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『畔倉重四郎』を聴いて

  講談や落語を聴くのがこんなにたのしいことだったなんて、私は今までなにをやっていたんだろう。けど、ずっと興味がありつつも、入り口がよくわからなかった。

  もしかすると猫のように、人を選んですきになるのがコツなんじゃないかと思い、じゃあまずはテレビでよく見る鶴瓶さんをと落語会へ行ってみた。声は知ってる声なのに、鶴瓶さんはそこには居ないようで、変な感じ。以降、Apple MusicやCDであれこれ聴き比べてみている。人の努力の技に魅せられるのはたのしい。

  神田伯山の講談『畔倉重四郎』は、話し手の巧みさに加え、稀代の悪人・畔倉の徹底振り、翻弄される周りの人々の執念、そんな人間臭さを何重にも塗り重ねて進む。全19席もある長いお話が、公式YouTubeで毎日一席ずつ公開されたのだ。私が何度も見返したのは6席目の「栗橋の焼き場殺し」。目の前の命を自らの手で殺めるだけに留まらず実体さえも消してしまう畔倉が、そのあっけなさと向き合う場面には、不思議と恐ろしさはなく、哀れさと言うのんか、あぁそういうひともいるんだなぁとひとつの出会いをしたような感覚がした。7席目の動画を開いたとき、そこに畔倉が座っていると思い込んでいた私は、張り扇を持つ伯山が座っているのに驚いて「そうだった」と我に返った。これが講談なのか。

  昔の人はこんなふうに寄席や講釈場に連日通ったのかしら。そこに、舞台に、人が居ると思うと、こちらの気持ちや集中も100%で向かいたいと気合が入る。最近は『絶滅危惧職、講談師を生きる』を読んで、寄席に足を運ぶ日に備えている。いつまでも「稽古」を続ける人生って、どんな感じなんだろう?

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