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ミツマタで紙をつくる街


紙の歴史を学ぶには

今日は富士市にある「歴史民俗資料館」にやってきました。
娘と一緒に。
娘は隣にある公園に行きたくて、資料館に入ったそばからソワソワしています。
子どもは公園が好きですね。
でも、私はこの資料館が大好きなんです。
一見、古い教会のような外観で、中に入ると木組みの天井が美しく
2階の回廊をぐるっと一周すると富士市の紙づくりの歴史がサラ〜っと
学べてしまいます。
富士市民俗資料館について

富士山の麓でどのように「紙」づくりが発展してきたのか?
紙がどのようにして街に入ってきて人々に浸透してきたのか?
戦争中の紙づくりはどんな風に乗り越えてきたか!!
実際の紙づくりの器具を見ながら学べるようになっています。

何より、この建物のゆったり感が好き。
静かで人も少なくてこの中で記事を書いたりもできる。
富士市では珍しい、歴史を感じられる資料館です。

さて。

紙の歴史について。
初めはどのように紙づくりが広がっていったのでしょうか。

富士川沿いの集落では、山や畑から手に入れた原料をもとに、
手すき和紙が盛んに作られ、江戸時代には「駿河半紙」として
その名が広く知られていました。

紙作りを広めた蔡倫を祀っていた講

蔡倫講(さいりんこう)で情報交換?

「紙の祖」蔡倫
蔡倫とは実用的な紙の作り方を定め、広めた中国の人物で
富士川沿いには蔡倫(さいりん)の名をつけた講のグループがあり
年に2回の集まりでは、蔡倫の姿を描いた軸をかけ、
紙の価格や職人の賃金を決めたり、さまざまな情報交換の場となっていたそうです。

紙が、収入源となる大きな役割をしていたことや
紙によって人々が集まり、文化的な交流をしていたことが伺えます。

富士市域は、駿河湾から富士山の南麓の山村まで標高差が約800mにもなるそう。
海側では漁業や稲作、山間部になるにつれて畑、
山仕事で生計を立てる暮らしがあり
人々はそれぞれの地に適した仕事をして
お互いの暮らしにないものを交換しあって暮らしてきたそうです。


紙の原料となる三椏

たくましい仕事感

その後、三椏(みつまた)の木は、和紙の原料として
栽培・採集され(富士市・富士宮市)の製紙業の発展を支えました。
三椏で紙をつくることは、農閑期農業の副業として行われていました。

普段は農業をして、農業が暇な時期は紙を作ったり
海に近い湿地帯では、稲作が盛んで
天気に恵まれず米が取れない年などは漁業にスイッチして
村人たちは仕事を変えながら暮らしていたといいますから
状況に応じて副業を取り入れていく暮らし方は
少し今に似ているのかもしれない。
人間本来のたくましさがあるというか
自然に従い生きている暮らし方に親近感を感じました。

さて、娘はいつの間にか隣の広見公園へ行ってしまいました。
子どもはどんどん興味のある方向に突進してく。
娘もたくましいんです。

今日はここまで。
読んでくれてありがとうございます。
また紙について書きたいと思います。
次の記事でお会いできたら幸いです。


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