くるしみのきれい

自分が美しいと思うものを追求してゆくと、苦しみを表現することになる。というお話。

うまく説明できるかどうかわからない、というか、説明できることを目的にするとうまくゆかないような気がしている。

美しくて苦しいものといえば、たとえば夕焼け。
夕焼けって美しくって、だけど見ていると苦しいよね。よね。
はじめはただ無邪気にきれいだなあって見ていても、やがてなんだかぎゅうっとした苦しさがやってきますよね。ね。
そして、その苦しさを感じると、夕焼けは余計に、もういいよってくらい美しくなって、やめてくれってなりますよね。そうそう。

このとき、「美しい」っていう気持ちと「苦しい」っていう気持ちとは別々のもので、別々のところからやってきているのかもしれない。けれど、とてもとても切り離すことができないくらい、それらが強く結びついているような感覚があるのです。それはもう、美しいから苦しいのだし、苦しいから美しいっていう状態が絶対な感じ。
そしてその感じが、僕はとても好きみたいなんです。好きっていうか、求めてしまう。じっとしていられないくらい苦しいのに、目が離せなくてそこを動けない、その感じを。

例えば家の本棚にはそういう、「好きっていうか求めてしまう」ものがいくつも差さっているし、iTunesのライブラリにもたくさん入っている。
いつでも手に取れるように手元に置いておくけれど、日常的に読んだり聴いたりするわけじゃない。だって苦しむから。
いくら愛していてもやっぱり苦しむことはダメージであって、いつでもくらっていいわけじゃない。だけど、本当はいつだってくらいたい。
この感じが好きで、好きっていうか求めてしまうやつで、そしてやりたいやつ。作りたいもの。

「苦しい」という単語を軸に語ると、暗い世界観やストーリーのものばかり作りたいみたいになってしまうけれど、そういうわけでもなくて、言い方を変えると「ぎゅうっとしたい」んです。ぎゅうっとするものを作りたい。

小説だったり詩や俳句、短歌、歌の歌詞、それを歌うときの歌い方、ギターの鳴らし方などなど、作るものは様々あって、もちろん「美しい・苦しい」も様々で、色んな顔をした美しさ、苦しさがありますが。
ぎゅうっとなって目が離せないものをいつだって生み出したいと思っているのだと思います。

あれは確か高校生の頃、小川洋子の「余白の愛」という小説を読み終えたあとの、あの感覚をまだ忘れていない。当時の僕は「美しい」という単語があんまり取り出しやすいところになくて、あの静謐でもの寂しく、それでいてどこかで何かがとても烈しいような、自分の中で何かが焦がれてゆくような、だけどどうしようもなく静かなあの文章のことを、少しも言語処理できないまま読み進めていた。最後のページの最後の言葉が終わったとき、少しも終わった感じがしなくって、ぎゅうっとなった自分をどうすれば良いのかわからなくて、何か声を挙げたいような気がするのに言葉が見つからなくて、ほんとうにどうしようもなかった。
美しくて苦しかった。
あれが自分にとっての原風景というか、はじめて文学を通して見た夕焼けだったような気がする。

この記事のタイトルは、くるしみのきれい。
「綺麗」という言葉は、なんとなく「清潔」というニュアンスが感じられて使いづらい。
けれど、綺麗なものを見てきれいだねと言う人を、素敵だなとよく思う。
今は「美しい」がしっくりきているものにも、いつかきれいだと言ってみたいような気がする。
ためらいなく使える言葉はいくらでも欲しいけれど、綺麗はその中でも1番とか2番とか。
「綺麗」も「きれい」も早く欲しい。

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