新約聖書の読み方‥書き手はいったい何を言いたいのか

身近にいるプロテスタントを時々問いつめてみる。
キリスト教の中心的な教えは何かって。

イエズスが全人類の罪を背負って身代わりとして死んだから、全ての人が赦されている?
じゃあ何で更に悔改めをしろと言われるのか?
日々新たにそんな重い罪を犯しているのか?

聞いても、牧師先生じゃないから知らないよ、自分で聞いてみればって返ってくる。
教会には行かないから牧師や神父に知り合いはいない。
本を読んでも納得できる事は書いてない。

そうすると自分で聖書を読むしかないか、となる。
読めるときに少しずつ読んでいる。
余裕があったら田川建三の本を参照する‥とても参考になるのだけど、何せ学者の本だから読みやすさより厳密さを優先してあって、まどろっこしい。疲れてると読めない。
機会があれば、知り合いと意見交換する‥顰蹙をかうことが殆どなので、場所を選ぶ必要があって、なかなか見つからない。

で、今の自分の大〜ざっぱな理解:

マルコの書いたイエズスは、病の人を癒してまわり、エルサレム神殿の祭司や律法学者と対決し、彼らに十字架刑にされてしまって終わり。
そりゃいつの時代でも、どこの世界も、弱肉強食だ。ユダヤ教でなくても税金やらお布施・献金やら、一般人は強い者からガッポリ取られる仕組みになっている。イエズスみたいに対決してくれる人は、そうそういない。
科学が進んだからといって、大半の病気が治る訳でもないし、病気に伴う偏見が無くなった訳でもない。ホントに治したのかは別として、イエズスのように癒しに来てくれれば有難い。

マルコはイエズスが生涯にやったこういう事を書きたかったので、どの血筋の誰のもとに生まれようとどうでもいいから、書いてない。
そして田川建三によると、十字架にかけられて後の話は、後で他の人が書き加えたらしい。イエズスが復活しただの、天に上げられただのって戯言はマルコには興味なかろうから。
マルコの書いた事には、納得できる。
ただ、そういう話を読んで、だから何なの?って考える必要があるけれども。

マタイ(たち)は、やっぱり田川建三の書いている通り、旧約聖書の引用がやたらと多くて、旧約聖書に書かれた事がイエズスにおいて実現したよ、だからイエズスは神のひとり子にして最大最終的な預言者だよと言いたいのだと、素直に納得できる。
ユダヤ教徒でキリストに従った人たちに、イエズスは旧約聖書に示された正当な存在だと言いたかったのだと。
だから、というかその引き替えとして、田川建三の言うように、エルサレム神殿の祭司や律法学者への批判に力を入れたという、マルコで描かれたイエズス像は完全に影を潜めている。
じゃーマタイは何をいうために聖書を書いたのか? よく分からないけど、弱肉強食の社会を批判するのでなく、力を持っていていっぱい悪い事をした人も、そうでない人も、それぞれに悔改めなさい、と? んー納得できない、何じゃそれ。

ルカは‥まだ読み始めたばかりなのだけれども、田川建三によると、マルコ(に加えて、マタイ)の内容が大いに不満で、冒頭から、これまで伝わっている事について正しい内容を知ることが出来るように自分が書き直したと言っている。
ルカが、事実をどう捻じ曲げたのか、これから読んでいくのが楽しみだ。

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