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20230318 精神論と技術革新

介護業界の神様的な人が新しい技術(リフト)を批判する投稿を読んで感じた。

新しい技術と言ってもそんなに最近ではないのだが、ヨーロッパをはじめ諸外国では既に導入、定着しているそうで、厚労省もあとおしはし始めているようだが、日本ではまだまだだそうなのだ。そしてその障壁になっているのが、日本の介護業界に浸透している悪い傾向なのではないかと思った。

私のように実際に介護を生業としていないものが書くのもおこがましいところなのだが、介護に携わる人で腰を痛めてしまう人は少なくない。
ちょっと古いがこんなデータも取られていて、腰を痛めてしまうのは、若い人たちや、そして経験の浅い人たちの割合が高いようだ。

https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/roudou/gyousei/anzen/dl/131025-03.pdf (5ページ)

希望に燃えて業界に飛び込んできても、現場では重たい「人」を支える厳しい作業に追われているのが現状ではないだろうか。
もちろん神業的に力ではなく、てこの原理とかを使って重たい人を支える技術があることは事実なのだが、そういった技術を習得するには実技による研修が必要で、読んだり聞いたりしただけでは身につくことはないだろう。
そんな環境の中で、ある程度熟練するまではどうしても力技で向かい合ってしまうことがほとんどだと思う。ただでさえ給与水準が低い中での重労働では、今後ますます増えていく高齢者を支える仕事に就く人が減って行ってしまうことは容易に想像できる。

新しいテクノロジー導入の障壁として、介護の業界にはある意味で熟練者を尊重する風土があると思う。悪いことではないが、長年の経験と勘を活かして、神業的に現場をさばくことを善とし、技術革新で得られる作業はサービスではないという見方をする悪い風潮ともいえるだろう。確かに経験と勘が生きるのは確かだが、どんどん増えていく要介護者をさばいていくには経験と勘を養うには時間がなさすぎる。

介護の神様的な人はその技術を伝えようと頑張っていると思うが、一人で日本国中の全てにその技を伝授していても追いつくはずがない。

そこで思うのだが、なぜ神様は自身の技術に固執するのだろう。人を支えるには、そこに暖かい手のぬくもりがなければいけないのだろうか?

愛情と思いやりがあれば新しいテクノロジーを使って、時間を短縮したり、介助をする人の疲労を軽減したりすることができ、より良い介護が実現できるのではないかと思う。

神様的な人は新しい技術を批判するだけでなく、積極的に新しい技術の改善に寄与し、来るべき新しい介護のスタイルを切り開くべきではないのだろうか。

これは介護業界だけの話ではなく、日本の様々な業界でも同じようなことが起こっていると思う。竹槍でB29は撃墜できない。どんなにも意を込めても古い装備では進化した相手には敵わない。技術大国日本が今世界から取り残されている要因の一つが、経験と感に頼った間違った技術の伝承に固執する風潮にあると思う。

参考: https://www.nolift.jp/

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