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数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4

この歌を、よくTwitterで見た。見れば見るほどわからない歌だと思う。やわらかく掴んだときの感触は、野村日魚子の「しゃぼん玉なんども食べようとしてるゾンビになってもきみはきみだな」に似ている。でも、何かが決定的に違っている。何が似ているのか。それは、両者の状況がコミュニケーションの絶対的な切断を前提にしていることだ。恋人/きみは、数字しかわからなくなった/ゾンビになった。それは、共通の言葉をしゃべることができなくなった、ということだ。じゃあ何が違うんだろう。

青松さんの短歌にはいくつもの罠があるように思える。「4」という部分は誰が見ても謎の多い表現なのだけど、「数字しかわからなくなった」という部分も、実はよくはわからない。具体的にはどういう状況なのだろう。『マトリックス』のように目に映るものすべてが数字によって記述されたコードに見えてしまっている、ということなのか、あるいは言語が数字に変換されている、ということなのか。「わかる」という言葉について考えれば考えるほど、わからなくなる。恋人が数字しかわからなくなったのかどうか、というのは当の恋人ではない限りわからないはずだからだ。ただ、この歌から要請されるのは、とにかく此岸と彼岸の間に最早越えることのできない深淵が横たわってしまった、ということだ。

好きだよ、と呟くことはもしかしたら無意味なのかもしれない。こちらの言葉はあちらに届いているのか。「好きだよ」の好きだよ性はどの程度相手と共有できるているのか。同じ言語を持たなくなってしまったぼくときみにはそれを擦り合わせる術がない。でも、そこにとうとつな「4」が生まれる。火花のように。これはきっとぼくの声でも、恋人の声でもない、新しいコミュニケーションの爆発音なのだ。

ゾンビにはゾンビのナラティブがあって、それをある程度共有できるから、ゾンビの歌をすんなりと読み取れる。でも数字しかわからなくなった恋人、というものには、なんというか純粋な骨組みだけがある。そこに付随する物語は閃光のように、これから生まれなくてはならない。

「4」もやっぱり曲者で、帯の「Aomatsu」の「A」が4に見えるようにレタリングされている。物語の中の恋人が自分の名前を呼んだ、ともとれないことはない。でも、恋人は数字しかわからないはずなので、これは「よん」なのだろう。古代ギリシャまで遡れば、完全な数であった「3」の次の数。三位一体、三拍子の楽曲。はじめ、中間、終わり。そうして永劫回帰していく「3」を切り裂くような、4の破裂音。それは新しいコミュニケーションの創出だ。コミュニケーションの零度へたどり着く。

ここまで書いて考えると、そもそもぼくたち自体が同じ言葉を用いながらも、コミュニケーションの不和を引き起こしている。それはぼくとあなたが他人だからだ。この短歌は、数字というデジタルなガジェットによって、現実の、いま、ここのぼくたちのコミュニケーションの危うさを照射する。

なぜこうしたことを長々と書いているのかというと、この歌集全体がそういう試み、つまり、言葉と言葉を衝突させて生まれるネオ・コミュニケーションの衝撃波を体験する、というもののように思えたからだ。カタカナの短歌が多いのも、言葉を加速させるためだと思う。そうして言葉と言葉が短歌という加速器トンネルの内部でぶつかり合って、新しい抒情子が取り出される。眩しいほどの青い光と、韻律を伴って。それは例えばこういう歌。

あなたさえいれば・ラズベリー・嘘みたいに・ブラックベリー・寂しくないよ

このように形式に工夫しながら、言葉をキメラにする。英文とカタカナ語、平仮名があまり短歌では見ないような配列やぶつかり方で置かれる。正直なところ、意味の内部に潜っていける短歌は決して多いとはいえなかった。でも、不思議と心地よかったのだ。なんだこの短歌は、と思うとき四方八方から言葉が、詳しくいえば文字の形、意味、音、歴史、etc.によって構成された情報としての言葉が飛んできて眼前で衝突、光って熱を放つ。それがずっと続く読書体験だ。

声のない世界で〈海だ〉と僕は言う きみは〈雪だ〉と勘違いする

uiaという口の動きだけで会話する世界では、こうしたミスコミュニケーションもおこる。でも、やはり現実でもこういうことは起こる。穂村弘の「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」。これだってちょっと戯画っぽくもあるのだけど、まだリアリズムに寄っているはずだ。ここでも、特殊条件によって発生したミスコミュニケーションは、現実にも照射されてくる。

僕のさいしょの恋愛詩の対象が、いま、夜の東京にいると思う
星の存在 きみと話しているときに僕はこわれるほど高画質
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海

そしてとんでもなくロマンチックな短歌が急に現れる。サブカルチャーとの接続、デジタル的身体などたくさん喋れるところのある歌集だと感じるし、もっとこの短歌について話をしたい、そういう機会が欲しい、と思わされるような、目眩の空間であった。

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