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〜「時間」〜

・自分だけの時間。
・他者と共有する時間。
・誰のものでもない時間。
(だいたい3万字くらいの記事)

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 つかれ知らぬ時は、不断の

 流れにみちあふれて去来し、

 自己を自己みずから生みつつあれば、

 双生の熊星は

 いそがしく羽ばたきして、

 アトラスの担う蒼穹を見張る

 『ペイリトゥス』

 (田中美知太郎「時間」一節より)

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□■□■

1、今月の文章は、

「時間」です。
1941(昭和16)年に発表されました。
先月に引き続き、田中美知太郎先生の論文集『ロゴスとイデア』からです。
(なお『ロゴスとイデア』は文庫にもなってます!)

* *

5月のカレンダーのテーマである「折り紙」を調べていたら、幾何学にあたりました。
私は数字を見るのが仕事ですが、決して数字に強いわけではありませんので、「き、きかがく!?」と思わず大声を出してしまいました。
(一人ぼっちの部屋でPCに向かって叫んだだけです、感染の危険はありません!)

そして思い出しました。
「非ユークリッド幾何学」っていうのがあった気がする…

そういえば、「時間」にもユークリッドさんが登場されていた…

ということで、所収の順番としては二本ほど飛ばすのですが、書かれた順番としてはその二本より早いので、こちらが先でも許されるのでは…と考えた次第です。

□■□■

2、放送大学と天文学と幾何学

(1)放送大学って素敵なんです

放送大学の学生になると、教養学部の講義も大学院の講義も、その科目を登録しなくても、放送授業(テレビまたはラジオ)をインターネットで「いつでも」視聴することができます。
(卒業を目標としなくても、一科目だけ取りたい、とかいうのもできて、その場合ももちろん「学生」扱いです)

つまり、お金を出して単位認定試験を受験しない科目でも、無料で講義を視聴することができるんです。
(ただし印刷教材は有料です)

そして視聴する際は、どんなに難しい内容であろうとも、「おまえみたいなレベルの低い者には百年早いわ!」と突然画面が暗くなることもありません。

「非ユークリッド幾何と時空(’15)」(橋本義武先生)も例外ではなく、私のように数学のセンスがない者でもちゃんと講義を視聴することができます。

要するに、私が間違って単位認定試験を受験することのないように、「それはまだ無理ちゃうか〜」とやんわり教えてくれるというわけです。
(お金が無駄にならないような親切設計!)

ちなみに、講義は公開されていますので(時間割がある)、実は放送大学の学生にならなくても誰でも視聴することができます。
その分野の最先端の研究を知ることができるので、わりとよく利用されているようです。

放送番組の視聴方法 | 放送大学 - BSテレビ・ラジオで学ぶ通信制大学
https://www.ouj.ac.jp/hp/bangumi/howto.html

「公開されている」ということを念頭におきながら、次に進みたいと思います。

(2)ズルや不正ができない学問?

さて、その難しそうな講義「非ユークリッド幾何と時空(’15)」を、おそるおそるのぞいてみましたよ。

…案の定、私にとっては宇宙語です…

しかもニーチェの話が出てきたりします。
しかし!橋本義武先生はその前に、靴紐を結ぶ話をされます。
視聴者のことをすごく考えてくださっている優しい先生のようです。

さらに続けて、
「ここでやっていること(数学という、目に見えることや手でやっている技を言葉にしていく作業)は、めんどくさいこともありますが、しかし、靴紐を結ぶよりはるかに簡単なことをやっているにすぎません」

…え! そ、そうかな…
もう少し真面目に視聴していたら、先生の言葉がわかるようになるのでしょうか…

このこと、もしかしてニーチェに詳しい方でしたら思い出されたでしょうか。
「人間の活動は、全て驚くべきほど複雑であるが、しかしどれも奇跡ではない」
「もっとも単純なものごとでも、極めて複雑である」

私はわりと真面目なほうだと自分では思っているんですが、どうやら橋本先生の講義を理解できる能力が、やっぱり不足しているようです。
そういえば思い出した、シラバスに書いてあったこと!

【履修上の留意点】
「入門線型代数」「入門微分積分」を履修することが望ましい。

…せんけいだいすう…びぶんせきぶん…ちょっとめまいがしてきたので、先を急ぎます…

以下は、第01回「天文学と幾何学」を視聴し、日本語で私が理解でき、
カミトクフィルターを無事通過できた部分のみそのまま書きます。
(しかし理解できてないので限りなく棒読みに近い…)
印刷教材は購入してませんので、純粋に放送授業のみの内容です。

気持ちだけびっくりしている部分に、「!」を使っています。
「!」は階乗でもなく、プログラミング言語の否定の意味でもなく、私の心の叫び声であることを強調しておきます。

・人類の歴史の中で最も古い科学は、天文学と幾何学であると言われている。
(天文学は球面の幾何学)

・この二つの科学には「ズルや不正行為がやりにくい」という共通点がある。
・これは天文学と幾何学がいち早く発展した大きな要因であるとも考えられる。

・天文学→誰にも天体を動かすことはできない!(誰にも手の届かない世界!)
・幾何学→図形を扱うので、誰でも見ることができるし、誰でも自分で図形を書いて、それが正しいかどうか確かめることができる!

・よって、ある科学者が述べたことを、次の科学者は信頼することができる。これは、安心して次の段階に進めることを意味する。
・そして時を経て、科学を進歩させていくことができる。
・万が一、捏造や改ざんがされた場合は、その分野の研究は停滞してしまうことになる…

【なので、ズルや不正行為をなくしていくことは、とても大切なテーマ!!】

人々への説得の方法
・天文学→「予言とその成就」→星の運行を記録し、計算し、次にどういう現象が起きるか予言する。予言が的中すると、社会の人々は天文学者の言うことに納得できる。
・幾何学→「定理とその証明」→まず最初に、これは確かだよと万民が認めるような命題から出発する。これこれが成り立つなら、これこれが成り立ちますね、と順々に論理を積み重ねて行くことで、最終的には言いたいことが相手に伝わる。

天動説
・それまであった理論的なことをまとめたのが、プトレマイオス(英称ではトレミー)である。「アテナイの学堂」(ラファエロ・サンティ画)では、絵に向かって右側の、天球儀ぽい天体の模型を持った後ろ向きの人ではないかと言われている。

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・紀元(後)1世紀か2世紀頃にプトレマイオスが書いた天動説の理論書が『アルマゲスト』(15世紀にラテン語版が出ている)であり、古代の天文学の集大成が記されている。
・星たちは地球のまわりを勝手に回っていたわけではなく、それぞれ天球という球面の上に乗って回っていたと考えた。
・地球に一番近いところには月が乗っている天球があり、その天球が地球のまわりを回っている。その外側には水星の乗っている天球があり、さらにその外側には金星の乗っている天球があり…というふうに。次は太陽、火星、木星、土星、と続き、最後は恒星たちが乗っている天球が、一番外側で回っている。
・恒星の乗っている天球、その一番外側のところに、何も乗っていない天球が回っていると考えた人がいた。そしてその何も乗っていない天球の動きこそが、「時間」であると考えていた!!

(例えば、「時間」(田中美知太郎)の一節に、クリティアスの話が出てきます。「星ちりばめた天空」のことを「時というかしこきたくみの見事なる細工」と呼んでいるようです。一番外側の天球、つまり「時間」が、天空の星すべてを支配していた、とクリティアスは考えていたのかなぁ??)

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なお、天球の概念が放棄された(つまり宇宙を説明する原理が一つなくなってしまった)経緯については、第12回「地動説・慣性・光」で説明されています。
(オッカムのウィリアムについても言及あり)

「天球っていうものを私たちは追放してしまったわけなんだけれども、それは言い換えると、私たちが天球から追放されてしまったのかもしれませんね」(by橋本先生)

ただし、次のこともあわせて説明されています。
・角運動量(さらにスピン)といった概念から導き出された「面積速度一定の法則」が一般化された「角運動量の保存則」は、星が天球から外れることはないという世界像よりもっと強力な原理である。そのことを私たちは得ることができた。

ちなみに、「時間」の概念については、第14回「ミンコフスキー空間と時空」で、鴨長明やアウグスティヌス、さらにはベルクソンにも言及されています。
時間を空間的に考えるという方法では、もしかしたら本質的なことが抜け落ちてしまうんではないか、という懸念のお話です。

(3)幾何学の証明は漫才に似ている

ところで話はそれますが、橋本義武先生は真面目な表情のままで、たまに、吹き出しそうなことをおっしゃいます。

放送大学教養学部の単位認定試験の合格ラインは、基本、60点です。
しかし、「非ユークリッド幾何と時空(’15)」の平均点は50点代です。(シラバスでわかる)
不合格の原因として私が妄想するに、
・内容の難しさにギブアップしている人が98%、
・「え、さっきの発言は笑うとこ?」と気になって講義の内容が頭に入ってこない人が2%くらいいるんじゃないかと…

話を戻して…次は本題の幾何学です。
えー、それで先生によりますと、幾何学や数学の定理を証明する作業は、漫才のボケとツッコミとの対話によく似ていると。
(ここで先生の関西弁が入ります)
その話はのちほど詳しく。

・古代の幾何学の成果を本にまとめたのが、エウクレイデス(英称ではユークリッド)である。「アテナイの学堂」では、プトレマイオスの前にいて、コンパスらしきもので何か書いている人ではないかと言われている。

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・紀元「前」3世紀にユークリッドが書いた幾何学の本が『原論』であり、古代ギリシア語では『ストイケイア』という。(パピルス写本の断片は紀元(後)100年頃のもの。14世紀に出たラテン語訳の口絵は綺麗!)

・『原論』のスタイル:定義・公理に基づき、定理が主張され、それに対しての証明が書かれる。さらにまた別の定理が主張され、またそれの証明が書かれる。
・「証明」は、なぜ必要??図形を見せるだけでは相手は納得してくれないの??

・理由その1:図形は無限にある!正三角形もあれば、細長い二等辺三角形もあるし、平たいのもあるし、たくさんある。その全てにおいて納得してもらうために、「証明」は必要。
・理由その2:線には太さがある!たまたま太い線を書いているから1点で交わるだけであって、もっと細い線で書いたら交わらないかもしれない。そのやりとりは無限に続いてしまうので、「証明」は必要。

●幾何学の言語というのは、定理を主張する人と、それを聞いて疑う人の間の対話から成り立っている。これは漫才に似ている。
「漫才では、先にボケの人がおもしろいことを言って、それに対してツッコミの人が「なんでやねん」とか言って突っ込むわけですね。それに対してまたボケの人が、おもしろいことを言って、またそれに対してツッコミの人が「なんでやねん」と言ってお話が続いていくわけです」
「このボケとツッコミの間の対話ですね、これが、実は、幾何学や数学の証明とよく似ているわけです」
「そして漫才の場合ですと最後に、ボケの人がボケた時に、ツッコミの人が、「ええかげんにしなさい!」と、ま、関西弁の漫才の場合ですが、そう言って漫才が終わりますが、それと同じように、幾何学の証明も、最後に「証明終わり!」ということになって、この証明が終わるわけです」
(この時の先生はちょっとだけ笑顔)

・「証明」が必要な理由その3:測定の誤差。例えば、AよりBの方が大きいということを証明したい場合、測定の精度を上げていくと相手は納得してくれる。しかし、二つのものが等しいということを証明したい場合、どうやって納得してもらう??

・経験的な概念ではない≒超越的な概念とも言える?
・それぞれの量が、どういう形で定義された量か、というところまで遡って初めて、二つのものが等しいと言うことができる。
・その時に、「証明」というものが必要となってくる。

・『原論』の第5巻「比例論」での比例の定義。
 A:B(長さ)=Γ:Δ(重さ) 
 ⇔ 任意の自然数m,nに対し、
   mA>nB ⇔ mΓ>nΔ
   mA=nB ⇔ mΓ=nΔ
   mA<nB ⇔ mΓ<nΔ

ガリレオ的には納得いかなかった…
しかし、19世紀の数学者デーデキントのアイディア「実数の定義」(正確な定義)と、ユークリッドの比例の定義は、同じになっている…

・mA=nB の補足。
 A    > B
 AーB > B
 Aー2B> B
 …を続けていくと、最終的に同じ量が出てくる(m,nとも自然数の場合)
→有限の長さで終わる
→mA=nB が結論づけられる

〈論理的な文章の話〉
・だから型
・なぜなら型(結論から出発して、理由を遡って相手を説得する)

西洋の知的な世界で、論理的な文章のお手本になったのが、ユークリッドの『原論』。
古代ギリシア語で、「なぜなら」は、「ガル」と言う。
『原論』に、「ガル」と言う言葉は、ほとんど出てこない。
なので、ユークリッドの『原論』は、だから型。

だから型の欠点は、最後まで聞かなければ結論がわからないこと。
結局、何の話をしているのか???

その欠点を補うために…
→定理と証明の著述スタイル!!

最初に、結論である定理を述べて、そしてその理由である証明を後から述べる。
→え、でもそれって、「なぜなら型」の文章なんでは?
→いや、「ガル」って使ってないので。あくまで、定理と証明なので。

本全体としては。
定理があって、証明があって、その定理を使って、次の定理が述べられて、そしてその証明が述べられる。

やはり、理由が先にあり、結論が後になる!
→なので、本全体の構造としては、「だから型」になっている!!

ちなみにこれと対照的な文章は、新約聖書の中の『パウロの手紙』。
「ガル(なぜなら)」が満載!

・ユークリッドの『原論』と、新約聖書の『パウロの手紙』は、西洋の知的な伝統の中の二つの大きな源流と言ってもよいかと思う。

「いずれも論理的な書き方をしているが、対照的な形をしている、別の形をしている、ということが、この西洋の知的な世界の歴史に、多様性、豊かさを生み出しているんではないかなと、そんなふうにも思ったりします」(by橋本先生)

この後、定理の証明を実際に解説してくださいますが、私は数学になった途端に思考が停止しましたのでその部分は飛ばします、、、

・えーそれで、定理、証明、定理、証明、と行きますと、最後にたどり着くのが「公理」!
「公理」とは、証明なしで正しいよ!って認める事実のこと!

・それぞれの定理を主張するためにいろんな概念(言葉)を使っている。
本来、このひとつひとつには定義(言葉の意味の説明)が必要なのだけど、定義をするのにも別の言葉を使う必要がある。
→キリがない!!

なので、最初に、「定義をしないで使う言葉」というのを決めておく必要がある。
→「無定義語」という!

で、無定義語と、公理をいくつか揃えて、話を出発させる。
→「公理系」という!

こういう、「公理」を使う方法で、幾何学の理論は構成されている。

・天動説に球面の幾何学を応用した話をしたが、逆に、幾何学の方に天文学の考えが影響を及ぼした、という話。
 
幾何学で最も基本的な概念は、「点」!!!!
しかし、本当の「点」って身の回りにある??
「点」だと思って見てみても、近づいてよく見てみると大きさがあるように見える。

けど!
「星」だったら!?

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★「星」という存在は、「点」という抽象的な概念、超越的な概念と、それから、私たちが目に見えるもの、そういうものの間をつないでくれているのでは…

(余談ですが、私的には、抽象的な概念と超越的な概念の話には結構詳しい注釈が必要だと思っていて(抽象にするために切り捨てた部分を全体から見て全体的に気をくばることが具体であるとかそういう観点から)、でも橋本先生は抽象と超越はもちろんイコールではないよというのが前提だと思いますし、なによりも現代に生きる私が古代ギリシア人の考えたことを想像するのはこれからの宿題であり、その部分を追求するのはこの科目の目的とは離れることもわかっているのですが念のため…あと、点、さらに星、の概念は、「時間」(田中美知太郎)を書き写しながら考える際に私をめっちゃ助けてくれました(特に三節)…橋本先生の解説は、知識も思考力も想像力も不足している私としては、ほんまにありがたかったです…)

[参考…田中美知太郎先生]
「天文学と言っても、それの土台となる観測的事実の記録はチグリス・ユーフラテスの両河地方でおどろくほど多量に準備された。暦をつくるとか、これは技術的進歩なんですね。その天文観測の記録というのは、非常に精細なものです。これはたぶんシナにも同じようなものがあると思うんです。エジプトでも発達したので、ギリシア人がつくったものではないですね。しかしこれらは、実用的な意味で、星の位置は人間と一国の運命にかかわるという、今から言えば迷信ですけれども、そういう実際的な目的があるから一所懸命に観測したわけですね。それで経験的知識として発達した。毎年観測していると規則性というものがわかってくる。そこまではいいんですね。ところが、それではなぜ日蝕や月蝕が起こるかという理論的説明はしない。日蝕が起こるという記録はたくさんある。有名なピュタゴラスの定理に言われているような事実は、エジプトでも経験的に知られていた。こういう知識はたくさんあるわけです。けれど、それを証明すること、つまり直角三角形の斜辺の正方形の面積は他の二辺の正方形の面積の和に等しいというのはなぜであるかということを証明することは、すぐには実用に結びつかない。それを証明する仕事をギリシア人はみな行ったわけです。さっきの日蝕や月蝕がなぜ起こるかということもギリシア人の発明ですね。このような証明や説明が科学的知識の本領なのです。」(1977年)
(田中美知太郎 対話集(俊野文雄・編)『プラトンに学ぶ』1994年. 日本文芸社. p. 248)

…ということで、第01回目は以上です。

なお、ニーチェの話と靴紐を結ぶ話は、第02回「ユークリッド幾何」からです〜(^^)

(4)当時の数学者たちが抱いた危機感

「非ユークリッド幾何と時空(’15)」の第03回は、「平行線の公理と三大作図問題」です。
橋本義武先生はいつにも増して真面目に講義をされているので、笑いのポイントがどこなのか、ちょっと私にはわかりませんでした…

〈二つのアポリア〉
長い歴史の中で、ユークリッド幾何は完全な体系であり、全ての学問のお手本と思われ、重んじられてきた。
しかし実は、どうしても長年解決しなかった大問題があった。

それが、「平行線の公理」と「三大作図問題」である。

けれど、ユークリッド幾何の完璧性を守るために、「それほど大問題じゃないんだ」というような言い方はされなかった。

なぜなら、当時の数学者たちは、そんなことを言っていたら数学の進歩がないと思っていたからである。

(ヒルベルトをはじめ、「今まで正しいと認めていた公理には、もしかして矛盾があるんじゃないか」という危機感を、当時の数学者たちは抱いていた…第02回「ユークリッド幾何」より)

いかに素晴らしいユークリッド幾何であっても、そこには限界がある。
その限界を、何か都合の悪い存在のように思ってしまうことはなかった。
「ここがわからない、でもそのわからない所」に、最も重要な次の発展があったのである。

(アインシュタインがユークリッドに遡って、リーマン幾何学を手がかりとした一般相対性理論を作り上げた第一次世界大戦の頃、神学者のカール・バルトはパウロに遡って、『ローマ書』を世に出した…第14回「ミンコフスキー空間と時空」より)

〈平行線の公理の独立性〉
プロレマイオス(トレミー)もまた、「平行線の公理」を、他の公理から導けないかと研究をしていた。

「平行線の公理」の問題は最終的に、双曲幾何の発見によって否定的に解決された。
→他の公理は満たすが、平行線の公理は満たさない世界がある。
「平面幾何」「球面幾何」「双曲幾何」

〈三大作図問題〉
まず、作図が可能である、ってのはどういうことか。
二次方程式を(繰り返し)使って解くことができたら、定規とコンパスで作図することができる、と考える。
(正17角形の問題を解いたのが、ガウス!)

しかし!
次の三つの問題については、作図できないことがわかってしまった…
1)(角の三等分)与えられた角を三等分せよ。
2)(立方体倍積問題)与えられた立方体の2倍の体積をもつ立方体を作図せよ。(「デロス島の問題」プラトンにも相談してる!)
3)(円積問題)与えられた面と同じ面積をもつ正方形を作図せよ。

ほんまに無理?簡単そうやけど?できるんちゃう?と、たくさんの人が挑戦した。
でもやっぱり無理だということが、否定的に証明された。

その証明のもとになった「ガロア理論」は、エヴァリスト・ガロア(フランス・1811-1832…決闘により20歳で死去)が、「群」と呼ばれる概念を用いて考えた理論である。

(またしても余談ですが、デロス島の問題と、プラトンの「完璧な三角形はないけどそれらしいものがないわけではない」って発言、何か関係している気がする…)

ところで下記の論文は橋本先生の講義の中では扱われていませんが、最後の頁で指摘されていることがめちゃくちゃ気になっています…

----ここから----
角の三等分問題 — 数学専門科目での実践 —
桑田勝矢(大阪教育大学大学院), 新濱光紀(大阪教育大学大学院), 馬場良始(大阪教育大学 数学教育講座) 
数学教育研究 第 46 号 2017( 平成27年3月31日受付 ) 
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~ybaba/kaku.pdf
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こうしたチャレンジャーたちの証明は, 必ずどこかで不具合があるのだが, 中には巧妙なものもあり, 不具合をみつけることに, 時には数時間かかることもあるという. このため彼らは, 証明の確認を依頼される数学者たちから疎まれる存在となっている. ちなみに, Underwood Dudley の “What to do when the trisector comes” によると, こうした者たちの特徴として,

• 概して年配の人物で, 何年もそれに没頭している, 

• 「不可能」という術語の意味を理解していない,(上述の記者たちもこれに当てはまるのであろう.) 

• 数学をほとんど勉強していない,

という点があげられるという.
未だにこのような状況にある「角の三等分問題」は, 数学的な素養のない素人さえ挑戦する気持ちを誘発する, 永遠に魅惑的な (そして人騒がせな) 問題であり続けるのかもしれない.
---- ここまで----

…ということで、この後の講義では、平行線の公理が成り立たない世界で何が起こっているか、それを調べていくのだそうです。
そしてそこには、「とてもおもしろい世界」が広がっているのだそうです。

次の第04回からいよいよ、「非」ユークリッド幾何のお話に入っていきますが、私の棒読みはここで終了です〜(^^)
ここから先は私にとって棒読みさえできない世界です〜(^◇^;)

* *

ちなみにですが、真面目な表情でおもしろいことをおっしゃる先生は、放送大学では高橋和夫先生が有名です。
講義はもちろん国際情勢や中東問題といった難しい内容なので、私は授業の内容自体あまり身についてなくて先生には申し訳ないのですが、しかし「情報を選別する判断力を身につけるには勉強しかない」という教えは今でも覚えています。

橋本義武先生はまた別のタイプのおもしろさがあります。
・「平面の幾何学、球面の幾何学、違いが見えるわけですが、それは見かけだけの違いなのでしょうか、それとも本質的な違いなのでしょうか」という真面目な話も、
・「そんなのメルカトル図法でいうグリーンランドみたいな過大評価だよ」という冗談の紹介も、
・一葉双曲面の図形の説明をされる際に、模型を肩に持ち上げながら「これ実は、鼓の形と同じような形でして、「いよーっ、ぽん!」とかやりますけど、」とおっしゃる時も(第08回「双曲三角法」7分33秒頃)、
同じトーンなんですw

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そして先生は、「鑑賞」ということもアドバイスしてくださいます。

「すぐに頭に入らないような公式は、しばらく美術館で絵をみるような感じでみていると、あ、これはこういうことを言っているんじゃないかなってことがあったりするわけです」

橋本先生は、おそらく、真面目は素敵だと思っておられながらも、理想に近づかない現実を思い詰め過ぎたら余裕がなくなっちゃうよ(それで周りが見えなくなっちゃうと困ることも出てくるよ)っていうことを、視聴者に教えてくださっているのだと思います、たぶんですが。

ですので私も、内容がほとんど理解できていない現実にあまりくよくよしないようにします。

(でも、数学で重要な概念は「自由」である、とわかったことは、私にとってかなり大きい!)

ふと、秩序と道徳を重んじ質素で堅実な生活を営んだ、マクシミリアン・ロベスピエール(フランス・ 1758-1794…ギロチンにより36歳で死去)の言葉を思い浮かべました。
彼の活動が徐々に暗い影を落としていったことは、彼個人だけの問題なのでしょうか…時代背景を考えると複雑な気持ちではあります…
「徳なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして徳は無力である」

* *

ところで、同じく放送大学の教養学部には、「コミュニティがつなぐ安全・安心(’20)」(林春男先生)という科目があります。
(この科目はお金を払って単位認定試験を受けます!)

災害の復旧・復興に携わっておられる方々のお顔を思い浮かべながら放送授業を視聴し、印刷教材を読みました。
兵庫県神戸市の「人と防災未来センター」は複数回で取り上げられています。
明るい未来に向けて、というだけでなく、災害の悲惨さ、というところも強調されていました。

全15回で私が気になったのは、やはり自分の名前が出てくる部分ですw

・理学は、解析(analysis)
→人間がいるいないとか関係なく、「真理」を追求する。(予測)

・工学は、設計(design)
→最適の答えを、たくさんある選択肢の中から見つける。(予防)

ちなみに第04回「社会の不可逆的変化に応じた災害の多様化」では、
西浦博教授(北海道大学)が登場されます。
テーマはもちろん感染症です。

放送教材のみに登場されますので、私は自分の印刷教材にその内容を書き足しました。

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3、ずっと受け取ってきた言葉「死なせたくない」

2020年4月7日(火)、「緊急事態宣言」が発令されました。

新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律 令和2年3月13日法律第4号 | ぎょうせいオンライン  地方自治の総合サイト
2020.03.16
https://shop.gyosei.jp/online/archives/cat01/0000015367

この日は、私にとって記憶に残る日となるでしょう。
良いほうに残ってほしいのですが。

ところで、時は、つかれを知らないようですね。
しかし人間は疲れます。

でも、その疲れているはずの人たちが、1〜4月は、「死なせたくない!」という言葉をたくさんたくさん発信してこられたんです。

私は、その人たちの言葉をずっと追っかけてきました。
「死なせたくない!」と発信する人たちからの「一次情報」を。

人が死ぬのにはいろんな原因があります。
感染症そのものの場合もありますし、そうじゃない場合も。

先月も書きましたが…
プラトンの前半生は、「苛酷な現実経験」にみちていました。
プラトンの「理想主義」は、現実との闘争から生まれてきました。

* *

ユークリッドの『原論』は、「だから型」でした。
田中美知太郎の「時間」は、「しかしながら型」と呼べるかもしれません(^^)

今月の文章は先月ほど長くないので、この節から読んだらどうでしょうかってことは書きません。
特に、一節から読むと、「自由」について、はっとさせられるのでおすすめです。

三節のゼノンのお話で、私はちょっとくじけそうになりました…
今までも、何度も行ったり来たりしていたのですが、よくわかっていませんでした。
けれど多くの方(「普通の判断力と良識」のある読者…あとがきより)は、「え?なんか当たり前のことを言ってるだけなんじゃぁないの?何が理解できないのか逆にわからないけど…」と思われるかもしれません…
しかし、「普通の判断力と良識」が不足している私は、今回、橋本義武先生の講義「非ユークリッド幾何と時空(’15)」の「点」の概念を手がかりに、そして「時間」を書き写しながら考えることで、やっと少しだけ前に進むことができました…
(なお、この論文集『ロゴスとイデア』(全八編)に所収されているはじめの七編の論文は、最後の論文「イデア」の準備をなすものです。しかし田中美知太郎先生が取り扱われる問題は一貫して「善と真実在について」であり、『ロゴスとイデア』はその途中までの取り扱いとなっています…あとがきより)

最後の五節は、そこだけ読んでもちょっとわかりにくいと思います。
ただ、割り切って先に読んで、後日はじめから読んで補完する、という方法はアリだと思います…

でも、どうしても時間がないよって方のために…

二節の最後…
「生活に科学がないということは、個人にとっても、国家にとっても、失敗と破滅を意味する。真実とは、人生のあらゆる危険においてわれわれを救う方途であって、単に直接的なもののことではないのである。」

四節の中程…
「ヘシオドスが切に人々に訴えようとしているのは、ただこの一事であり、彼が説こうとすることは、この困難の世をいかに生くべきかということなのである。」

五節の最後…
「時間を今の意識からだけ考えれば、その一部は過ぎ去って今はなく、他は未だ来らずして今はなく、しかも今は過ぎ去ったものと未だ来らざるものの区分点として、一方の終点で他方の始点という二度の用をもつだけで、それ自体は時間でないから、時間は無であるというようなアポリアーが避けられないものとなるであろう。このようなアポリアーは、しかしながら、永遠の存在を模した時間の生成のうちに見られる、その非存在的な本質から理解さるべきものなのであろう。しかしまた時間の意味は、現在とか過去未来とかいうものだけで尽されるものではないことを知らねばならぬ。」

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4、前置き不要の方は、すぐにこちらからどうぞ〜↓

【田中美知太郎「時間」1941年(『ロゴスとイデア』より)】

発表:1941(昭和16)年10月『思想』
所収:1947(昭和22)年9月『ロゴスとイデア』岩波書店 
今回の引用:1968(昭和43)年10月『田中美知太郎全集第一巻』筑摩書房

1940 北部仏印進駐。日独伊三国同盟成立。津田左右吉著書発禁。南京に汪政権。
1941 日ソ中立条約締結。南部仏印進駐。ハワイ真珠湾攻撃:太平洋戦争(~1945)。国民学校令公布。大西洋憲章。独ソ戦争。
1942 翼賛選挙。ミッドウェー海戦。関門海底トンネル開通。
1943 ガダルカナル撤退。学徒出陣。イタリア降伏。カイロ会談。
(年表:山川出版社『詳説日本史B』p. 424より)

(なお書き写しに関しては、田中美知太郎先生の著作権継承者である田中氏より、長い引用大丈夫ですと許可をいただいております)


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    一

 時という言葉で、何をひとは先ず思い浮べるであろうか。エウリピデス、あるいはむしろクリティアスの作と言われる『ペイリトゥス』のうちに、次のような言葉があったと伝えられている(*)。

    つかれ知らぬ時は、不断の
    流れにみちあふれて去来し、
    自己を自己みずから生みつつあれば、
    双生の熊星は
    いそがしく羽ばたきして、
    アトラスの担う蒼穹を見張る

 時について、つかれを知らぬと言い、不断の流れにみちあふれて去来すと言うことも、自己自身を生みつつありと考えることも、われわれにとって別に突飛な形容とも、また難解な思考とも感じられないであろう。しかしながら、これと熊星との結びつきは、あるいは人を当惑させるかも知れない。恐らくわれわれは、そこに自由奔放な詩人的空想を認むべきであるかも知れない。しかしながら、アリストテレスは『自然哲学』の時間論のうちで、宇宙の運動、あるいは天球そのものを直ちに時間であると主張する人々の存在を語っている(**)。われわれの想像力は、たまたまわれわれが聞き及んだ二三の時間学説に拘泥して、かえって自由を失ってしまっているのではないかとも恐れられる。恐らくギリシア人にとって、クリティアスの詩句はそれほど難解ではなかったのであろう。われわれはこのことを、ホメロスと並んでギリシア人の教師であったヘシオドスの作品、『仕事と日々』のうちに発見することができる。

(*) Diels=Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker 88 [81] 18.
    同じクリティアスは他のところで「星ちりばめた天空」のことを「時というかしこきたくみのみごとなる細工」(Fr. 25. 33-34)とも呼んでいる。
(**)Phys. Δ 10. 218a 34.

 この書物はヘシオドスが、その兄弟ペルセスに向って、農業や航海の心得を説き、日のよしあしを教えているところから、この名を得たのであろうと思われるが、その仕事の心得は季節を中心に説かれている。ところが、その季節を示すのにヘシオドスは、鶴の声(四四八)とか、檞(槲)の葉がくれに鳴く郭公(四八六)とか、家宅を担いながら地面から樹に這い上る蝸牛(五七一)とか、薊の花と蟬(蝉)の鋭い歌声(五八一)とかいうような、他の自然現象を用いているのであるが、しかし主としてはこれを天文現象によって示しているのである。すなわちアトラスの娘プレイアデス(昴星)が天に現れる頃に収穫を始め、これが姿を消し始める頃に耕作し、これが昼夜四十日間かくれていて、再び姿を現す頃にまた鎌を研ぐというのが、田野の習い(ノモス)であると(三八三−八)言われていて、材木を伐り出すには、セイリオス(天狼星)が人間の頭上を昼よりも夜に多く動いて行く頃がよい(四一七−二一)、また太陽の曲り目(日至ここでは冬至)に耕作を始めたのでは、多くの収穫を望むことは出来ない(四七九−八二)葡萄樹の刈込みは、冬至の後六十日して、アルクトゥロス(大角星)がオケアノスの聖流を立ち出でて、夕方まず一番に輝かしい姿を現わすようになり、やがて燕が飛んで来るようになっては、もう遅いから、それ以前にしまわねばならぬ(五六四−七〇)、デメテルの恵みによる穀物を風通しのよい打穀場で篩うのには、オリオンが最初に現れる頃がよく(五九八)、オリオンとセイリオスが中天に来て、薔薇色の指をした暁が大角星の方を見る頃には、葡萄の実を取り入れ(六〇九−一一)、プレイアデス(昴星)やヒュアデス(牡牛座の五星)やオリオンが姿を消すようになったなら、また季節の耕作を思え(六一四−七)と教えている。

 ひとが時という言葉で、もし意識の流れとか、直観の形式とか、現在における過去と未来とかいうようなものしか考えられないとするならば、それは狭い範囲の学派的論議によって、精神の自由を失った結果であると言わなければならない。子供がもし時についての問いを理解し得たとするならば、彼等はお十時やお八つの御菓子とか、あるいは入浴や夕食のために、外は未だ明るいのに、遊戯をやめて家へ呼び入れられることや、未だ睡たくもないのに、寝床へ追いやられることなどを思い浮べながら、ようやくその見方を教えられ始めた時計のことを考えるであろう。天体は、ヘシオドスの住んでいたボイオティアの貧しい農民たちにとって、ちょうどそのような時計なのであった。クリティアスが時の流れと共に、アトラスの担う蒼穹を見守る熊星の姿を思い浮べたことも、決して不思議ではないであろう。プラトンは、『ティマイオス』(三七C−三九E)のなかで、時間を永遠の模像として語った時に、時間は天体と共に生じた、またその故に、もし両者の解体ということがいつか生ずるならば、その解体もまたいっしょのはずだと(三八B)言い、太陽や月や他の遊星五つは、神のはからいによって、時が生まれるために生じたのであって、それらは時を区切って、その数を守るためにあるのだと(三八C)も言っている。プラトンの語るところによれば、生けるこの世界を作った神は、出来るだけこれをその模範である永遠の存在に似せようと思ったのであるが、しかし永遠性をこの被造物に附与することは不可能事であったので、永遠の何か動く模像を作ろうと考え、「天体の秩序を作ると同時に、一に止まる永遠に対して、数的に移行する、それの模像を作った。これがわれわれの時と呼ぶところのものである」(三七D)と言われている。時間は永遠に対して、何か動くもの、移行するものとして、静止せる存在から区別され、更にその対立は、一と数の対立として語られている。一に対立する数とは、言うまでもなく、二に始まる多のことである(*)。そしてアリストテレスの有名な、しかしまた難解な時間の定義「運動(もしくは変化)を以前以後の順序に数えたもの」という規定のうちにも、われわれは同じような数と動の概念を見出すことが出来るように思われる(**)。アリストテレスの考えた時間は、無論、天体の運動だけに限られるものではなかった。ヘシオドスにおいても、季節の変化は、鶴や郭公の鳴声によっても示されたし、蝸牛や燕の運動によっても知られた。アリストテレスは、外が真暗で、肉体を通しては何の印象も受けない場合でも、心のうちに何らかの動きがあれば、それだけで直ちに時間が生ずるように思われると(Phys, Δ 11. 219a 4-6)述べている。しかしながら、これらの時間が計られる標準の運動は、天体の円運動であることを認めている(***)。

(*)  ユークリッド(Euclides, Elementa VII. Def. 2)は、数を定義して「単位から合成された多である」と述べているが、ヒース(Th. Heath, Greek Mathematics I. p. 69)によれば、数をもっぱら多として考え、一を数にあらず(Arist., Metaph. N1 1088a 6)と見るのは、おそらくピュタゴラス派以来のことであろうと言われている。『ティマイオス』のこの場所において、一と数のこのような対立が考えられねばならぬことについては、A. E. Taylor, A Commentary on Plato's Timaeus, p. 187 にも説明がある。
(**) 無論アリストテレスは、第十二章(二二〇a二七−三二)において、絶対的な意味の数では、その最小は二であるけれども、事物の数あるいは具体的な数においては、その最小は二もしくは一であって、時間の最小数も一もしくは二であると述べている。しかしながら、「以前以後の関係における運動の数」という定義を導出する直前(二一九a三一以下)において、アリストテレスは次のごとくに言っている。「もしわれわれが今をただ “一つ” のごとくに感じ、これを運動の前後として感じないか、もしくは同じ今を以前の終りで、以後の始めであるというふうに感じないならば、時は少しも生じないと思われる。動きもまたないからである云々。」すなわち時間の規定には、以前と以後の前後関係が大事であると共に、“それ” が一つでないことを大切な条件としている。そしてこれが定義のなかの「数」という言葉に示されているように思われる。無論、それは最小数を厳密に二つに限るものでないかも知れないが、その主な意味において常に多なるものである。ロス(W. D. Ross, Aristotle's Physics, Introduction p. 65)も、この数を単なる多の意味に解しているようである。
(***)223b 21-3.

 かくてわれわれは、ひとが時という言葉といっしょに時計を思い浮べるのも、アトラスの担う蒼穹を考えるのも、ともに自然であることを知る。そして天体の運行も、時計の動きと同じように、われわれの身近にあって、われわれの生活に織り込まれているものであることを知らねばならぬ。ヘシオドスは、既に見られたように、アトラスの娘プレイアデス(昴星)が天に現れる頃に収穫を始め、これが姿を消し始める頃に耕作し、これが昼夜四十日間かくれていて、再び姿を現す頃にまた鎌を研ぐというのが、田野の習い(ノモス)であると語っている。そしてこのノモスに従って働かなければ、やがて食物に窮して、他人の家に物乞いして歩かなければならなくなることを警告している。天体の時計は、ボイオティア農民の生活に、このような密接の関係をもっていたのである。また当時の海上交通は、太陽が曲り目に来てから五十日間、すなわち夏至の後の約二カ月が、最も安全であるが、やがて葡萄の取入れが行われて、新酒が出来、秋雨が降るようになれば、航海は危険となり、ひとは春の芽ぶき時を待たねばならぬが、しかし春の航海は夏ほど安全ではない(六六三−六九四)とも言われている。すなわち時は海外貿易者の生命の安危にもかかわるものなのである。

    二

 ところで、時はこのようにして、天体の運動を標準に計られるけれども、それが天体の運動に限られるものではないことは、既にヘシオドスによって示された。のみならず、天体もまたひとつではない。従って、そこにはいろいろな時間が考えられなければならなくなる。プラトンは『ティマイオス』(三九CD)のなかで、太陽や月以外の星の運動がそれぞれ時間をなしているけれども、その週期は少数の人にしか知られていないと述べている。他の天体のことはしばらくおき、われわれは月の運動によって、また別の時を得るということを、ヘシオドスの中に見ることが出来る。『仕事と日々』の最後の部分(七六四−八二八)は、日のよしあしを数えるものなのであるが、その日の数え方は大よそ次のごとくである。「月が段々大きくなって行く場合の八、九日の両日」(七七二−三)は、人間界の仕事によく、十一、十二の両日は、羊の毛を刈り、果実を取るによく、「既に始まっている月の十三日」(七八〇)は、播種には悪いが、植樹にはよい。「中の六日(十六日)」(七八二)は、植物には厄日であるが、男子の出生にはよい。女子のためには、「中の四日(十四日)」(七九四−五)がよい。「月が虧ける場合の四日(二十四日)と月が始まる場合の四日」(七九八)とは、心を悩ます難儀を避けるように用心しなければならぬ、というようなのがその例である。日が月の虧盈を標準にして数えられていることは明らかである。すなわちボイオティアの農民生活は、二つの時計によって調整されていたのである。耕作播種刈入れ等の仕事は、一方においては、アトラスの娘プレイアデスの運動を見て営まれると共に、他方では、月の虧盈に応じて按配されねばならなかったわけである。しかしヘシオドスは、この二つの時間を全く別もののように、これをそれぞれ違った場所で、しかも両者の間に何の連絡をつけることなしに取扱っているのである。われわれはこれを、作品『仕事と日々』の不統一ということに考えるよりも、むしろ二つの時間が別ものと考えられていたのだと見るべきであろう。しかし時間は二つであっても、生活は一つである。われわれは生活の必要が、やがてこの二つの時間を一つに調整しようとするに至るであろうと考えなければならない。農民の祭礼は一般に、耕作とか播種とか刈入れとかいうような、季節の行事に関係のあるものが多いと考えられるのであるが、いまもしその祭礼の日を割り出すべき月の時間が、耕作播種刈入れ等の季節の時間と全く無連絡のままにおかれるならば、祭礼の日が季節と矛盾する危険も生じて来るわけである。われわれはそこに、二つの時間が一つに調整されなければならないひとつの場合を見ることが出来る。

 ところで、太陽と月というような異った天体の、見かけ上の変化や運動を基準にして考えられた年月日の、それぞれ異る時間を一つに調整しようとする試みは、既に古くから、エジプトやバビュロニアにおいて行われていたのであるが、それは後にギリシア人の間にも知られるようになった。それにはいろいろのやり方があったのであるが、十九年に七つの閏月を加える、比較的すぐれた方法が、天文学者メトンによってアテナイへ紹介されたのは、紀元前四三三/二年であったと言われている(*)。言うまでもなく、このような調整を行うためには、年も月も共通の尺度によって計られなければならない。メトンの計算によれば、一年は 365 1/4 + 1/76 日であった(**)。しかしながら、一年を日で数えるようなことは、もはや農民の仕事ではない。われわれはそれを天文学者に委せなければならない。天文現象や動植物の観察から直接に知られた時間は、かくて計算や推理の時間によって代わられることとなる。われわれが直接に見聞きするところのものは、それがいかに確実に見えようとも、一度その狭い見聞の範囲を越える時、同じような他の見聞と矛盾対立して、われわれを全くのアポリアーに陥れてしまう。われわれはいかにしてこの窮地を脱するかと言えば、われわれに直接与えられたものを、その相互関係において吟味し、その対立に明確な言葉を与え、これを言わば問答にみちびいて、その間に解決を見出すより外はない。これはすべての学問の方途である。天文学者が計算によって示す時間は、ちょうどこのような解決なのである。ひとはそれを人工的とか、抽象的とか呼んで、何か真実性の少ないように考えるかも知れない。しかしながら、直接に与えられたもののみを真実と見るのは、一個の偏見に過ぎない。燕の飛来によって春を知ることは、確かに簡単な方法である。しかしながら、一羽の燕は必ずしも春をなすものではない。われわれは春を知るためには、大角星を観測したり、気圧配置をしらべたりしなければならない。燕だけに頼っていた者にとっては、これはいかにも間遠い、親しめない方法である。しかしその方が真実に近い方法なのである。われわれは今日、太陽暦によって生活し、年月の調和をはかるために、閏一月を加えたりするような、不便から解放されているけれども、そのためには、月の虧盈によって直ちに日を知るような、直観的な仕方で示される時間を犠牲にしなければならなかった。しかしそのためにわれわれの時間が真実性を失ったと言うことは出来ない。われわれの生活は、ロゴスによって工夫された、全く人工的な時計によって支配されている。そして時計を充分に利用せずに、他の直観のみに頼るところに、かえってわれわれの生活の失敗が見られる。それはわれわれの生活にノモスを与えるもので、ちょうどヘシオドスにおける田野のノモスと同じように、これを犯すことによって、われわれは破滅の危険をもって罰せられるのである。生活に科学がないということは、個人にとっても、国家にとっても、失敗と破滅を意味する。真実とは、人生のあらゆる危険においてわれわれを救う方途であって、単に直接的なもののことではないのである。

(*) Diodorus XII. 36.
    ただし、ヒース(Th. Heath, Greek Astronomy, Introduction xvii)によれば、これが実際にギリシアで用いられるのは、三四二年のことであるから、この年代には疑問があると見なければならない。
(**)Ptolemaeus, Syntaxis mathematica III. 2-3.

    三

 かくてわれわれは、いまやロゴスと科学が与えるところの時間をもって、むしろ真実に近いものと考えなければならないのであるが、この時間は、ヘシオドスにおいて見られたような、互いに異る時間を一つに調整することによって、時間の単位に関する、ひとつの難問の前にわれわれを立たせることとなる。プラトンは『ティマイオス』(三七E)において、昼夜と月と年とを時間の部分と呼んだのであるが、プラトンの意味はここに深く問わないとして、時間に部分というものが考えられ、その部分が一年は月に分けられ、月は日に分けられるというようなことは、もしこれら年や月の時間がそれぞれ異るものであって、このほかにも蟬(蝉)や蝸牛によって知られる時間とか、内心の変化に感得される時間とかいうものが、おのおの独立して別な時間をなしているのであったなら、容易にこれを考えることは出来ないであろう。ロゴスが直観の時間を統一して、月の時間を年の時間に繰入れ、毎日の時間を月の時間に繰入れて、ヘシオドスが別々においたこれらの時間を同じものだと教えてくれなかったなら、われわれは毎日が集って一年になるということを理解することは出来なかったであろう。しかしながら、これらの時間が同じだとすると、これらを計る共通の単位時間が考えられなければならぬ。一昼夜は既にかくのごとき単位として語られた。しかしながら、一年は三百六十五日には割り切れないのである。われわれは更に一日を部分に分けなければならない。直観的な部分としては、既に朝昼晩夜などが知られている。しかしこれは一日から、一月、一年を計る単位ではあり得ない。それは同質ではなくて、全く別々である。ここにわれわれは狭義の時間をかかる単位として見なければならなくなるゆえんがある。一日を時間に分けることは、しかしながら、時計の発明によらなければならない。しかしそれはいかなる必要から発明されたのであろうか。われわれはここで、時の三つの用を区別しなければならない。一つはいつ耕作を始むべきか、いつ羊の毛を刈るべきかを示すための時である。もう一つは、ヘシオドスが葡萄の実は十日間日向に乾して、更に五日間陰乾しにして、六日目にディオニュソスの贈物を容器に搾れ(六一二−四)と教えたような、何日間、何時間という、時の長さを示すものである。もう一つは、夏至の後五十日間はいつでも航海に出てよい(六六三−五)と言われる場合などに見られるもので、一定の時間の長さを与えて、その間の任意の何時(いつ)かを考えるものである。意味においては、第三の場合は前二者の混合もしくは中間とも考えられるであろう。いずれにしても、時は「いつ何時(なんどき)」を問われると共に、「どのくらいの間」「いつまで」を問われるものであることは明らかである。そして時計の発明は、これらの細かい点を示す必要から生れたものと考えられる。いわゆる φυλακή (vigilia, watch)という時間は、夜を三分したり、四分したりした時間であるが、それは歩哨交代の時間なのである。しかし暗黒の夜、もし風雨が激しいような場合に、ひとは何によって交代時間を知ることが出来るであろうか。水時計や砂時計の必要はかくて生じ来るわけである。それは主に時間量「どのくらいの時間」を示すに用いられ、法廷弁論にかかる時間の制限があったことは、プラトンの『テアイテトス』(一七二D、二〇一B)などによっても知られる。他方また日時計もアナクシマンドロスによって作成されたと言われる(*)。これは日中における細かい時刻を示し、「何時まで」を決めるのにも用いられたであろうと想像される。かくて今や年月を計る単位に用いられていた一日が、更に細かく分けられて、この小単位の時間が、もしすべての時間が同じだとするならば、長年月の時間を構成する単位と考えられねばならなくなったわけである。しかしながら、時間の単位とは何であろうか。

(*)Diog. L. II ; Eusebius, Praeparatio evangelica X. 14. 11.
   ただし、これは発明というより、紹介であろう。ヘロドトス(二巻一〇九章)の言うように、ギリシア人はこれらをバビュロニアから学んだのである。

 シンプリキオスの伝えるところによれば、エレアのゼノンは、「存在がもし多ならば、それは必然に大きさをもたないくらいに小であると共に、また無限に至るほど大きくなければならない」(Fr 1)ことを、いわゆる両断法を用いて論証したということである(*)。シンプリキオスはその論証の一部を引用するだけなのであるが、察するところゼノンは、その多なる存在が大きさをもつ場合ともたぬ場合とに分け、もたぬ場合は、それが加えられても引かれても何らの影響をもたぬ無に等しいものであることを論じ、もし大きさをもつならば、その部分もまた大きさをもち、そのうちに甲乙の異る部分を指摘することが出来るであろうが、同じことは甲乙のおのおのについても繰返し得、これが無限に至るであろうから、かかる大きさが指摘される限り、存在は大きさの無限の集りとして、無限に大きなものでなければならないことを論じたらしいのである。これを近代の概念に直して言えば、その一解釈として、次のようにも言われ得るであろう(**)。いまひとつの拡がりを、その単位となる無限に小さい拡がりの、無限に多くのものが聚合したものと解するならば、ただ二つの場合が可能である。すなわちもし単位の拡がりが零ではなくって、有限一定の大きさであるとするならば、それの聚合は無限大とならなければならない。またもしそれが零であるならば、それがいかほど多く集められても、その聚合はやはりそれは零でなければならない。われわれは一年を月日に分け、更にその一日を時刻によって分け、これを無限につづけることが出来るとするならば、ちょうどそこにゼノンの難問が生ずるのを見なければならない。

(*) Simplicius, In Phys. (Diels), 140. 27ff. ; 139. 3ff ; Diels=Kranz, Fr. 1-2.
(**)H. Hasse u. H. Scholz, Die Grundlagenkrisis der Griechischen Mathematik, S. 11.

 のみならず、ゼノンの有名な運動論においてはわれわれは、また時間の無限分割に関する、このようなアポリアーにも触れることが出来るのではないかと考える。無論、ゼノンの論証そのものは、今日これを直接に知ることは出来ない。われわれはこれを、アリストテレスの『自然哲学』(六巻九章)における批評などを通して、間接に知ることが出来るだけである。しかも運動の不可能を、「運動物はその終点に達する前に、まずその半分に達しなければならぬから」(二三九b一一−四)として論ずるところの、第一論についてアリストテレスは、これを「限られた時間のうちに無限を通過すること、もしくは無限のものにひとつひとつ接触することは不可能である」(二三三a二一−三)という意味に解し、時間もまた無限に分割され得るから、そのような無限の時間において、同じような無限を通過することが出来ると答えている。ゼノンの論証が果して事実かくのごときものであったか、それともこれはアリストテレスの不幸な誤解に過ぎなかったのか、それはいま問わぬこととして、アリストテレスのこの解決が不満足なものであることは、後にアリストテレス自身も認めなければならなかったところである(*)。すなわちゼノンの難問は、有限の時間に無限を通過することの不可能に存するのではなくって、無限の時間を考えても依然として成立するようなものなのである。なぜなら、無限を無限の時間において通過しようとする時、もしその無限の時間が単位時間の無限に多くの聚合であったとするならば、われわれは決して終点に達することが出来ないであろう。ゼノンの両断法を借りて言えば、もしその単位時間が無であるなら、かかる時間をいかほど加えても、われわれが終点に達する時間は無いわけである。またもしその単位時間が一定有限の時間であるならば、それの無限に多くの聚合は、無限大の時間となり、われわれはいつまで待っても終点に達することは出来ないであろう。

(*)263a 11-23

 このアポリアーの真の困難はどこにあるのであろうか。それはアリストテレスが、ゼノンの運動不可能論の第三のもの、すなわち飛矢静止の論(二三九b五−七)に対する批評において述べている(*)ように、時間を無限分割の結果であるところの、このような単位時間の集合と解するところにあるのではないかと思われる。時間は確かに無限に分けることが出来る。しかしながら、われわれはこのような無限分割によって、時間の単位を得ることは出来ないであろう。いま一つの線分を取って、これを一点によって二つに分け、その分けられた一つを、更に他の一点によって二分し、またその分けられた一つを別な点で二分するというふうにして、同じことを何度も繰りかえすとしてみよう。その時にわれわれは、この分割を無限に続けて行けば、そこには無限に多くの区分点が打たれることになるのを発見するであろう。しかしながら、それら無限の点を集めても、われわれはもとの線分を得ることは出来ないであろう。ゼノンの論法を借りて言えば、もともと長さのない点をいかほど加えても、長さのある線は生じないのである。線分は線分から成り立っている。区分点によって絶えず分けられた線分が、もとの線分を成立させるのであって、区分点はどれほど多くあっても、もとの線分に何も加えないのである。言って見れば、すべての区分点を取り棄てて、区分された線分だけを加えれば、それでもとの線分が得られるから、区分点は線分にとって無なのである。しかも長さのない点が、長さのある線分のうちに見出される仕方は、いずれもこの区分点の場合と同じなのである。点は線の限界であるが、線の部分ではないのである。線の部分はつねに線であると言わなければならない。

(*)239b 6-7, 239b 30

 のみならず、無限分割はひとつの可能に止まるのであって、実際に分割された部分の数はつねに有限であるから、われわれはどこまで分割しても、そこから引返して、逆にそれらの部分から全体を組立てようとする時には、ゼノンの難問にあらわれたような、無限大を得ることはないのである。年月を日に分け、日を時間に分け、これを更に分秒に分けることには、従って別に困難はないわけである。一秒の何分の一という時間も、やはり一定の時間であり、理論上、われわれはその何分の一でも考えることが出来るわけである。それはどこまで行っても、時間の部分として、やはり一定の時間であり、更に先へ分割し得るものなのである。そして実際上の便宜に従って、これらのどれかを時間の単位として用いることも出来るわけである。しかしながら、厳密な意味において、時間の単位と呼ばるべきものは、そのように更に先へ分割され得るようなものではなく、何かアトム的なものでなければならぬとも考えられるであろう。ちょうどわれわれは瞬間とか、刹那とか今とか呼ばれるものを、何かそのようなアトム的なものと考え、時間はかかるものから成ると考えたりするのである。単位時間の問題は、単なる無限分割だけの問題ではないのである。

    四

 それでは、瞬間とは何であろうか。今とは何であろうか。一方においては、それは時間の区分点のごときものであると考えられる。特に今というような言葉においてわれわれは、未だないものが既にないものに移って行く、その過去と未来との区分点のごときものを考える。しかしまた他方、今はそれが分けたところの過去や未来と並んで、それ自体ひとつの時間であり、また時間の部分であるとも考えられる。事実、瞬間や刹那には、一定の時間があると見られる。しかしながら、区分点と区分された部分とは厳にこれを区別しなければならないのであるから、われわれは瞬間が時間の区分点であると共に、また時間の部分であるというようなことを、簡単に肯定してしまうわけにはいかない。アリストテレスは、上述の時間論において、瞬間と一般に訳されている意味に今(νῦν)という語を用いているのであるが、今は時間の部分ではなく、時間は今から成るものではない(*)として、これをもっぱら時間の区分点のごときものと考えている。われわれはこの対立をどう取扱ったらよいであろうか。プラトンは『ティマイオス』(三七E)において、昼夜年月は時間の部分であるが、「あった」と「あるであろう」とは、時間の種類もしくは様相として生じたものであると述べている。過去現在未来をもしわれわれが時間の部分と呼ぶならば、それは年月日時分秒が時間の部分と呼ばれるのとは、全く別な意味においてでなければならない。われわれは今というものを、これまでの時間分割の問題とはまた別に考えてみることが出来るのではないだろうか。

(*)218a 6-8

 われわれはもう一度ヘシオドスに帰って見よう。彼はいわゆる五つの時代のミュートスを語って、最後の鉄の時代に及んだ時、「生れざらましかば」の歎声と共に、「今こそは鉄の代なのだから」(一七六)と語っている。ヘシオドスがいわゆる五つの時代を考えたその基礎には、言うまでもなく、鉄器の使用と銅器の使用によって区別される事実上の時代別があったと想像されなければならない。そして彼の詩人的な空想が、これに銀の時代と金の時代を加えたと言うことが出来るであろう。しかしながら、彼は金銀銅鉄の区別を時間的に配列して、いわゆる歴史の段階のごときものを考えることを主にしたのではない。彼は銅と鉄の間に、いわゆる英雄たち半神の時代を挿入して、金属による時代区分を不調和に破ると共に、英雄の時代を銅や銀の時代にまさるもののように語っている。のみならず彼は、パンドラ伝説をこれに先だって語っているのであるが、しかしパンドラ伝説と五つの時代のミュートスとの間には、何の連絡もつけられずに、ただ「もしよければ、もう一つ別の話をしてやろう」(一〇六)というような言葉だけで、一方から他方に話を移しているのである。しかも厳密に考えるなら、二つの話は矛盾するかもしれないのである。パンドラ伝説によれば、この世の苦労は、プロメテウスが人間のためにゼウスを欺き、更にその火を盗んだのに対して、ゼウスが怒って、あらゆる災悪のもとである女人パンドラを贈り、そのパンドラが甕の蓋を開いたことに起因するのであるが、五つの時代のミュートスでは、オリュンポスの神々が、クロノスからゼウスの代までに、次々に違った人類を創成して、ついに鉄の種族をつくるに至ったが、この時代には、昼も夜も人々の難儀と悲惨の絶える暇はなく、人類はだんだんに悪くなっていくとて、その絶望的な不幸がいろいろに語られるのである。二つのミュートスに共通するものは、昔はよかったけれども、今は悪いという歎声であり、事実として存在するのは人類の不幸だけなのである。ヘシオドスが切に人々に訴えようとしているのは、ただこの一事であり、彼が説こうとすることは、この困難の世をいかに生くべきかということなのである。そしてこの一事を強調するために、相互の連絡をも問わずに、パンドラ伝説と五つの時代のミュートスを語っているのであって、このことを強調するためには、「もしよければ、もう一つ別な話をしてやろう」と言いながら、未だ別の話を加えることも出来たのである。

 ヘシオドスにおける「今」が何を意味するかは、もはや理解に困難ではないであろう。それは昔に対立する今であり、以前(πριν)とは区別された今なのである。具体的に言えば、ヘシオドスがペルセスを誡めて語ろうとする世界は、以前にホメロスが語った「神にも似たる」英雄たちの世界とは、全く別なのである。ヘシオドスのいわゆる五つの時代は、根本において、英雄の時代と「今」との二つであって、他はこの対立を重複したものと見ることが出来るであろう。黄金時代は「以前」の理想化である。一般に、いわゆる時代区分は、このような今と昔との隔絶をその出発点とするのではないだろうか。そしてこのように、今と昔を区別し、以前を今とは別のものとして見るところに、われわれは時間というものを認めるのである。アリストテレスが言うように、同じ今がただ一つだけあって、これが区別されなかったなら、時間というものはなかったであろう(*)。否、そのような今はもはや今でさえもないであろう。われわれはいつも今を感じているのではない。ヘシオドスにおいて見られたように、「今こそは鉄の代である」というような仕方で、何か新しい発見として今を感ずるのである。今さら今を感ずるのである。まことに今は線分を区切る点のごときものとして考えられたのであるが、われわれはいかに多くの点で線分を区切ったとしても、その点と点の間には、なお無数の点によって分けられ得る線分が残されていたのである。われわれはいかにたびたび今を感じたとしても、その今と今の間には、なお幾度でも今として感じられたであろうような時間が流れていたのである。時間は今と昔の間にあるのであって、今が直ちに時間なのではない。われわれには太陽の “運動” を見るよりも、動く太陽を見る方が容易である。われわれは今を捉え得るように感ずるけれども、時間を把握することには困難を感じなければならない。今が動いて時間になるというふうにもし想像することが許されるならば、動くものに当る今は比較的容易に見られるけれども、運動そのものに当る時間はなかなか捉えにくいというところであろう。今の推移ということを考えるならば、今は絶えず切りかえられて、今のたった今が既に今から区別されて、その間には無限に多くの今を含む時間が流れると言わなければならなくなる。それは今と昔の間と全く同じである。今は鉄の世だというのも、今は収穫の秋だというのも、今は眠る時だというのも、一瞬の今と同じことなのである。

(*)218b 27-28

    五

 ところで、ヘシオドスの五つの時代であるが、われわれはそこに昔と今の対立を見、各時代の前後を数えて、時の推移を知るわけなのであるが、しかしこの時間は実際の時間とは信じられない。それはミュートスの時間であって、夢のなかの変化が、実際の眠りとは別に、それ自体の展開に時間をもつのに似ているとも言われるであろう。これが歴史的事実であるためには、われわれはそれを今から何年ほど前であるか、数を挙げて示すことが出来なければならない。そして金銀銅鉄の時代順も、このような数によって決定されなければならない。歴史学の研究において、基礎となるのは年代決定であって、これの手掛りがない時には、われわれは伝説と歴史を区別することが出来ない。ところが、この年代を決定するためには、われわれは天文学者の算定した時間を用いなければならない。それは既に見られたように天体の時計が示す時間であり、いろいろな直観の時間を一つに調整するために、計算(ロギスモス)を用いて工夫された時間なのである。一部の人々には意外であるかも知れないが、歴史的時間というものは何よりも先ず、このような天体の運動によって計られる一定の数をもった時間でなければならない。そうでなければ、事実性をもたないことになるだろう。たとえばヘシオドスその人について、もし彼が実在の人物だとするならば、われわれは彼をそのような時間のどこかに位置させなければならない。ちょうどヘロドトス(II. 53. 2)は、ヘシオドスをホメロスに並べて、その年代は彼自身の時代から四百年ぐらい前で、それ以上ではないであろうと述べているが、それは紀元前八三〇/二〇年頃に当るわけである。これに対しては、『仕事と日々』(六五四)に語られているアンピダマスの名が、七〇五年頃のカルキスとエレトリアの戦争に関係したアンピダマスと同一人物ならば、この年代は不可能である。しかしこれが同一人物と見なさるべき必然性はない。のみならず、伝統はホメロスの亜流に属する詩人に至るまで、それぞれ年代を与えて七七六年頃にまで溯っているのに、ホメロスとヘシオドスはそれらの伝統以前におかれていること、『仕事と日々』(五六四以下)に語られている葡萄樹刈込みの時季は、冬至の後六十日にして、アルクトゥロス(大角星)が夕方まず一番に輝かしい姿を現わすようになる前と指定されているが、今日では大角星は冬至から五十七日目に、しかも日没前に登天するが、この相違を天文学の知識によって計算すると、ヘシオドスの年代は八〇〇年代の終り頃と推定されることなどが、ヘロドトスの数字を保証するように見えるのである。いずれにしても、歴史学者はこれらの数字を中心に議論することが出来る。これに反して、クロノスの支配した黄金時代が何年頃であったかを議論することは出来ない。われわれがトロイア戦争の年代を推定しようとする時には、それを一個の歴史的事実と見なしているのである。

 ところが、このような年代計算の出発点はどこにあるかと言えば、それはこの今なのである。歴史の事実性は、数字だけによって保証されるのではない。「今から」ということがまた大事だったのである。数によって今に結びつかなければ、歴史は夢のようになってしまう。この意味において、今は歴史的時間が計られる座標原点のごときものだと考えることが出来るであろう。そして歴史の時間は、この今を出発点として、目盛りした物差のように、あるいは自然数の系列のように長く延びていると想像することも出来るであろう。歴史事実はつねに先ずいつ生じたかが問われるから、このような固定した物差が必要なのである。これに反して、科学や技術の時間は、十日間日向に乾して、五日間陰乾しにし、六日目に搾れと言われた葡萄酒の製法におけるがごとく、「いつ」よりは「どれだけの間」を主にするから、出発点の今を固定する必要はなく、一定の運動によって他の運動を計る時計があればよいことになる。歴史的時間は今とこの結びつきを特色とするということが出来る。ところが、今は時間を切断するわれわれ人間の意識事実とも見られる。そしてそのために歴史的時間は、主観性あるいは観念性と呼ばれるような性質を多分にもつとも言われるであろう。他方また、「今」はわれわれによって「此処」に結びつけられるようにも思われる。そこから、個人的、地方的、社会的ないろいろの偏頗が生じて来る。しかも今は絶えず切りかえられるから、今は絶えず新たにされて行く。吹く風に目には見えぬ秋を感じ、一羽の燕に早くも春を知るということが、この今においては可能なのである。しかしながら、このような今のみに頼って、歴史を何か特別なものにしてしまう傾向は警戒されなければならぬ。今の意識は、同時に天体の運動に結びつかなければ、歴史の出発点としての意義をなさぬのである。のみならず、線分に打込まれた無数の区分点が、線分そのものの消長には全く無であったように、われわれの感じる今も時間そのものにとっては、やはり無なのかも知れない。われわれの感じを離れた時間はもはや時間ではないとも言える。しかし宇宙創成の昔にはじまり、天体の運動において示される、かの永遠の模像は何なのか。われわれはアリストテレスの言葉を借りて、われわれの時間が「それであることによって存在するところのもの」(τοῦτο ὅ ποτε ὅν ἔστιν ὁ χρόνος , 223a 27)すなわち基体的時間とか、時間以前の時間とかいうものを、ひそかに認めなければならないであろう。歴史といえどもわれわれの意識を超えた事実なのである。歴史をわれわれの記憶と同一視することは出来ない。われわれ自身の記憶は僅かな時間を被うだけであるが、悠久の昔の歴史はわれわれの推理によって始めて発見される事実なのである。それはいわば新発見の昔である。今の意識においてわれわれは、現在を知覚し過去を記憶し未来を期待すると考えるのであるが、それは歴史の過去現在未来とは別である。そしてこの過去未来も、現世から望む来世と前世に対してはまた別のものなのである。今を通していろいろな過去と未来が見られると言わなければならない。時間を今の意識からだけ考えれば、その一部は過ぎ去って今はなく、他は未だ来らずして今はなく、しかも今は過ぎ去ったものと未だ来らざるものの区分点として、一方の終点で他方の始点という二度の用をもつだけで、それ自体は時間でないから、時間は無であるというようなアポリアー(*)が避けられないものとなるであろう。このようなアポリアーは、しかしながら、永遠の存在を模した時間の生成のうちに見られる、その非存在的な本質から理解さるべきものなのであろう。しかしまた時間の意味は、現在とか過去未来とかいうものだけで尽されるものではないことを知らねばならぬ。
 
(*)Arist. Phys. Δ 10. 217b 32ff.

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【田中美知太郎「時間」1941年(『ロゴスとイデア』より)】
発表:1941(昭和16)年10月『思想』
所収:1947(昭和22)年9月『ロゴスとイデア』岩波書店 
今回の引用:1968(昭和43)年10月『田中美知太郎全集第一巻』筑摩書房.  pp. 85-104.
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