かみしの

ほんもののにせもの

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この歌を、よくTwitterで見た。見れば見るほどわからない歌だと思う。やわらかく掴んだときの感触は、野村日魚子の「しゃぼん玉なんども食べようとしてるゾンビになってもきみはきみだな」に似ている。でも、何かが決定的に違っている。何が似ているのか。それは、両者の状況がコミュニケーションの絶対的な切断を前提にしていることだ。恋人/きみは、数字しかわからなくなった/ゾンビになった。それは、共通の言葉をしゃべることができなくなった、ということだ。じゃあ何が違うんだろう。 青松さんの短

    • 青蟬

      何かのアンソロジーだったと思うのだけど、吉川宏志さんのこれまでの歌集から抄出された歌の並んでいるものを読んだとき、『青蟬』の歌のほとんどすべてに印をつけた。こんなによい歌ばかりの歌集があるのか、と思い早速手に取ろうと思ったら、そう簡単には手に入らなかった。2022年のことである。それから1年して砂子屋書房から新装版が出て、無事に読むことができるようになった。基本的には「新装版」という商法への懐疑心が強いのだけど、気軽に手の届く場所に再び本が現れてくれるのであれば、こんなに嬉し

      • 荘子の哲学

        たぶん、高校生のときだっただろう。国語の教科書に奇妙な文章が載っていた。それは、顔のない渾沌という生物がいて、その顔の部分に七つの穴を開けたら死んでしまった、という不条理極まりない文章で、ある種の幻想小説であるとも言えた。 教師からは「老荘思想の無為自然を体現した文章で、顔に穴が空けられたのは自然ではないから渾沌は死んだ」というような説明を受けた気がする。当時はまるで納得できなかったし、定番の孔子の方が説得力のあることを言っている気がしてわかりやすかった。荘子というのは、と

        • 出会いはいつも八月

          いきなり話はマルケスから飛躍するのだけど、かつて京都にいたころ、友達と「ルーツ放談」というのをしたことがある。三条大橋の近く、鴨川のブヨの多い土手に座って、読んだ本はいったいどういう紆余曲折を経て自分の手に渡ったのか、ということを縦横無尽に話す企画だった。ぼくはこれがとても楽しくて、まるで大江健三郎の小説のように自らを語り直したのだった。たぶん、繰り返すうちに記憶の混同やはったりも混じったかもしれない。記録としてはひどく不確かだろう。だけど、いくつもの川を遡るとひとつの海に辿

          フラニーとズーイ

          『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだことがないことと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見たことがないことは、もしかしたらパラレルの関係にあるのかもしれない。ぼくは本を読み始めたのも映画を見始めたのも遅い。だから「本物」の読書家、映画好きではまったくない。そういう自己批判がぼくをいつでも苛んでいるし、きっとこのメタなぼくは消えてくれることはない。 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に向き合わないのは、ひとつの意固地に違いない。これが『

          フラニーとズーイ

          飛ぶ男

          未完の小説をこれまでいくつくらい読んできたのだろう。太宰治の「火の鳥」「グッド・バイ」。それぞれ、太宰治の新しい一面を見ることができたであろう期待が頓挫したままになっている。芥川龍之介の「邪宗門」。人気漫画の打ち切りのように、すごい場面で未完になっている。カフカの「城」。未完であることが完成であるような、カフカの逆説そのものみたいな作品。 安部公房の「飛ぶ男」もまた、死後フロッピーディスクに残されていたのが発見された、未完の作品だ。未完のものを、しかも本人の意図しない形で発

          アフリカの日々

          ぼくがまだ実家にいたころだったから、たぶんもう十四、五年前になるのだろう。テレビでマサイ族、という民族がしきりに取り上げられていた時期がある。視力がすごい、だとか、ジャンプ力がすごい、だとか、そうした身体能力の「異常さ」が面白おかしく取り上げられていた。結局、当時のぼくにはそこから先へ進む胆力も時間もないままにマサイ族という民族は記憶の川を流れていってしまった。 イサク・ディネセンの『アフリカの日々』は、1913年にケニアに渡り珈琲農園を経営したデンマーク人イサク(本名はカ

          アフリカの日々

          2023年(あるいは、死後の世界に光る稲妻)

          【一月】 神聖かまってちゃんのNGフェスを配信で聴いて、楽曲をひとつひとつメモしていく。短歌研究からの以来に作った短歌のひとつは、このときの経験をモチーフにしている。 ・レシートの裏にセトリや猫の手や聖書を書いて 本気だからね 一月に読んだ北山あさひの『崖にて』に「カタカナで採血管に名前を書くみんなミッシェル・ガン・エレファント」という歌があった。このときはまだチバユウスケが死ぬなんて思ってもいなかった。坂本龍一が死んで、高橋幸宏が死んで、チバユウスケが死んで、andym

          2023年(あるいは、死後の世界に光る稲妻)

          第五回毎月短歌(2023年11月)

          自由詠 突然に「好き」と言われて飛び出したハートは黒ひげ危機一髪だ/くらたか湖春 「好き」と言われて、どきどきする状況になって心臓のある位置からハートの記号が飛び出してきたり、あるいは口からハートが飛び出してきたり、そういう漫画的な描写というのがあって、そうしたリアリズムが現実に逆輸入されているのがまず面白い。さらに、そのハートが「黒ひげ危機一髪」であるという比喩もまた面白さを加速させる。なんとなく二人きりの情景かな、とは思うのだけど、黒ひげ危機一髪はパーティーゲームだし

          第五回毎月短歌(2023年11月)

          土岐友浩『ナムタル』

          ナムタル。聞き覚えのない言葉だ。その正体は、冒頭のエピグラフによって明かされる。「疫病をふり撒くナムタル」。これは中島敦の「文字禍」からの引用であり、アッシリア人の知る多くの精霊の中のひとつであるらしい。このナムタルは、メソポタミア神話では冥界の女王であるエレシュキガルの伝令としてもはたらいている。さらにナムタルについて語るなら、その名前はシュメール語で「運命」を意味し、擬人化した死として扱われているようだ。運命という逃れられなさそのものであるナムタルが歌集名に据えられていて

          土岐友浩『ナムタル』

          自殺はしないように気をつけるので、知り合いの方はときおり飲みに行ったりしましょう。 ありがとうございました。

          2023.08.27

          BRUTUSのホラー特集号を読んだ。フェイクドキュメンタリーQを見た。ほどよい怖さでよい。 『存在論的、郵便的』「静かな生活」などを読んだ。 死にたいね。

          2023.08.26

          16時から仕事で、午前はちょっと動いてマウスを買いに行こうかな、と思っていたのだけど低気圧と雷雨に襲われて何も手につかなかった。 仕事の休憩時間にヤマダ電機に行ってマウスは買えた。 大江健三郎の『われらの時代』を読み始めたのだけど、 という描写に感嘆する。 眠れなかったので、『現代の短歌』の佐佐木信綱のところを読んだ。 こういうとき「輝く」「広がる」というような言葉を選択し、「匂う」の意味をひとつに絞ってしまった現代ではほとんどロストテクノロジーみたいな距離感の情景

          2023.08.25

          余韻の響く楽器が好きだった。それはグロッケンシュピールであり、チャイムであり、羽を回転させたビブラフォンである。特殊奏法ではあるのだけど、ビブラフォンをコントラバスの弓で弾く、というものがある。何の曲だったのかは忘れてしまったのだけど吹奏楽の練習室でそれを聴いて、うっとりとした。このうっとり、というのは我を失いそうになった、つまり忘我に近づいた、ということである。この作用を、当時のぼくはとても不審に思った。そこからグラスハープの存在を知り、メスメルの催眠術まで興味は広がってい

          2023.08.24

          最近は夜、薬を飲んでから活動をするので変なものを変な時間に買ってしまったり、勢いで文章を書いて滅裂なことを言っていたりする。日傘は体感が3度くらい低くなるのでうれしい。『阿部岩夫詩集』を読んだ。

          2023.08.23

          財布が壊れた。正確にはチャックの引き手がスライダーから分離した。一度直したのだけど、帰ってから鞄を見てみたら完全に消失していた。手芸屋で何かを買って工作しようかな。 甲子園が終わったらしい。長野県にいた頃は甲子園やプロ野球をよく見ていた。松井秀喜とか、藤川球児とか、高橋由伸とか、智辯和歌山とか、そういうものに一喜一憂していた時期がある。何せ20時くらいに帰宅すると、確実にテレビで巨人戦が流れている。読売新聞をとっているから、たまにジャビットの描かれたバスタオルをもらう。母と