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魔女

※小説現代に掲載された「悪魔と呼ばれた男」のスピンオフショートストーリー。
※「悪魔と呼ばれた男」のネタバレを含みます。

1

 天海は、ノックしてからドアを開けた。
 白い壁に囲まれた部屋の中央に、阿久津は座っていた。
 窓のある方に顔を向け、差し込む光に目を細めるその姿は、とても穏やかな空気に包まれている。
「ご無沙汰しています」
 天海が声をかけると、阿久津がゆっくりとこちらに顔を向けた。
「久しぶりですね」
 阿久津が笑みを浮かべる。
 天海は、一瞬だけ表情を緩めて頷き返してから、阿久津の向かいにある椅子に座った。
「だいぶ無理をしていますね」
 阿久津は、まじまじと天海の顔を見ながら言う。
「え?」
「隠しても分かります。とても悲しいことがあったのですね──」
 阿久津の言う通りだった。
「触れてもいないのに、よく分かりましたね」
「触れるまでもなく、あなたのことなら分かります」
 警察官としての仮面を被り、心の底にある本心を隠していたつもりだったが、阿久津の前ではあまり意味がなかったようだ。
 天海が隠すのが下手なのか、或いは、阿久津の洞察力が優れているのか。後者であると思いたい。
「お察しの通り、色々とありました……」
 天海は揺れる気持ちを抑えこむようにして答えた。
 本当であれば、このまま阿久津の胸に飛び込みたいが、それは許されない行為だ。
「事件に関係することですね」
 天海が「はい」と頷く。
 阿久津は、かつて刑事だった。捜査一課で検挙率ナンバー1を誇り、〈予言者〉と噂されるほどの人物だった。
 それは、並外れた洞察力と推理能力によるところが大きいが、それ以外にも、阿久津には特異な能力が備わっていた。
 触れることで、そこに残留する記憶を感知することができるのだ。
 映像のように、視覚として認識するのはもちろん、聴覚、嗅覚、味覚、触覚とあらゆる感覚を感じ取ってしまう。
 感知というより、追体験といった方がいいのだろう。
 阿久津は、その能力を活かし、様々な事件を解決してきたが、中には、阿久津の能力をもってしても、解決できない事件も存在した。
 金や権力を使い、証拠を隠滅し、或いは他人に濡れ衣を着せ、法の目から逃れた連中だ。阿久津は罪に問われない者たちに、自らが悪魔となり、裁きを与えたのだ。
 逮捕されたあと、阿久津は真実を話した。
 だが、それは受け容れられなかった。誰も、他人の記憶を感知するという彼の能力を信じなかったのだ。
 精神疾患による妄言だという診断を受け、阿久津は閉鎖病棟に入院させられることになった。
 おそらく、この先、阿久津が病院を出ることはないだろう。
 だが、天海とその上司である大黒は阿久津の能力を信じた。間近で、彼の言動を見ていれば、それが精神疾患からくる妄言でないことは、明らかだった。
 こうして、天海が阿久津の許を訪れるのは、その能力を使って、捜査に行き詰まった事件への助言を求める為だ。
「どんな事件ですか?」
 阿久津が先を促す。
 すぐに答えればいいのに、いざとなると躊躇いが生まれる。それは、きっと真実を知るのが恐いからだろう。
 それでも、一縷の望みを持ってここに足を運んだのだ。
「実は、ある行方不明事件について、阿久津さんの意見を伺いたいと思っています」
「行方不明事件ですか──」
「はい。柳井彩菜という女性が、一週間前に勤務先の会社を出てから、行方が分からず、今に至るも消息が摑めていません」
 天海は、持参した彩菜の写真を阿久津に渡す。
 阿久津は、しばらく写真を見つめたあと、改めて天海に視線を向ける。
「事件性はあるのですか?」
「今のところ、そうした証拠は見つかっていません。警察としては、行方不明者届を受理しましたが、これといった捜査は行われないでしょう」
 年間の行方不明者の数は、実に八万人にも及ぶ。その全てを捜索できるほどの余裕は、警察にはない。
 行方不明者の捜索は、よほど確かな証拠がない限り、なおざりになってしまうのが現状だ。
「しかし、天海さんは、事件性の高い案件だと考えているのですね」
「はい」
「その根拠は何ですか?」
「彩菜さんは、高校時代の友人に、近く結婚すると打ち明けていました。その友人と、後日会食をする予定にもなっていたそうです」
「そんな女性が、突然、失踪するはずがない──と」
「ええ。でも、一応、周辺の聞き込みをしたのですが、他の人からは、彩菜さんに恋人がいたという証言は得られませんでした」
「確かに、それは妙ですね。しかし、高校時代の友人にだけ、噓を吐いていたかもしれません。見栄を張って、そうした噓を吐くということは、充分に起こり得ることです」
 ──彩菜は、そんな噓は吐きません。
 天海は、言いかけた言葉を吞み込んだ。それは、天海の希望的観測に過ぎない。人は、誰しも表に出さない別の一面を持っている。
「そうかもしれませんが、引っかかることは確かです」
「理由は、本当にそれだけですか?」
「どういう意味ですか?」
「今の話は、あくまで状況証拠に過ぎず、事件性が高いと断定するに至らない。天海さんが、その事件に引っかかりを覚えるのには、何か別の理由があるのではありませんか?」
「別の理由……」
 惚けてみたが、意味がないだろう。
 きっと阿久津は、天海の考えを見透かしている。事件のことを話す前から、天海の心の揺れ動きを察していたのだ。
「例えば、天海さんが、彩菜さんの直接の友人だった──とか」
 やはり完全にバレている。
「仰る通りです。彩菜から、結婚する話を聞いていましたし、お祝いの食事に行く約束もしていました」
 天海は、観念して認めた。
 彩菜は高校のクラスメイトだった。入学したとき、席が隣だったことをきっかけに、仲良くなった。
 彩菜は、大人数ではしゃぐタイプではなかった。どちらかといえば、大人しく、カラオケに行くより、図書館にいることを好んだ。
 物静かではあるが、暗いわけではない。彼女と一緒にいると、言葉が無くても癒やされる。そんな女性だった。
 天海が警察に入ってからは、直接会う機会がめっきり減ったものの、それでも連絡は取り合っていた。
「そうでしたか……」
「隠すつもりはありませんでした。でも、捜査に私情を挟むべきではないと……」
 天海が言うと、阿久津が口許を押さえて小さく笑った。
「何がおかしいのですか?」
「失礼しました。先ほど、天海さんは私情を挟むべきではないとおっしゃいました」
「はい」
 その思いがあったからこそ、ここに足を運ぶことを迷った。友人の捜索に、阿久津の能力を利用していいのか──という迷いだ。
「言っておきますが、私は私情で動いています」
「それは、どういう……」
「私は、これまで警察の捜査に協力したつもりはありません。天海さんの手助けをしたいと思ったから協力しただけです」
 ここが防犯カメラで監視されている、面会室でなければ、阿久津の胸に顔を埋めて泣いているところだ。
 天海は、「ありがとうございます」と表情を硬くしながら答えた。
 ──本当にもどかしい。
「但し、私が感知できるのは、あくまで記憶だということはご理解下さい。もしかしたら、お役に立てないかもしれません」
 阿久津が念押しするように言った。
 それは、充分に理解している。ここで、彩菜の私物を渡し、阿久津にその記憶を感知してもらったからといって、居場所がたちどころに分かるわけではない。
 記憶は、あくまで過去のものだ。
 失踪する前の彩菜の情報を得られるだけだ。だが、それでも捜索する手掛かりになるかもしれない。
「分かっています」
 天海は、ハンカチにくるんだネックレスを取り出した。
 彩菜の失踪後、彼女の部屋に置いてあった物を、家族の許可を得て持参した。
 阿久津はネックレスを手に取ろうとしたが、途中で止め、まじまじと天海の顔を見つめた。
「もう一つ」
「何でしょう?」
「私が触れることで、天海さんの望まぬ記憶を感知することになるかもしれません。それでも、構いませんか?」
 躊躇いがないと言ったら噓になる。
 最悪の事態を報されるくらいなら、知らずにいた方がいいという考え方もある。だが、それでも──。
「教えて下さい」
「分かりました」
 阿久津は、ネックレスを手に取ると、静かに目を閉じた。
 時間にして、ほんの数秒だったはずだ。だが、天海には、酷く長い時間であるように感じられた。
 やがて、阿久津がゆっくりと目を開けた。
 天海は黙って阿久津の言葉を待つ。
「天海さんの言う通り、彼女には結婚を約束した恋人がいました。このネックレスは、その人物から貰ったものです」
 やはり、彩菜に恋人がいた。その人物が、失踪に関与していることは間違いないだろう。
「どんな人物ですか?」
「おそらく、既婚者ですね。外してはいましたが、左の薬指に指輪がしてあります」
「他に分かったことはありますか?」
「同じ会社に勤務している男性です。年齢は三十代後半くらい。瘦せ形で、眉の上に黒子があります」
 そこまで絞り込めていれば、その人物を見つけ出すことは可能だ。
 それに、失踪の原因が朧気ながら見えてきた。
 彩菜の恋人が既婚者で、しかも、彼女の失踪後、そのことを名乗り出なかったことを考えれば、自ずと答えが見えてくる。
 不倫の関係の清算で揉めた結果、その恋人が彩菜を殺害し、その死体を隠したのだろう。
 最悪の結末に、胸が締め付けられる思いだった。
「天海さんの推理は、多分、外れています」
 阿久津が、天海にネックレスを返却しながら言う。
「触れてもいないのに、私の推理が分かるんですか?」
「言ったでしょ。あなたのことなら、触れなくても分かります」
 そう言って阿久津が笑った。
 流石の洞察力だ。感嘆するのと同時に、恥ずかしさも覚えた。
「どうして、私の推理が外れていると思うのですか?」
「二人は、本当に愛し合っていました」
「そう言い切る根拠は何ですか?」
「このネックレスには、彩菜さんだけでなく、その恋人の記憶も残留していましたから」
 ──そういうことか。
 ネックレスには、彩菜の恋人も触れたはずだ。そこに残る記憶を感知したということなのだろう。
 確かに、二人が愛し合っていたのだとすると、不倫の関係を清算する為に、恋人が彩菜を殺害したという推理は、成立しなくなる。
 ──だとしたら、彩菜はいったい何処に消えたのか?
「このネックレスに触れた人物が、もう一人います」
 天海の思考を遮るように阿久津が言った。



 天海は、路肩に停めた車の中から、マンションのエントランスを観察している──。
 武蔵小杉の駅から五分ほどのところにある、ファミリー向けのマンションだ。阿久津からの情報を元に捜査を続け、彩菜の恋人だったのは、同じ会社に勤務する佐藤大貴という男であることが分かった。
 いわゆる社内恋愛だったが、不倫ということもあり、二人は関係を徹底的に隠していたようだ。
 だから、誰も恋人の存在を知らなかった。
 大貴は彩菜との関係を、単なる火遊びとは捉えておらず、真剣に離婚を考えていた。それが証拠に、今、このマンションに住んでいるのは、妻の澄美だけで、大貴は別にアパートを借りて別居をし、離婚の話し合いを続けていたようだ。
 だが──。
 天海の乗る車の脇を、目当ての人物──大貴が通り過ぎる。思考を止め、天海は少し間を置いてから車を降りた。
 気付かれないように距離を空けつつ、大貴の背中を追いかける。
 大貴がオートロックを解錠し、エントランスの自動扉を潜る。天海は、少し間を置きつつも、扉が閉まる前にエントランスの中に滑り込んだ。
 幸いなことに、大貴は天海を怪しむことなく、そのままエレベーターに乗り込んだ。
 同じエレベーターに乗り込むわけにはいかない。天海は、階段室に通じるドアを開け、徒歩で八階まで上がる。
 流石に息が上がる。
 何とか八階のフロアに到着した天海は、階段室を出て、真っ直ぐ廊下を進み、突き当たりにある部屋のドアの前に立った。
 呼吸を整えつつ、ドアに顔を近付けて耳をそばだてる。
 何かが倒れるような物音がした。次いで、男性と女性が何かを言い争っているような声──。
 ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
 天海は、ドアを開けて部屋の中に踏み込む。鼻を突くような異臭がして、思わず息を止める。
 この臭い──やはり、推測は正しかったようだ。
 天海は、土足のまま廊下を進み、その先にあるリビングの戸を勢いよく開けた。
 女性が、怯えた表情で床に倒れ込んでいた。おそらく、彼女は大貴の妻の澄美だ。
 そして大貴は、包丁を持って澄美の前に立っていた。
 突然の闖入者に、二人とも啞然としている。
「警視庁特殊犯罪捜査室です」
 天海が警察手帳を提示すると、大貴の表情が歪んだ。
「邪魔をするな……」
 大貴の目は血走っていた。
 警察官の前であろうと、澄美を刺し殺すつもりなのだろう。彼には、それだけの覚悟がある。
「そうはいきません。今なら、まだ間に合います。包丁を置いて下さい」
 天海は、大貴と澄美の間に入るように歩みを進めた。
 逆上した大貴に刺される可能性はある。だが、それでも──。
「もう間に合わない……。おれは……おれのせいで……」
「いいえ。間に合います。彼女は──彩菜は、こんなこと望んでいません」
「お前に何が分かる!」
 大貴が吠えた。
「分かります。私は、彩菜の友人です。聞いたことありますよね。高校時代の友人が、警察官だって話」
 天海の説明に、大貴が「あっ」という顔をした。
 やはり、彩菜は大貴に天海のことを話していたようだ。
「私は、全て分かっています。だから、安心して下さい」
 天海の訴えに応じたのか、大貴は包丁を持っていた手をだらりと垂らした。素速く、その手から包丁を奪い取ると、カウンターキッチンの上に置いた。
 大貴は、抵抗することなく、ただ天海をじっと見つめた。
 その目から、涙が零れ落ちる。
 天海は、それに頷き返すと澄美に向き直った。
「た、助けて下さい。あ、あの男は、私を殺そうと。は、早く逮捕して下さい」
 澄美が震える声で訴えてくる。
「分かっています。佐藤澄美さん。あなたを殺人の容疑で逮捕します」
 天海が告げると、澄美はきょとんとした。
「は? 何言ってんの? 殺されそうになったのは、私なんだけど! てめぇも見てただろうが! どうして、こっちが逮捕されなきゃなんねぇんだよ! バカか!」
 しばらく放心していたが、やがて火が点いたように天海を罵倒し始めた。品位も知性もない。感情に支配されているのだろう。
「大貴さんは逮捕しますが、それは、あなたに対する殺人未遂です」
「は? 意味分かんないんだけど!」
「あなたは、柳井彩菜さんを殺害した容疑で逮捕します」
 澄美が驚愕の表情を浮かべる。
 阿久津は、「もう一人、ネックレスに触った人物がいる」と言っていた。それが、大貴の妻である澄美だった。
 澄美は、感情の抑制が利かないタイプの女性だった。思春期の頃から、幾度となく暴力沙汰を起こしている。
 独占欲も異常に強く、以前に交際していた男性を階段から突き落とし、大怪我を負わせたこともあった。
 大貴と交際していたときは、そうした自分の性質と過去を隠していたようだ。
 だが、一緒に暮らすようになり、抑制が利かなくなったのだろう。大貴は、澄美に暴力を振るわれるようになっていった。
 大貴の会社の同僚から、それを裏付ける証言も取れた。彼は、度々、痣や怪我を負った状態で出勤していたようだ。
 おそらく、彩菜のことがなくても、大貴は澄美と離婚していただろう。それが証拠に、別居を始めたのは、大貴と彩菜が交際に至るより前のことだった。
 だが、澄美はそうは考えなかった。
 全て彩菜の責任だと思い込んだ。独占欲の強い澄美の怒りが、彩菜に向けられるのは、謂わば必然だったのだろう。
 そして、澄美は彩菜を手にかけた。
 大貴は彩菜が行方不明になった段階で、澄美の仕業だと勘付いたのだろう。彩菜を愛していたからこそ、怒りが抑えきれずに澄美を殺そうとしたのだ。
「誰? そんな女知らないし! ってか、証拠あんの? 勝手なこと言ってんじゃないよ!」
 唾を撒き散らしながら声を荒らげる。
 自分は捕まらないという絶対の自信があるらしい。確証はないが、澄美は、おそらく彩菜の死体をこの部屋の中でバラバラにして捨てていたのだろう。
 だから、いくらこの部屋の中を捜索しても、彩菜の死体が見つかることはない。だが、部屋にこびり付いた死臭を誤魔化すことはできていない。
 それに──。
「死体を捨てたつもりかもしれませんが、それでもあなたを立件する方法はあります」
 天海が淡々とした調子で言うと、澄美の表情が強張った。
「…………」
「ルミノール反応というのをご存じですか? 血液の痕跡を炙り出す方法です。いくら血痕を拭き取っても意味がありません」
「血液の反応が出たって、殺した証拠にはならないでしょ」
「ええ。そうですね。ですから、どんな方法を使ってでも探し出します。例えば、下水管の中とか。そうすれば、彼女の身体の一部くらいは発見できるはずです」
 天海が言い終わる前に、澄美は素速く立ち上がると、カウンターキッチンの上に置いてある包丁を手に取った。
 そんなことをしても逃げられないのに、あくまで抗うつもりのようだ。
「お前ら全員ぶっ殺してやる!」
 澄美が、包丁を振り上げて襲いかかってきた。
 天海は包丁が振り下ろされる前に、澄美の腕を摑むと、捻り上げるようにして、彼女を床の上に投げ飛ばした。
 腕を捻り上げたまま、うつ伏せにした澄美の背中に膝を乗せ、体重をかけて制圧する。
 ──終わったよ。
 天海は、心の内で彩菜に呼びかけた。



 天海は、改めて阿久津の許を訪れた。
「全て終わったようですね」
 向かい合って座っただけで、こちらからは何も喋っていないのに、阿久津は静かにそう言った。
「触れてもないのに、どうして分かるんですか?」
「言ったはずです。あなたのことなら、触れるまでもなく分かります」
 阿久津は、そう言って小さく頷いた。
「阿久津さんのお陰で、事件を解決することができました。ありがとうございます」
 天海は改まった口調で礼を述べた。
 そこに噓はない。阿久津がネックレスに触れ、その記憶を感知したことで、重要な情報を得ることができた。
 そうでなければ、澄美を逮捕することはできなかっただろう。
 いや、それだけではない。大貴が澄美を殺害していた可能性が極めて高い。新たな被害者を出さずに済んだ。
「私に伝えるべきは、感謝の言葉ではないと思います」
 阿久津が言った。
「どういう意味ですか?」
「天海さんは、常に警察官であろうとしています。外では、それで通用するかもしれません。しかし、少なくとも私の前では、その仮面を外して下さい」
 阿久津の言葉は、天海の胸の深いところに突き刺さった。
 彼は、触れるまでもなく、天海の心の底を見透かしている。じわっと目頭が熱くなったが、固く瞼を閉じて、流れ出る涙をせき止めた。
 阿久津の言う通りだ。
 今、天海は警察官として、事件の解決を阿久津に報告していたが、それはあくまで仮面を被った姿だ。
 天海は、前回、一縷の希望を持って阿久津の許を訪れたのだ。行方不明になった彩菜を、何とかして見つけたい。そして、生きて再会したい──そう願っていた。
 だが、それは叶わなかった。
 天海は、本当は泣きたかった。彩菜を救ってやれなかった悔しさはもちろん、大切な友人を失った悲しみ、そして、犯人に対する怒り、そうした様々な感情を吐き出したかったのだ。
 阿久津の胸に飛び込み、全てをさらけ出して泣きじゃくることができたら、どんなに楽だろう。
 でも、いくら望んだところでそれは叶わない。
 この部屋は防犯カメラによって監視されているのだ。だから──。
「そうですね。阿久津さんの仰る通りです。私は、阿久津さんに触れて欲しかったんです」
 天海は、自らの右手を阿久津に差し出した。
 阿久津は、小さく頷いてから、天海の手を握り返した。
 滑らかな阿久津の肌の感触を掌に感じると同時に、天海の心から、すっと淀んだ感情が流れ出て行くような気がした。
 きっと、阿久津は、天海の記憶を感知しているのだろう。
 阿久津が相手であれば、言葉にする必要はない。
 正確に、今回の事件を通して、天海が感じた様々な感情を共有してくれる。
 それを思うと、満たされた気持ちになる。理解して貰えるというのは、何よりの安心感に繫がる。
 ふと目を向けると、阿久津の目から涙が零れ落ちた──。
「私も、彩菜さんの記憶を留めておきます」
 阿久津の言葉は、本当に嬉しかった。
 彩菜はもう戻らない。だが、彼女のことを覚えていてくれる人は、一人でも多い方がいい。
「ありがとうございます。阿久津さんに触れてもらえて良かったです」
 天海が言うと、阿久津が涙を拭った。
「今のは、天海さんの本音ですね」
「もちろんです」
 本当は、いつまでも、こうして触れ合っていたいが、それは許されない。
 天海は、阿久津から手を放すと、警察官としての仮面を被り「ご協力感謝します」と改まった口調で言ってから阿久津に背を向けた──。
 ドアを開ける前に、改めて振り返り、部屋の中にいる阿久津を見た。
 彼は、ただ黙って天海を見ている。
 その真摯な視線に、胸が締め付けられた。
 ──やっぱり私はあなたのことを愛しています。
 思いはしたが、わざわざ口に出すことはしなかった。きっと、さっき触れたときに、その思いは伝わっているはずだから。
 阿久津を愛し続けても未来はない。閉鎖病棟の中にいる彼に、抱き締めてもらうことすらできない。
 それでも──。
 阿久津は、天海に向かって「分かっています」という風に小さく頷いた。
 天海も、それに頷き返して部屋を出た。

 人は、彼のことを悪魔と呼んだ。
 しかし、天海にとって阿久津は断じて悪魔などではない。彼は──。 (了)

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