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自由の探求と実践

こんにちは。
宗教社会学の授業のため、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本を読まなくてはいけないのですが、なかなか読む気になれないまま、この記事を書いています。なので全く本の内容と違う話になっているかもしれませんが、本を読み終わったらまた別の記事を書こうと思います。

キリスト教が教えを広め、プロテスタントが聖書の教えを実践することで、資本主義経済の基盤を支える要素になったと考えると、それは田舎で育った人が都会で働くといった成長過程と共通する要素が見受けられます。なぜなら、何のために働くのか都会の暮らしで働く目的や意味を見出せなかった人々にとって、労働に対する意欲や社会貢献の重要性を強調する教義が支持をえたからです。プロテスタントの中には、勤勉さと奉仕の精神により自らの力で真の自由を見出そうとする人もいれば、救済だけを求めて働く人もいたように思います。

現代社会では、奉仕の精神や社会的な責任を重視する人々と共に、労働やお金が自由を象徴する要素だと考える人々も存在しています。このような状況の中で私たちが真の自由を得るためにどうすればよいのか考えてみたいと思います。

都市の発展と法制度整備の必要性

都市の発展とプロテスタントの教義は、法制度の整備を促す要因になったと考えることができます。キリスト教が村や地方に広まったのに対し、プロテスタントは教えを都市のライフスタイルに適応させ、それを実践することでその影響力を拡大しました。それによって、キリスト教がヨーロッパからアメリカに広がり、新たな社会的・経済的な実践が生まれました。

しかしプロテスタントの宗教改革は、カトリック教会の権威に対する反発や異なる信仰の自由の主張を含んでいました。これにより、異なる宗教的信念や教義の共存を図るための法的な枠組みが必要とされました。宗教的多様性を尊重し、個人の信仰の自由を保護するためには、法制度が整えられる必要がありました。

また都市の発展は、人口の集中や産業の発展に伴い、社会の複雑さが増しました。人々が密集して生活する都市では、異なる利益や価値観が衝突することがよくあります。これにより、紛争や問題の解決方法の必要性が生じます。法制度は、社会の秩序を維持し、紛争を解決し、公正な取引や行動の基準を提供するための枠組みです。都市が発展するにつれて、法制度の整備は不可欠な要素であったのだと思います。

アブラハムの試練とキリスト教の変遷

プロテスタンティズムによってキリスト教徒は実際に「アブラハムの試練」(創世記22章)を経験する機会を与えられたように思います。誰が神に忠誠であるのか、教会の代わりに人を裁く必要がありました。そこで人間を法律という合法的な支配関係に置くことで、無限にあった人間の真理は一定の枠組みの中に限定されたように思います。これは神による天国と地獄の振り分けが可能になったと捉えることもできます。

このようにキリストの教えは、キリスト教からプロテスタントそして法へと名前を変えながら時代に適応していったように感じられます。法制度が整ったことにより、キリスト教会は信仰の場としての役割を果たす一方、貧困者や弱者の救済、教育、医療などの活動に取り組むようになり、本来あるべき場所に戻ることができたように思います。

個人の自己開放と真の自由の追求

私たちは法の下で生活していますが、個人の自由の制約や不自由に対する経験が、自由の本質を認識する要素になってしまっているように感じます。つまり、真の自由を自ら見つけ出すための手段や方法が欠けており、不自由の反対が単純に自由だとされる傾向が社会に根付いているように思われます。このシステムの中で生きる私たちは、聖書との対話を経ずに神とは何かを教えられている信者のようです。

教会の権限が制約された社会においては、真の自由を追求するために個人が学びを通じて自己を開放することが重要です。

勤勉さとお金と罰せられないことで自由を得ようとする私たちは、1冊の聖書から真理を得るのではなく、メディアやネットから何千万という異なる意見や価値観を与えられ、そこから独学により自己の真理を追求することを求められています。

そのような環境の中で、私たちはバーチャルな社会と自分自身と結びつけることで、実社会とのつながりを保っているようなところがあります。スクラップブックのように好きなものを集めることによって、心は無意識のうちに異なる思想が入り混じる世界から離れ、自分が居場所を見つけようとしているのではないでしょうか。

勤勉さやお金を得ることによって社会と繋がる意義について疑問を持つことは全く不思議ではありません。現代人の中には、メタバース内で生活したいと感じる人も多くいると思います。なぜかというと、私たちは信頼や安心感を求めて、仮想社会の中で村や家族のような絆を探し求めているからです。しかし、それによって得られる情報やつながりは、実社会の多様性や実体験に基づく学びとは異なるものであることを認識する必要があります。

昨年の夏、私はフランスのロマネスク教会巡りをしました。小さくて素朴な石の教会の中で、教えに熱心に耳をかたむける人々のことを想像してみました。この石の上に私たち人間は煌びやかなものを被せ、力と権力のゴシック様式の教会を作り上げていったのです。それを考えた時、社会がどのように変化しようとも私たちの心はここに留まるべきなのではないかと感じたのです。コミュニティや自給自足の生活、信頼感・連帯感・助け合い・自然といった、お金では買えないものに触れて、もしかしたら中世の社会の中に幸せのヒントが隠されているかもしれないなと考えました。そこには、現代人が求めている「真の自由」を得るための学びの場が存在しているように思えたのです。