚生活と呼べる時期を持たなかった古川丁未子に対しても「精神的にも肉体的にもすべてを捧げて愛するに足る女性に会ったことはなかった」「私はあなたの美に感化されたいのだ」と書き送っている。

 もはや信仰告白と見まごうばかりである。

 さらに松子との出会いによって谷崎の女人崇拝は昂進する。

 谷崎が「始終あなた様の事を念頭に置き、自分は盲目の按摩のつもりで書きました」と記しているのは明らかに昭和六年(一九三一)に発表された『盲目物語』を指している。

 「盲目の按摩」が、かつて仕えた、織田信長の妹・お市の方の流転を語る体裁を取ったこの短篇は、昭和八年に発表され、盲目の女性三味線奏者に仕える丁稚の姿を描いた『春琴抄』とも通じる献身と情念の物語といえる。

 妻となる松子に「今日から御主人様と呼はして頂きます」と書き、以降の手紙でもそれを実行してみせる谷崎のブレない女性観にはもはや驚きを通り越して、畏敬を覚えるばかりである。

 昭和四〇年(一九六五)、心不全で死去。二〇一五年には、遺族が保管していた三〇〇通近い未公開書簡集が刊行されている。

 さて、早熟な神童と言えばこなた森鴎外も人後に落ちない。文人文豪の手紙を紹介してきた小文も彼の人に締めくくってもらおうと思う。

 鴎外こと森林太郎は、軍人と文人の二足のわらじを履き、陸軍では中将に相当する軍医総監に昇る一方、膨大な作品を発表し明治の文壇に巨大な足跡を残した文豪として知られる。

 鴎外は文久二年(一八六二)、現在の島根県津和野で代々藩医を勤める医家の跡取りに生まれた。

 幼少期から才気を現し、明治六年(一八七三)には、実年齢を偽りわずか一二歳で第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)予科に入学している。

 医学校の本科でもドイツ語の講義を受けながら、文学に傾倒し、漢詩や和歌を作っていたという。

 明治一四年(一八八一)一二月、友人らの推薦で陸軍省に入るや瞬く間に頭角を現し、明治一七年(一八八四)には衛生学の研修とドイツ帝国陸軍の衛生制度調査の名目でドイツ留学を命じられる。

 その後、四年に及ぶ留学中の体験をもとに執筆されたのが名作『舞姫』で、その登場人物エリスのモデルをめぐって過去に多くの論争があったことは知られている。

 日本に戻る鴎外を追うように来日したドイツ人女性が、約一カ月の横浜滞在の後、鴎外に見送られて帰国していることは事実で、しかもその女性と鴎外は長らく文通していたという。

 残念ながらその手紙や写真は晩年鴎外の手で処分されており、現在見ることはできない。さすがは鴎外。倉田百三とは比べようのない周到ぶりである。

 鴎外は、本格的な文筆活動に乗り出した明治二二年(一八八九)に、海軍中将・赤松則良の長女・登志子と婚約し、長男・於菟をもうけているが、まもなく離婚している。

 結婚はお互いの写真を交換し、それを見て決めたと言われており、時代を感じさせる。

 その後、明治三五年(一九〇二)一月になって再婚したのが、しげ子である。

 大審院の判事であった荒木博臣の娘で一八歳年下、鴎外ともども再婚であった。しかし夫婦仲はいたって良く、長女の茉莉以下、二女二男を授かっている。

 しげ子との間には印象深い手紙が残されている。明治三七年(一九〇四)、日本は二月に勃発した日露戦争の渦中にあった。鴎外は第二軍の軍医部長として従軍しており、この年の手紙に「廣島に来てから八日目」とあるのは、まもなく広島の宇品港から戦地へ向かうことになっていたからに他ならない。

 どの手紙も長文ではないが、身辺の動静がきちんと描き込まれており、文豪の観察力の面目躍如といった感がある。

 また、「日蓮を看に往ったそうだね」「羽左衛門ばかりながめて居ては困るよ」「広島で遊興するだろうなどというのは大間違いだ」といった具合に、妻からの手紙に書かれていたと思われるエピソードや疑問に丁寧に応えている様子が見え、微笑ましい。

 前年に生まれ、ようやく一歳を迎えたばかりの長女・茉莉への心遣いも相当なものだ。

 日露戦争の行方は不鮮明で、従軍がどれほどの期間に及ぶかは鴎外とて見通すことはできなかっただろう。「帰る頃までにはどんなになるかとおもうよ」「茉莉の写真をとったら送っておくれ」の一文に込められた親心には胸が熱くなる。

 このとき鴎外四二歳。のちの大文豪も、若き妻と幼い娘の身を案じるばかりであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?