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日本国憲法 施行75年目の現在地

(2022/04/17記)


 みなさんは「不磨の大典」という言葉をご存じでしょうか。

 これは一八九〇(明治二三)年に施行された東アジア初の近代憲法、大日本帝国憲法(明治憲法)のことを、磨かずとも自然に光り輝く玉になぞらえた美称で、戦後においても、ある時期までは誰もが知る一般的な表現でした。

 しかし、一九四七(昭和二二)年の失効まで五六年以上続いた明治憲法を遙かに超え、日本国憲法は今年、二〇二二年の五月三日で施行七五周年を迎えます。

 じつは七五年もの長きにわたり、一文字も改正されたことがない憲法典は、世界的に例がありません(あともうひとつ。デンマーク憲法があるだけです)。

 それは日本国憲法もまた磨かずとも光る玉(完全無欠)であることを意味するのでしょうか。

 今まで改正の必要がなかったからといって、これからも変える必要はないと言えるのでしょうか。

 ロシアによるウクライナ侵略は、戦後どころか近代以降の世界のパラダイムを変更しようと目論んでおり、その企ては現在も進行中です。

 今回の「愛書家の楽園」は、厳しい国際環境と対峙する日本国憲法の現在地を見つめ直すことで、私たちと憲法の関係を今一度考える契機としてはどうか、というご提案です。

 日本国憲法の精神に触れてみようと思い立ったとき、九州大学教授・南野森さんが監修した『10歳から読める・わかる いちばんやさしい日本国憲法』(東京書店・一四〇八円)はまずお勧めしたい入門書です。

 絵本のような体裁にだまされてはいけません。小学校六年生が独りで読めることを目指した平易な語り口は、だからこそ誤解や曲解の余地がなく、ストレートに胸に落ちます。

 条文や論点が絞り込まれた子ども向けの内容ではなく、憲法そのものに触れたいというかたには『英文対訳日本国憲法』(ちくま学芸文庫・五九四円)がよいでしょう。

 実際の憲法の条文は、今となっては少しお堅い文章かもしれません。やや込み入った表現の日本語を、シンプルかつ直截な構造の英語と対比させるのは悪くないアイデアです。

 もともと第二次世界大戦の敗戦後、占領軍によって起草された出自を持つ日本国憲法を英語で読んでみようとする試みはいくつも行われてきました。

 日本国憲法の施行と同時期に発行され、当時の中学一年社会科の副読本として配布された「あたらしい憲法のはなし」や、同時期に全国の世帯に配られた冊子「新しい憲法 明るい生活」などをまとめた古典的名著、高見勝利さんの『あたらしい憲法のはなし』(岩波現代文庫・九九〇円)にも英文の対訳が収められています。

 本書に収録された三本のテキストは憲法発布当時の社会の空気を鮮やかに反映しており、戦争から解放され新しい時代を迎えたことへの無条件の喜びが匂い立ちます。初めてこの憲法を見た人たちには、条文中の「戦争放棄」の文字が光り輝いて感じられた、というのは偽らざる心境だったに違いありません。

 日本国憲法が出来るまでの道のりをめぐっては、その制定に当事者として深く関わり、長らく慶應義塾大学法学部で憲法学を教えた大友一郎さんの講義ノートがあります。

 大友さんの授業を受けた庄司克宏さんが編んだ『日本国憲法の制定過程』(千倉書房・二七五〇円)をひもとき、憲法について議論を始める前に、なぜ日本国憲法が現在の姿になったのかを踏まえておきたいところです。

 日本国憲法の特徴や論点、直面する問題や時代ごとに受けてきた挑戦については、ガイドとなる良書が数多く、どれを選ぶか迷ってしまいます。

 定評のあるところでは伊藤真さんの『伊藤真の憲法入門(第六版)』(日本評論社・一八七〇円)や、渋谷秀樹さんの『憲法を読み解く』(有斐閣・一九八〇円)、刊行から時間は経っていますが小室直樹さんの『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル・一九八〇円)などが多様な憲法認識を詳述しており参考になります。

 ただし近年、憲法学を取り巻く状況はずいぶんと変わりました。

 これまでの日本の憲法学は独りよがりだったのではないかと、国際法の観点から厳しく追及している篠田英朗さんは「戦後日本憲法学批判」というサブタイトルを持つ『ほんとうの憲法』(ちくま新書・九四六円)を著しており、本書はこの間の変遷を整理するのに非常に有効です。

 議論の行方を追うためには、それぞれの論者の拠って立つところを注意深く見極めなくてはならず、そのことが憲法をめぐる議論、とりわけ憲法改正論議を見通しの悪いものにしている点は否めません。

 篠田さんの新書の対角に、樋口陽一さんの『「日本国憲法」まっとうに議論するために 改訂新版』(みすず書房・一九八〇円)や、渋谷秀樹さんの『日本国憲法の論じ方(第二版)』(有斐閣・三六三〇円)を置くことで、論点とその可否に対する自分なりの考えをまとめる準備が整うのではないでしょうか。

 ここしばらく憲法を議論する際、積極的に用いられているのが「比較」という切り口です。

 普段、憲法といわれるともっぱら日本国憲法しか頭に浮かびませんが、これを世界各国の憲法と比較することで、解釈を広げていこうというわけです。

 百聞は一見にしかず、まずは君塚正臣さんの『比較憲法』(ミネルヴァ書房・三八五〇円)や辻村みよ子さんの『比較憲法(第三版)』(岩波書店・三四一〇円)を覗いて、憲法を比較するとはどういうことなのかを感じ取ってください。

 様々な国々の憲法史や政体、統治機構にバランス良く触れられていて、憲法と国家の固有の関係性が浮かび上がるようになっています。

 いずれを手にする場合でも、傍らに初宿正典さんたちが編集した『新解説 世界憲法集(第五版)』(三省堂・二九七〇円)を置くことをお忘れなく。

 英米は言うに及ばず、カナダ、イタリア、ドイツ、フランス、スイス、ロシア、中国、韓国など、独自の事情や都合を抱える各国の憲法を並べて読む機会は滅多にありません。

 日本国憲法前文などのイメージに慣れた日本人には、そもそも前文があるかどうかといった議論さえ、かなり新鮮なはずで、なるほど憲法の比較にはこんな面白さがあるのか、と納得していただけることでしょう。

 さて、比較というツールを手に、いよいよ憲法の改正、改憲問題に一歩踏み出そうとするなら、前出の辻村さんによる論点整理をまとめた『比較のなかの改憲論』(岩波新書・八三六円)と、各分野から一六人の専門家たちが集まり世界七カ国における憲法改正の多彩な動きを描き出した『「憲法改正」の比較政治学』(弘文堂・五〇六〇円)が道案内としてお勧めです。

 でも、もしかすると、憲法改正なんてそもそも良いことではないような気がする、と立ちすくむかたがいるかもしれません。

 そんなときには阿川尚之さんの『憲法改正とは何か』(新潮選書・一五四〇円)という処方箋があります。

 三〇回近い改正を経てきたアメリカ合衆国憲法によって、彼の国の立憲主義がどのように進展してきたかを、米国の建国史や政治動態に明るい碩学が丁寧に教えてくれます。

 「憲法を大事にする」ことの意味を考え直し、その方法の多様性を発見する良い機会になるはずです。

 冒頭で、世界が大きく変わる今こそ、日本国憲法の在り方を考える機会、と書きましたが、世の中には普遍的な価値があり、それを守る礎としての日本国憲法という考え方には強い説得力があります。

 そこで、何がどう変わってきたのかを今一度整理しておきましょう。御厨貴さんと牧原出さんの『日本政治史講義』(有斐閣・三五二〇円)は明治から令和に至る日本政治のダイナミズムを、そこに関わった人々の肉声も交えながら描いた名作で、とりわけ戦後政治を振り返る上で客観的な視点を提供してくれます。

 日本国憲法の中でも、ことのほか争点となりがちな第九条については加藤典洋さんの『9条の戦後史』(ちくま新書・一四三〇円)と細谷雄一さんの『戦後史の解放Ⅱ 自主独立とは何か』の前編「敗戦から日本国憲法制定まで」と後編「冷戦開始から講和条約まで」(ともに新潮選書・一四三〇円)の併読をお願いします。

 そして日本で行われた様々な議論の背後に、どのような世界の変容があったのかを東京大学先端科学技術研究センターの発刊した『ROLES REVIEW Vol.1』で最終確認しましょう。

 ROLESは、論壇やSNSで活躍する池内恵さんが立ち上げた学内シンクタンクで、本書には気鋭の研究者たちがテクノロジー、安全保障、各国事情、秩序や規範の問題に至る幅広いテーマの最新論稿を寄稿しています。

 憲法改正に忌避感がつきまとうのは、何を変えるのか、と同時に、誰がどう変えるのか、という問題に向きあう必要があるからでしょう。

 それは政権や与党への信認、国際状勢と国内状勢の精妙なバランシングによって左右されます。

 改憲の是非を問う論議は二〇一五年の安保法制問題以降くすぶり続けていますが、阪田雅裕さんの編著『政府の憲法解釈』(有斐閣・三六三〇円)や木村草太さんの『自衛隊と憲法』(晶文社・一五九五円)、長谷部恭男さんの『ナチスの「手口」と緊急事態条項』(集英社新書・九四六円)、樋口陽一、小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書・九四六円)のように、どちらかと言えば政権や与党の用意する改正案への不信に寄りがちです。

 それは、無謀な戦争の末に獲得した民主主義国家のたがが外れぬよう、厳しく政治を監視する上で大切な姿勢と言えます。

 それでも、近代以降、世界が歩んできた試行錯誤が無下にされ、揺るぎない価値として奉じてきた民主主義が理不尽や暴力の前に手をこまねく現在、なお日本国憲法はこのままでいいのか、と問いかけたいのです。

 まもなく刊行される『日本国憲法の普遍と特異』(千倉書房・三五二〇円)の著者ケネス・マッケルウェインさんは同書において、世界規模の比較を用い、七五年間一文字も変更されたことのない私たちの憲法の意義と不思議を探りました。

 そこから見えてきたのは、世界に例を見ない柔軟性と潤沢な権利保障という普遍性により、むしろグローバルスタンダードが日本国憲法に近寄ってきているという驚きの事実だったのです。

 ではケネスさんは、なぜ、いま、何を、どう変えるべきだと考えているのか。そこには日本国憲法の特異性が抱える問題点がありました。

 恒藤恭『憲法問題』(講談社学術文庫・一〇一二円)、清宮四郎『憲法と国家の理論』(講談社学術文庫・一五五一円)、佐々木惣一『立憲非立憲』(講談社学術文庫・一一〇〇円)といった、同じく日本国憲法の意義に迫る古典的名著と合わせて最新の憲法研究の知見に触れ、施行七五年目の「日本国憲法の現在地」とこれからを考える手がかりにしていただければ幸いです。

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