かみしの

ほんもののにせもの

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最近の記事

金沢旅行記2024.7.12

三島由紀夫は、『美しい星』で金沢を星の町と表現した。金閣寺の金と、金沢の、金箔の金がどのようにして三島由紀夫の美学を反映しているのかはわからないけれど、この小説が小旅行を後押ししてくれたのは間違いない。 これまでにぼくは、二回金沢を訪れたことがある。一回は大学生の頃、文芸部の合宿で。もう一回はその数年後に家族と。道端に投げ売りされていたのをなんとなく買った九谷焼は、今もうがいのコップとして色褪せ続けている。たまたま連休ができたので金沢へ行くことを何人かに告げると「地震は大丈

    • 短歌研究2024年5-6月号

      ものすごい量ですね、と毎回毎回思う。300歌人の歌をひととおり読んで、五首を選んでみた。 しかしながら、とちいさな傘をひろげつつあなたは星の降る都市へゆく/井上法子「逆説」 だとしてもつづけてほしい誰ひとり幸せにしない夜更けの手品/魚村晋太郎「港」 カノープス見ることももう諦めて如月は過ぐまたたける間に/大辻隆弘「ナチュレモルト」 喉にいつもお粥のような白い声 立ちどまったら泣いてしまうよ/大森静佳「梅と風刺画」 薔薇の小道 いまからこれが終わるのが楽しみで仕方ない

      • 小説アイダ

        落石八月月。 ガートルード・スタインの『小説アイダ』の翻訳者だ。ぼくはこの本を2019年に手に入れたらしいけれど、それがなぜなのか、どういう経路でこの本を知ったのかはもう忘れてしまった。おそらくレオノーラ・キャリントンの『耳ラッパ』やルネ・ドーマルの『類推の山』、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』のような、シュールレアリスム周辺の作家の小説を読んでいた時期だったのではないかと思う。ガートルード・スタイン。マティスやピカソと交流を深め、パリにサロンをひらいた芸術家たちのパトロンだ

        • 悪は存在しない

          21:45に見終えてすぐにこの文章を書きはじめている。まだ心が新鮮なうちに言葉にしておきたいと思ったからだ。 いきなり違う作品の、しかも映画ですらなく小説の話をしてしまうのだけど、ぼくは村上春樹の小説の中で「かえるくん、東京を救う」を特別なものに思っている。面白い、面白くない、というものを越えて、とても本質的な、クリティカルな短編小説だと考えている。 十年近く前に書いた記事でも同じことを書いているので、おそらくぼくはずっとこの小説に描出された事柄に、率直にいって影響を受け

        金沢旅行記2024.7.12

          あしたから出版社

          読むタイミング、というのは絶対にあって、たとえばたまたまアートに携わる友人と話した日だったから、だとか、上野の現代美術家たちの展示を見た日だったから、だとか、ナナロク社の造本展を見た日だったから、だとか、今年で三十三歳になるから、だとか、生きていることの、日々の偶然性のどこかでたまたまその本の描く曲線と交わった瞬間、本は火花を撒き散らす。 島田潤一郎の『あしたから出版社』はそういう本だった。 友人の展示が行われている高円寺、そぞろ書房の天井近くに置かれていた朝色の『夏葉社

          あしたから出版社

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          この歌を、よくTwitterで見た。見れば見るほどわからない歌だと思う。やわらかく掴んだときの感触は、野村日魚子の「しゃぼん玉なんども食べようとしてるゾンビになってもきみはきみだな」に似ている。でも、何かが決定的に違っている。何が似ているのか。それは、両者の状況がコミュニケーションの絶対的な切断を前提にしていることだ。恋人/きみは、数字しかわからなくなった/ゾンビになった。それは、共通の言葉をしゃべることができなくなった、ということだ。じゃあ何が違うんだろう。 青松さんの短

          青蟬

          何かのアンソロジーだったと思うのだけど、吉川宏志さんのこれまでの歌集から抄出された歌の並んでいるものを読んだとき、『青蟬』の歌のほとんどすべてに印をつけた。こんなによい歌ばかりの歌集があるのか、と思い早速手に取ろうと思ったら、そう簡単には手に入らなかった。2022年のことである。それから1年して砂子屋書房から新装版が出て、無事に読むことができるようになった。基本的には「新装版」という商法への懐疑心が強いのだけど、気軽に手の届く場所に再び本が現れてくれるのであれば、こんなに嬉し

          荘子の哲学

          たぶん、高校生のときだっただろう。国語の教科書に奇妙な文章が載っていた。それは、顔のない渾沌という生物がいて、その顔の部分に七つの穴を開けたら死んでしまった、という不条理極まりない文章で、ある種の幻想小説であるとも言えた。 教師からは「老荘思想の無為自然を体現した文章で、顔に穴が空けられたのは自然ではないから渾沌は死んだ」というような説明を受けた気がする。当時はまるで納得できなかったし、定番の孔子の方が説得力のあることを言っている気がしてわかりやすかった。荘子というのは、と

          荘子の哲学

          出会いはいつも八月

          いきなり話はマルケスから飛躍するのだけど、かつて京都にいたころ、友達と「ルーツ放談」というのをしたことがある。三条大橋の近く、鴨川のブヨの多い土手に座って、読んだ本はいったいどういう紆余曲折を経て自分の手に渡ったのか、ということを縦横無尽に話す企画だった。ぼくはこれがとても楽しくて、まるで大江健三郎の小説のように自らを語り直したのだった。たぶん、繰り返すうちに記憶の混同やはったりも混じったかもしれない。記録としてはひどく不確かだろう。だけど、いくつもの川を遡るとひとつの海に辿

          出会いはいつも八月

          フラニーとズーイ

          『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだことがないことと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見たことがないことは、もしかしたらパラレルの関係にあるのかもしれない。ぼくは本を読み始めたのも映画を見始めたのも遅い。だから「本物」の読書家、映画好きではまったくない。そういう自己批判がぼくをいつでも苛んでいるし、きっとこのメタなぼくは消えてくれることはない。 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に向き合わないのは、ひとつの意固地に違いない。これが『

          フラニーとズーイ

          飛ぶ男

          未完の小説をこれまでいくつくらい読んできたのだろう。太宰治の「火の鳥」「グッド・バイ」。それぞれ、太宰治の新しい一面を見ることができたであろう期待が頓挫したままになっている。芥川龍之介の「邪宗門」。人気漫画の打ち切りのように、すごい場面で未完になっている。カフカの「城」。未完であることが完成であるような、カフカの逆説そのものみたいな作品。 安部公房の「飛ぶ男」もまた、死後フロッピーディスクに残されていたのが発見された、未完の作品だ。未完のものを、しかも本人の意図しない形で発

          アフリカの日々

          ぼくがまだ実家にいたころだったから、たぶんもう十四、五年前になるのだろう。テレビでマサイ族、という民族がしきりに取り上げられていた時期がある。視力がすごい、だとか、ジャンプ力がすごい、だとか、そうした身体能力の「異常さ」が面白おかしく取り上げられていた。結局、当時のぼくにはそこから先へ進む胆力も時間もないままにマサイ族という民族は記憶の川を流れていってしまった。 イサク・ディネセンの『アフリカの日々』は、1913年にケニアに渡り珈琲農園を経営したデンマーク人イサク(本名はカ

          アフリカの日々

          2023年(あるいは、死後の世界に光る稲妻)

          【一月】 神聖かまってちゃんのNGフェスを配信で聴いて、楽曲をひとつひとつメモしていく。短歌研究からの以来に作った短歌のひとつは、このときの経験をモチーフにしている。 ・レシートの裏にセトリや猫の手や聖書を書いて 本気だからね 一月に読んだ北山あさひの『崖にて』に「カタカナで採血管に名前を書くみんなミッシェル・ガン・エレファント」という歌があった。このときはまだチバユウスケが死ぬなんて思ってもいなかった。坂本龍一が死んで、高橋幸宏が死んで、チバユウスケが死んで、andym

          2023年(あるいは、死後の世界に光る稲妻)

          第五回毎月短歌(2023年11月)

          自由詠 突然に「好き」と言われて飛び出したハートは黒ひげ危機一髪だ/くらたか湖春 「好き」と言われて、どきどきする状況になって心臓のある位置からハートの記号が飛び出してきたり、あるいは口からハートが飛び出してきたり、そういう漫画的な描写というのがあって、そうしたリアリズムが現実に逆輸入されているのがまず面白い。さらに、そのハートが「黒ひげ危機一髪」であるという比喩もまた面白さを加速させる。なんとなく二人きりの情景かな、とは思うのだけど、黒ひげ危機一髪はパーティーゲームだし

          第五回毎月短歌(2023年11月)

          土岐友浩『ナムタル』

          ナムタル。聞き覚えのない言葉だ。その正体は、冒頭のエピグラフによって明かされる。「疫病をふり撒くナムタル」。これは中島敦の「文字禍」からの引用であり、アッシリア人の知る多くの精霊の中のひとつであるらしい。このナムタルは、メソポタミア神話では冥界の女王であるエレシュキガルの伝令としてもはたらいている。さらにナムタルについて語るなら、その名前はシュメール語で「運命」を意味し、擬人化した死として扱われているようだ。運命という逃れられなさそのものであるナムタルが歌集名に据えられていて

          土岐友浩『ナムタル』

          自殺はしないように気をつけるので、知り合いの方はときおり飲みに行ったりしましょう。 ありがとうございました。