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北村透谷「漫罵」現代語訳

「漫罵」は、北村透谷の短い文学的人生の最後に書かれた評論の一つである。明治26年10月30日に、雑誌「文学界」に発表された。同11月4日には随想「一夕観」が雑誌「評論」に発表される。漫罵とは「みだりにののしること」(広辞苑)である。透谷はこの罵倒の言葉を残し、遺稿となる『ヱ マルソン』書き上げたうえで、12月28日に自死をはかるのである。一旦は未遂に終るが、翌年の5月16日に自宅の庭で縊死することとなった。25歳という若さであった。

「漫罵」には、透谷の焦燥感と悲愴感が強く出ている。「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、「頭をあげよ、そうして見よ、そうして求めよ」と、力強く呼びかけた透谷は姿を消して、「国民は詩歌を求めない、詩人を求めない」とし、「汝、詩歌に労する者よ、帰れ、帰って汝の店頭に出ろ」で結ばれる。劇詩(ドラマ)を作り上げることに情熱を傾けていた透谷が、俳句や短歌で満足せよと書かねばならなかった。読んでいて苦しくなる、事実上の遺言であろう。

現代語訳の底本としては、『北村透谷集』(日本現代文学全集 9)、講談社、増補改訂版、1970年5月刊行に所収のものを用いた。

現代語訳 「漫 罵」

北村透谷 著  上河内岳夫 現代語訳

 ある晩、友とともに散歩して銀座を過ぎ、木挽町に入ろうとする。二之橋[築地川の采女橋]近くまで来ると都会の熱気がようやく薄らぎ、家々の火影が川面に落ちて、はじめて詩興が生じる。私は橋の上に立って友を振り向き、ともに岸の上の建家を批評する。あるいは白亜を塗るものがあり、あるいは赤レンガを積むものもある。洋風があり、和風があり、あるいは半分洋風、あるいは部分的に洋風、あるいは全く洋風で部分的にのみ和風であるものがある。さらに路上の人を見ると、あるいは和服、あるいは洋服。フロックコートがあり、背広があり、紋付きがあり、前垂れがある。さらにその持ち物を見ると、ステッキがあり、洋傘があり、風呂敷があり、カバンがある。ここで私は暗然として嘆いた、今の時代に荘厳で高揚する詩歌がないのは、このせいではないのかと。

 今の時代は物質的な革命によって、その精神を奪われつつあるのである。その革命は内部において相容れない成員の衝突によって起こったのではない。外部の刺激に動かされて起こったものである。革命ではなく、移動である。人心は、自ら自重することができず、知らず知らずのうちにこの移動の荒波に投じて、自分自身を殺さない者はまれである。その本来の道義は薄弱で、彼らを束縛するのには足りない。その新来の道義は根を下ろすには至らず、彼らを制圧するのに耐えられない。その事業その社交、その会話その言語、ことごとく移動の時代を証明しないものはない。このようにして国民の精神は、その発露者である詩人を通じて、文字の上に表出されるのではないか。

 国としての自負は、どこにあるのか。人種としての尊厳は、どこにあるのか。国民としての栄誉は、どこにあるのか。たまたま大声で疾呼して、国を誇り国民を頼む者はあるが、彼らは耳を閉じてこれを聞かないのである。彼らの中に一国としての共通の感情はない。彼らの中に一国民としての共有の花園はない。彼らの中に一人種としての共同の意志はない。安逸は彼らの宝であり、遊惰は彼らの糧である。思想と言ったものは、彼らは今日において渇望する所ではないのである。

 今の時代に創造的思想が欠乏しているのは、思想家の罪ではなく、時代の罪である。物質的革命に急である時、どうして高尚な思弁に耳を傾けるいとまがあるか。どうして優美な想像に耽るいとまがあるか。彼らは哲学を惰眠の具とし、詩歌を消閑の器とした。彼らの眼は舞台の華美でなければ、奪うことができない。彼らの耳は卑猥な音楽でなければ、娯楽にさせることができない。彼らの脳髄は奇異を旨とする探偵小説でなければ、慰藉を与えることがない。そうでなければ大言壮語して、彼らの肝を潰させるしかない。そうでなければ平凡な真理と普通の道義を繰返して、彼らの心を飽きさせるしかない。彼らは詩歌のない国民である。文字を求めるが、詩歌を求めないのである。作詩家を求めるが、詩人を求めないのである。

 汝詩人となった者よ、汝詩人となろうとする者よ。この国民が強いて汝を探偵小説の作家としようとするのを怒ってはならぬ。この国民が汝によって艶語、情話を聞こうとするのを怪しんではならぬ。この国民が汝を雑誌店の雑貨としようとするのを恨んではならぬ。ああ、詩人よ、詩人であろうとする者よ。汝らは不幸にして今の時代に生まれたのだ。汝の雄大な舌は、狭苦しい箱庭の中で鳴らさなくてはならない。汝の運命は、この箱庭の中にあって、よく講じ、よく歌い、よく罵り、よく笑うことに過ぎないのである。汝はすべからく十七文字をもって甘んじるべきである。よく軽口を言い、よくウィットを出すことをもって満足すべきである。汝はすべからく三十一文字をもって甘んじるべきである。雪月花を繰り返すことをもって満足すべきである。煮え切らぬ恋歌を歌うことをもって満足すべきである。汝がドラマを歌うのは贅沢である。汝が詩論をなすのは痴愚である。汝はある記者が言ったように偽りの詩人である、怪しい詩論家である、汝を罵る者はこう言った、汝もまた自分自身で罵ってこう言わなければならない。

 汝を囲んでいる現実は、汝を急き立てて幽遠に迷わせる。されど汝は幽遠の事を語ってはならない。汝が幽遠を語るのは、むしろ銭湯の番台が裸体を論じるのに及ばぬからである。汝の耳には兵隊の足音を最上の音楽として満足せねばならない。汝の眼には[月岡]芳年流の美人絵を最上の美術と認めねばならない。汝の口にはあんころ餅を最上の珍味とせねばならない。ああ、汝、詩論をなす者よ、汝、詩歌に労する者よ、帰れ、帰って汝の店頭に出ろ。

(明治26年10月、『文学界』10号)

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