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日本の諸問題は、「受験」「年功序列」「終身雇用」による「やったふり」文化が諸悪の根源だ。

コロナ禍で日本社会のこれまであまり明らかになってなかったというか、どこかみんな目を背けようとしてきた問題が表に噴出してしまったと思います。総じて、コロナ対策でもなんでも、どこかうまくいっていない、またどういうわけか、別の国と比べると遅れてしまっている、

それも米国とか英国といった「先進国」と比べてならまだわかりますが、開発途上国と思っていた国々と比べても明らかに遅れてしまっているということに対して、多くの人が、ある種の「違和感」を持っているんじゃないかと思います。

しかし、その「違和感」の正体、いったい日本のどこが問題なのか、いろんなことが言われてますが、これだというものはありません。私もそれは持っていないのですが、今日は少し、現時点で私が思うところを「覚書」してみたいと思います。

長年、日本社会の様々な課題に取り組んできて、いったいそのどこに本質的な問題あるのか突き詰めていくと、結局、あることに行きつきます。それは、「年功序列」「終身雇用」の「日本型雇用システム」です。

もちろん、「日本型雇用システム」の問題は、現在さまざまに指摘されています。その主なものは、「労働の流動性」を阻害し、産業の競争力を低下させるとか、正社員とその他の格差を固定化し、拡大させるとか、年功序列による若手のモティベーション低下とか、いろいろ言われています。しかし、より本質的な問題があるように思います、

それは、「肩書オンリー社会」「誰も成果を出さない社会」を作ってしまっていることじゃないでしょうか。

まだ、思い付きレベルですので、もっといい言葉があれば教えてほしいと思います。これは、会社などに雇用され社会人となった後だけでなく、その前の「受験」「就職活動」も含めて出来上がっているものだと思います。

「中学受験」「高校受験」「大学受験」を通じて1つ重要だと思われることは、「塾」という学校の外部にあるところで学ばなければ、合格という結果を得るのが難しいシステムになってしまっているということです。言い換えれば、学校で勉強するだけでは、いい学校に入れない。受験に出てくる問題が、学校で学ぶだけでは解けないものだともいえます。

だから、親は子どもに塾に通わせる。ただし、学校でやらないことを学ぶので、子どもには「塾に通っていること、塾で習っていることを学校でしゃべるな」と厳命する親が多い。一方、学校での学びは、塾より遅れているため、本気でやらず「やったふり」となる。運動会、学芸会などの行事は、受験勉強の妨げになるため、「本気でやるな、やったふりしろ」と親は言う。だけど、行事の本番では思い出作りに親はスマホのシャッターを切り、ビデオを撮影するのです。

この「周りには黙っていろ、やったふりしろ」という親からの教えは、ものすごく影響があるように思います。「出る杭は打たれる」のを避けて、黙って静かに時が過ぎるのを待つ、というのは、日本社会全体にみられることですから。

私は、大学の教員で、子育てもしてますので、この学校の影響はすごく大きいと感じるんですよね。「正直にふるまわず、隠す」ということを、子どもに教えることの影響は軽視できないのです。

それと、「学校では行事をやったふり」していることは、言い換えると、学校というところが「次のステップのためにいる場所」でしかなくなっている。これが深刻ですね。小学校は中学校のためのステップ。中学校は高校のためのステップ。高校は大学のためのステップです。

これは、受験だけじゃありませんね。大学だって、就職のためのステップ。あくまでこれは「文系」の話と断ってはおきますが、大学入学という「学歴」を得たら、あとは、1回生から就職活動の準備です。

私らが学生だった頃と違うなと痛感するのは、今の学生さんは、ゼミも、サークル活動も、ボランティアみたいな課外活動も、短期留学なども、すべて就活のためにやっているということです。言い換えれば、履歴書に書くためにやっているのです。

だから、すべてかじったような中途半端な感じになる。ゼミやサークルでは「副リーダー」。サークルは4年間それに没頭するというより、就活に有利なサークルに籍を置き、深くかかわらない。就活の時期になるとあっさりやめる。留学は1か月、3か月の「やったふり留学」。それでは、語学も外国の文化の理解などできないことは、当然です。

私らの頃は、大学時代はなにか1つのことに没頭しようとしたものでした。大学受験までは、知識の記憶と穴埋め問題ばっかりやっていたから、大学では、それから解放されて、社会に出るための人間性を磨く。そのために、なにか1つのことに没頭する。就職活動でも、企業は今と違って、大学時代になにを一生懸命極まるまでやったかアピールすることを求めました(いや、実は今でもそれは変わっていません。企業は、1つのことを極めた個性的な学生がまずほしい。ただ、なんでしょうねえ。全員そうはいかないところに、就活がきびしくなったものですから、就活のコンサルみたいなのがゼミ、サークル、ボランティア、留学、インターン、とマニュアル的に履歴書に書くように教えていて、多くの学生がそれを信じてるんでしょうねえ。そういうの信じれば信じるほど、個性が消えてその他大勢になるんですが)。

要するに、小学校から大学まで、学校というところは、次の準備をするためにいる場所。でも、準備は学校の外の塾・予備校でやり、学校でやるべきことは準備の邪魔にならないように「やったふり」程度にする。ゼミ長・サークル長など、面倒なことはできるだけせず、静かに目立たないようにしている。

就活では、なんだかんだ言って、「年功序列」「終身雇用」の会社を大多数の学生が目指してます。そりゃ、起業とか外資とか流行ってますけど、そんな生き方できるのは一握りです。

「年功序列」「終身雇用」の「正社員」のステータスを得たら、そこでも静かに「やったふり」が続きます。

ずっと同じ会社に勤めること、勤め続ければ同期と横並びで出世していくシステムです。また、さまざまな部署をローテーションしてさまざまな業務を数年ずつ経験しながら、キャリアアップしていきます。

このシステムでは、特別な業績があったとしても、出世は横並びにしかならない。一方、問題が起きて、出世が同期から遅れることがより問題となります。「年功序列」で横並びに出世というのは、一度そこから外れると、もう元には戻れないことを意味していますから。

そうすると、自分が担当しているときに、その部署に問題が起きず、無難に過ぎていき、次の担当部署に移れることが大事になります。問題が起きても、それをできるだけ明らかにせず、担当している2-3年間黙って耐えて、問題解決は後任に任そうとすることになる。いわゆる「先送り」をすることになる。

人事も、問題を起こさず、周囲とも調和してやっていける人を「徳のある人」として評価します。

逆にいえば、問題を見つけて、自分の代でまじめに解決しようとする人は、煙たがられる。問題解決はいいことばかりではありません。「先送り」を続けてきた先人にとって都合が悪いことがある。組織の内外に、損をする人が出てくるからです。

このように、学校の時から社会に出て企業など組織に入り、無事に定年退職まで勤め上げる間、次のポジションに移ることを考えて、今いる場所で確たる成果を挙げようとはしない。静かに無難に「やったふり」を続けることになります(隠れて、次のポジションにいくための準備はしたりしますがね)。これが、「日本社会」ですね。

重要なことは、これが日本以外の社会とはまったく違うということです。まず、「年功序列」「終身雇用」は基本的にない。それは、欧米だけではないです。うちの大学院の留学生にはアジアの公務員が多いですが、彼らは「年功序列」「終身雇用」はないといいます。公務員の資格はありますが、その資格を持って、さまざまな役所を渡り歩きながらキャリアアップするのです。

「年功序列」「終身雇用」がないとは、具体的にどんな組織なのか。キャリアアップをしようとするとき、別の組織の公募に応募する。社長でさえ「公募」で、外部から人材を募ることはよく知られています。日本でいう「プロ経営者」みたいなものです。部長や課長なども、公募で決まります。

内部昇格がないわけではないけど、その場合でさえ、外部の人事を募る「公募」を必ず行い、外部から応募してきた人材と比較して、最適な人材と審査されたときのみ、内部昇格が行われるということです。

要するに、役職に合う人を組織の外部にも幅広く募って、最適な「専門家」を起用するのが、外国の組織です。

これを、「人材」の立場からみれば、出世するには、組織の中で、しずかに「やったふり」しているわけにはいきません。常に、勝ち取ったポジションで専門性を発揮して、「結果」を出さなければなりません。結果を出せば、それを「業績」として履歴書に載せて、次のポジションを求めて、別の組織の公募に応募する。その繰り返しです。

学生時代までさかのぼれば、米国や英国などの入試とは、一発勝負のペーパーテストではありません。基礎学力を問う共通試験のようなものはありますが、それをクリアすれば、あとは書類選考。学生時代に何に取り組んだか。学業だけでなく、部活やボランティアなど幅広い活動から人間性を審査されます。推薦状も必要です。

日本のように、学校では「やったふり」、塾で受験テクニックを覚えるみたいなのとは、対極にあります。

これも、富裕層が圧倒的に有利など、いろいろ問題はあります。ただ、1つ言えることは、外国では、子どものころから生涯、自分がいる場所で、「結果」を出し続けることが求められるということです。

日本と欧米の組織を、官僚組織を事例に説明してみましょう。日本でよく問題となることに「縦割り行政」があります。これは、なぜ生じるのでしょうか。

日本では、キャリア官僚は省庁で新卒一括で採用されて、基本的に退官するまでずっと同じ省庁に勤めます。年功序列、終身雇用ですね。省庁内でさまざまな部署を3年くらいでローテーションしていくので、ジェネラリストになり、課長、部長と組織の経営者として育っていきます。

省庁内で立案される「政策」は、省庁で可能な範囲内で立案されることになります。今ある組織を前提に、それを超える政策は作られることはないし、他の省庁との協力も基本的に嫌がります。

なにより、ローテーションですので、ここでも「やったふり」して静かに時が過ぎるのを待つ、という日本の特徴が存分に発揮されることになります。

端的な事例を挙げます。待機児童問題の解決策としての「幼保一体化」問題です。

主に都市部に生じている保育園の待機児童問題。共働きの増加で保育園に子どもを預けたい家庭が増えて、保育園が満杯となり、待機児童が増える一方で、専業主婦が減少し、幼稚園が空いている。当然、幼稚園に子どもを預かってもらいたいところだが、それができないということです。

保育園は厚生労働省の管轄で、児童福祉法を根拠として、幼稚園は文部科学省の管轄で、学校教育法を根拠として、設置されています。保育士と幼稚園の先生は、資格が違います。保育士は幼稚園に勤務できないし、幼稚園の先生は保育園で勤務できません。

保育園には、昼寝の時間がありますが、幼稚園にはありません。一方、幼稚園では読み書きと簡単な計算を学ぶ時間がありますが、保育園にはありません(近ごろは、保育園でも教えるようになり、違いはあいまいになっていますが)。

なにより大きな違いは、幼稚園は午後3時ごろに終わり、親が子どもを迎えに行かないといけませんが、保育園は最長午後8時くらいまで子どもを預かります。だから、共働き家庭は、保育園にしか子どもを預けることができず、保育園が満員となり、待機児童問題が起きる。

政府は、保育園と幼稚園の両方の機能を持つ「認定こども園」を作り、幼稚園に転換を求めましたが、多くの幼稚園は難色を示し、転換は進みませんでした。また、文科省も厚労省も、それぞれ幼稚園と保育園の重要性を訴えるばかりで、お互い妥協も調整もしない。結局、多くの地域で待機児童問題は解決しないままです。

典型的すぎる「縦割り行政」の弊害です。社会の現実に即したよりよき「政策」の実現よりも、各省庁の感覚を守ることが優先されたわけです。

外国では、組織よりも「政策」が優先されています。既存の省庁で対応できない問題は、新しい役所を設置して、専門的な人材を集めて政策立案をするのです。

例えば、英国は2016年に「EU離脱」を決定しました。その時、テリーザ・メイが首相に就任しましたが、その直後、「EU離脱省」という新たな役所を設置して、EUとの離脱交渉に臨むことにしました。

EU離脱に関するさまざまな問題を、省庁別に個別に交渉するのではなく、新しい役所に集約し、そこに専門家を集めて対応したのです。

既存の省庁の枠組みにこだわることなく、新たな政策課題に対応するための体制をとったということです。

これができるのは、何度でも強調しますが、年功序列、終身雇用がないからですよ。既存の組織の存続にこだわらなくてもいいし、その都度専門家を集められるからです。

なによりも、新しい組織に集められた専門家は、そこで「成果」を出すことに集中します。その成果を引っ提げて、次の組織でより高いポジションを得なければなりませんから。日本のような、問題先送りも、やったふりも、「忖度」もありえません。

現在の、コロナ禍で起きている状況も同じではないでしょうか。日本社会がデジタル化、IT化で世界に大きく遅れていることが明らかになりました。IT化は20年以上前から言われてましたよ。当時、森喜朗首相が「IT革命」を「イット革命」と言って、嘲笑されたなんて事件がありましたからね。

でも、結局遅々として進まなかった。20年たって、まだ「デジタル庁」を設置しましたなんて、自民党は胸を張っているありさまです。

これは、省庁でも民間企業、そして政界でも、「先送り」「やったふり」が続いた結果であることは間違いありません。

そして、コロナ対策です。専門家会議が前面に出ていますが、基本的にはコロナ対策を動かしているのは厚労省です。専門家が集まる審議会というのは、省庁が決めた政策に「お墨付き」を与える存在でした。だから、現在世界の最先端の研究に取り組む若手ではなく、かつて業績があったが、すでに第一線から引退状態の重鎮が「権威」として呼ばれるわけです。「権威がお墨付きをしたから、その政策は正しいという「正当性」を省庁が得るためです。

コロナ対策の専門家も、基本的に最先端の若手ではなく、「権威」が呼ばれました。だから、コロナという新しい病気のことはわからないのです。はっきりいえば、専門家ではない。

専門家側も、最初呼ばれたときは、いつもの通り、厚労省が決めた政策に「お墨付き」を与えればいいと思っていたようです。しかし、コロナ対応は、どうも自分でやらなきゃいけないとわかって慌てたという話がメディアに載ってました。

コロナ対策は、「やったふり」「先送り」「縦割り」「組織防衛」がてんこ盛りのような醜態をさらすことになりました。

まず、ワクチンの入手・接種の遅れ。専門家は、世界のワクチン開発の状況を把握できず、「ワクチンの開発は早くて5年くらいかかる」という、かつての常識に固執し、結果、日本のワクチン入手は諸外国と比べて大幅に遅れました。また、国内の厚労省・感染研・製薬会社のワクチン利権を守ることが、ワクチン入手の障害になったという指摘もあります。

次に、何度も「緊急事態宣言」の発令を繰り返すことになった「医療体制崩壊の危機」です。日本が世界一の病床数を誇りながら、何度もコロナ用の病床が足りなくなる医療崩壊の危機に陥ったのはなぜでしょうか。私立の病院が多いのはわかりますが、それでも病床を確保するための議論は、専門家会議でほとんどなされませんでした。

なぜ、医療体制の確保が議論されなかったのか。専門家会議には感染症の専門家しかいなかったからです。でも、彼らは感染症の予防・治療が専門でも、医療体制の確保は専門ではありません。病床の確保は、他の疾病、糖尿病、心臓病、癌、脳卒中等の病床を分けてもらうしかない。でも、それらの専門家は会議にいないのですから、病床の確保の議論ができるわけがなかったのです。

そもそも、新型コロナを指定感染症2類相当に指定してしまったために、感染者を入院・隔離させねばならなくなったことが問題です。

これらは、厚労省が、結核対策を基にした従来の感染症対策に固執したことが原因です。また、病床確保など、日本の医療全体で対策を立てるべきところ、感染症の専門家のみ「縦割り」で議論を続けたためです。

さらにいえば、厚労省がとりあえず「やったふり」「先送り」してコロナが過ぎ去るのを待とうとしたことが問題です。そのため、「縦割り」「既得権」に手を付けることになる医療体制の確保を先送りし、ひたすら国民に行動制限を求める対策に終始したのです。

長くなってしまいました。結局、受験と、年功序列・終身雇用の日本型雇用システムがもたらす、自分が担当する場で成果を出さずに「やったふり」して静かに問題が過ぎ去り、出世するのを待つことが、さまざまな問題を深刻化してきたのだと思います。






















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