個人同伴による祈りの集い‥2023年5月?

教会には行かなくなったけど、やはり指針てものが必要と思うからして、聖書を時々読んでいる。参考書として田川建三の「訳と註」を読む。
そして、他人と一緒に聖書を読みたいので相手を探す。
‥が!、それが私の場合は極度に難しい。考えが合わないので。

なので「個人同伴による祈りの集い」に参加する訳だ。
前回は確か5月だったと思う。
自分としては、参加して本当に良かったと喜びながら帰った。

10人前後の参加者が集まって、午前午後とそれぞれが黙って心の中で祈りながら過ごし、そして午前と午後に30分ずつ「同伴者」と1対1で面接する。
その日の同伴者は、神父、シスター、または研修を受けた信徒を、集いの始めに割り当ててくれる。

その日、示された箇所は、私は葡萄の木、あなたがたはその枝である‥というヨハネ15章1-8節だった。

私の嫌いな箇所だった‥どうせ、枝が木から離れたら枯れるように、あなたがたも教会から離れたらやっていけないよ、教会の言う事を聞いて支配下にとどまりなさいよって、そう云う事でしょ⁉️って思っていたので。

参加申し込みのときに、「教義に寛容な同伴者を希望」と書いていたのが良かったのか、別に教会にちゃんと通えとかそういう意味ではないですよと同伴者に言って貰ったのだった。
では私たちは葡萄の木とは何の意味かって、人類は皆兄弟とか、宇宙船地球号とか、要するに地球上に生きる者皆が運命共同体なのだから助け合いましょう的な。
人間の生活はみな繋がってるよ、一人では生きられないよって。
それなら納得だ、当たり前だ。

地面の至るところアスファルトで覆い、高い建物を作って気温を上げて、皆が迷惑するとか。
死の商人と死の商人が激突して、世界の一角で戦争が起こると農産物が高騰して、全世界的に困るとか。
そういうことか‥?
んまぁ個人の努力でどうなるものでもないが、私たちは葡萄の木を教会の一員と解釈しない同伴者だっただけで、充分嬉しかった。

その他にも、救い主イエズスを、歴史上に生きていたイエズスと同一として信じなければならない‥ということはないと。
もちろん同伴者はそう信じてるんだと思うけど、別にこだわらなくてもいいのでは?と。
へぇぇ、あなたは拘らないのですか、教会に通いながら拘らない人って普通にいるんだと思って、それも嬉しかった‥だからって教会に行きたいかと訊かれると困るけど、通ってる人が全く自分と考えの合わない人とは限らないと分かったのは大きかった。

あと‥正直なところ私にはちょっと‥なものもあった。
昼食をとりながら舌や何かで食物を味わうことに専念しなさい、それによって神を感じとりなさい、みたいな‥食べる瞑想というらしい。
思考ばかり働かせるのでなく、5感を使って神を感じなさい、みたいな。

勘弁さんである。
生理的に嫌だってのもある。
そして人間は同時にいろいろ出来ないので、思考以外に意識を向けると、そのとき思考はあんまり出来ない‥思考ばかり働かすなというんだから、当然だけど。
教会の権力者たちが、信徒が余計な事を考えて自分たちを批判したりしないように企んでるのじゃないかとさえ思う。

まぁそこまで考えなくとも、やっぱ宗教だから自己催眠だとか意識変容だとか、そういうのに近いことを狙ってるのかと。
そういうのが好きな人を釣るってことかも知れないし。

あー悪態になってきたので、ここらで感想終わり。
‥集いの説明も、同伴者の言った内容も、私がそういうように受けとりましたってことなので、悪しからず。

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