夢の中の微熱

もう一度あの時に戻ってみたらどうなるのか。それを実証した小説。               

 

「もう一度、あの頃に戻ってやり直したい」、誰もが一度は思ったことがあるはずだ。あの時、こう言っていたら、あの時、こうしていれば、あの時・・・。

残念ながら人生に、「たら、れば」がないことを、分かってはいるが、最近は何気なく、あの頃に戻ってやり直したい、という想いが、虚無に包まれたシャボン玉のように、浮かんでは消える。

 

 青春と呼ばれる時代から三十年近くが過ぎ、いわゆる「不惑」と呼ばれる齢を順調に重ねてきた。社会に出て年を重ねるにつれ、余裕や自信を身に着けてきたが、内面はいまだに発想や思考が、幼稚でくだらなく、精神年齢は、青春時代と大して変わらないように思える。

第二次ベビーブームの最中に生まれた俺は、受験や就職活動で、否応なく厳しい競争に晒された。今の会社への就職も、厳しい選抜をくぐり抜けて勝ち取った、就職氷河期に正社員として入社したサラリーマンだ。

会社は、中堅企業として知られ、海外でも事業展開をしている専門商社で、課長職に就いて半年経つが、労働環境に恵まれ、有給休暇を始めとする各種休暇が、容易に取得できる。また、過度な残業もなく、年収も巷の雑誌に興味本位で掲載される、年代別平均年収とほぼ変わらない。

平日は、集中して仕事をこなし、帰宅後は、保育園に通う二人の子どもと一緒に遊び、好きな動画を見て、就寝までゆっくりと寛いで過ごしている。日本の企業戦士としては、全く申し分のない生活を送っていると自負している。

週末は、仕事から完全に離れることができ、自分や家族のために時間を使え、フットサルやサーフィンなどのスポーツもするが、努めて家族と一緒に過ごし、週末のかけがえのない家族との時間に、幸せと生きがいを感じている。

妻は、十歳年下の由香。十二年前に友人に誘われ参加した、NPOが主催するビオトープ作りで知り合い、飼っていた犬の話で意気投合し、二年の交際を経て結婚した。幼く可愛い子どもは、六歳の絢と四歳の美夏。二人とも保育園児だ。お互いを思いやる、優しく温かい家庭を持ち、公私ともに、楽しく幸せな日常生活を過ごしている。

 

 現在は、幸せに満ち充実した生活を過ごしているが、学生時代の俺は、幸福に飢えていた。なぜならば、中学生から大学生までの、いわゆる青春時代に、まともに女性と交際したことが無かったからだ。

四十代となった今では、その頃に女性と交際していることが、青春の全てだとは思わないし、幸せなことだとも思わない。

 むしろ、年を重ねた今では、「家族が病気にならず、事故や事件にもあわず健康で、日々楽しく暮らせること」が本当の幸せだと思う。

しかし、当時の俺はこの当たり前の幸せに気付けず、家族なんてどっちでもいいし、面倒くさいとすら思っていた。そのような考え方しかできなかったため、彼女と過ごす時間を可能な限り沢山持つことが、幸せの全てだと思っている青い若造だった。

 

青春の一ページでもある高校時代は、サッカー部に所属し、下手くそながらも、大好きなサッカーにのめり込んだ。全国大会に出場したことのある、輝かしい経歴を持つ同級生が何人も居たため、レギュラーにはなれなかったが、ハードな練習のおかげで、精神的にも肉体的にも強くなった。

また、高校一年時のクラスメイトと非常に仲が良く、夜中の小学校の真っ暗な校庭で、男女混合の二チームに分かれ、連発花火で相手チームを攻撃するという、危険な花火大会を行ったり、俺の親が旅行に出掛け家を空けた隙を狙い、その仲間と自宅でパーティーを開催し、夜が明けるまで飲み語らったりするなど、青春を謳歌していた。

そのため高校時代は、彼女が居ないなりにも楽しく、また、生徒の中で交際している男女の比率が極めて低かったこともあり、彼女がいないことを深刻に思い悩むことはなかった。

 

青春時代の恋愛を振り返ると、自慢ではないが、一番長く続いた彼女は大学時代に付き合った女性で、交際期間は二か月半、たったの二か月半である。しかも、一緒に過ごした期間は僅か三週間程度だ。

なぜ短命に終わってしまったかというと、付き合い始めて約一か月後に、俺が遠く離れた地元の自動車学校に通学したため、大学の長い冬休みの間、彼女を独りぼっちにしてしまったからだ。

俺が地元ではなく、大学傍の自動車学校に通っていれば、結果は違っただろう。このように、俺の青春時代を振り返ると、必ず「後悔」という二文字が付いて回る。

今思うと、沢山の出会いがあった大学時代に、現在持ち合わせている心の余裕と自信があれば、もっと上手く立ち回れていたはずだ。

もう一度、あの頃に戻ってやり直せれば、思い出よりももっと楽しい大学生活が送れていたのではないだろうか。友達が彼女とイルミネーションを見に出掛けたり、ショッピングをしたり、クリスマスデートを楽しんでいる中、一人寂しくバイトをしなくても良かったのではないか。俺もクリスマスデートを楽しめたのではないか。と思うことが時々ある。

何気なく、大学時代の写真を目にした時や、その頃流行った音楽や小説に触れる度に、その思いが強くなり、最近ではふとしたきっかけで、あの頃に戻ってやり直せたら、このように行動しているのに、と思うことが増えている。無意識か意識的かは分からないが、これが歳をとると言うことなのだろう。

 

 

 ある冬の日、美夏がインフルエンザにかかり、保育園を休むことになった。俺は休暇を取得するため、会社に連絡した。上司からは、

「お子さん大丈夫かね?傍にいて面倒を見てあげなさい」と配慮いただき、

「今日と明日休めば、大丈夫だと思います。お気遣いありがとうございます」と、丁寧に答え電話を切った。

友人の会社では、同じように休暇を取ろうとすると、必ず上司から嫌味を言われるそうだ。今の職場環境に改めて感謝し、今日一日子どもの面倒を見ることにした。美夏は高熱が出ているにも関わらず、折り紙とのりを使って、器用にちぎり絵をしている。

子どもは本当に元気だ。「子どもは風の子」とはよく言ったもので、多少の熱では動じない。それに反して俺は体が弱く、風邪をひいても熱が出ず、治りが遅い体質持ちなので、子どもの体が羨ましく思う。おそらく、丈夫な由香のDNAを受け継いだのだろう。

昼食は、美夏の大好物であるカレーライスの甘口を作った。二人で一緒に、

「いただきます」と言うと、美夏はにっこりしながら、一皿ペロッと食べ、

「おいしい。おかわり」と言った。このような他愛のないやり取りに、大きな幸せを感じる。

食べながら、保育園での出来事を聞き、後片付けを終えると、添い寝をしながら、たっぷりと昼寝をさせた。沢山昼食を食べ、昼寝も十分に取れたからか、夕方になると熱は平熱に下がった。

時計を見ると午後六時。そろそろ由香が帰って来る。美夏もママが帰って来る時間を知っているので、玄関で由香の帰りを待ち始めた。すると、一、二分で由香が仕事から帰って来た。美夏は帰って来るなり由香にべったり張り付いて、

「だっこ」と甘え始めた。

「美夏、熱は?」と由香が聞くと、

「だいじょうぶだよ」と美夏が応える。

「おかえり、平熱まで下がったよ」と俺が付け足す。

やれやれ、俺の仕事はここまでだな。長い任務から開放され、疲れからソファーに転がりこんだ。しばらくすると

「ごはんだよ」と絢が呼びに来てくれた。どうやら三十分程寝ていたらしい。起きるとなんだか頭が痛い。その時は疲れのせいだと思った。

 

由香の作る料理は、いつも美味しい。俺は一人暮らしが長かったこともあり、料理が得意である。分厚い料理本に書いてある料理を、全部制覇したこともあるし、学生時代にお金がない時は、玉ねぎを上手く調味して炒め、ごはんに乗せて食べる、安くて美味しい、オニオンライスを考案し、それで仕送り日までやりくりしたこともある。

だが、由香は安い食材同士を上手に組み合わせ、とても美味しい料理を作る。その点、俺は創造力に乏しく、決まり切った食材でしか美味しい料理を作られない。この違いが男の料理と主婦の料理の違いなのかもしれない。

その日の副菜は、シーチキンとキャベツの味噌ドレッシング和えだった。普段なら味付けが美味しく、食感のいいこの一皿をパクパク食べるのだが、頭痛のせいかあまり箸が進まず、珍しく夕飯を半分も残した。

「亮ちゃん大丈夫?」由香が心配した。

「うん、ちょっと体調が良くないから早く寝るね。ぐっすり寝れば、良くなると思うよ」そう言うと、二階の寝室へ行き、布団に包まって休んだ。

直ぐに横になったため、しばらく消化不良でお腹がグーグー鳴っていたが、一時間ほど経ったら落ち着いて来た。温まってから寝ようと、浴室に行き、浴槽にバスソルトを入れ、湯船に肩まで浸かった。体調が悪いせいか、長く入っていられなかったので、素早く上がり着替え、体が温かい内に、布団に潜り込んだ。

普段は風呂上がりに、アンチエイジングのためフェイスケアをするが、今日は余裕がなかった。一日ぐらいやらなくても、変わらないだろう。年齢を重ねてからは、あまり細かいことに、拘らなくなっていた。布団に包まり気が付くと、深い眠りに落ちていた。

 

 翌朝起きると、頭痛と怠さそして熱があった。一人暮らしの頃から使っている、年季の入った水銀式体温計で、体温を測ると三十九度もある。普段熱が出ない体質なので、滅多に出ない数値にびっくりした。予測式より正確な実測式の体温計なので、信用できる数値だと思う。(美夏のインフルエンザをもらってしまったな)直ぐに会社へ電話をし、

「熱があるので、医者に行ってから出勤します」と伝えた。

近所にある病院まで車で五分。たった五分の運転が、凄く辛い。体の節々が痛み始めたことと、高熱で朦朧としているせいで、運転をしているという実感がない。

なんとか病院に着き、検温後インフルエンザの検査をお願いした。診察を受ける前に、鼻の奥から検体を採取すると、五分で陽性か陰性かが分かるそうだ。医学の進歩は凄い。それにしてもだるい。ボーッとしながら結果を待つと、検査をしてくれた看護師さんが戻って来た。

「陽性ですね」と言った。やはりインフルエンザだった。普段滅多に高熱が出ないので、そうとは思っていたが。その後診察を受けると、

「他の人に移すと困るので、一週間仕事を休んで、自宅で休養して下さい。外出などもせずに、ウイルスを拡散させないよう、努めて下さい」と医者に言われ、院外薬局で薬を処方された。

 一週間も会社を休まなくていけない。薬局から会社に電話し、インフルエンザに感染したことを伝え、部下への指示や上司への連絡、社会人の常識である、いわゆる「ほうれんそう」を三十分かけて行った。上司から、ゆっくり休むよう指示を受け、一週間休むことになった。

病院から辛うじて家に帰り、由香にSNSで、インフルエンザにかかったことや、会社を一週間休むこと、家の中で隔離して生活することなどを伝えた。同じくインフルエンザの美夏は、もう熱が出なくなったので、近隣の由香の実家で面倒を見てもらっていると由香が返事で伝えてきた。

無事帰宅し、少し安心した俺は、部屋を暖かくして、ルームウェアに着替えた。薬はすぐに効き、熱が下がると聞いている。インフルエンザなんて、小学校の頃に一度しか感染したことがない。胃の中に何か入れておかないと、薬で胃が荒れると思い、お湯を沸かし、カップスープを飲んでからタミフルを服用した。

速く薬が効くことを祈りつつ、寝室に行き、布団を沢山掛けて寝た。どれぐらい眠ったかは分からないが、高熱を出していることもあり、かなりグッスリと寝ていたと思う。

 

 

翌朝遅くに、やっと目が覚めた。時刻を見ようと、壁に掛けてある電波時計に視線を移すが、いつもの場所に時計がない。ぼんやり天井を眺めると、壁紙が違う。家を建てる時、寝室の天井に貼る壁紙の模様に悩み、結果、木目にした経緯があるので、寝室の天井事情には詳しい。目に入って来る天井は、白地に等間隔で太い白線が走っている。(何となく見覚えがあるなぁ)布団からゆっくり起きて、周りを見回す。「自分の家ではない」どう見ても、ワンルームと思われる、学生が住むような間取りの部屋だ。

寝具も、いつもの分厚いマットレスではなく、パイプベッドに蒼い敷布団と、タオルケットが敷かれていた。室内には、ブラウン管のテレビや一時期流行った、重低音が売りのCDラジカセと黒い机、本棚が置いてある。

「CDラジカセなんて、今時使っている奴いるのかよ」と呟きながら、更に部屋中をよく見まわしてみる。俺が大学一、二年の頃に住んでいた、横浜市内にあるアパートの部屋にそっくりだ。

嫌な予感がして、慌ててカレンダーを探し始めた。部屋にもキッチンにもなく、本棚の周りを物色すると、学生時代に使っていた、黒い牛革のシステム手帳が出て来た。

この時、インフルエンザにかかっているにも関わらず、何故か身体が軽い気がした。システム手帳を広げると、ウイークリーカレンダーがあり、日付は一九九四年となっていた。(今年は二〇二三年だよね。このリフィールは何だろう?)と思いながら、様々な情報を得るには、テレビを付けるのが一番だということに気付いた。

現代に比べ、やけに太く長いリモコンを押し、テレビを付けると、フジテレビでは、笑っていいともを放送していた。タモリが若い。(笑っていいとも?笑っていいともは終了して、別の番組に変わっているはず)

明石家さんまが、タモリと二人でトークをする、笑っていいともの名物コーナーが始まり、そのまましばらく見ていると、エンディングで出演者が勢揃いした。いいとも青年隊が若く、全員がバブル期の名残を感じさせるような服装や、メイクをしている。特に太い女性の眉毛が特徴的だった。テレビから分かったことは、今日は金曜日。しかも一九九四年、三十年近く前の金曜日だ。

 

ここまで状況が揃ったら嫌でも分かる。先程から思っていたが、身体もインフルエンザとは思えないぐらい軽く、頭痛や倦怠感も無い。四十代では実感できないほど、生命がみなぎると言えばいいのか、幾らでも形容できるが、一言でいうと若さに満ち溢れていた。

この部屋のトイレに鏡があったことを思い出し、急いで鏡を見てみる。ほっそりとした体に鋭い目付き、白髪の無い真っ黒な髪の毛。当時お気に入りだった紺のTシャツと、グレーの短パンを着ていた。

鏡の前の俺は、十九歳当時の俺だった。記憶や精神面などはそのままに、タイムスリップして来たのだ。

(バック・トゥー・ザ・フューチャーのように、タイムスリップって前振りがないのかよ)

 

 この世では、いつ何が起こるか分からない、と常々思っている俺は、常に冷静だ。もちろん、タイムスリップしてしまった今も。

たしか、台所の戸棚に当時はティーバックをストックしていたはずだ。やかんで沸かしたお湯に、リプトンのティーバックを入れ、紅茶を飲みながらゆっくりと考える。

どうやったら元の時代に戻れるのか。それが分かるまでは、十九の俺として生活してなくてはならない。周囲に本当のことがばれると、SF小説にしつこいほど出てくる、「時空のゆがみ」とやらで、未来が変わってしまうかも知れない。

物理の方式や、数学の公式などは直ぐに忘れるが、記憶力には絶対の自信を誇る俺にとって、当時の記憶など、一生懸命頭を捻って思い出すまでもなく、今でも鮮明に覚えていた。だから、友人への立ち回りについてはおそらく問題は無いだろう。ただ、大学の講義の時間割や、テスト日程などは、学生だった当時から良く覚えていなくて、一度テストを寝過ごして受験しなかったこともあり、全く自信は無い。(そういえば)その時の対処法を思い出した。

 

テストを寝過ごす学生は沢山居るので、救済措置がある。そのようなヘマをした場合、医者に行き適当に診断書を書いてもらう。次にその診断書を大学の窓口に出す。診断書は公文書のため、正式に受理され、問題なく追試を受けることができる。

こういった救済措置が、「学生の間で」きちんと用意されていた。公式に用意されている訳ではない。当時の学生の大多数が、生ぬるい大学生活を送っており、俺も当然ながらその一員だった。そのため、大学を卒業し、社会人になった一年目は、世の中の厳しさを嫌と言うほど味わった。

 

 今日は、一九九四年の何月何日なのか、確認することにした。この時代には、学生が使えるような安価な携帯電話は無く、当然インターネットに繋がるパソコンも無い。スマホという当時で言うと、青い猫型ロボットが、ポケットから出してくれるような、便利な代物もなかった。しばし物思いに浸っている間に、笑っていいともが終わった。

チャンネルをNHKに変えると、午後一時のニュースが始まった。ニュースは冒頭から日時を教えてくれる。

「七月十六日金曜日、午後の一時のニュースをお伝えします」とアナウンサーが伝えた。大学時代の記憶をたどってみると、七月下旬までは前期のテスト期間だ。今日が七月十六日ということは、今はテスト期間の真最中ということになる。慌てて机の上に置いてある雑多な紙の中から、テストの実施日程表を見付けた。今日は四限、つまり午後三時からのテストが一つあった。

テレビを付けたままシャワーを浴び、新しい服に着替えて、再びテレビに表示される時刻を見ると、四限まではあと一時間半もあった。とにかく今は、テスト勉強をしなくていけない。(直ぐに現代に戻れれば、単位なんてどうでもいい。でもしばらく戻れないとなると、やることをやっておかないとまずいな)

我々のような不真面目な大多数の学生が行うテスト勉強は、講義を最前列で聞いている、一部の真面目な学生(通称まじめくん)が書きとった、ノートのコピーのそのまたコピーを、大学生協で行列を作って、A3からB5まで、様々な大きさでコピーし、その内容を頭に叩き込むことだった。テストで一番大変なのは、大学生協でのコピーの順番待ちと暗記。その頃の大多数の学生は、そうやってテストを凌いでいた。

机に向かい、集中してノートのコピーを暗記し、ひと通り内容が頭に入ったところで時計を見ると、二時三十分だった。急いでキャンパスに向かう。部屋を出る前に、手帳で今日の予定を確認すると、十九時バイトと書いてあった。

 

 アパートの部屋から外に出ると、盛夏一歩手前の日差しと、熱気にゲンナリした。まだ梅雨明けしていないので、当然ながら蒸し暑い。

アパートからキャンパスまでは歩いて十分。キャンパスが高い丘の上にあったため、その内五分間は、斜度がきつい坂を上らなくてはいけなかった。住んでいるアパートは、エアコン完備で築十一年。ベランダからは、夜に星が見え日によっては、風に乗って近所の牛舎の匂いがした。住宅地に僅かに残された現風景の中に建ち、非常に条件のいいアパートだったが、唯一の難点は通学だった。

ふと思い出した。右も左も分からず入学したばかりの頃は、この道を真面目に歩いて通っていた。しかし、大学生活に慣れ二年になると、友達から原付バイクを安く譲ってもらい、その後は通学を始め、主な移動手段がバイクに変わった。バイクは風を切って走り、キャンパスまでの通学は、非常に快適なものへと変わっていった。

駐輪所を見ると、ヤマハの原付が置いてある。(そうだった、原付で通えばいいじゃんか)早速部屋へ戻り、キーを探すと本棚の脇に掛けてあった。駐輪所に戻り、エンジンをかけ、スロットルを回すと、静かなエンジン音と共に、原付が滑り出していく。風を切りながら走る内に、ジトっとした背中の汗が渇いていった。

 約二、三分でキャンパスに着くと、大学の顔である正門ではなく、一人暮らしの学生が多く住む、アパート街への抜け道となっている、いつもの小道を歩いて、キャンパスのメインストリートに出る。メインストリートは広く長く、正門から一番奥まで五百メートルあった。

テスト会場は、メインストリートの突き当たり右手にある5号館。三十年ぶりに会う、同じ経済学部経済学科の友達と、あの頃と変わらぬよう接することができるか。不安と緊張で心臓が飛び出しそうだったが、平然と接するしかない。友達は5号館の505号室に先に来て着席していた。俺を見て手を振ってきたので、俺も手を振り返し、友達が確保してくれた席に座る。

「亮介、遅かったじゃん」懐かしい呼び名だ。

俺は、大学二年頃までは苗字ではなく、名前で呼ばれていた。これまで親以外の人から、名前で呼ばれることは無く新鮮で、これが首都圏でのスタンダードなのだと思った。親元を離れて、新生活を始めた俺にとって、一種のカルチャーショックだった。

「悪い、寝坊して、暗記に必死だった」と謝ると、そうだろうという顔をして皆が笑った。(よし大丈夫だなこの調子だ)杞憂はすぐに吹き飛んだ。この感触なら、バレずにすみそうだ。

テストが始まるまでの間は、テストの話で持ちきりだった。友達も俺と同じで、日頃から勉強をしていない。ごく一部を除いた大多数の学生は、テスト前のドキドキ感が半端ではない。ノートのコピーに書いていない問題が出たらどうしようかと。

テストが始まった。おおよそ暗記した内容と同じ問題が出たので、見直しを含め、時間をフルに使って、テストを終わらせ、友達と談笑しながら5号館から出ると、誰かが俺の名前を呼ぶのが聞こえた。友達に手を挙げて、「また来週」と伝えると、声のする方に向かって歩いた。

「テスト終わった?どうだった?」そう問いかけてくる声の主とすぐに目が合い、ハッと気付いた。「神田美香子」だ。

 

彼女は、今年の五月に開催された、倫理学の特別合宿中に知り合った、同い年の女性で、国際学部国際学科の一年。アメリカ帰りの帰国子女だった。経済学部二年の俺の方が先輩だったが、知り合って直ぐに敬語からタメ口で話す仲になった。

「うーん、まあまあかな。単位に問題は無いと思うけど」メインストリートの中央にある、テラスに向かって一緒に歩き出した。

 彼女のことは、今でも鮮明に覚えている。合宿中のグループ分けで初めて見た時は、髪をアップにし、白いシャツを着て、ベージュのタイトなパンツを履いていた。シャツをパンツの外に出す、ラフなスタイルで着こなし、清楚で素敵な女性だと思った。

合宿中の会話で、他にも同じ講義を受けていることが分かり、合宿後もランチを一緒に食べ、講義を抜け出して、江ノ島に遊びに行くなど、少しずつ距離を詰め、付き合う一歩手前まで行った女性だ。忘れるはずなどない。しかし当時の俺は、人生で初めて付き合った彼女のことを完全に忘れ去ることができず、神田美香子と付き合いたいという願望があったにも関わらず、本気で付き合うための行動を、起こすことができなかった。

 

 

俺は、一九九四年三月に佐々木祐美に振られた。大学に入学したばかりの四月上旬、たまたま最初に加入した、スキーサークルの新入生歓迎コンパ、略して新歓コンパの会場で、偶然同席となった高校の同級生、それが佐々木祐美だった。まさか同じ高校から同じ大学に進学し、同じサークルに所属したとは夢にも思わず、

「佐々木さんだよね?」

「亮介くんだよね?」

「この大学に入っていたんだ?」

「亮介くんは、推薦入学だったっけ?」とお互いの身元確認をし、驚いていたが、高校の同級生ということから、すぐに打ち解けた。

当時俺達が通っていた高校は、第二次ベビーブーム世代のため、一学年にクラスが九つあった。一クラスに学生が四十五名程度いて一学年で約四百人。多数の学生を抱える高校だったため、二人とも高校時代の接点は皆無だった。

お互い顔と名前は知っていたが、俺は、彼女がバスケットボール部に所属し、背が高く色白で美人なこと。彼女は、俺がサッカー部に所属していること。その程度の認識しかなかった。しかし俺は、新歓コンパで出逢った時、「三つの共通点」という偶然に、少しだけ運命を感じていた。

新歓コンパから夏前までは、友人達と一緒に飲みに行くなどして、仲良く接していた。お互い最初に入ったスキーサークルを直ぐに辞めた後、俺はサッカーサークルを友達と立ち上げ、彼女はアメリカン・フットボールサークルのマネージャーになっていた。お互い、初めて迎える大都会での夏を、謳歌していたこと、サークル活動が忙しくなってきたことから、次第に連絡を取り合わなくなっていた。

 

季節は過ぎ十一月、都内の大学に進学していた同じ高校のサッカー部仲間、坂上武が泊りがけで俺のアパートに遊びに来た。疎遠になっていたが、せっかくだからと、同級生の祐美に、

「サッカー部の坂上武が泊りがけで来ているから、遊びに来ない?」と電話をかけた。

「坂上武くんもいるの?私、話したことがないけど・・・。わかった、今から行くね」と言い、三十分後に部屋のチャイムが鳴った。

「いらっしゃい」

「遅くなってごめんね。いろいろと準備していたら、時間が経って」大学に入り、女性は支度に時間のかかる生き物だと、分かり始めた頃だったので気にもしなかった。

「どうぞ」と、久しぶりに祐美をアパートに招き入れた。武と祐美は初対面だったが、親元を離れ大学に進学し、それぞれ自由を満喫している者同士、気軽に何でも話すことができた。俺も祐美も夏に恋をしたが、すでに二人とも終わってしまったこと、武はバイトでお金が貯まったら、今乗っている原付バイクを売り払い、SR400という、ヤマハの中型バイクを買うつもりでいることを話した。

若い学生達の話は尽きず、気付くと深夜零時近くになっていたため、俺は祐美をアパートまで送った。十分程で戻って来ると武が聞いてきた。

「亮介は、佐々木さんのこと、どう思っているの?」

「綺麗で背が高くて、いい人だと思うよ」

「おまえ、付き合う気はないの?」

「『今は、彼氏欲しくない』って言っていたし、同級生だからなぁ」

「ふーん」武はそう言ったきり、もう聞いてこなかった。

 

 その日、久しぶりに会話を楽しんだことが、俺と祐美の距離を近付けた。時々ランチを一緒に食べ、友達を誘って東京ディズニーランドに遊びに行ったり、クリスマスパーティーをしたりして楽しんだ。

更に、お互い年末年始は、実家に帰らず、アパートで過ごす予定だったので、俺のアパートの隣にある神社で二年参りをした後、俺の部屋で一緒に年越しもした。

新年が明け、一九九四年一月になり、二人で横浜に買い物に出かけた時、やっと俺は気付いた。無印良品でコートを眺めている彼女、HMVで好きな洋楽を視聴している祐美。様々な表情を見せ彼女が、キラキラと輝いて見えた。前々から想っていた祐美への好意が、実は恋愛感情であることに気付いた。

俺は、そのような素振りを一切見せず、買い物を終えて、一緒にJR東海道線で最寄り駅まで移動し、駅のバスロータリーで、何気なく市営バスを待っていた。

隣に立っている祐美が、周りを気にしながら、ふいに俺の耳元で告げた。

「最近、夜中になると電話が鳴るの。出ても、向こうは何も喋らなくて、怖いの」

「警察に言った方がいいんじゃないの?」

「公衆電話から掛けてくるの。だから、相手の特定が難しいと思うし、話を大きくしたくないの」

「分かった。しばらく様子を見て、それでも掛かってくるようなら、教えてね」

「うん。ありがとう」一緒にバスに乗り、祐美をアパートまで送ってから帰った。(気持ち悪いな。彼女に何もなければいいけど・・・)

 

 一九九四年一月十日の夜、今夜も祐美と、何気なく電話で会話をしていた。

「ごめんね。ちょっといい?」

「うん。どうした?」

「昨夜も、例の電話が鳴ったの。怖くて」

「今夜も鳴りそう?」

「分からないけど、怖いの」

「じゃあ、俺がこれから佐々木さんのアパートに行くよ。電話が鳴ったら、俺が彼氏だって言って、追い払ってやる」

「いいの?迷惑じゃない?」

「全然、気にしなくていいから。気持ち悪いじゃんか」

「ありがとう。何時頃に来られる?」

「今から十分後には行くから」

「ありがとう、待っている。じゃあね」電話を切ると最低限の支度をし、心の準備をした。これから彼女の部屋に行ったら告白しよう。恋愛感情のまま終わらせたくない、祐美と付き合いたい、ずっと好きだったと伝えたい。

俺は自転車で祐美の部屋へと向かった。

「ごめんね、遅くに。ありがとう」彼女は俺を部屋へ招きながら言った。部屋は、以前来た時と雰囲気が違った。模様替えしたようで、変わった部屋には、彼女のセンスの良さが光っていた。

こたつに座ると、祐美の不安をかき消すために、バイト先で起こった面白い出来事や、高校時代の失敗談をしたが、胸が高鳴っていて、何を話したのか全く覚えていない。俺にとって、無言電話男の撃退はどうでも良く、「如何に告白を成功させるか」に全神経を集中させていた。

 他愛のない話を一時間ほど続けてから、俺は意を決した。こたつに入っている祐美を後ろから抱きしめ、

「ずっと前から、佐々木さんが好きだった」と精一杯、声を絞り出して告げた。

「亮介くん、最近、私と一緒に居るから、そう思うだけだよ」

「違う。武が来た時も、ディズニーランドに行った時も、クリスマスパーティーの時も、ずっと佐々木さんだけを見ていた」

「同じ高校出身だから、話し易いだけだって」

「そうかもしれないけど、俺は、佐々木さんが好きだ。あの時、サークルで偶然出会った時から、運命を感じていたんだ、好きで好きで仕方ない」と言うと、祐美は何も言わなくなった。

俺は我慢が出来なくなり、彼女の顔を引き寄せキスをした。祐美は抵抗もせず、何も言わなかったので、そのまましばらくキスを続けた。

「抱きしめたい。ベッドに入ろうよ」

「恥ずかしい・・・。でも、いいよ」部屋の電気を消し、抱き締め合いながらキスをした。

「キスだけだからね」と祐美に釘を刺された。

「プルルルルル プルルルルル プルルルルル」その時、電話のベルが鳴った。時刻は午前零時過ぎだった。

「俺、出るね」

「いいの、このままでいて」

「でも、せっかく来ているんだから」

「いいの。傍にいて欲しいの」

「わかった」電話は十五回ほど鳴ってから切れた。その後も、五分おきに二回程鳴ったが、俺は、祐美を抱きしめ、彼女の髪を優しく撫でながら、電話のベルを遠い国の出来事のように聞いていた。

「キス以上のことをしてもいいかな?我慢できないよ」

「えっ、うん。恥ずかしいけど・・・いいよ」嬉しかった。祐美は、既に経験しているようだったが、俺にとっては、生まれて初めてのセックスだった。上手に彼女を抱くことは出来なかったが、お互いの気持ちを強く結び付けることができた気がした。その後二日間は、着替えのために自分の部屋へ一回だけ戻り、それ以外の時間は祐美の部屋で彼女を抱き、眠くなったら抱き合いながら寝るという日を過ごした。

 

 その日から、俺達は交際し半同棲生活を始めた。祐美は、東急東横線の菊名駅前にある、叔母の営む居酒屋で、バイトをしていたため、帰宅が夜の零時近くになる。若い女性の一人歩きが怖かったことと、少しでも一緒に居る時間を作りたかったため、自転車で最寄り駅まで彼女を迎えに行っていた。

祐美が改札から出て来ると、バイト中にお酒を飲み、軽く酔っ払った彼女と手を繋ぎながら、駅の階段を降りた。自転車を俺が押し、その脇を酔っぱらった祐美が歩く。テンションの高い彼女のトークに笑いながら、俺のアパートまで帰った。

部屋に戻ると、祐美はシャワーを浴び、俺のスウェットとクライミングパンツを、パジャマ代わりに着てそのまま泊り、翌朝になると、自分のアパートに帰ってから、大学に通った。しかし、この甘い生活もそう長くは続かなかった。

 

俺は祐美と付き合う前に、冬休みの間、自動車の運転免許を取るため、実家のある佐渡が島で、教習所に通うことを決めていた。祐美と付き合うことになり慌てて、

「今年の夏休みまで延期できない?」と親に頼んだが、同じ集落の教官に既に頼んであることから、

「無理だ」とあっさり断られた。当たり前だ、そこまでこの世の中は甘くない。

いつものように、祐美と部屋で寛いでいる時に、偶然、佐渡が島の話になった。すると突然、彼女が方言交じりで泣き始めた。

「亮介くんがいなくなったら、私どうせばいいの?ねえ、どうせばいいの?」

「二月四日から一か月で帰ってくるから。たったの一か月だよ」直ぐに祐美の頭を撫でながら言った。

「でも一か月もあるんだよ」

「あっという間だよ。本当に頑張って直ぐに帰ってくるから」

「お願い、絶対に早く帰って来てね」祐美はそう言うと黙りこんだ。俺は、その夜彼女を抱くことが出来ず、細く狭いパイプベットの上で、祐美をきつく抱きしめた。

翌朝以降、彼女は俺が実家に帰る日まで、努めて明るく振る舞ってくれた。そして実家に帰る二月四日の朝、俺は沢山の荷物をボストンバックに積め、

「行って来るね。絶対早く帰って来るから」

「いってらっしゃい」と玄関でお別れのキスをして手を振り、部屋の扉を閉めた。扉は「ギー、バッタン」という、いつになく重く圧し掛かるような音がした。

 

 一路、佐渡が島へ向けて移動した。東海道線を終点の東京駅で降りて、上越新幹線に乗り継ぎ、二時間半で新潟駅に着いた。新潟駅から佐渡汽船新潟港まではバスを利用し、新潟港から、また二時間半カーフェリーに揺られないと、佐渡が島へは辿り着けない。

冬の日本海は大いに荒れる。その日も例に漏れず、波高が四メートルもあり、船酔いするほど揺れた。大きく揺れる時は、必ず船底に波が当たり、「ドーン」いう大きな音がする。冬の荒れた夜の航海、乗客を不安にさせる嫌な音が鳴り響いた。

時化で二十分遅れ、佐渡汽船両津港に着くと、母親が迎えに出ていた。

「揺れただろう?」

「揺れた。酔ったよ」

「昨日の方がもっと揺れたって」

「ふーん、昨日じゃなくて良かったわ」

親と他愛のないやり取りをしている間に実家に着いた。

俺が高校を卒業すると同時に、父親は単身赴任になり、母親と小学生の弟が、祖母のいる実家に引っ越した。俺は、小学一年生の時に、父親の異動で佐渡に来て、小学校卒業まで、実家で暮らしたことがあった。(ここで約一か月過ごすのか。何もないから暇しそうだな)着いてすぐに祐美に電話をした。

「もしもし。佐渡に着いたよ」

「船、大丈夫だった?」

「凄く揺れた。船底が『ドーン』って大きく鳴ったよ」

「疲れたと思うから、今日はゆっくり休んでね」

「ありがとう、ゆっくり休むよ。おやすみなさい」

「おやすみなさい」電話を切ると、教習所の書類に一通り目を通してから寝た。

 当日こそ緊張したものの、自動車学校と実家を往復する日々にすぐ慣れた。四月から東京の短大に通うという、女子高生とも仲良くなり、また、教習所の傍にある図書館で、空き時間を有意義に過ごせたため、冬の佐渡が島での生活は、思っていたよりも居心地が良かった。だが、教習では想定外のことが起こった。

この時期は田舎とはいえ、進学や就職が決まった、高校三年生の多くが、教習所に通い、学科の単位は簡単に取れたものの、生徒数に比べ教官と実習車が圧倒的に少ないこともあり、路上教習の空きが無く、空車待ちの日々が続いた。(このままだと早くても、祐美の元に帰ることができるのは、三月下旬だな。何とか急がないと)

俺は教官に頼んで、土日返上で路上教習を行ってもらうなど、様々な手段を尽くした。教習中も、祐美とは週に二回ほど電話でやり取りをしていた。ある日祐美が弾んだ声で、

「冬休みに、実家に帰ろうと思うんだ」

「いつ?」

「三月の初旬にしようかな?」

「親も喜ぶよ」

「亮介くん、新潟市内で逢えるでしょ?」

「あのね。実は言いにくいんだけどさ。今、路上教習が混み合っていて、一日通わないだけで、そっちに帰るのが最悪一週間も遅れそうなんだ」

「それって、逢えないってこと?」

「俺は、早く終わらせて帰り、そっちで祐美に逢うことを優先させたい。ダメかな?」

「それだと、何のために実家に帰るのかわからない・・・」

「ごめんね。一日でも早く帰るから」

「わかった。もういいから」それ以上、彼女は何も言わなかった。散々横浜の俺の部屋で独り待たされ、新潟市内でも逢えないと言われた。「俺が帰る」ことが、祐美の中でゴールになってしまった決定的な瞬間だった。だが、俺はそんなことも知らず、とにかく急いでいた。

 

緊張して行った卒業検定の後、待合室で教官に言われた。

「合格です」予定よりも半月遅い三月十八日だった。(やった、これで晴れて横浜に、祐美の元に帰ることができる)その日の内に、佐渡が島から新潟市に渡り、夜は地元の大学に通う高校のサッカー部仲間の部屋に泊めてもらった。

翌日、友人の車で免許センターまで送迎してもらい、免許証の交付を受け新潟駅まで送ってもらうと、友達に別れを告げ、新潟駅から上越新幹線に飛び乗った。二時間半の移動中、車窓から景色を眺めていたが、美しい風景も、脳裏に焼き付かなかった。

 上越新幹線から東海道線に乗り継ぎ、アッという間にアパートの最寄り駅に着いた。いつもならバスを利用するが、今日はタクシーに乗る。一秒でも一瞬でも早く、君の待つ部屋へ。

「ピンポーン」

「はい」玄関で祐美が返事した。

「ただいま」

「亮介くん、おかえり」玄関に入り抱きしめた後、キスをした。部屋に上がって着替えて寛ぐと、一か月半の間のお互いの生活を話した。俺は色々と話すことがあったが、彼女「特に何もなかった」と言っていた。日付が変わった頃、久しぶりに祐美を抱いた。幸せだった。翌朝、以前と変わらぬ様子で帰って行く彼女を見送り、疲れから二度寝をした。

 俺はその翌日から、祐美との間に違和感を覚えるようになった。彼女と電話をしていても、以前とは何か違う感じがする。その違和感を抱えたまま三月二十三日、俺の誕生日、つまり、生まれて初めて、交際している彼女と過ごす、誕生日になった。

恋人同士であれば、当然お祝いをしてくれるだろうと、ワクワクしながら一日を過ごしていた。(どんな風にお祝いをしてくれるのかな)しかし、幾ら時間が過ぎても、電話も鳴らなければ、アパートに彼女が来る気配もない。ワクワクが徐々にイライラに変わった頃、時計の針は午前零時を指し、俺の誕生日は過ぎてしまった。当然、何もなかった理由が聞きたくて、彼女に電話を掛けた。

「もしもし」

「亮介くん?」

「あのさ。今日、俺の誕生日だったんだけど」

「あ、ごめん。忘れていた・・・」

「もういいよ」思わず電話を叩き切った。

 

その時の俺は、一時的な怒りから感情的になっていたものの、例え彼女が誕生日を忘れてしまったとしても、時間が経てば、また元の鞘に収まると思っていた。だからその日からしばらくは、祐美から電話が掛かって来るのを待っていた。俺が怒ってしまい電話を切った以上、俺から電話をかけるのも気が引けた。

しかし、何日待っても、祐美からの電話は鳴らず、業を煮やした俺は、彼女に電話した。

「もしもし」

「あ、亮介くん。どうしたの」

「俺に全然電話をよこさないから」

「亮介くん、怒ると怖いんだもん」

「ごめん、それは謝るよ。ごめん」

「実はね。言いにくいんだけど・・・。私の中では、『亮介くんが帰って来た』ってことで終わっちゃったの。帰って来て帰って来て、ってずっと思っていたから。帰って来たら、それで想いがスッと抜けちゃったの」

「・・・」

「あと秘密にしていたけど、亮介くんがいない間、クリスマスパーティーで一緒になった川崎君と、八景島シーパラダイスに遊びに行ったんだ」

「でも、何もなかったんでしょ?だったらいいよ」

「川崎君は、二人で会ってみたら、思っていた人とは違った。でも、亮介くんがいない間に、そういうこともしていたの。それは事実だから」

「この前怒っちゃったけど、俺とはやり直せないの?」

「ごめんね。嫌いとかじゃなくて、もう糸が切れちゃった。ずっと待っていたから。『亮介くんが帰って来た』それでおしまいになっちゃって」俺は返事をせずに電話を切った。

 

俺が実家で、教習所に通わなければ、

あの時、新潟市内で逢っていれば、

アパートから徒歩十分の教習所に、通っていれば、

俺の心を満たしていた心地よい温もりは、後悔から濁水になり、それが次から次へと外へと溢れ出て、遂には、心が枯れ果ててしまった。

 

 

 追憶から我に帰り、腕時計を見ると時刻は四時三十分過ぎだった。その辛い別れがあったからこそ、何かの運命で、この時代のこの時期に戻って来たのであれば、神田美香子との時間を、あの頃以上に楽しく過ごしたいと強く思った。

テラスに着くと、いつも俺はお茶を買いに行く。

「美香子は何を飲む?」

「お茶でいいよ」スリムな美香子は、いつもお茶を飲んでいる。アメリカでは、コーラなどのジュースをよく飲んでいたせいか、帰国してからは、以前にも増してお茶を飲むと落ち着くと言う。

「じゃ、買って来るから」俺は、テラスの裏手にある、いつもの自動販売機で、コーラと十六茶の三百五十ミリリットル缶を買った。

「これでいい?」と、ワザと聞いてみる。美香子は十六茶が好きだったこともきちんと覚えている。

「ありがとう。このお茶おいしいよね」

「そう言うと思ったよ」

「亮介くんは、いつテスト終わるの?」

「俺は、来週の木曜日で終わるけど、美香子は?」

「私も木曜日」

「ひょっとして同じ倫理学?」

「国際政治学だよ、残念でした」と美香子が笑う。

「じゃあ、お互い二十三日に、テストから開放されるんだね。テストって本当にウザイ。テストの代わりに、レポート提出にしてくれないかな?」(本末転倒なことを良く言えたなと思う)

「学生だから仕方ないんじゃない?テストがあるのは当たり前でしょ」と、笑いながら軽く窘められた。この笑顔が大好きだ。美香子と一緒にいる時間はいつも楽しく、その笑顔は、祐美と別れ暗く沈んでいた俺の心に、眩い光を照らしてくれた。(いつ現代に戻れるか分からないけど、限られた時間を彼女と楽しく過ごすため、何か行動を起こさないと)

「来週月曜日の予定は?」何気なく俺は聞いた。

「一限から二限までテスト。午後は受講自由の講義」

「じゃあ、俺も午後から空いているから、その講義サボって、一緒に海に行かない?」

「いいね、私も海が大好き」即答だったので、逆に少しだけ躊躇った。

「海で遊ぼうよ、江ノ島でもいい?」

「もう夏だもんね。江ノ島かー、気持ち良さそう」と、海を想い浮かべ、遠くを見つめる彼女を見ていると、うっかり抱きしめたくなる。

 しばらくラウンジで談笑し、時計を見ると五時だった。ちょうど七時から、横浜でのバイトがあったので、時間調整も兼ね、キャンパスから最寄り駅までの長い下り坂を、二人で歩いて帰った。

俺は、友達から譲ってもらった原付を押しながら並んで歩いた。(駅前に駐輪場があったよな。バイクはそこに停めよう)俺は美香子と一緒に居るだけ、いや、無言で歩いているだけでも十分愉しかった。

当時の記憶を思い出しながら、脳をフル回転させて会話をした。でも、彼女が隣に居たので、不思議と疲弊しなかった。

「笑っていいともは、金曜日が一番面白いと思うよ」

「深夜番組の『とぶくすりZ』って知っている?あの前身の『とぶくすり』は、もっと面白かったよ」

「夏だから、白いサンダルが欲しい」など、どうということのない話を沢山した。若者の会話は、シャボン玉のようだ。口から浮かんでは消えゆく会話が楽しくもあり、これが若さだなと思った。

 

 最寄り駅に着き、東海道線に乗る。この路線も他の路線と同じように、ラッシュ時には通勤・通学で混み合うが、俺達が乗った電車は、珍しく席が沢山空いていて、ボックスシートに向かい合って座ることができた。来週月曜日の江ノ島行きの話で盛り上がり、気付いたら、アッという間に横浜駅に着いていた。

「じゃあ月曜日ね。楽しみにしているよ、気を付けて帰ってね」

「私も楽しみにしているね。じゃあね」と、別れの挨拶を交わして降りた。バイト先は、横浜駅構内にある相鉄ビルの地下二階にあった。JR改札を出て相鉄ビルまで五分歩き、ビルに入ると、地下三階にある更衣室で着替えてから、

「おはようございます」と元気よく店内に入る。このバイトは、店が大して混まないおかげで、バイト仲間と会話出来て楽しかったが、先輩がクスリをやっていることが判明してから怖くなり、直ぐに辞めた。

この日も、何か特別なことが起こる訳でもなく、適当にバイトをこなし帰路に着いた。下りの電車は、仕事帰りのサラリーマンやOLで混んでいて、行きとは違い、座ることが出来なかったが、若い体のおかげで、座れずとも疲れを感じることは無かった。

 

同じ日本でも、太平洋側の夏は蒸し暑いと思う。俺は、初夏の暑さですら辛く感じた。(原付を駅まで持って来て助かった。これで蒸し暑さから逃れられる)いつもなら、自転車を十五分も漕いで家路に就かなくてはいけない。

俺は、推薦で入学したため、一般入試が行われている最中の二月、つまり選択肢がある内にアパートを決めた。しかし、初めて借りるアパートだったので、公共交通機関へのアクセスの良さ、スーパーやコンビニの有無などを、十分に考慮して借りたわけではなく、周辺の自然環境を優先させてしまった。その結果、駅からバスで十分、徒歩二十五分、自転車で十五分という物件を契約した。入学後たった数か月で、大学と駅の間にある物件を借りればよかったと、激しく後悔したものだ。

 原付で快適にアパートまで着き、部屋に入ると、モワッとした空気が充満し、即座にエアコンを付けて、窓を開け換気した。アパートはちょっとした丘の上に建っていて、部屋は三階にあり、そのベランダからは、遠く江ノ島花火大会や、鎌倉花火大会の打ち上げ花火を見ることができた。

「もうすぐ江ノ島花火だな」そう呟くと、冷蔵庫に入っていたキンキンに冷えたビールをグビッと飲んだ。

ベッド兼ソファーで寛ぎ、時計を見ると、午後十時半を過ぎていたので、手帳を見て今後の予定を確認する。七月十七日に「あ」と書いてある。(何のことだろう?)その先の予定はしばらく無いが、七月二十四日金曜日に「江ノ島花火」と書いてある。大学時代の俺は、行く予定がなくても、開催される各種イベントを、手帳に記す癖があった。ひょっとしたら、彼女ができて一緒に行けるかもしれない、というほのかな期待を込めて。

 

手帳を確認し終わると、現代に戻る方法について考えた。布団に入って眠っている間に、タイムスリップしたのだから、同じように布団で寝ると、元に戻るのではないか。ひょっとしたら、インフルエンザがこの出来事のキーで、この時代でインフルエンザにかからないと、戻れないのかも知れない。何がキーなのかは分からない。とりあえず、今晩寝てみれば何か分かるだろう。

「プルルルルル」と、突然電話が鳴った。

「もしもし」

「亮介くん、亜子だけど。明日の約束忘れていないよね?」いきなり約束なんて言われても、今日タイムスリップして来た俺に分かるはずもないが、話を合わせた。

「もちろん、ごめん、何時にどこで待ち合わせだったっけ?」

「相鉄横浜駅の改札だったでしょ、時間は十時。もう、しっかりしてよ」と窘められた。

「そうだったね、ごめんごめん。大丈夫、予定は空けてあるから」と適当に合わせる。

「無印良品とビックカメラを見たいから、よろしく」

「了解。じゃあ、また明日ね」そう言って受話器を下ろした。亜子・・・、山川亜子か。

 

山川亜子は、大学に入って直ぐに仲良くなった女友達の一人で、一時期は、このまま付き合うかもと思うほど、非常にいい関係になった女性だ。

亜子が女友達と三人で、俺の部屋に遊びに来た時、友達が気を利かして、俺と彼女を三十分間、二人きりにした。普通の男性なら、気になる女性と二人きりになれば、キスをしたり抱きしめたりするだろう。しかし、これまで女性と付き合った経験の無かった俺は、なんとこのビッグチャンスに、亜子と話しながら、米を一合といでいた。現代の俺ではまずあり得ない、純粋過ぎるにも程がある。ある意味女性に失礼だ。大学時代の俺は、このように目を覆いたくなる失態ばかりし続けていた。

その時は、制限時間が過ぎ、友達が戻って来てしまい、俺と亜子の間には、何も起こらなかった。彼女は後に、友達と立ち上げたサッカーサークルのマネージャーになり、俺がサークルを辞めた後も、仲良くしてくれた。

「明日は、横浜で亜子の買い物の付き添いか」果たして、このまま明日が来て、亜子と過ごすのか、今晩寝たら現代に戻るのか。ベランダに出て星空を見ながら、残りのビールを一気に流し込んだ。

 

翌朝、目を覚ますと、昨日と同じ部屋にいた。まだタイムスリップが続いているようだ。(ジタバタしても仕方がない。やはりこの時代で、インフルエンザにかかるまで、戻れないかも知れないのか)いつもよりゆっくりと起きて、トーストとベーコンエッグ、牛乳という定番の朝食を食べ、九時半に家を出た。

 相鉄横浜駅。いつも人で混みあっている改札口に亜子はいた。彼女は年齢の割に色気のある女性で、しょっちゅうナンパされるらしい。彼女がナンパされる直前に声をかけた。

「ごめん、亜子待った?」

「全然待ってないよ。亮介くん、いつも時間に正確だから」と、笑いながら褒められた。

この当時は、自分の血液型を知らなかったため、几帳面なA型に間違いないと、信じて疑わなかった。自分でもそう思う程、きちんとしていた、いや、きちんとし過ぎていた。後年、人間ドックで、血液型がAB型であることが判明すると、ショックで寝込むのであるが。

「行こうか。まずは何を見たいの?」

「無印で雑貨が見たいから、まず無印に行こうよ」と、言われるがままついて行った。女性の言う「買い物」は、理解できない。いわゆるウインドウショッピングが、俺には出来ないのだ。買い物イコール物を買うことであって、見て廻ることではない。

亜子も、買いたい雑貨があるのではなく、様々な雑貨を見て楽しんでいる様子だった。彼女の性格からして、急かすような発言はタブーで、黙って付き合うのがベストだ。

「どう?」

「うーん、迷うなー。東急ハンズも見ていい?」

「いいよ。せっかくだから、亜子の好きなようにしなよ」

「優しいよねー、亮介くん」と意地悪そうに笑う。亜子が見せる笑顔も可愛いが、美香子の笑顔には敵わない。

「ハンズに行く前に、ビックカメラで、カセットテープを買ってもいい?」俺が「だめだ」と言わないことを承知の上で聞いてくる。

「いいよ」無印の次にビックカメラへと向かった。

「すぐ買ってくるから、ここで待っていて」と言うなり、店の中へ消えていった。

横浜のビックカメラは、川沿いの相鉄第二ビルの中にあった。店の前にある通りは、一方通行の小道だが、大勢の人が歩いていた。俺は人の流れをボンヤリ眺めながら、大きく深呼吸をした。この時代に来てから二日しか経っていないが、少し疲れ気味だった。(若ければ環境の変化にもっと容易に順応できたかもしれない)体は若く、エネルギーで溢れるが、脳は中年のままという弊害が出ていた。

ふと空を見上げると、雲行きが怪しくなって来た。ひと雨降りそうだ。亜子がテープを買って戻って来ると、

「雨が降りそうだよ。傘も持ってないし、帰ろう」と彼女を促し、横浜に来て一時間足らずで帰ることにした。

亜子の家は茅ヶ崎にあり、お互い東海道線の停車駅に住んでいるので、横浜から一緒に東海道線に乗った。土曜日のせいか、車内は混み合っていて、吊革に掴まってやっと立って居られるような状況だった。俺の住んでいる駅までの間、満員のせいで、殆ど会話をすることができなかったが、電車が駅に滑り込んだ瞬間に、亜子が聞いてきた。

「亮介くん、今好きな人居るの?」突然聞かれて、直ぐに答えることができなかったが、一呼吸置いて、

「居るよ。今は」とはっきり答えた。頭には、美香子の笑顔が浮かんでいた。

「そっか・・・、分かった、じゃあね」と彼女は手を振った。俺も手を振って、電車が発車すると改札に向かった。

駅を出ると、すでに雨が降っていたので、急いで自転車を漕ぎ、アパートへと帰った。部屋に入ると、雨で濡れたTシャツを脱ぎ、バスタオルで濡れた体を拭いた。白いTシャツと短パンに着替えると、少し気分も落ち着いた。それにしても、亜子に対してはっきりと、「居る」と言い切った自分に驚いていた。

「昔の俺なら、曖昧にしていたな。だから恋愛が上手くできなかったんだよ」と呟いた。

 その日の午後は、ランチに冷凍ピザを食べ、クーラーを効かせた部屋で休んだ。亜子の付き添いで疲れたせいか、気付いたらウトウトと昼寝をしていた。起きると、雨は止み時計を見ると五時だった。

 

昨日は気付かなかったが、冷蔵庫の上に置いている電子レンジの上には、ジン・ビームが一本置いてあった。大学入学前に、親戚の若夫婦とカラオケに行った際、

「亮介、この酒は安くておすすめだよ。一人暮らしのお供にしなよ」と言われ、その言葉を真に受けて、着実にお供にしていた。今はもう飲まなくなったジン・ビーム。

冷蔵庫にあった挽肉と野菜と卵で、得意料理の一つ「和風オムレツ」を作った。肉とニンジン、ピーマンと玉ねぎを炒め、醤油とみりんと砂糖で味付けして、卵で包むだけの簡単な料理だ。白米も炊き、六時過ぎには食べた。ごはん三杯とオムレツを食べ、(我ながらいつ食べてもこのオムレツは美味しい)と思う。男女問わず、これまで様々な人にふるまって来たが、皆が美味しいと褒めてくれた。

夕食の後片付けを終えると、NHKのBSを見ることにした。このアパートは、大家さんがBSと契約していて、NHKの受信料を払っていないにも関わらず、その恩恵に預かれた。

六時から七時までは、アニメのキャプテン翼とうる星やつらの再放送があり、七時前に短いニュースと二分程度の番組紹介コーナーがあった。そのコーナーのバックミュージックで流れる、ピアノ演奏曲が聴きたくなり、テレビのリモコンのスイッチを押した。

テレビが付いてすぐに、西村由紀江の「やさしさ」という曲が流れた。この頃は、アーティスト名も曲名も分からなかったが、結婚後にインターネットで調べ、やっと両方が判明し、CDを購入したという、探し求めて辿り着けた曲だ。二日過ごしているだけだが、この時代のように、ネットや携帯のない不便さが、逆に心地良かった。人と人の交わりが深く、現代よりも何事においても、「リアル」な時代だと思った。

そんなことを考えながら、曲を聴き終えると、冷蔵庫の上のジン・ビームを手に取り、人差し指二本分だけコップに注ぎロックで飲み、アルコールが血中に行き渡る前に決めた。「いつ戻れるのかを今後は考えないことにする」どうあがいても、自分の力では如何ともし難く、今、与えられたこの環境で、如何に有意義に過ごすかを考えた方が、建設的だと自分に言い聞かせた。ジン・ビームのロックを五杯飲むと、また眠くなって来たので、シャワーをさっと浴びて、ベッドに横になり眠りに落ちた。

 

 この時代に戻って来て三日目の一九九四年七月十八日。昼前に起床し、直ぐに空腹を感じたので、残っていたシリアルに牛乳をかけて食べた。これからの日々に備えて、今日はお金を口座からおろし、食料品や日用品を買い込むことにした。徒歩五分圏内にスーパーがあるので、そこで手頃な食材とワインを購入し、スーパーの直ぐ傍にあるホームセンターで日用品も調達した。

 買い物から帰ると、明日の一限と二限に行われるテスト勉強を開始した。机に向かって二時間、ノートのコピーを頭に叩き込んでいく。毎回講義に出る代わりに、これで単位が取れるのであれば、決して嫌な作業ではない。

勉強を終えると、夕食のカレーライスを作ることにした。米や人参、ジャガイモなどの食材は、実家が稲作と畑作をしているため、ストックがないと電話さえすれば送ってくれる。そのため、カレールーと肉を買えば、安価で沢山作ることができるので、大学入学当時は、頻繁に作っていた。俺は隠し味にワインを入れる。ワインのアルコールを熱で飛ばし、煮込むと、味に芳醇な膨らみが加わるため、口当たりがマイルドになる。手際良くカレーライスを作りさっと食べる。昼食がシリアルだったので、あっと言う間に大盛り三杯を食べた。

夕食を食べ終わると、ベッドに横たわり、今日もBSにチャンネルを合わせる。この時代にいる間は、西村由紀恵の「やさしさ」を聞きたかった。過去と現在のはざまに漂っている自分を極力癒したいと思った。

小学校五年生までピアノを習っていたせいか、食後の一時に流れるピアノの音色が心地よく感じる。しばらく余韻に浸った後、夕食の後片付けをし、まるでルーティーンのように、ジン・ビームのロックを飲む。この時代の俺は、それほど酒に強くなかったので、五杯で止めることにした。

この日の夜は、七月中旬にしては涼しく、クーラーを付けず、網戸にしてベッドに横たわった。ベランダの向かいにある、株式会社新日本ペンキの社員寮から、子どものはしゃぐ声が聞こえる。絢と美夏も元気にしているだろうか。二人の子どもと由香のことを考えている内に、ウトウトし、気付くと深い眠りに落ちていた。

 

 七月十九日月曜日、今日は九時からテストだ。だが昨日しっかりと準備をしているので、前回とは違い、気持ちに余裕がある。早くテストを終わらせて、美香子と海へ行こう。出された問題に次々と答えていく。真面目に講義を聞いて、ノートのコピーを拡散させてくれた、まじめくんに感謝だ。二限のテストは、終わり次第提出すれば、退席可とされていたテストだったので、解答用紙を提出し、友達に「じゃあ、また明日」と手を挙げて、いつものラウンジで美香子を待つと、程なくして駆け足でやってきた。

「亮介くん、お待たせ」と美香子が声を弾ませて言うと、

「よし、行こうか」

「うん、行こうよ」と笑顔で彼女が答えた。

キャンパスから最寄り駅まで、原付に二人乗りして向かった。二人とも法律に違反していることを知っているので、ドキドキしながら警察に見つからないよう、細い道を選んで進んだ。俺は何よりも、彼女の胸が背中に当たりドキドキしていた。

駅前の駐輪所にバイクを停め、駅から東海道線に乗り、藤沢駅で降りた。藤沢駅から小田急江ノ島線で、江ノ島まで向かう道中、ずっと他愛もない話をしている。しかし、比較するのも申し訳ないと思うが、先日の亜子と比べると、美香子と一緒に居る方が遥かに楽しく、心地良く感じる。純粋に、彼女と二人きりで海に遊びに来られて、嬉しいと思った。

 

終点の片瀬江ノ島駅で降り、夏の江ノ島に着いた。梅雨明け宣言がまだ出されていないせいか、海水浴客も疎らだった。何かしら遊び道具が欲しくて、駅前のコンビニでビーチボールを買い、砂浜に着くと日差しを浴びながら、バレーボールやサッカーをした。それに飽きると、お互い海水をかけ合ったりしてはしゃいだ。時折、美香子を見ると、終始優しく俺を見つめながら、微笑んでいた。ひと通り遊ぶと、二人とも疲れてしまい、砂浜に座って休んだ。

今だ、俺はこのタイミングで絶対に言わなくてはいけないことがある。あの時代と同じあのことを。今回こそは逃げずに、実現させなくてはいけない。俺は何気なく切り出した。

「今週の金曜日に、江ノ島花火あるよね?」

「うん」

「美香子は見に来るの?」

「前に話した、帰国子女友達の坂田くんと来る約束をしているよ」

あの時と同じ返事だ。美香子は、日本に帰国後知り合った、別の大学に通う、同じ帰国子女の坂田という男性から、好意を寄せられていた。彼女と合宿で知り合った時に、

「私も、少し気になっている人」

と話していた彼だが、合宿後は、殆ど坂田くんの話しをしなくなったので、俺もさほど気にしなくなっていた。俺は、あの頃と同じように唐突に聞いた。

「花火大会の当日、もしも、俺がこの片瀬江の島駅で待ち伏せをして、美香子を俺の部屋まで連れ去ったとしたらどうする?」

「いいよ」なんの躊躇もなく、彼女は答えた。

「本当に?坂田くんと来ているんだよ」

「いいよ」

「わかった。じゃあ、当日、駅で待ち構えて、美香子の手を握って、ダッシュで電車に乗って逃げるよ、いい?」

「わかった、いいよ」

「本当にいいの?」

「本当にいいよ」そう言うと、美香子は、可愛らしい笑顔を見せた。言うべきことは言った、後は実行するだけだ。

俺も彼女に微笑んでから、

「お茶買ってくるね」と言い、自販機でお茶を二本買った。その後、夕方まで美香子と海を見ながら、ゆっくりと過ごし、暗くなる前に駅へと向かった。

「当日、ここに立って待って居るから」と、駅舎にある赤い柱のうちの一本を指した。

「うん、わかった」と彼女は頷いた。おそらく、花火の当日を待たずとも、これまでの経験上、今夜このまま家に連れて帰ることができるだろう。しかし、ドラマのような略奪を実行しないと、過去にきちんと清算ができない。電車に乗り、江の島花火の話をしながら帰ったが、この黄昏時に映る、少しだけ日焼けした美香子が、いつもにも増して可愛く、彼女が俺から目線をそらす度、何度も彼女を見つめた。

 駅からの帰り道、途中コンビニに寄り、夕食の弁当を買う。今日は遊び疲れて、さすがに夕食を作る気がしなかった。家に着くと七時を過ぎ、ピアノの音色を聞き逃したので、早速夕食を食べる。この頃のまだ発展途上にある、コンビニ弁当を懐かしく思いながら食べ、食べ終わるとゆっくりと風呂に入った。湯船に浸かると、日焼けした肌がヒリヒリすると同時に、美香子と過ごした楽しい時間を思い出し、彼女から言われた、「(連れ去っても)いいよ」の言葉に一人喜んだ。お湯の中に頭を沈め、(江ノ島花火の翌日まで、この時代に居させてくれ)と願かけのように念じた。

 

七月二十日火曜日、今日もテストは続く。いつものように対策をして、キャンパスでテストを受けた。倫理学の合宿が終わってからは、一日の終わりに必ず美香子とテラスで待ち合わせ、他愛のない話をしてから帰路に就く。今日もいつも通り、彼女と会話をしている。昨日約束した江ノ島花火のことは、俺も美香子も意識しているからか触れず、俺は、明日からの予定を彼女に聞いた。

「美香子、明日から金曜日までの予定は、どうなっているの?」

「明日、明後日は、午前中がテストで、金曜日からは、夏休みだよ」

「明日と明後日もここで会える?」

「二日とも用事があって、午前のテストが終わったら、直ぐに家に帰らなきゃ行けないの。ごめんね」

「仕方無いね。でも、テストが終われば長い長い夏休みだねー」

「長い長い、ね」と彼女は笑った。今夏の休みは、何が起こるのだろう。「決戦は金曜日」ドリームズ・カム・トゥルーの曲で、高校生の時によく聞いていたこの曲の歌詞のように、万物が俺の背中を、強く強く押して欲しいと願った。

合宿で知り合ってから約二か月が経ち、今日も二人で歩いているのを見かけた友達から、「今日、一緒に歩いていた綺麗な子、彼女でしょ?」と聞かれるが、毎回アヤフヤに答えていた。あの当時、付き合う手前まで駒を進めておきながら、王手を指せなかった。だからこそ、美香子に江ノ島花火の話を切り出した時から、奪い去ったら絶対に付き合うと、強く心に決めていた。

 

 七月二十一日水曜日は、朝から雨が降り続いていた。今日と明日は三限と四限にテストがあり、それが終われば待ちに待った、長い長い夏休みに突入する。社会に出ると、七月の下旬から九月の中旬まで、約二か月も、正当な理由もなく休むことは不可能だ。会社を辞めるしかない。タイム・イズ・マネーであるが、当時の大多数の学生は、与えられた贅沢過ぎる程の自由な時間の価値を、考えていなかった。友人の落合紘一は、

「(大学四年間は)人生のオアシスだから、満喫しないと」と、大学の存在意義を捉えていて、ある意味では達観していた。

 

昼前にゆっくりと起き、昼食にトーストとベーコンエッグを食べる。俺は、ハムエッグよりもベーコンエッグの方が好きだ。何故かと言うと、ハムは焼いてもあまりカリッとしない。目玉焼きと言うものは、カリカリに焼いたベーコンに、卵を落として、ウスターソースをかけて食べる、このベーコンとウスターソースの黄金コンビが、一番美味しいのだ。ハムはサラダにも使えるし、汎用性があるのだが。(目玉焼きにはベーコン、これだけは譲れない)ゆっくり昼食を食べていると、十二時半になっていた。三限は経済政策論で四限は経済原論のテスト。この二教科は、友人の落合から、電話で講習をしてもらったので自信がある。

 

そろそろ行かなくては。雨のせいで原付に乗れないので、久しぶりに徒歩で、キャンパスに向かうことにした。道中、新興住宅地に作られた急な階段を上る。大学一年の頃は、階段の最上段からの見晴らしが素晴らしいことと、澄み切った青い空が清々しく、決して徒歩で通学することは嫌ではなかった。また、当時好きだった女性に偶然会うこともあり、急な坂が多い通学路だが、徒歩で通うのも悪くはないと思っていた。

しかし、人間とは簡単に楽な方に流れてしまうもので、一度バイクの快適さを味わうと、二度と徒歩通学に戻れなくなってしまった。人間とは分かりやすい生き物だ。

階段の真ん中まで来たところで振り返ってみると、曇天の向こうに晴れ間が見えた。この雨も三限のテストが終わる頃には、止んでいるだろう。一歩ずつ力を入れてまた上り始めた。

 

 三限のテストが終わり、キャンパスの3号館から出ると、雨は上がっていた。この横浜市の外れにあるキャンパスは、高台に作られているため、とても見晴らしが良く、みなとみらい地区にある、ランドマークタワーや、新興住宅地になった、遠く丘陵地帯まで見渡せた。先程の雨のおかげで、丘陵に虹が架かっていたので、しばらく見とれていると、

「亮介、何してんの。行くぞ」と友達が急かす。地方から大都市に出て来た俺からすると、首都圏の人間は、身近にある自然を大切に感じないように思えた。上手く表現できないが、地方都市で育った俺とは、自然に対する感じ方が違うような気がした。

「先に行っていて。次は8号館だよな、席も頼む」

「遅れんなよ」と言いながら、友人達は、テスト会場に向かって行った。

視線を戻すと、虹は消えかかりそうになっていた。諸行無常、全ては常で有り続けることは無く、万物は変わり続けていくのだ。人生も同じだ。この頃の俺は、キラキラした未来が当然のように待ち構えていると思っていた。勿論、人生観について考えることもなかった。

人生には、いい時もあれば悪い時もあり、谷がないと山に登り見晴らした時、その眺望にさほど感動しない、先ほどの通学路と同じで、急な階段を上って初めて、目の前に広がる澄み渡る青空の存在意味を、俺は学ばなかった。人生について少しでも考えていれば、俺はもっともっと充実した青春時代を過ごせたような気がする。

苦笑し見上げると、虹は完全に消えていた。8号館に急ぎ、友達の用意してくれた席に座り、テストを受ける。落合のおかげで、今日のテストは楽勝だった。終わり次第退出していいテストなので、いつものように、「また明日」と手を挙げて、そのまま寄り道せず、アパートに帰ることにした。

 

 帰路の長い階段道、下る前に遠くの景色を眺めると、往路の雨天とは打って変わって、晴天がどこまでも続いていた。晴れ渡る空を見て久しぶりに爽快な気分になった。原付という便利な物を手にすると、こういった自然の美しさに気付かなくなってしまうのかも知れない。便利さを追い求めてきた結果、大都会では残された自然も少ない。だから、都会の人はわざわざ遠くまで時間とお金をかけて出かけ、自然を感じリフレッシュする。身近に自然を感じることのできる、地方から出て来た人間としては、本末転倒のような気もするが、それが都会に生きると言うことなのだろう。

今日は美香子に会えなかった。合宿で彼女と知り合ってから、ほぼ毎日顔を合わせていたので、寂しい気持ちになった。(晴天で爽快な気分になったのに、一日彼女に逢わないだけで、こうも気分が変わるものか。俺は、今、自然ではなく、美香子に満たされたい)そう思いながら、階段を下り、「雨が乾きはじめた匂い」に満ちた道を歩いて帰った。

 

 家に帰って夕食の準備をした。焼きそばを作ることにし、家にある適当な野菜とベーコンを、買って来た焼きそば麺と炒めれば完成する。野菜も摂取できて、カレーライス同様安価に作れ、何より簡単なところがいい。

夕食を食べ終わると直ぐに、BSを付ける。今日は水曜日、確かこの時期に貧乏人が金持ちに伸し上がって行く、サクセスストーリーを題材にしたドラマがあったはず。明後日、美香子と会った時の話題作りのためにも、テレビ番組を積極的に見た。

この頃は、周りの学生がそうだったように、毎日深夜の零時か一時まで起きて深夜番組を見ていた。今のテレビ業界の衰退ぶりが信じられない程、この当時のテレビ番組は面白く、視聴率が二十パーセントを超える番組も多かった。テレビを見始めてしばらく経ち、夜の十時頃に電話が鳴った。

「もしもし」

「もしもし、亮介くん。私、亜子」亜子からの電話だった。

「どうしたん」

「今日、テストが終わったら話そうと思ったけど、亮介くん、さっさと帰ったから」

「今日のテストは完璧だったから、速攻で帰ったよ。で、話って何?」

「うん、亮介くんがこの前言っていた好きな人って、いつも一緒にいるあの人?」

「え、なんで」

「今更なんだけどさ、私と亮介くん、大学に入って直ぐに、いい感じになったことあるでしょ」

「そうだったね」

「それで私はね、ずっと亮介くんが告白してくれるのを待っていたの。だから、サッカーサークルのマネージャーにもなったんだし」

「告白って?」

「『好き』って、はっきり言って欲しかった」

「でも周りからも、仲のいい友達としか、見られていないじゃん」と、とぼけた。

「それは私が素振りを見せていないだけ。もう、女心が分からないんだから」

「女心が分かったら、今頃苦労していないよ」

「そうかもね。それで、あの子が好きなの?じゃなければ・・・」

「そうだよ、あの子だよ。美香子ちゃんって言うんだけど、倫理学の合宿で知り合ったんだ」俺は続けた。

「実を言うと、明後日の江ノ島花火に、彼女が男友達と二人きりで見に来るんだけど、俺が改札で待ち伏せして、彼女を奪い去るつもり」

「本気でそんなことを言っているの?」

「俺は本気だよ、必ず実行する」

「そうなんだ」しばらく黙ってから亜子は言った、

「わかった。じゃあ、一つだけお願いがあるんだけど」

「何、お願いって」

「今、駅に居るの。亮介くんの部屋に遊びに行ってもいい?」

「え、茅ケ崎の自宅に居るんじゃなくて?」

「うん、大学の最寄り駅の公衆電話からかけているの」

「うーん、わかった。もう夜の十時で遅いし、バイクで駅に行くから。駅から動いちゃだめだよ」

「うん、改札で待っているね」と言うと、俺の返事を待たずに、亜子は電話を切った。

 

 俺は急いで原付に乗り、駅に向かった。(俺の部屋に来たいって言ったよな、何故そんなことを)夏の夜を疾走して駅へと急ぎ、駅の階段下に無造作に原付を置くと、急いで改札に向かった。改札に着くと、白いワンピースを着て、サンダルを履いた亜子が立っていた。

「どうしたの?こんな時間に」本当に彼女が待っていたことに驚きながら聞く、

「学校帰りに、亮介くんの部屋に直接訪問して、話がしたかったんだけど、行き方が分からなくて。それで一度帰ったんだけど、やっぱり今日のうちに話しておきたいと思って。来ちゃった」と亜子は笑った。

「とりあえず、駅周辺をうろうろしない方がいいから、俺の部屋に行こうか。それが亜子のお願いなんでしょ?」

「うん。お願いします」俺は、彼女を原付の後ろに乗せ、警察に見つからないよう、細心の注意を払い、アパートへと向かった。当然、幹線を走るような真似はしなかった。

 アパートに着き部屋に入ると、玄関で靴を脱いでいる俺の背中に亜子が抱き着き、

「亮介くんの気持ちはもうわかったから、私の気持ちを静めて欲しいの」と言ってきた。

「どうやったら静まるの?」

「抱いて欲しい」一瞬間をおいて、

「わかった」と言うと、俺は振り向き亜子とキスをした。

「亜子、シャワーを浴びなよ。湿気で汗かいていると思うよ」と言い、バスタオルと着替えを渡すと、彼女はユニットバスに入って行った。

 

この当時の俺であれば、美香子と言う大切な女性がいるにも関わらず、別の女性を抱くことなど、到底出来なかった。しかし、今は円熟した大人の脳で考えている。気持ちの行き場をなくした亜子を抱くことで、彼女の気持ちが晴れるなら、先の無い感情を消すことができるのなら、彼女の望み通り、俺は亜子を何度でも抱く。これが大人の優しさだと信じて疑わない。

 俺は、わざとシャワー中のユニットバスをノックした。亜子がびっくりして

「亮介くん、どうしたの?」と聞いてきた。

「俺も入っていい?」

「え、恥ずかしいよ」

「じゃあ、電気消すから。それならいいでしょ」

「うん・・・、いいよ」恥ずかしそうに亜子は答えた。俺は、全裸になりユニットバスのドアを開け、シャワーカーテンをめくると、シャンプーをして、髪が濡れたままの亜子がいた。

 俺は彼女に口づけすると、亜子の胸を優しく揉み上げた。小さな乳首を口で軽くかむと、彼女の声が途切れてきた。乳首を吸いながら、下の方に手を伸ばし、温かく湿った陰部を触ると、亜子から喘ぎ声が漏れた。舌を絡め、彼女の中にある一部を手で優しく触れると、彼女は我慢できなくなり、

「亮介くん、挿れてほしい」と懇願してきた。しかし、俺は彼女の手を性器にあてがい、手でするよう促した。

俺の指先が小刻みに動き、亜子の愛液が中で充満するのを確認してから、指を中から出した。出すと同時に、彼女は沢山の潮を吹き果てた。俺のものが欲しくてたまらなくなり、我慢が限界に達した彼女は、しゃがんで俺の性器を咥えた。先から少しずつ汁が出てきた頃、俺は亜子の右足を抱え立ったまま荒々しく彼女の中を突いた。

「亮介くん、すごい、いい」亜子は本能のままに感じていた。俺は彼女の体の向きを変え、彼女の大きな尻を目の前にして、今度は後ろから突いた。亜子の中はとても気持ちよく、俺は我慢もせずに彼女の背中に出し果てた。

 

 事が終わると、二人でシャワーを浴び、シャワー室から出た。亜子が髪の毛をドライヤーで乾かし終わると、

「私、もう帰るね」と言い出した。

「十一時半を過ぎていて遅いから、泊まって行きなよ」と、何度も言うが、

「駅まで送ってくれれば、大丈夫だから」と折れないので俺も諦め、原付で駅まで送って行くことにした。駅の改札まで送ると、

「ありがとう」と言い手を振り、亜子はクルッと後ろを向き歩いて行った。

 

 帰りの原付を走らせている時、(亜子の中で本当にひと区切りついたのか。俺の自己満足ではないだろうか)と思ったその時、やっと気付いた。おかしい。俺の記憶では、かつて亜子から、このような内容の電話が掛かって来たことも、俺の部屋に連れてきたことも、彼女を抱いたことも無い。こっちに来たことで、「時空にひずみ」が生じているのか。(考えても分からない、ええい、ままだ)

帰宅後、大人の俺もそう簡単に割り切れるわけではなく、亜子の気持ちを考えると、なかなか眠れなかった。(もしこの時期ではなく、大学入学当時にタイムスリップしていれば、俺は彼女と付き合おうと画策していただろう。この時期に来たことも含めて、運命なのか)気付くとジン・ビームに手を伸ばしていた、飲みたい気分だった。

 

 こっちに来て七日目の朝、七月二十二日木曜日は快晴。昨日と同じで、テストは三限と四限だけだったので、午前中は掃除をすることにした。二日酔い気味ではあったが、九時に起きて先ずはトイレの掃除から手掛けた。

トイレと風呂はユニットバスで、便器と浴槽が並列に置かれている。都会では、両方が独立したセパレートタイプに住んでいる学生の方が、珍しかった。トイレのカバーを外し、便器の裏側までしっかり磨く。使用者は、俺一人しかいないので、大して汚れてはいないが、トイレを綺麗にしておくと、運気が良くなると聞いたので、江の島花火で万事上手く行くよう、願かけも兼ね丁寧に掃除をした。

トイレ掃除が終わると、次に浴槽を掃除した。一人暮らしを始めた頃は、体をボディーソープで洗うために、いちいち浴槽から出て、トイレの前で体を洗い流していたので、浴槽内がそれほど汚れることは無かった。しかし、ユニットバスでの暮らしに慣れてくると、節約のため、風呂から上がる直前に栓を抜き、水を抜きながら体と髪を浴槽内で洗うように変わり、そのせいで、浴槽内に、髪の毛やシャンプーなどのカスが残り、かなり汚れるようになった。それらを洗剤の泡で丁寧に磨き、勢い良くシャワーの水で泡が綺麗に消えるまで流した。

掃除は、気持ちのいいものだ。親と住んでいた時は、しびれを切らした親に命令され、嫌々ながら自分の部屋の掃除をしていたが、一人暮らしを始めてからは、週に一回は必ず部屋中を掃除するようになり、遊びに来た友達からは、「おまえの部屋はいつも綺麗だな」と言われた。(そういえば、亜子が入学当初遊びに来た時も、「亮介くんの部屋、綺麗だね」って言われたな)

 掃除を終えて、シリアルとヨーグルトを食べることにした。ヨーグルトは、二日酔いでもたれた胃腸に効くはずだ。食べ終わりトイレに行くと、棚にシュシュが置いてあった。昨夜、亜子がシャワーを浴びる時に使った物だと、直ぐに分かったが、俺から大学で渡すことはやめ、気付かなかったことにして、亜子から聞かれるまでは、小物入れに保管しておくことにした。シュシュを小物入れにしまい、時計を見ると、ちょうどいい時間になっていたので、キャンパスに向かった。

今日もまた原付通学だ。丘を上って眺望を楽しむことよりも、疲れずに快適に上る方を選ぶ。俺の在籍している経済学部を始め、今日がテスト最終日の学生が多いため、バイク置場には、当時流行っていた中型のアメリカンバイクが沢山停まっていた。STEEDという、当時ホンダが販売して、大ヒットしたバイクが多数並んでいる。原付とは違い、大きなバイクを何台も見ていたら変な気合いが入り、テスト会場の5号館に向かった。

 

今日のテストはいわゆる「ゆるテス」。教科書や参考書を受験会場に持ち込んで、それらを見ながら、つまり解答を見ながら、テストを受けてもいいという、かなり学生に媚びたテスト形式だ。このテスト形式を採用している教授は、学生の人気を集め、年々受講者数を増やし、学内での発言力を増すために行っているのだろうと、今の俺は邪推した。当時は、「楽勝」位にしか思わず、物事の本質を見極めようとしなかった。

当然、このようなテストに対策してくる学生など居ない。皆が明日から始まる、いや、厳密にはこのテストの終了と共に始まる、夏休みの話をしていた。明日の江ノ島花火に彼氏や彼女と行く、という話もちらほら聞こえた。

学生にとって花火大会は、一大イベントだった。その重要性は、バブル前後期の「クリスマス・イヴ」と大して変わりなかった。好きな女性を誘って、一緒に花火を見に行くことが、当時の男子学生のステータスでもあった。

全く危うげなく、ゆるテスを二つ終え、テラスで皆と夏休みの予定を話し合ってから帰った。(よし、やっとテストが終わった、夏休みだ)この頃の俺は、生活費を少しでも節約するため、大学二年から卒業まで、長い夏休みを、実家の佐渡が島で過ごした。でも今回は違う、美香子と長い夏休みを過ごし、素敵な思い出を沢山作ろう。

 部屋に入って、直ぐにエアコンを付けた。今日は、一日中快晴だったため、部屋の温度が三十二度になっていた。今でこそ三十五度を超える猛暑日が当たり前のようになっているが、当時は、三十二度にもなると、異常な暑さのように感じた。体がクールダウンするまで、ボケーっとしながらクーラーの冷風を浴びる。

明日、美香子は浴衣を着て来るのだろうか。彼女が髪をアップにするととても美しい。初めて出会った時もそうしていたからか、初対面の印象が強いのだろう。(アップにして浴衣を着ていたら最高だろうな。浴衣に合わせてどのような髪飾りをしてくるのかな)そんな想像をしながらテレビを付け、明日の天気を確認した。ちょうど六時なので、三十分経てば短い天気予報をやるはずだ。

 

ニュースでは、宇宙飛行士の向井千秋さんを乗せたスペースシャトルが、明日地球に帰って来るというニュースをやっていた。(スペースシャトルが、まだ飛んでいた時代か。当時は、アメリカがスペースシャトル計画を辞めるとは、夢にも思わなかったな)しばらく見ていると、六時半になり、関東地方の天気予報を見た。江ノ島のある藤沢市は晴れで、最高気温三十度、最低気温二十五度の予報だった。花火を見に沢山の人が集まるので、オープンな駅舎の片瀬江ノ島駅とはいえ、かなり暑いだろう。

テレビを消すと、ジン・ビームを手に取った。ここ数日毎晩飲んでいることに気付く。大人になった俺でさえ、明日と言う決戦の日を前に、平然としていられる余裕はなく、飲まずにはいられなかった。

ロックにしたジン・ビームを飲みながら、明日のイメージトレーニングをする。先ず、人混みの中から、必ず美香子を見付けなくてはならない。見付け次第、彼女の手を取り、改札をダッシュで通り抜け、直ぐに電車に駆け乗る。そのためには、予め切符を二枚買っておかなくては。 

それよりも、美香子が一人になり俺と合流できるかが問題だ。とりあえず、彼女が坂田くんと離れることができるか確認し、離れてこっちに来ればそのまま奪い去り、離れることが出来なければ俺から動こう。例えば、俺が坂田くんに近づき、

「落とし物をしましたよ。あそこにあります」と、親切な他人を装い、駅舎の外を指さす。落とし物とやらを拾いに行っている間に、美香子の手を取って改札に急ぐ。これなら上手くやれるだろう。大切なのは、混みあう改札を素早く抜け、直ぐに発車する電車に飛び乗ること。この二点が非常に重要だ。

俺の思惑通りに美香子が俺に気付き、坂田くんから意図的に離れ隙を作ってくれれば、間違いなく上手く行くだろう。最悪のパターンは考えないことにした。イメージトレーニングだから、いい方向にイメージしないと意味が無い。

ジン・ビームを、ロックで三杯飲み終える頃には、明日のイメージが固まって来た。今日は真面目な考え事をしているためか、酒のペースが遅い。今夜はおそらく眠れないだろう、今でさえ心臓がバクバクしているのだ。眠くなるまで、テレビのバラエティー番組を見て過ごすことにした。コント番組を見ていても「心ここにあらず」で、しっかり見ているつもりだが、内容を全く把握できないため、オチで笑うことも出来ない、そんな自分に嫌になりテレビを消した。

時計を見ると、夜の十時を過ぎていた。CDラジカセで、クイーンのドント・ストップ・ミー・ナウをかけながら、ベランダに出て夜空を眺めた。今夜は夏の大三角形がくっきりときれいに見え、夜風に乗って牛舎の匂いが漂って来た。明日の今頃は、美香子と一緒にこの星空を眺めているのだろうか、沢山の星が幾つもの線で繋がり、夏の夜空に美香子の笑顔が浮かんだ。

 

 七月二十三日金曜日、今日も快晴だ。まだ梅雨明け宣言は出ていないが、ここ数日の天気からすると、おそらく既に梅雨明けしているだろう。昨夜は、二時まで眠れなかったにも関わらず、早くに目が覚めてしまった。夕方まで何をして過ごそうかと迷ったが、今後、この時代にどれだけ居るのか分からないので、午前は、最低限必要な買い物をすることに決めた。十時までゆったりと過ごしてから、近所のスーパーとホームセンターへ向かう。

一人暮らしなので、毎回買う物は決まりきっているが、今日は成功した暁に、美香子と一緒に飲むための、スパークリングワインも買った。スーパーを出ると偶然、祐美と出会った。三十年ぶりに当時の彼女を見たが、やはり記憶のまま祐美は若々しく、そして美しかった。

「亮介くん、久しぶり」と、躊躇なく、平然と話し掛けてきた。

当時の俺は、祐美と別れた後も、未練がましいのは承知の上で、彼女の反応を窺いながら、彼女とやり直せないか足掻いていた。だから、「もう終わった人」として、平然と挨拶されると、当時は少しザラつくと共に、俺の純真な心が傷ついた。

 しかし、今は当時の俺ではない。元彼女に、数時間後に実行する行動について、興味本位で意見を聞いてみようと思った。

「久しぶり、これから買い物?」と返事すると、

「そう、一週間分まとめ買いしようと思って」

「祐美に聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「もし祐美が、男友達と二人で花火を見に行った時に、祐美が好意を持っている別の男性が奪い取り、彼のアパートまで手を取り、連れていかれたらどう思う?」

「え、行っていることの意味が良く分からないよ」

「だよね」と俺は、これまでの経緯をかいつまんで彼女に話した。

「亮介くん。それ、殆どの女性が待ち望んでいる『白馬の王子様』だよ」

「『いつか私を連れ去ってくれる王子様が』ってやつ?」

「そう、凄いことするんだね」

「そうかな。凄いかどうかは分からないけど、今から心臓がドキドキしているよ」

「その人が羨ましいな。私もここから連れ去って欲しかった」と、祐美が小声で呟いた。

「ごめん、何か言った?」と、良く聞こえなかったので、聞き返した。

「何でもない、独り言だから。今夜は絶対に上手く行くと思うよ」

「有難う。祐美に話して良かったよ」

「亮介くん、頑張ってね。応援している」

「うん、気合入れるよ」

「じゃあ、私は買い物をするから、ここで。じゃあね」

「じゃあね」図らずも、祐美から勇気をもらえた。縁が薄くなり別れても、一人の人間として付き合えるのであれば、それに越したことは無い。今、祐美と話して、改めてそう思った。

祐美と別れた後、ホームセンターで、いつもと同じ日用品を買うことにした。各棚を回って、買い物かごに決まりきった品物を入れていくと、棚の間に商品入れ替えのため、半額になっている様々なキャンドルが置いてあった。今夜、美香子を連れてきたら、蛍光灯なんて野暮ったい物は消して、ろうそくの灯りだけで、素敵な雰囲気を醸し出そう、そう思い、アロマキャンドルを数個買った。

 

家に帰ると、少し早めに昼食の準備をした。買って来た野菜とハムと卵で、チャーハンを作り、笑っていいともを見ながら、珍しくゆっくりと食べた。今日のテレフォンショッキングのゲストは瀬戸朝香、昨年の夏に、大企業のCMに抜擢され、一躍スターダムに躍り出た女優だ。彼女はタモリに、

「ダスティン・ホフマンの映画『卒業』のように、結婚式場から連れ去ってもらうのが夢です」と語っていた。「卒業」か、クライマックスは引き付けられるが、中弛みする映画という印象があり、強烈に心に残る作品ではなかった。

江ノ島花火大会は、午後七時半に開幕するので、五時には片瀬江ノ島駅に着いていた方がいいだろう。となると、四時半には家を出なくてはいけない。時計を見るとまだ一時、当然ながら落ち着かない。昨日からそうだが、ドラマのワンシーンのようなことを、実行しようとしている自分を、まるで映画の俳優のようだと思う一方で、俳優のようなことをする事に意味があるのではなく、必ず成功させなくていけないと思う自分がいる。

部屋に居ても落ち着かないので、バイクでキャンパスに行って、ブラブラすることにした。フルフェイスのヘルメットを被ると、今日はいつもより息苦しく感じる。ヘルメットのシールドを一番上まで上げ、空気を沢山取り込みながら進む。いつもの駐輪スペースにバイクを置き、美香子といつも過ごすラウンジに来た。キャンパスは夏休みのためか、部活動のために来たと思われる数名の学生しかいなかった。

珍しく、正門からメインストリートを歩いてみたが、特に何も感じ入る事は無く、突き当りで折り返して、またラウンジに戻り一息つく。合宿での美香子との出会いや、その後の日々、ここでのやり取り、最近行った江の島のことなどが、幸福感と共に頭に浮かんでくるが、美香子がいないラウンジはどこか物寂しく感じた。訳もなく、いつもの自販機に行き十六茶を買い、彼女が大好きなお茶を俺も飲むことによる、彼女とのシンクロを、馬鹿を承知で試みるが、そのようなことで簡単にシンクロなどできるはずもない。

「俺も馬鹿だよな、ガキの発想だっつーの」いつもは混みあうラウンジも、今日は貸し切りなので、大声を出して笑う。休み中のキャンパスに初めて来てみたが、人がいないと言うことは、こうもキャンパスの景色を暗くするのかと思った。長居する場所ではないなと、ラウンジを出てバイクに跨り、部屋に戻った。帰って時刻を見ると、三時間半になっていた。時間を潰すということには成功したようだ。

 四時過ぎから、頻繁に時計を見だした。時間が早く過ぎて欲しいようでもあり、今一度、十分な猶予を与えて欲しいようでもあった。「頑張って行ってこい、男を見せろ」とでも言わんばかりに、時間は四時半までいつもより速く、意地悪に時を進めた。

白いポロシャツにベージュのチノパン、スニーカーを履き、腕時計のGショックを付けた。当時持っていたファッションアイテムの中から厳選し、できる限りのお洒落をしたら、気持ちが固まった。よし、行こう。

美香子と一緒に部屋に戻ることを考え、原付バイクではなく、バスで最寄り駅に行き、駅から東海道線で藤沢駅に出て、小田急線に乗り換えた。いざ行動を起こしてみると、意外に淡々と進み、成否のことなどは考えなくなっていた。小田急線に乗り、薄紅色の白い住宅街を、車窓から眺めながら、片瀬江ノ島駅に着いた。

 

改札を出るとちょうど五時で、すでに駅周辺には、花火の観覧客が沢山いた。俺は約束した柱に陣取り、改札を見て、到着しては折り返し発車していく電車を眺めていた。物事には一定のリズムがあり、それが崩れると途端に物事が回らなくなる。

電車を見ていると、そのリズムの大切さが良く分かった。ほんの数分発車が狂うだけで、様々な物事に支障がでる。

俺と美香子はリズムが合うが、それは友達としてのもの。今日を境にそのリズムを変えるつもりだ。恋人になっても、今までのように心地よいリズムを二人で刻みたい、電車を眺めていると自然にそう思った。一旦、頭の中をクリアにしたいと思い、片瀬西海岸を見渡した。海水浴をしてから海の家で着替え、そのまま花火を観覧する人が沢山いるようで、夕方の海から帰路に就くために、駅に向かって歩いてくる人は、殆どいなかった。

片瀬西海岸の上に夕日は鎮座し、のんびりと暮れて行く海を眺め、先週、美香子と遊びに来た時のことを思い出す。傍に居るだけで自然体になれ、楽しく何でも話せる美香子、目を閉じて彼女に思いを馳せる。

あと一時間位かな、駅前広場にある時計を見ると、五時五十分だった。七時半に始まること、江ノ島がかなりの人で混み合うことを考えると、遅くとも一時間前には来るはずだ。読み通りこの時間になると、改札から出てくる観覧客が増え、駅構内は人でごった返して来た。

彼女を見失わないよう、改札から出てくる人に視線を合わせ、集中した。次から次へと出て来る人々を確認すると、髪をアップにして蒼い浴衣を着た、美香子と同じ位の背をした女性が出てきたので、一瞬ドキッとしたが、よく顔を見ると人違いだった。(美香子の今日の装い、髪型も浴衣の色も、俺の勝手な想像だからなぁ)と苦笑いした。髪型や服装に惑わされないよう、注意深く観察し三分程経つと、見慣れた女性が改札から出て来た、美香子だ。心臓が大きくドクンと動いた。

彼女はまるで俺の想像を、テレパシーで受け取っていたかのように、髪をアップにし、蒼い浴衣を着て、坂田くんと話しながら歩いて来た。こちらを見て俺に気付くと、坂田くんに何か話しながら、駅前にあるコンビニの屋根を指した。すると彼は、そのままコンビニの屋根に向かって歩いて行った。人混みの中に彼が消えるのを確認すると、彼女は俺に近づき、

「『コンビニでお茶二本買ってきて』ってお願いしちゃった」と、悪戯そうに微笑んだ。

「ありがとう、急ごう」と、美香子の手を握り、復路の切符を手の中で渡すと、

「亮介くん、さすが」と、彼女が受け取りながら笑った。

人混みをすり抜け、滑り込むように改札を通り、浴衣の美香子が躓かないよう注意する。早歩きでプラットホームを進み、新宿行きの上り電車に駆け込んだ。念のため、車両に乗ってからも発車するまでの間、車両の中を先頭車両の方へと移動し、俺も美香子も後ろは一切振り返らなかった。「シュー」という音と共にドアが閉まると、これまで急いでいた体が、ゆっくりと落ち着くのと同時に、心臓がドックドックという大音量で、小刻みなビートを刻んだ。

電車が発車すると、お互い手を握ったまま、シートにゆっくりと座った。駅舎で待って居るはずの美香子が、まさか電車に乗っているとは思わないだろう。彼女が、俺のために機転を効かしてくれたことが嬉しかった。彼女は安心したのか、黙ったまま俺に頭をもたれかけ、そっと目を閉じた。彼女のつけている香水のいい匂いがした。

 

 藤沢駅で東海道線に乗り換えると俺が口を開いた。

「美香子、ありがとう」

「こちらこそ、連れ去ってくれて凄く嬉しい」

「実は俺、美香子の浴衣の色とか髪型とか、勝手に想像していたんだ。想像通りでびっくりした」

「えっ、本当に?髪をアップにしているのとかも?」

「うん。だから、美香子と同じ感じの人が改札から出てきた時は、間違えそうになったよ」と笑うと、

「よかった、間違えないで」と、美香子も笑った。

「顔を見ればわかるし、やっぱり美香子の放つ空気で分かるというか、何というか、うまく言えないけど」

「あ、それ分かるよ。私も駅舎の柱に亮介くんを見つけた時、空気を感じた」

「空気が読める二人だね」

「なにそれ、意味不明な言葉」と、美香子は声に出して笑った。

他愛のない会話をしていると、直ぐに最寄り駅に着き、駅からバスに乗った。バスは通学通勤の乗客が意外と多く、会話をすることが出来なかった。混んでいても、江の島からずっと繋いでいる手は、離さなかった。バスから降りると、俺のアパートの周辺を見て、

「意外と田舎なんだね」と、美香子が言った。

「隣に神社もあるし、牛舎もあるよ」と言うと、

「牛舎もあるの?長閑だね」

「たまに風に乗ってその匂いがベランダに漂うよ」

「その匂いは、遠慮したいかも」と笑う。

「ここだよ、俺のアパート」と、バス停から会話して歩いていたら、あっという間に着いた。

「早く入ってみたい」

「入ろうか」

部屋に美香子を招き入れた。彼女は、ひと通り部屋を見て廻ると、ベランダに出た。

「あ、江の島花火が見える」と美香子は驚いた。

「そうだよ。現地で見られなくてごめんね」と、後ろから彼女を抱き締めながら言った。

「亮介くんが傍に居るなら、どこでもいいよ」と、彼女は俺の方を向いて、恥ずかしそうに言った。その表情の愛おしさに我慢できず、思わず抱きしめた。

「もっと早くこうしたかった」そう呟くと、美香子は耳元で、

「いつかは絶対にこうなると思っていた。合宿で出会った時から」と囁いた。彼女がまた何か言おうとしたが、キスで口を塞いだ。

「今すぐ抱いて欲しい」彼女が躊躇わずに言った。俺は、美香子を更に強く抱きしめた。

俺は、口づけをしたまま、ベランダからベッドに移動し、浴衣を脱がさず、ピアスのついた美香子の耳を舐めた。感じる彼女に呼応するように、襟元から手を忍ばせ、胸を柔らかく揉み、乳首を舌で転がした。俺達はシャワーを浴びていないので、汗で体中がベトベトだったが、お互いの丁寧な愛撫で、体を綺麗に掃除した。彼女は、俺のパンツを脱がし、大きな肉棒を咥えると、ジュポジュポ音を立てて舐め回した、俺は、彼女の浴衣をまくり上げ、下腹部を露わにすると、彼女の膣を丁寧に舐め、指で中を刺激した。俺が指を入れ始めると直ぐに、

「亮介くん、ほしい」と、美香子が言った。俺は反り返った肉棒を彼女の中挿れ、ぐいぐいと奥を攻める。数分で美香子は果ててしまったが、俺は欲望に身を任せ、中で激しく動かしていると、俺も我慢できなくなってきた。

「美香子、中に出していい?」

「中はだめ、外に出して」俺は、ギリギリまで挿れ、射精する瞬間で外に出した。

お互いまだまだ足りなかったので、俺はまた彼女に肉棒を舐めてもらい、再度反り返るのを確認すると、もっとイカせようと嫌らしいほどしつこく、奥に肉棒の先をグリグリと押し付けた。すると、彼女は立て続けに五回も絶頂に達し、

「これ以上すると、壊れちゃうよ」と、言ってきた。優しく胸と髪を撫でながら、しばらく乱れ果てた彼女を眺めた。

「セックスもしたし、俺達、交際開始かな」と、俺が同意を求めるように言うと、

「江ノ島から連れ去ってくれた時から、始まっているよ」と、彼女が笑った。俺は彼女を強く抱きしめ、何度もキスをした。気付くと俺達は抱きしめ合ったまま、疲れて果て眠りに落ちていた。冷蔵庫には、未開封のスパークリングワインがキンキンに冷え、数個のアロマキャンドルが、机に整然と置かれていた。

 

 

 翌朝、けだるさの中で目が覚めた。七月二十四日土曜日、目が覚めると隣に美香子は居なかった。(シャワーでも浴びているのかな?)天井を見上げると、昨夜とは違う模様に変わっている。学校のような病院のような、無機質な白と点在する黒い斑点からなる模様。(おかしいな。ここはどこだろう)ゆっくり起き上がると、美香子ではなく、妻の由香と子ども達がいた。

「ここは?」と聞くと、泣きながら由香が、

「良かった。目が覚めたのね」と言って抱きついて来た。

「一体何があったの?」由香から経緯を聞くと、俺はインフルエンザにかかった夜に就寝した後、ずっと眠っていたらしい。由香がさすっても叩いても何をしても起きず、心配した彼女が、救急車を呼び、病院に搬送されて検査を受けた。

CTやMRIなどを撮り、様々な角度から診断してもらったが、体や脳に全く異常はなく、とりあえずの生命維持措置として、点滴をしながら様子を見ている状況だった。そうか、あの時代から戻って来たのか。現在に再度タイムスリップして、戻って来たのだ。

ひと通り自分の体調について説明をすると、由香と子ども達は安心した。その後、医師による問診やCTとMRIによる検査を行ったが、異常はなく、しっかりと食事を摂り、自力で歩行できるまで体力が回復したら、退院してもいいとのことだった。

診察が終わると医師が砕けた言葉で、

「亮介、意識が戻ってよかったな」と、言ってきた。ハッとして顔と名札をよく見ると、名札には「落合紘一」と書かれ、顔にはかつての面影が残っていた。

「全然気づかなかったよ。お前、医者になったの?まさか医者になったとは思わなかったよ」と俺が驚いて聞くと、

「一旦就職したんだけどさ。医者を志すようになって、給料を貯金しながら勉強して、再度大学の医学部に通ったんだ」と、驚きの返事が来た。落合は、日本政策投資銀行に就職した、氷河期世代の勝ち組だった。

「何故医師に?」と、俺が聞くと、

「社会人になって一年目で、子供のころからの大切な親友を、病気で亡くしてな。その時、俺は何もできず無力だった。だから、病気に対する力を持とうと決めたんだ」

「そうか、お前は強いな」と俺が言うと、

「意識を取り戻したお前も強い」と落合は笑い、握手をして診察室を後にした。

 

病室に戻ると、由香や子ども達は安心して、

「一旦家に戻って、用事を済ませたらまた来るね」と言い、家に帰って行った。家族がいない間に頭を整理した。

現代に戻って来たのは、紛れもない事実であり、安堵すべきことだ。そして現状を把握すると、過去に戻る前と現在の環境は変わっていないようだ。退院してみないと確実には分からないが、何一つ変化は生じていないようだ。

ここまで思考して、一つの疑問が生じた。俺が過去を変えたことにより、実際は付き合うはずのない二人が、付き合ったのだ。今いる現在は、「時空のゆがみ」による変化が生じていてもいいはずだ。しばらく考えてみたが、あっさりと諦めた。俺は常に冷静だ、現状を素直に受け入れればいい。

世の中は、分からないことばかりだが、ただ一つ、過去に戻っても変わりようのない、不変の事実があった。あの後、美香子との交際が続いていても、結局は由香と結婚し、今の幸せな家庭を築いていたという事実。あの時代に戻って、当時実現できず、後悔していたことをやり遂げてもなお、現在の自分とその環境に変化はなく、まるで長い夢を見ていたかのようだった。

 

人は時に、あの頃に戻りたいと思うことがあるが、体験した俺に言わせれば、戻らなくてもいい。思い出というものは、甘くも酸っぱくも、思い出のままでいい。今を全力で活きること、それが一番大切なことだ。

改めて、以前と変わらない現代に戻って来られたことに感謝した。どれくらいで退院できるか分からないが、時間があったら、今回の出来事を鮮明に覚えている内に、この体験を元に、小説でも書いてみようと思った。

あれこれ考えていると一時間が経ち、家族が戻って来た。

「そう言えば亮ちゃん、インフルエンザの予納接種受けていた?」由香が聞いた。

「いや、社会人になってから一回も受けたことはないよ。副反応で具合が悪くなるから」

「そう、そうかも知れないけど、次からは受けてね。子どもも小さいし、お腹の赤ちゃんにうつすと、大変だから」

「わかったよ」と即座に言ったが、直ぐに聞き直した。

「お腹の赤ちゃんって、いつできたの?」

「三か月前に妊娠が分かって、亮ちゃん、凄く喜んでいたじゃない。忘れちゃったの?」と、由香が不思議そうに聞くので、

「多分、意識不明になったことで、記憶が曖昧になったんだと思う。大丈夫だよ、ちゃんと思い出したから」と、由香を不安にさせないように言った。

 やはり現代が変わっていた。「時空のゆがみ」というものは存在した。俺と由香が、ずっと待ち望んでいた第三子が、由香のお腹にいる。良い方に現代が変わっている。俺は思った。タイムスリップした過去で、当時は宙ぶらりんにしてしまった美香子の心を、きちんと結びつけることができた。この出来事が、俺に新たな祝福をもたらしたのだと。

「赤ちゃんの性別って、いつわかるんだっけ?」と、由香に聞く。

「あと少ししたら、エコー検査でわかるよ」と教えてくれた。

「そうか、次は男の子がいいな」いつもの癖で頭を掻きながら、病室の窓から遠くまで晴れ渡る、清々しい冬の空を眺めた。青空の向こうには、新しい明日が待って居る。明日に向かって飛び出して行こう、はるか上空を飛ぶジェット機が作る飛行機雲が俺の心を代弁している様だった。

 ところで、落合が医者になったのも、時空のゆがみが原因なのか。

 

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