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あんまんって食べます?[いい感じのパン収録作]

どうしてこんなにあんまんが好きなのか自分なりによく考えてみたんですけど、まず「あんまんが好き」を考えるにあたってどうしても「なぜ肉まんではないのか」を通らなくてはいけないの、とても不本意なのだけれど回避できない。

肉まんも素敵だよ。それはもちろんそうだよ。肉まんになんの不満も持ったことないし、肉まんとの間にはいい思い出しかない。好き。好きだよそりゃ。肉まんってすごい嬉しい物体だもんね。もはや食べなくても、もう持った瞬間から嬉しいもんね。そのあたりの、物体としての嬉しさは肉まんもあんまんも一緒。本当によくできてる。形も質感も重さも温度も、あらゆる面からみてこれしかないって感じ。完全無欠の物体・まん。そのへんが一緒だからこそ、あんまんが好きなことについて書くのはとても難しい。
寒い寒い夜の帰り道、包み紙から半分だけ顔を出したあんまんからは白い湯気が立ち昇って、一口かじって ほう と吐いた息が湯気と混じり合って……とかとかを書いたところで、どうしたって「肉まんでも同じことですよね?」が付き纏う。でも確かにある、あんまんを食べたときの肉まんからは得られないあの感じ……。と今日いちにちずっと考えていたのですが、今日から僕はあの感じを「許される」と呼ぶことにしました。肉まんよりあんまんが好きな理由は、あんまんを食べると許されるからです。

「許される」という説明はもう僕としてはゴールなんですけど、もし無理やり更なる説明をするとしたら、「心と体の強張りがほぐれる」という感じでしょうか。例えば、ちょっぴり泣きそうな夜に冷たい風を受けて歩いているとき。肉まんだったら「あったかい……おいしい……」みたいな感じだと思うんですけど、あんまんだったらたぶん泣いちゃうじゃないですか。たぶん。

例えば仕事でなんか嫌なことがあってそれも単純なムカつくことっていうよりはなんか自分としては理不尽に傷つけられたような感覚でいるのに誰もその傷の本質をわかってくれなくて表面的な対応だけされてしかも「これで手打ちにしてくれませんか?」みたいな、あなたのわがままを通すためにみんなが譲歩しましたみたいな感じ出されて怒りと疲れと悔しさと色んな感情が混じり合って全身に力が入っているような帰り道があったとして。
もしそこであんまんをかじったら、ほら泣いちゃうじゃないですか。そして気付いたら体の力も抜けて、肩がすとんと降りて、呼吸が深くなって、家に帰ったら友達に電話してみよう、話を聞いてもらおうって、鼻からすうっと冷たい空気を吸い込んで、はあっと吐き出した白い息をひととき見つめて、さっきより軽い足取りで歩き出せる。

この感じ。肉まんではこうはいかない。あんまんじゃないとこの許され感はない。

なんだろ、食事的じゃないのがいいのかな。おいしいとかお腹にたまるとか体にいいとか悪いとか、そういうことに意識がいかないところが。甘さと温かさと柔らかさに全神経が集中する感じがして、なんかより体験的というか。

ちょっとどのくらい人に伝わる文章だったかわかりませんが、僕としてはゴールしたんで満足です。僕はあんまんが好きです。だって許されるから。おわり。


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