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福田英子「妾の半生涯」現代語訳

福田英子(旧姓:景山英子)は、岸田俊子とともに、自由民権の運動に参加し、男女同権と女性の独立を主張した女性解放運動の先駆者として知られている。その福田英子の波乱に満ちた半生の自伝が『妾の半生涯』であり、彼女が関与した「大阪事件」とその後の結婚生活が中心的な内容となっている。本書を読むための歴史的な背景として、彼女が関与した「大阪事件」について一定の予備知識を持っておくことが有効である。ここでは『岩波 日本史辞典』(1999年)から引用する。

大阪事件:1885年(明治18年)、旧自由党左派の大井憲太郎、小林樟雄、磯山清兵衛、新井章吾らが朝鮮の内政に武力干渉しようとして大坂で検挙された事件。朝鮮の事大党政権を倒し金玉均らの独立党政権を樹立して清国との緊張関係を作りだし、その機に日本国内の改革を実現しようと計画したとされる。130余名が逮捕され、大井ら3人は重懲役9年の判決を受けた。自由民権派内部の国権的勢力がアジアの指導者として対外進出しようとした側面が露呈したもの。  

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福田英子 ( 出典:「近代日本人の肖像」(国立国会図書館))

福田英子が『妾の半生涯』を出版したのは、明治37年、40歳の時である。夫が死亡した後、堺利彦をはじめとする平民社の人々との交流を通じて、考え方を社会主義的な立場へと転換し、「はしがき」に顕著にみられるように、それまでの半生を否定する立場にたって、この半自伝を書いている。その後は、40年に雑誌「世界婦人」を創刊するなど婦人の政治的自由を獲得する運動を継続するとともに、田中正造の谷中村の救援活動に協力した。昭和2年に63歳で亡くなっている。

この現代語訳では、いくつかの点で、原文を変更している。第1は、本文中に挿入されている二つの文書(「獄中述懐」と「日本女子恒産会設立趣旨書」)の取り扱いである。特に、前者は一般的な章を超える長文であり、それによって全体の流れが分断され、内容的にも重複する部分がある。この現代語訳では二つの文書は本文から独立させ、付属文書として末尾に掲載することとした。

第2は、「変名」等の取り扱いである。著者は次の四人の重要な人物を変名としている。大井憲太郎→重井(変名)、小林樟雄→葉石久米雄(変名)、新井章吾→古井(変名)、清水豊子(紫琴)→泉富子(変名)である。これには著者の配慮があったことは確かではあるが、一部については実名表記も混在する形となっていて、読者には誤解や混乱を生むおそれがある。そこで現代語訳では実名表記で統一した。さらに「某」として名が省かれている場合も実名などが判明している場合には名前を表記することとした。

さらに、章と節の番号については横組みに適した形に付け替えている。また、現代では不適切とされる「乞食」という表現が使われているが、本書の歴史性を考慮して、原文の表現に従ったことをお断りしておきます。

現代語訳の底本としては『女性作家集』(新日本古典文学大系 明治編 23)、岩波書店、2002年3月刊行に所収のものを用いた。中山和子先生による校注から極めて多くのことを教えられた。難解な個所に適切な現代語訳が添えられていて、それをそのままの形で使わせていただいたところがあります。また文中の漢詩、短歌については、中山和子先生による通釈を利用させて頂きました。これらについて深く感謝いたします。さらに、校注では著者による誤記についても、細かく指摘されており、そのうち年月日や地名の誤記などについては、現代語訳で適宜修正しています。ただ日時の前後関係の混乱などの大きな誤りに対しては対応できず、全体として統一的な処理はできませんでした。これら点については、中山和子先生の校注を参照して頂きたい。また『十八史略』からの引用部分の通釈については、林修一『十八史略』(新釈漢文大系20)、明治書院、1967年刊行の通釈を、福田英子の表現に合せて一部改変して利用させていただきました。深く感謝いたします。

わらわ半生涯はんせいがい

― 私の半生涯はんしょうがい

福田英子(旧姓 景山英子)著 上河内岳夫 現代語訳

はしがき

 昔は、ベンジャミン・フランクリンが、自叙伝を書いてその子孫の戒めとした。素行が高潔で、業務に勤勉なこのような人は、真に尊い模範を後世に残したものと言えるだろう。私のような者は、どのように心が驕ることがあっても、どうして自叙伝を書くことを企てられるのが当然と言えるだろうか。

 世に罪深い人は誰かと問うと、実に私がその随一だろう。世に愚鈍な人を求めれば、また私ほどの者はいないだろう。年齢が人生の六分に達し、今になって過ぎ来し方を振り返ってみると、行ったことで罪悪でないものはなく、思いめぐらしたことで誤謬でないのはなかったのである。羞悪懺悔、これに次いで苦悶懊悩、私の回顧を満たすものは、ただただこれだけである。ああ実にただこれのみである。

 懺悔の苦悶、これを癒す道は、ただ己を改めるより他にはないだろう。しかしどのようにしてその己を改めるべきか、これは、はたまた一つの苦悶である。苦悶の上の苦悶であり、苦悶を癒すための苦悶である。苦悶の上にまた苦悶があり、一つの苦悶を癒そうとすれば、生憎なことに他の苦悶がきて、私は今や実に苦悶に取り囲まれているのである。そうであるから、この書物を著すことは、もとよりこの苦悶を忘れようとしての業ではない、いや筆を執るそのこともかえって苦悶の種である。一字は一字より、一行は一行より、苦悶はいよいよ勝るのみである。

 苦悶はいよいよ勝るのみであるが、私はあながちにこれを忘れることを願うわけではない、いや昔なつかしいという思いは、その一字、一行に苦悩とともにいや増すのである。なつかしや、わが苦悶の回顧。

 思えば女性の身で、自分で深く考えることもせずに、年若くして民権自由の声に熱狂し、行途の蹉跌は再三再四、ようやく後の半生を家庭に託することを得たが、一家の計がいまだならないうちに、身は早く寡婦となった。人の世のやるせなさは、しみじみと骨にも通るばかりである。もし私のために少しばかりの同情を注ぐ者があれば、それはまた世の不幸な人に違いない。

 私の過ぎ来し方は、蹉跌の上の蹉跌であった。けれども私は常に戦った、蹉跌のためにかつて一度もひるんだことはなかった。過去のみといわず、現在のみといわず、私の血管に血が流れる限りは、未来においても私はなお戦おう。私の天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うことにある。この天職を自覚するからこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も懐かしく思うのである。

 私の懺悔、懺悔の苦悶、これを癒す道は、ただただ苦悶にあり、私の天職によって、世と己との罪悪と戦うことにある。

 先に政権の独占を憤った民権自由の叫びに熱狂した私は、今は真心から資本の独占に抵抗して、不幸な貧者の救済に傾いたのである。私が烏滸のそしり[愚か者という非難]を忘れて、あえて半生の経歴を極めて率直に少しも隠す所なく叙述しようするのは、必ずしも罪滅ぼしの懺悔に代えようとするのではなく、新たに世と己とに対して、私のいわゆる戦いを宣言するためである。

第1 家庭

1.1 まがいもの

 私は8、9歳の時、屋敷の内で賢い娘とほめそやされ、学校の先生たちには、活発で無邪気な子と可愛がられた。11、2歳の時には、県知事や学務委員等が臨席する試験場で、特に選抜されて『十八史略』や、『日本外史』の講義をして、このことを無上の光栄と喜びつつ、世の中に私ほど賢い者はいないだろうなどと、心ひそかに同郷の人々に誇っていた。

 15歳になって学校の助教諭を託され、3円の給料を受けとって子弟を訓導する任務に当たり、日々の勤務のかたわら、復習を名目として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科[補習]を教授して、生徒に1年のうちに2階級の試験を受けられるようにしたことで、大いに父兄の信頼を得て、一時はほとんど公立学校をしのぐほどの隆盛となった。

 学校に通う途中で、私は常に腕白小僧たちから「マガイが通る、マガイが通る」とののしられていた。この評言が適切であることに今は思い当たるが、当時私は実に「マガイ」であったのである。「マガイ」とは馬の爪をべっ甲に似させたもので、現在のゴムを象牙になぞらえるのと同じで、似て非なるものなので、この言葉で私を呼んだことが、どれほど名言であったかが分かるだろう。いまさら恥かしいことだが、私はそのころ、先生たちに活発な子といわれたように、立ち居振舞いがお転婆であったことは言うまでもなく、修業中は髪を結う時間も惜しい心地がして、ひたすら書物を読むことを好んでいたので、16歳になるまでは髪を切って前を左右に分けて、衣服までことごとく男性のように装い、しかも学校へは女生徒と一緒に通っていた。近所の子供たちはこれを見て異様であるとの感を抱き、そういうわけで男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとののしったのに違いない。これを思い出すたびに、今も背に汗のにじむ心地がする。しだいに異性を慕う心がつきはじめ、男装していたことが恥かしく髪を伸ばすことに意を用いるようになったのは、翌17歳の春であった。この時から初めて束髪[西洋風の髪型]の仲間入りを果たしたのだった。

1.2 自由民権

 17歳の時は私にとって一生忘れがたい年である。わが郷里に自由民権の論客が多く集まって来て、日頃から兄弟のように親しみ合った小林樟雄氏もまたその説の主張者であった。氏は国民を団結させて、その代表者となって、時の政府に国会開設の請願をし、諸県に先だって民衆の迷夢を破ろうとした。当時、母上が戯れに作った大津絵節がある。

すめらみの、おためとて、
備前岡山を始めとし、数多の国の益荒男が、
赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、
命は軽き旅衣、親や妻子を振り捨てて。
(詩入)「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」
雲や霞もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。

 通常の大津絵節とは異なり、人々が民権論に熱狂した時であったので、私の月琴に和してこれを唄うことを喜び、その演奏を望まれることがしばしばであった。これより先、15歳の時から、私は女の心得がなくてはならないとして、茶の湯、生け花、裁縫、諸礼の一そろいを教えられ、なお男子のように振舞っていた私を女子らしくさせるのに、音楽によって心を和らげるにしくはないということで、八雲琴や月琴などさえ日課の中に据えられた。それゆえ私は毎日の修業がそれからそれとあり、夜になるまでほとんど寸暇もなかった。

1.3 縁談

 16歳の暮に、ある家[後の海軍大将藤井較一]より結婚の申し込みがあったけれど、私の理想にかなわないとして謝絶したところ、父母も困り果てて、ある日私に向かい、「家の生計は思いどおりには行かず、倒産の憂き目にさえやがてあいそうな有り様であるのに、あなただっていつまで父母の家にとどまっていられるか、幸いこの縁談はまことに良縁と思えるので、早く思いを定めてください」と強く催促する御言葉である。その時、私は母に向かってこれまでの養育の恩を感謝して、「その御恵みによってもはや自活の道を得たので、たとえ今からこの家を追われても、糊口にこと欠くだろうとは思いません。けれどもただこのまま長く膝下に仕えさせていただきたいと願っています。学校から得る収入はことごとく食費として捧げ申し上げ、家計の苦難のわずか万分の一でも補助いたしましょう」と、心より申し出たところ、父母も気持ちを動かすことはできないと見て、この縁談は沙汰やみとなった。

 ああ世間には、このように父兄に威圧されて、ただ儀式的に機械的に愛もない男と結婚する者が多いだろうに、これらの不幸な婦人に、なんとか独立自営の道を得させたいとは、この時から私の胸に深く刻みつけられた願いである。

 結婚が沙汰やみになってから、私は一層学芸に心をこめ、学校の助教諭を辞して私塾[蒸紅学舎]を設立し、親切に懇切に教授したので、そうでなくてさえ祖先より代々教導を任務としてきた我が家の名は、たちまち近郷にまで伝えられ、入学者は日に日に増えて、間もなく一家は尊敬の焦点となった。それゆえある寺を借り受けて教場を開き、さらに夜間は昼間に就学するいとまがない婦女、貧しい家庭の子弟に教えた。母上は習字を、兄上は算術を受け持って私を助け、土曜日には討論会や演説会を開いて知識の交換をはかり、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採用した。

1.4 岸田女史来る

 その年、有名な岸田俊子女史(故中島信行氏夫人)[中島湘煙]が各地を巡回してきて、3日間、私の故郷で演説会を開催したところ、聴衆が雲のように集まって会場は立錐の余地もなかった。実際、女史が流暢な弁舌でとうとうと女権拡張の大義を唱道された時には、私も憤慨を抑えることができなかった。女史の滞在中に、[自由民権運動の]有志家をもって任じる人の夫人や令嬢等にはかって、女子懇親会を組織し、諸国に率先して、婦人の団結を図り、しばしば志士の論客を招請して天賦人権、自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋習を破ることに務めていると、風潮の向かう所で入会者が引きも切らず、会はいよいよ盛大になった。

1.5 納涼会

 同じ年の夏、自由党員の納涼会を旭川で催すことになり、女子懇談会にも同遊を交渉に来たので、元老格の竹内、津下の両女史と協議して、これに応じることとして、同日の夕刻から船を旭川に浮かべた。会員は、楽器に合わせて自由の歌を合奏し、悲壮な音楽が水を渡たって、無限の感に打たれたことが今もなお記憶に残っている。折しも向かいの船から声があり、自由党員の一人が甲板の上に立ち上がって演説をしたのである。殺気が凜烈として人を慄然とさせた。市中であれば警察官から中止解散の命令を受けるところだが、水上は無政府という心安さで何人の妨害もなく、興に乗じて演説が続々として試みられ、悲壮激越の感が今や旭川を支配しているその時に、突然、水中に人が海坊主のように現れて、会に解散中止を命じた。この船遊びを怪しいと思う恐ろしい警察官が水中に潜んで、その挙動をうかがっていようとは、予想ができなかった。船中の人は興が今たけなわの時であったので、「河童を殺せ、殴り殺せ」とひしめき合って暴れたが、年長者の言葉にしたがってみんなが穏やかに解散して、大事に至らなかったことは幸運であった。しかし私の学校はその翌日、時の県知事の高崎五六から「詮議の次第これあり、停止する」という命令[閉校処分]をうけた。詮議の次第とはどういうことかと、その筋に向かって詰問したのであったが、なぜか答えがなかった。そこで私の姉婿の沢田正泰が県会議員で常置委員だったことから、彼に依頼して尋ねさせると、私が自由党員と船遊びを共にしたという理由であり、姉婿さえ譴責を加えられ、しばらく謹慎する身の上となった。

第2 上京

2.1 故郷を捨てる

 政府が人権を蹂躙し、思う存分に抑圧をしてはばかることがないのは、これにても明らかである。それなら平生先輩が説くところは、本当にその理由があることだ。このような私物化された政治に服従する義務がどこにあるだろうか。この身は女子であるけれど、どうしてこの弊制悪法を除かずに止めることができようかと、私は怒りに怒り、勇みに勇み立った。心に深く思うことは、また生徒の訓導をしたいという気持ちはなく、早く東京に出て有志家に図りたいということで、その機が熟するのを待っている折に、私の家から3里ばかり離れた親友の山田小竹女のもとから、「明日、村に祭礼がある。遊びにいらっしゃい」と、熱心な招待状が来た。そのまま東京に出奔するのにちょうど都合がよいと思ったので、心には血を吐くほど辛かったのをこらえつつ、姉上[沢田沢]も誘って祖先の墓に参拝することを母上に勧めて、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣で、しばらく黙祷して私の志を祖先に告げた。初秋のとてもさわやかに晴れた日であった。生まれて17年の間住みなれた家に背き、恩愛の厚い父母の膝下を離れようとする苦しさは、隠そうとしても胸に余って、外見に表れたのだろうか、帰りの道々で母上は私の挙動を怪しんで、

「察するところ今度の停学に不満を抱いて、この機を幸いと遊学を試みるのではありませんか。父上のお許しはないけれど、母はあなたを片田舎の埋もれ木とするのを惜しむ者です。どうしてせっかくの志を阻むことがありましょうか。安心して子細を語りなさい」

と、それはそれは慈愛深いお言葉である。しかし私は答えなかった。それは母上から父上にお話になれば、到底許されないと分かっていたからである。そこでまず志士仁人に図って学資の補助を請い、その上で遊学に出たいと思いを定めて、当時、自由党の中で慈善家として聞えが高かった大和の豪農[吉野の山林王]の土倉庄三郎氏に懇願しようと、まずその地を目指して密かに出発の用意をしていると、自由党の解党の議が起こった。板垣伯[板垣退助伯爵]を初めとして、当時名を得ていた人々が、みんな東京から大阪に向かい、土倉庄三郎氏もまた大阪に出たとのことである。好機を逃すべからずということで、ついに母上までも欺いて、親友の招きに応じると言いつくろって、一週間のいとまを請い、翌日に家の軒端を立ち去った。実に明治17年の初秋であった。

2.2 板垣伯に謁する

 友人の家について、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せると、「午後7時頃」とあるので、今さらながら胸騒ぎがした。しかし以前からの決心なので夜が明けると友人が懇ろに引き止めるのも聴かず、いとま乞いをして大阪に向かった。ところが私と同室に40歳ほどの男子がいて、しきりに私の生地を尋ねて私の顔のみ注視する体である。私は不安であるいは両親から頼まれて途中ここで私を待っていたのではないかと、いったんは少なからず危ぶんだものの、もともと私が郷里を出たのは、ふつつかではあるが日頃の志望を遂げようとしてであり、かの「垣根を越えて男のもとに走る」などのみだりがましい類いではないので、いったい何を包み隠すのかと、「やがて東京に行く途中で大阪の親戚に立ち寄るつもりだ」という気持ちをもらしたところ、「そうならばその親戚は誰で町名番地はどこか」などと、執拗な質問がうるさくて、口から出るまま、あらぬことをも答えたところ、その人はたいへん驚いたようすで「それでは藤井さんの親戚ではないか。奇遇と言うもおろかなこと。藤井さんは、今し方この部屋にいたが、事務員に用事があるといって先刻出て行かれた。さてすぐに呼んで来よう」と言って、あわてて立って事務室に行って藤井を呼んだようである。

 藤井は私が誰であるかを問い極めるいとまもなく、その人に引かれて来てみれば、あにはからんや、従妹の私であったので、さらに思いも寄らぬ様子で「どうして東京にいくのか、両親から許可を得ているのか」など、畳みかけて聞いてきた。「もちろん承諾を得ている」とは、その場合の我と我が心を欺く答えであったが、果ては質問の矢の耐えようもなく、たいへん苦しい胸を押さえ額をさすって、めまいにこと寄せて、「詳しいことは、いずれ上陸のうえで話す」と、そのまま横になって、翌朝の九時にようやく大阪に着いた。藤井宅の妻子および番頭小僧らまでが主人の帰宅を歓迎し、しかも私の新来をいぶかしく思ったであろう。その夜、私はついに藤井夫妻に打ち明けて東京に行く理由を語った。妻は深く同情を寄せてくれて、藤井もともに尽力しようと誓った。

 その翌日、直ちに土倉氏を銀水楼に訪れるが、氏はいまだ大阪に出てきてはいなかった。私の失望はどれほどであったろうか。しかし別に仕方もなく、ひたすら到着を待っていると、小林樟雄氏から招待状が来て「板垣伯に紹介しよう」というので、とてもうれしくて、直ちにその身を寄せる所を訪れたところ、小林氏は私が大阪に出てきた理由を知らず、婦女の身で一時の感情に一身を誤らないようにと、心のこもった教訓を垂れてくださった。しかし私の一念を翻すことができないだろうと見たのか、強いては言わずに、とにかく板垣伯に会って東京に行く趣旨を述べなさいということなので、私は承諾した。

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 板垣退助 ( 出典:「近代日本人の肖像」(国立国会図書館))

 ついに板垣伯にお目にかかって、東京に行くことの趣旨さらには将来の目的などを申し上げたところ、大いに同情を寄せられて、「土倉氏が大阪に出てくれば、私からも頼んであなたの東京行きの意思を貫徹させよう。幸いに我が国家のため、人道のために努めなさい」との御言葉であった。世にもありがたくて感涙にむせんだその日に、土倉氏から招待状が来ようとは予想していなかった。それには「友人の板垣伯より貴嬢の志望を聞いて感服した。不肖ながら学資を提供しよう」との意向を含んだ書簡であったので、天にも昇る心地がした。従弟にもこの喜びを分ち、もう一方で郷里の父母に遊学の許可をお願いしようとして急いでその旨を申し送った。あわてて土倉氏の身を寄せる所に行って、その恩恵に浴することの謝辞を述べて、旅費として金50円を贈られた。こうして用意もすべてなり、ひたすら東京に行く日を待つうちに、郷里では従弟からの消息を得て、一度は大いに驚いたけれど、このような人々の厚意によって学資を支給されるという幸福を無視するのはもったいないとして、ついに公然と東京行きの希望を受け入れたのは、まことに板垣伯と土倉氏との恩恵であったことよ。

2.3 書窓の警報

 それから数日たって板垣伯から手紙が来て、「幸いに東京に帰る有志家があるので、あなたを同伴することを頼んでおいた。すぐに来なさい。紹介します。」とのことで、とりあえず行ってみると、有志家とは当時自由党の幹事であった佐藤貞幹氏であった。私はすっかり安心して、翌日、神戸を出帆する船に同乗し、船の初旅もつつがなく、さらに横浜よりの汽車の初旅も支障なく東京についた。前もって板垣伯より依頼をしておくとのことであった『自由燈新聞』記者の坂崎斌[坂崎紫瀾、『汗血千里の駒』の著者]氏宅に行って、初対面の挨拶を述べ、将来の訓導を依頼した。ほどなく築地にある新栄女学校に入学して12、3歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、かたわら坂崎氏について心理学およびスペンサー氏の社会哲学の講義を聴き、しばし読書界の人となった。こうしているうちに、ある日、朝鮮変乱[甲申政変、明治17年12月]に引き続いて、日清の談判が開始されたとの報道が、思いがけず私の書窓を驚かした。[ 天津条約締結、明治18年4月]。我が国の当局は軟弱で無気力であり、国内では民衆を抑圧するにもかかわらず、外国に対しては卑屈な態度をとり、国家の恥辱を賭して、ひとえに一時の栄華をひけらかして、百年の憂いを遺して、ただ一身の一時の安楽を貪ることを切望することにきゅうきゅうとした有り様を見て、ただでさえ感情のみにはしる癖がある私は、憤慨の念が燃えるばかり、ついに女性の身であることも打ち忘れて、「どうして私が奮いたって、優柔な当局および怠けている民衆の眠りを覚してやらなくてはやめられようか」の心となったことは、決まり悪い限りであった。

2.4 当時の所感

 ああ、このようにして私は書物を断然と投げ捨てるという不幸をもたらしたのである。当時、私が感情をもらした一片の文がある。もとより狂者の言に近いけれども、当時、私が国権主義に心酔し、忠君愛国ということに熱中していた、その有り様を知るのに足りるものであるので、叙述の順序として、以下に抜萃することを許してほしい。これは大阪で未決監獄に入監中に起草したものである。私はここで、私が今、貴族や豪商の驕傲[驕り高ぶること]を憂えるとともに、また昔時、死生をともにした自由党有志家の堕落と軽薄をいとうていることを自白しよう。私たちは女子の身なりとも、国のためという念は死に至るまでやめるつもりはなく、この一念は、やがて私を導いてしきりに社会主義者の説を聴くことを喜ばせ、ようやくかの私欲私利にきゅうきゅうとした帝国主義者の言行をいとうようにさせた。

 ああ学識がなく、いたずらに感情にのみ支配されていた当時の思想の誤っていたことよ。されどそのころの私は、憂世愛国の女志士として、人も容認し、私も自認していた。しばらくは女志士として語らせてほしい。

 [ 「獄中述懐」:末尾の15章に掲載 ]

 このように冗長な述懐書を監獄の役人に提出して、回らない筆に得意顔をしていた当時の振舞いのはしたなさよ。理性をなくして一片の感情に走る青春の人々は、くれぐれも私を見て戒める所があってほしい、と願うのもまた、はしたないことだ。そうではあるが当時の境遇が単純で幼かったのは、浮世の浪に徹底的にもてあそばれて、深く深く不遇の水底に沈み、果ては運命の測ることができない恨みに泣いて、煩悶してついに死の慰安を得ようと覚悟したりしたその後の私に比べて、人格の上の差異はどのくらいであろうか。ここに思いが至るごとに、知らず知らず懐旧の涙を抑えることができないのをどうしようか。このようなうら若い年頃の身で、一心に自由のため、愛国のために、一命をなげうとうとしたのは、一つは名誉の念に駆られた結果とはいえ、また心の底より自由の大義を国民に知らしめたいと願ってであった。当時の拙作がある。

  愛国丹心万死軽   剣華弾雨亦何驚
  誰言巾幗不成事   曾記神功赫々名
[通釈:愛国の心情をいだく私に死は何ものでもない。剣が打ち合う火花も弾丸の雨も驚くことはない。女に大事はなしえないといったい誰が言いえようか。かつて神功皇后は女の身で武勲の誉が高かったではないか]

2.5 不恤緯会社

 これより先、私は坂崎氏の家にあって、一心に勉学のかたわら、何とかして同志の婦女を養成しようと志して、不恤緯会社を起こして、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷ではないようにして、自由に婦女の天職を尽させ、この感化によって、男子の横暴卑劣を救済したいと思ったので、富井於菟女史とはかって、地方有志家の賛助を得て、資金も現に募集の途がついて、ゆくゆくは一大団結を組織する望みがあった。しかるにこと志とは齟齬があって、富井女史が故郷に帰るという不幸にあった。ついでに女史の履歴を述べてみよう。[不恤緯:機織を仕事とする寡婦が、緯(横糸)の少ないことを憂えずに、宗周の亡びることを憂えたという中国の故事から、職を捨てて国を憂えることを意味する]

2.6 於菟女史

 富井於菟女史は播州竜野の人である。醤油屋に生まれ、一人の兄と一人の妹がある。幼いころから学問を好んだので、商家には必要はないと思いながらも、母が丹精して同所の中学校に入れ、やがて卒業した後、その地の大学者について漢学を修めた。また岸田俊子女史の名を聞いて、一度その家の内弟子であったが、同女史より漢学の益を受けることができないことを知るとともに、女史が中島信行氏との婚約が成立した際であったので、しばらくしてその家を辞して、坂崎氏の門に入って、絵入り自由燈新聞社の校正を担当して、独立の歩調を取られた。我が国の女子で新聞社員であったのは、実に於菟女史を嚆矢とする。こうして女史は給料の余りで同志の婦女を助け、ともに坂崎氏の家に同居して学事に努めさせて、自ら訓導の任に当たった。私が坂崎氏を訪れると、女史と対面して旧知の感があり、ついに姉妹の約束をして、生涯助け合うことを誓いつつ、万事に秘密をいとい、善悪ともに互いに語らうことを常とした。それゆえ私は朝鮮変乱より以降、東亜の風雲がますます急である由を告げて、「この時この際、婦人の身は、またどうして空しく過すべきだろうか」と言ったところ、女史も我が国の当局者の優柔不断を慨嘆して、心密かに決する所があって、さあそれならば地方に遊説して、国民の元気を起こそうとして、坂崎氏には一片の感謝状を残して、私とともに神奈川地方に出奔した。実に明治18年の春であった。二人は神奈川県荻野村[現厚木市]に到着すると、その地の有志家である荻野氏および天野氏の尽力によって、同志を集め、結局金を集めて大井、小林等の志士の運動を助けようと企てた。しかしその額があまりに少なかったので、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説得して若干の金を出させようと、ただ一人帰郷の途についた。旅費は二人の衣類を質に入れて調達したのであった。

2.7 髪結洗濯

 女史と別れた後、私は土倉氏の学資を受ける資格がないことを自覚して、職業に貴賤はない、等しくみな神聖である、身にはボロをまとうとも心に錦の美を飾りつつ、しばらく自活の道を立てて、やがて霹靂一声世を轟かす事業をとげて見せたいと、ある時は髪結いとなり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなった。広い都に知る人のいない心安さは、かえって自活の業の苦しくもまた楽しかったことか。こうして三旬ばかりが過ぎたけれど、女史からの消息はなかった。「さては人の心の頼めなきことよ」などと案じわずらいつつ、居て待つよりは、むしろ行って見るにしかずと、これを小林氏に相談したところ、「心変りならば行ってもしかたがない、そうでなければ居れば消息がないだろうか」と言う。実にそうだなと思ったので、余儀なくもその言葉に従って、また幾日も過ごしていた。そんなある日、鉛筆であいまいにしたためた一封の手紙が来た。見ればうらめしくも恋しかった女史よりの手紙である。冒頭に

「ああ、しくじったり誤りたり、とりもち桶に陥りたり。今日は、もはやさきの富井にあらず、妹は一死もって君に謝せずんばあらず。今日の悲境は筆紙の能く尽す処にあらず、ただただ二階の一隅に推しこめられて、日々なすこともなく恋しき東の空を眺め、悲哀に胸を焦がすのみ、余は記する能わず幸いに諒せよ」

とあった。言葉は簡潔であるが、事情の大方は推察された。さて何とか救済の道がないかと、千々に心を砕いたけれども、その術はなかった。そうであれば自分が女史の代わりをも兼ねて、二倍の働きをして、この本意を貫くだけだとして、ちょうど郷里より慕って来た門弟がいたのを相手として、日々、髪結洗濯の事業にいそしみ、わずかに糊口をしのぎつつ、有志家の間に運動して大いにその信用を得たのであった。

2.8 暁夢を破る

 しかるにその年[明治18年]の9月初旬、私が一室を借りていた家の主人が、早朝に二階の下より私を呼んで、「景山さん、景山さん」と、とても慌ただしい。暁の夢がいまだ覚めきらぬ頃であったので、何事かと半ばはうつつの中で問い返したところ、「女のお客さんがあります」という。「何という方ですか」と重ねて問うと「富井さんとおっしゃいます」と答える。「なに富井さん!」、私は床をけって飛び起きた。階段を走り下りるのも夢心地であったが、庭に立っているのは、おお、その人である。「富井さんか」と、我を忘れて抱きつき、しばしは無言の涙であった。懐かしい女史は、いく日かの間を着のみ着のままで過したのだろう、秋の初めの暑苦しい空を、汗臭くひどく汚れた浴衣を着て、うら若い年頃の処女がさすがに人目羞かしそうな風情で、茫然と庭にたたずんでいたのであった。ずっとそのままではいられないので、二階に助け上げてまず無事を祝し、別れた後のことなどを何くれとなく尋ねたところ、女史は涙ながらに語り出すには、

「あなたに別れてから、無事に郷里に着き、母上兄妹のつつがないことを喜んで、さて時ならぬ帰省の理由はかくかくであると述べたところ、兄は大変に感じ言った体で始終耳を傾けていた。その様子にひとまず安心して、ついに資金調達のことを申し出でたところ、感嘆の体と見えたのは、私の大胆さをあきれた顔であったとは、思いも寄らなかった。私が二度三度と頼み申し上げたことには答えないで、静かに沈んだ底気味わるい調子をもって、「このような大それたことに加担する上は、当地の警察署に告訴して、大難を芽が出る前に防がなくてはなるまい」と言う。私は驚きつつ、また腹立たしさの遣る瀬がなく、骨肉の兄と思えばこそ大事を打ち明けたのに、卑怯にも警察に告訴して有志家を傷つけようとは、何と恐ろしい人非人か、もはや人道の大義を説く必要はない、ただ自らの一死をもって諸氏に感謝するのみと覚悟しつつ、兄に向かって「これほどの大事にくみしたのは全く私の心得違いであった。今こそお諭しによって悔悟したので、以後は仰せのままに従うので、何とぞ誓い合った同志諸氏の面目を立てさせてください」と種々に哀願して、やっとその承諾は得たが、私はそれより二階の一室に閉じ込められて、妹は看守の役を仰せつかった。筆も紙も与えられず、読書さえ許されず、その悲しさは死にも勝って、あなたがさぞや持っているだろうと思う心は、かえって待つ身の幾倍の苦しさであっただろう。ようやく妹を言いくるめて、鉛筆と半紙を借り受けて急いで手紙を出したけれども、詳しい有り様を書き記すことができるいとまもなかった。きっと心変りしたのだと爪弾きをされているだろうという口惜しさ、悲しさに胸が張り裂ける思いで、夜もおちおち眠ることができない。何とかして今一度東京に行って、この胸の苦痛を語って、おもむろに身の振り方を定めようものと今度ようやく出奔する機会を得たのである。それは両三日前、妹が中元の祝いとして、よそから4、5円の金をもらったのを無理に借り受けて、それを旅費として、夜半に寝巻のまま家を抜け出して「これからキリスト教に身を委ね、神に仕えて自分の志を貫きたい」という手紙を残して、こうして上京したので、私はもはや同志の者ではない。約束に背くという不義をとがめることなく長く友誼を許してほしい」

と言う。その情義[人情と義理]に篤い志を知って、私もどうして感泣の涙を禁じることができるだろうか。ああ堂々たる男子でも黄金のためにその心身を売り、平然として顧みないという時代であるのに、女史の高い徳義心は一身を犠牲にして兄に秘密を守らせて、自らは道を変えつつも、なお人のため国のために尽くそうとは、何という清い心地であろうか。私の敬慕の念は、一層深くなっていったのである。その日は終日、女梁山泊をもって任じている私の身を寄せる所でいろいろと話をして、日が暮れるのも気がつかなかったが、別れに臨んで「お互いに尽くす道は異なるが、必ず初志を貫いて、早晩自由の新天地で握手しよう」と言いかわし、またの会合を約束してさらばとばかり袂を分かった。ああ、これが永久の別れとなろうとは、神ならぬ身に知る由もなかった。

第3 渡韓の計画

3.1 私の任務

 ある日、同志である石塚重平氏が来て、「渡韓の準備が整ったので、あなたも連れて行くはずである」と、その理由およびその方法などを説明された。もとより信じる所に捧げた身で、どうしてためらうことがあろうか。直ちにその用意に取りかかったが、友愛の心厚い中田光子は、私の常ならぬ挙動を察して、その子細を知りたそうな模様であった。しかし彼女に禍を及ぼすのは本意ではないと思ったので、石塚重平氏に託して彼女に勉学を勧めさせ、また於菟女史に手紙を送って今回の渡航を告げて、後事を託した。これで思い残すことはないと、心静かに渡韓の途に上ったのは、明治18年の10月であった。

3.2 鞄の爆発物

 同伴者は新井章吾、稲垣示の両氏であったが、壮士連の中には、三々五々、赤ゲットにくるまりつつ、船中に寝転ぶ者がいたのを見ていた。同伴者はみな互いに見知らぬ風を装っていた。その退屈と心配とは、簡単には筆舌に尽しがたい。私がこの旅に加わったのは、爆発物の運搬に際して、婦人の携帯品として、他の注目を避けることに決めたからで、すなわち私を携帯の任に当たらせたのである。こうして私は爆発物の原料の薬品すべてを磯山の手より受け取り、支那鞄に入れて普通の手荷物のように装い、始終かたわらに置いて、ある時はこれを枕にうたたねの夢をむさぼっていたが、やがて大阪に着いたので、安東久次郎氏宅に同志の人を呼び、ひそかに包み替えようとする折りに、金硫黄という薬が少し湿っているのを発見したので、缶より取り出してしばらく乾そうとしたところ、空気に触れるや否や、一面が青い火となって今や大事に至らんとした所に、安東氏が来て直ちに消し止めた。さすがは多年薬剤を研究して薬剤師の免状を得て、その当時薬屋を営んでいた甲斐があったと人々はみな氏を賞賛したのであった。そうではあるが今より思い合わせると、いかに盲目蛇に怖じずとは言いながら、こうした危険極まる薬品を枕によくもやすやすと眠ることができたことかと、身の毛が逆立つばかりである。ことに神戸駅にて、この鞄を秤にかけた時に、中でがらがらと音がしたのを駅員らが怪しんで、「これはどんな品物ですか」と問われたので、傷持つ足ではっと驚いたが、何食わぬようすで、「田舎への土産に、子供のおもちゃを入れて置いたのに、車の揺れがあまり激しかったため、このように壊されたことは口惜しい」と、わざわざ振ってみたところ、駅員もうなずいて、強いて開けてみようとはしなかった。今にして当時を顧みると、なお冷汗が背中をぬらすのを覚えるのである。安東氏は代々薬屋で、当時は熱心な自由党員であったが、今は内務省の検疫官としてすこぶる精励の聞えがある由。先年、板垣伯が内務大臣であった時に、多年にわたって国事に奔走していた功績を褒められてか内務省の高等官となり、その後内閣がいくら変遷をへても、専門技術の素養がある甲斐からか、他の無能の豪傑連とはその選を殊にして、当局者のためにすこぶる調法がられていると聞いている。

3.3 八軒屋

 大阪の安東氏宅に数日仮住まいしたあと、私は八軒屋という船つきの宿屋に居を移し、ひたすら渡韓の日を待っていた。ある日、磯山より小林が大阪に来たことを知らせてきて、急いでその旅宿に来てくれとのことで、何事かといぶかりつつ行ってみると、同志らは今や酒宴の途中で、お酌にはべらせた芸妓がとても艶めかしく騒ぎ立てていた。こうした会合に加わったことのない身で、どうしたらいいのかとただ恐縮のほかはなかった。それにしても同志はどのような余裕があって、こんな豪奢を尽すのだろうか。ここは詰問の試みどころと、小林氏に向かい

「今日の宴会は、私にはほとほとその心が分からない。磯山氏からの急な使いを受けて、さぞ重要な事件の打ち合わせに違いないと思いを巡らしたのに、似ても似つかぬ戯けた振舞いは、目にするのも汚らわしい。ああ、日ごろ頼みをかけた人々さえこのようだ、他の血気の壮士らが遊廓通いのことばかり考えているのも道理である。まったく嘆かわしさの極みであることか。このような席に連なっては、口をきくのさえ恥ずかしい、いざさらば帰るべし」

と思うままに言いののしり、やおら畳を蹴立てて帰り去った。

 これはこのような様子を見せたならば私の所感はどうだろうと、磯山が物好きにも特に私を呼んだのであったが、私の怒りが思いのほかだったので、同志は言うまでもなく、芸妓らまでも、衷心から大いに恥じる所があり、一座は白け渡って、そこそこに宴をきりあげた。

3.4 磯山の失踪

 それより数日して爆発物もできあがり、いよいよ旅立ちという前の日、磯山の所在が分らなくなった。しかるにその甥である田崎定四郎が私に向かって、ある遊廓にひそんでいる次第を告げたので、私はまず行って磯山の在否を問うたところ、待合の女将が出てきて、「いない」と言う。「たとえ他の人にそう答えたとしても、私は磯山の忠実な部下である。この家に磯山がいるのを知っていて、急用があって来ているので、磯山が私であると知れば、必ず出てくるでしょう」と重ねて述べると、女将はうなずいて、

「それは誠にすみまへんが、どなたがおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、お隠しもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは女子はんじゃ、さかい、怒りはりゃ、しまへんじゃろ」

と言って、私を奥の奥のずうっと奥の愛妓の八重と差し向かっている魔室に連れて行った。彼はもとより女将に厳命したことが、これほど容易に破られるとは知るよしもなく、人の気配をただ女将とのみ思っていたのに、図らずも私の顔があらわれたのを見て、どうして慌てふためかないことがあろうか。しかし私は先日のような殺風景を繰り返すことを好まず、かえって彼に同情を寄せて、ともかくもなだめすかして、新井、小林に面会させるのが一番いいだろうと、いろいろと言辞を労して、ようやく魔室より誘い出して人力車に乗せ、ともに小林の身を寄せる所に向かったが、途中で同志の家を訪ねて、その人を同伴したいと言う。偽りとは思いも寄らなかったので、その心に任せたところ、なんと世にも卑怯な男があるものか、彼はそのまま逃げ隠れついに行方をくらましたのである。

 彼が持ち逃げした金の中には、「大功は細瑾を顧みず」という豪語を楯として、神奈川県の志士が、郡役所の徴税を掠奪しようとして失敗し、さらに財産家に押入って大義のためにその良心を欺きつつ、しいて工面した金も混じっていたとか。そうであるのに彼はこの志士の血と涙の金を個人的に使って淫楽にふけり、公道正義を無視して、一遊妓の甘心を買うとは、何とたわけた愚か者か。罪人として捕らえられて獄中にあるとき、同志よりは背徳者として排斥され、牢獄の役員にも嘲笑され、やがて公判が開廷された時に、ある壮士のために傷つけられたのは、もっともなことである。因果応報の恐るべきことを、彼もその時思い知ったにちがいない。

3.5 隠れ家

 このようにして磯山は逃げ隠れた。同志の軍資金はさらわれてしまった。差し当たりはそこここに宿泊させておいた壮士の手当をどうするかという先決すべき問題がおこり、直ちに東京に打電した上で、石塚氏を使いとしてその状況を申し述べ、ひたすらに大井の来阪を促したところ、やがて来て善後策を整え、また帰京して金策に従事した。その間の壮士らの宿泊料を、無理算段して埋め合せ、かろうじて無銭宿泊の難を免れたけれども、さて今後何日たてば金を調達する見込みが立つかどうか、一体いかにしてその間を切り抜けるべきか。むしろ一軒の家を借りて、2、30人の壮士を一団として置く方が上策であるとの説も出されたが、それでは警察の目を免れることができないので、私の発意で山本憲氏と相談して、同氏の塾生として一軒の家を借りて、これを梅清処塾[山本憲の漢学塾]の分室と呼ぶことにした。それより私はにわかに世話女房気取りとなって、一人の同志をともなって、台所道具や種々の家具を買ってきて、自炊に慣れた壮士に、かわるがわる炊事をさせた。表面は読書に余念がないように装わせつつ、同志が密かにここに集まって第二の計画を建てた。磯山が逃走しても、どうして志士の志が屈することがあろうか、一日も早く渡韓費を調達して出発の準備をなすにしくはないと、日夜懸命に働くこと十数日、血気の壮士らがやや嫌気がさしてきたことを察したので、ある時は珍しい肴を携えて彼らを訪れ、ある時は私が炊事を自らして婦女の天職を味わい、あるいは味噌漉しをさげて豆腐屋に通った。またある時は米屋の借金の言いわけは婦人に限るなどと、そそのかされて詫びに行き、意外に口ごもって赤面したこともあった。およそ大阪にて無一文の時に、2、30人の壮士に無賃宿泊で訴えられることを免れさせて、梅清処塾の書生としてこともなく三週間ばかりを過ごさせたのは、男子よりはむしろ私の力があずかって功があっただろうと信じている。今日に至るまで私はこの計画がうまくその当を得たことを自覚して、折々に語っては友人間に誇っていることである。もし私が富豪の家に生まれて、困窮が何物かを知らなければ、19や20歳の身で、どうしてこのような細々したことに心を留めることができただろうか、幸いに貧苦のうちに成長して、さらに遊学中に独立の覚悟を定めていたからこそ、このような窮余の策がとっさのうちに出てきたのである。私は炊事を自らするという覚悟がなければ、かの豪壮な壮士輩のいやしい仕事をどうして承諾するだろうか。私利私欲を棄ててこそ、鬼神をも服従させることができるのである。私をして常にこの心を失わないようにさせれば、不束ながらも大きな過失はなかっただろうに、志が薄く行いが弱いので、竜頭蛇尾に終ってしまったことは、我が身ながら不甲斐なくて、口おしさの限りは知られない。

3.6 遣る瀬なき思い

 上述のように、苦しみの中におりながら、いわゆる喉元過ぎて熱さを忘れるという習いで、情けなや、血気の壮士は言うまでもなく、大井、小林、新井、稲垣の諸氏までも、この艱難をよそにして、金が調達できたと言っては、妓楼に登って芸妓を抱擁した。このような時には、私はいつも一人ぼっちで、宿屋の一室に正座して、過去を思い、現在を慮って、深き憂いに沈み、婦女の身がはかないことをいっそう感じて、つまらぬ愚痴に同志を恨む思いが起こったが、また思いかえして、私は彼らのために身を尽そうというのではなく、国のため、同胞のためなので、決して中途で挫折すべきではない、ああ富井女史がいてくれればなどと、またしてもやるせない思いにもだえて、あるとき詠みだした腰折れの一首である。

   かくまでに濁るもうしや飛鳥川 
            そも源をただせ汲む人
[通釈:飛鳥川の水がこれほどひどく濁ってしまったのはつらいことだ。水汲む人よ、その濁りの源を清めて欲しい]

3.7 女乞食

 憂いの糸が、いっそう払い難かったある日のことである。八軒屋の旅宿にいて、ただ一人で二階の居間の障子を打ち開いて、階下に集った塵取船を眺めていると、女乞食で2、3歳の子供を背負った者が、しきりに塵の中から紙屑を拾い出して、これを籠に入れていた。背負った子供は母の背にかがまっていたが、胸を押されて、その苦しさに耐えられなかったのであろう、今にも窒息するような声を出して、泣き叫んだけれど、母は聞えぬ体で、なお余念なく漁り尽し、はては魚のはらわた、鳥の臓腑の様な物などを拾い取って、これを洗い、また料理する様子のいじらしさに、私は思わずため息をついて、「ああ、なんと人の世はこんなにも悲惨なものか、私は貧しいけれど、なおこの乞食には勝るべし、思えば気の毒な母よ、子よ」と惻隠の情をとどめがたく、覚えず階上より声をかけつつ、私には当時大金であった50銭の紙幣に重りをつけて投げ与えると、彼女は何物が天より降りて来たかのように驚きつつ、拾いとってしばらくためらっていた。私は重ねて、「それを子供に与なさい」と言うと、はじめて安堵したらしく、幾度か押しいただくさまが見るにたえず、障子をしめてうちの中に入った。しばらくして外出しようとすると、宿の主婦がいぶかりながら、「あんたはんじゃおまへんか、さっき女の乞食にお金をやりはったのは」と言う。そうですと私がうなずくと

「いんまさき子供をおぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれと言いましたが、乞食にお名前を聞かすことかいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました。まあとんだ御散財でおました」

と言う。慈善は人のためならず、私は近ごろになく心の清々しさを感じたものの、たとえば眼を過ぎる雲煙のように再び思いも浮べなかったのに、図らずも他日この女乞食と思いもよらぬ所で出会って、小説らしい一場の物語となった。ついでであるので記しつけよう。

3.8 一場の悲劇

 その年の12月に、大事が発覚して長崎の旅舎で捕われ、転じて大阪(中の島)の監獄に幽閉されると、国事犯者として普通の罪人よりも優遇されて、未決中は、伝告者すなわち女監の頭領となって、初犯者および未成年者を収容する牢屋を司ることとなった。よって初犯者を改過遷善の道[過ちを改め良い道へ戻る]に赴かしめるように誘導の労をとり、また未成年者には読み書きや習字を教えるなどして、獄中ながら、これらの者から先生、先生と敬われつつ、未決中無事に3年ほどを打ち過ごしたので、その間に随分種々の罪人に会った。その罪人の中にはまた、このような所でこのような看板をつけていなければ、いったい誰がこの者をそのような者と思うだろうかという好人物もいたのである。世にはこれよりもさらに大きな悪、大きな罪を犯しながら、白昼大手を振って大道を濶歩する者も多いのに、大を残して小を拾うとは何と不公平な処置であるかなどと感じたことも、しばしばであった。あなかしこ、この感情は一度入獄の苦をなめた人でなくては、語るにも十分ではなく、語っても耳を覆うだけだろう。このように私は世の人より大罪人大悪人と呼ばれる無頼の婦女子と同室になって、起居飲食をともにして、ある時はその親ともなり、ある時はその友となって互いに睦み合ううちに、彼らが私を敬慕することは、かのいわゆる娑婆[自由な世界]における学校教師と子弟との情は物の数ではなく、ともにこの小天地に落ちたという同情同感の力をもって、よく相一致する真情は、これを肉身に求めてもなお得がたい思いであった。こうしているうちに獄中は常におのずからの春があって、穏やかで温かい空気が立ちこめた翌年の4、5月の頃と記憶するが、ある日看守が通例のように牢屋の鍵を鳴らして来て、「それ新入りがあるぞ」と言いつつ、一人の垢じみた25、6歳の婦人を引いて、今や監倉の戸を開こうとした時、婦人は監外より私の顔を一目見て、物をも言わず、わっと泣き出した。なにゆえとは知る由もないけれど、ただこの監獄の様子のいかめしく、恐ろしげなことに心おびえて、かつはこれからの苦痛に思いをはせたのではないかなど大方に推し測って、心密かに同情の涙をたたえていたが、婦人はやがて私に向かって、

「あなた様は御覚えないかも知れませんが、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れたことはない。御顔もよく覚えています。あなた様は、先年、八軒屋の宿屋にて、女乞食に金品を恵まれたことがあるでしょう、その時の女乞食が私です。なんの因縁か、再びこのような所で御目にかかったのは、これも良人や子供の引き合せで私の罪を悔いさせ、あなた様に先年の御礼を申し上げよとのことでしょう。あなた様が憐れんで50銭を恵んでくださった子供は、悪性の疱瘡にかかって一週間前に世を去りました。今日はその初七日なので線香なりと手向けようと、その病が伝染して顔もまだこの通りの様ながら紙屑拾いにでかけたのに、病後の身の遠くへは行くことができずかれず、籠の物も増えないので、これでは線香どころか、一度の食事さえ覚束ないと、悶え苦しみつつふと見れば、人気のないところに着物を乾しているが家ある。背に腹はかえられず、つい道ならぬ欲に迷ったために、たちまちてきめんの天罰を受けて、かくも見苦しき有り様となり、御目にかかったことの恥かしさよ」

と、正体がないほどに泣き沈み、

「御恵みにあずかった時は、病床にあった良人へも委細を語って、これも天の御加護ならんと、薬も買い、子供に菓子も買ってやり、親子三人で久し振りに笑い顔をも見せ合ったのに、良人の病はなお重くなって行って、あえない最期となりました。弱る心を励まして、私は子供相手にやはり紙屑拾いをその日の業としていましたが、天道さまも聞えませぬ、貧乏こそすれ露いささかも悪しき道には踏み込まなかった私たち親子に病を降して、ついに最愛の者を奪い、このような始末に至らせるとは、何という無情ななされ方か」

などと、果てしもない涙にかき暮れた。私はすでにその奇遇に驚き、またこの憐れな人の身の上に泣いていたが、ずっとこのままではいられないので、他の囚人とともにいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して良人や子供の菩提を弔いなさいなどと力を添えました。一週間ばかりして彼女は既決に編入されたけれど、ひたすらに私との別れを悲しみ、俗界に出て再び飢えに泣くよりは、今少し重い罪を犯して、いつまでもあなた様のお側でお世話になりたいなどと、心も狂おしく打ち嘆いたのであった。

 実に人の世の苦しさは、この心弱き者に、かえって監倉の苦痛を甘んじさせようとするのである。このことをも誰が悲惨ではないと言うだろうか。当局者はよく罪を罰することを知っている。質問させて頂きたいのは、罪をあがなうことができた者を救助する法があるか、再び飢餓の前にさらして、むしろ監獄の楽しみを想わせることがないことを保証することができるだろうか、ということである。

3.9 爆発物の検査

 これより先に、大井らは東京での金策が成就して、渡韓の費用を得たことから、直ちに稲垣とともに大阪に下って、その準備をととのえ、梅清処塾にいた壮士は早くも三々五々に渡韓の途についた。私は新井、稲垣両氏と長崎に行く約束で、その用意を取り急いでいたが、旅立ちの一両日前、大井、小林、新井の三氏および今回出資した越中富山の米相場師の某らが稲垣とともに新町遊廓で豪遊を試み、私もはからずもその席に招かれた。志士仁人もまたこのような醜態を演じて、しかも友情を厚くする方便であるというのか、大事の前に小欲を捨てることができず、前途が近くはない事業をひかえて、財布の底の多くない資金を濫費する、私の不満と心痛とは、私を引いて早くも失望の淵に立たせようとしたのである。旅立ちの日、大井の発言で大鯰の料理を命じ、密かに大官吏を暗殺して内外の福利を進めることを祝った。こうして午後7時頃に神戸行きの船に搭乗したのは新井、稲垣および私の三人であった。瀬戸内海の波はとても穏やかで下関に着いたが、当時大阪で流行病があって、しだいに蔓延する兆しがあったので、ここでも検疫が行われ、一行の着物はおろか荷物も所持品もことごとく消毒所に送られた。消毒の方法は硫黄にて燻すのであるということで、そうかと三人は顔を見合すべきところであるが、初めから他人の注目を恐れて、たまたま乗合わせたように装っていたので、他の雑踏にまぎれてとっさの間にそれとなく言葉を交え、「爆発物は私の所持品にしよう」と言うと、「いや、拙者の所持品としよう、もし発覚すればそれまでである、いさぎよく縛につくだけだ、用心して同伴者であることを看破されないように」と新井氏は言う。決心は動かしがたいと見えたので私も否みかねて、ついに同氏の手荷物とした。それより港に上がって、消毒の間とある料理店にあがり、三人それぞれに晩餐を命じたが、心ここにあらずで、いかなる美味も喉を下だらず、今や捕吏か来るのではないか、今や爆発の響が聞えないかと、30分ほどが千日とも待ちわびた。やがて一時間ばかりたって宿屋の若者が三人の荷物を肩に帰ってきた。再生の思いとはこの時のことであるにちがいない。消毒が終わって衣類も自分の物と着替えて、それより長崎行きの船に乗って名高い玄海灘の波を破り、無事に長崎に着いたのは11月の下旬である。

3.10 絶縁の書

 長崎で朝鮮行きの出船を待つうちに、ある日無名氏より「荷物が濡れた東に帰れ」という電報があった。もし渡韓の際に政府の監視が甚だしく、大事が発覚する恐れがあると認める時には、誰よりとも「荷物濡れた」の暗号電報を発して、互いに警告すべしと、かつて磯山らと約束しておいたところだった。さては磯山の潜伏中に大事が発覚して、このように警戒してきたのか、あるいは磯山自ら卑怯にも逃走する恥辱を糊塗しようと、このような姑息なはかりごとを巡らして、私たちの行を妨げ、あわよくば逮捕されるようにしようと謀ったのではないかと種々に評議を凝らしたが、ついに要領を得なかった。東京に打電して大井に質しても、出船の期日が迫っている今日、そもそもまた真意を知り難いだろう、とりあえずは打ち棄てて顧みず、向かうべき方に進むだけだと、新井から他の壮士にこの旨を伝えたところ、彼らの中には新井が磯山に代わったことを拒否する様子があって議論が一致せず、やや不調和の気味があったので、「このような人々は潔く東京に返すべきだ。どうして多人数が必要なのか。私は万人に匹敵する利器[爆裂弾]を所有している。あえて男子に譲歩するだろうか」と新井に同意を表して稲垣を東京に帰らせ、決死の壮士十数名を率いて渡韓することに決定した。これで私も安心して、一日を長崎の公園に遊んで有名な丸山などを見物して、帰途に勧工場[商品陳列販売所]に入って筆紙墨を買い調えて、薄暮に旅宿に帰ったところ、稲垣はおらず新井ひとりが何か憂悶の体であったが、私の帰ったのを見てともに晩餐をとりながら「昼のほどより丸山に行った稲垣が今になってもまだ帰ってこない。彼が一行の渡航費を持っていったので、帰るまでは我らは一歩も他に移すことができない、ことに差し当たり佐賀に行って江藤新作氏に面会したい用件ができたのに、早く帰宿してくれないか」と言う。その夜の10時頃になっても稲垣は帰ってこず、もはやなすべき方法がないとして、それぞれ寝床に入ったが、私は渡韓の期日が、すでに今日明日に迫っていて、さあそれなら今回の拳について、決心の事情を小林に申し送って、遺憾の念がない旨を表しておこうと、独り灯下にくわしく記した文をしたためて、ようやく12時頃に書き終わって、今や眠りにつこうとするほどに、稲垣が帰ってきた。

3.11 発覚拘引

 新井は直ちに起きて佐賀へ旅立ちの用意を急ぎ、真夜中に宿を立ち去った。残ったのは稲垣と私とのみで、稲垣は遊び疲れが出たのだろうか、横になるとすぐ快く眠っていたが、私はひとたび渡韓すると、生きて再び故国の土を踏むことはないだろう、彼ら同志に遊廓に遊ぶほどの余資があれば、これを借りて道すがら郷里に立ち寄ってせめて父母兄弟にそれとなくいとま乞いもなすべきだったなどと様々の思いにふけって、眠ると言うのではない夢見心地のうち、何か騒がしい物音を感じた。何げなく閉じた目を見開くと、これはどうしたことか、警部巡査ら十数名が、手に手に警察の提灯を振り照らしつつ、私たちが城壁と頼む室内に闖入しているのである。「あなや」と驚いて起きようとすると、宿屋の主人が来て、旅客の検査であると言う。やはり大事が近づいたかと、覚悟はしたけれど、これは私一人の身の上ではないので、できる限りは言い抜けようと、巡査の問いに答えて、さらに何にも分からない様子を装って、ただ稲垣と同伴する旨を言ったところ、警部はうなずいて、稲垣には縄をかけ、私は別にとがめないような模様であったが、宵のほどにしたためておいた小林への手紙が、寝床の中から現れたことがまことに口惜しかった。警部の温顔がにわかにいかめしくなって、「この者をも拘引せよ」と騒ぎ立てると、巡査は承って「ともかくも警察に来るべし、寒くないように支度せよ」などと、なお情けがあるらしい注意をするのであった。抗うべき術もなくて、言われるままに持ち合せの衣類を取り出し、あるほどのものを巻きつけると、身はごろごろと芋虫のようになって、やがて巡査に伴われて行く途上の歩みがなんと息苦しかったことか。警察署に着くやいなや、まず国事探偵より種々の質問を受けたが、その口振りによって昼のあいだ公園に遊び、帰途に勧工場に立ち寄って筆紙墨を買ったことまで、すでにくまなく探り尽くされていたことを知り、したがって私たちがなお安全と夢みていたその前々日から大事は早くも破れていたことを覚った。 

第4 未決監

4.1 ほとんど窒息

 訊問を終えたあと拘留所に留置されたが、そこの牢屋こそが、実に演劇で見ていた牢屋の様子であった。私が入牢したのはちょうど午前3時頃であった。世の中の物音の沈み果てた真夜中に、牢の入口の閂が取りはずされる響きのいよいよ怪しく凄まじいこと、さすがに覚悟していた私をも身の毛のよだつほど怖れさせた。生まれつき心臓の力の弱い私は、たちまち動悸が昂進するのを支えられず、鼓動が乱れて今にも窒息しそうな思いであるのを、警官は容赦なく窃盗犯と同様にあしらって、この中に入れとばかりに私を真暗闇の室内に突き入れて、また閂をさし固めた。何という無情であろうか、よしこのままに死なば死ね、どうしてこのような無法の制裁に甘んじることができるかなどと、すぐには涙も出なかった。もとより女ながら一死を賭して、暴虐な政府に抗せんと志した私が、勝てば官軍敗ければ賊と昔より相場が決まっているのを、虐待だ、無情だと、今さらのように愚痴をこぼしたのは恥かしいと、それよりは心を静めて思いを転じ、生きながら死んだ気になり、万感を排除することに努めたので、宿屋よりも獄中のほうが夢安く、翌朝目覚めたのは他の監房ではすでに食事が済んだころだった。

4.2 同志の顔

 先にここに入った際には、穴蔵のように思っていたが、夜が明けて見れば天井が高く、なかなか首をつるべきかかりもない。窓は小さな明かり取りで鉄の棒を廻めぐらしてあり、どんな剛力の者が来たとしても、破牢などは思いも寄らぬ様子で、たいへんな堅牢である。水を乞うて、手水をつかえば、やがて小さな窓から朝の食物を差し入れられた。とうてい喉を下らないだろうと思っていたが、案外にも味がよくてあっという間に食べてしまった。我ながら大胆であることに呆れてしまった。食事がおわって牢内を歩いていると、ふと厚い板の隙間から、床下が見えるのに気づき、試みに眸をこらすと、ああ、そこに我が同志が赤ゲットをまといつつ、同じく散歩するのが見えた。私と隣り合わせに入牢したのは、内藤六四郎氏の声である。稲垣、新井はいずれの獄に拘留されたのだろうか。地獄に堕ちながらも、慣れるにつれ、身の苦難の薄らぐままに、ひたすら想い出されるのは、故郷の父母のこと、さては東京、大阪の有志家のことである。一念がここに及ぶごとに熱い涙がほとばしるのを覚えるのだった。翌朝、食事が終わったあと、訊問所に引き出されて、住所、職業、身分、年齢、出生地などのことを訊問され、ついにこのただ当地に来た理由をただされて、「ただの漫遊だ」と答えたところ、「このようにお前たちをを拘引するのは、確固とした見込みがあってのことだ、未練らしく包み隠さずに、有り体に申し立ててこそ、お前たちの平生の振舞いに似つかわしい」ということであったので、もっともなことと思って、ついに述懐書[15章に掲載]にある通りの意見で大事にくみしたことを申し立てた。

4.3 大阪護送

 警察署での訊問が終わったあと、大阪に護送されることになり、夜の8、9時頃だろうか、数珠つなぎで警察の門を出た。速いようでも女の足は遅れがちで、途中は左右の腰縄に引きずられつつ、かろうじて波止場に到着して、それから船に移し入れられた。巡査が護衛しているのを見て、乗客は胆をつぶしたように、眼を丸くして、ことに女の身の私を見る。良心に恥じる所はないとは言いながら、何やら恥ずかしくて顔を伏せるほどで、同志とすら言葉を交わす勇気も失せ、穴へも入りたかった。一昼夜を過ぎて、ようやく神戸に着いた。いつものようにいろいろな場所の旅館の番頭小僧が乗り込んできて「ヘイ蓬莱屋でござい、ヘイ西村でござい」と呼びつつ、手に手に屋号の提灯をひらめかせて、私たちに向かってしきりに宿泊をすすめていたが、ふと巡査の護衛するのを見て、また腰縄がついているのにびっくりして、あきれ顔で口をつぐむのもおかしく、一方では世の人の心のさまも見え透いて、言いようもなく浅ましい。

 その夜は大阪府警察署の拘留場に入ると、船中の疲労やら、心痛やらで心地が悪く、いっそう苦悶を感じていたところ、私を護衛する巡査は二人で、一人は50歳未満、他は25、6歳ほどであるが、とても気の毒がって、女であるからとして特に拘留所を設け、そこに入れて懇ろに介抱しくれた。当所に来てからは、長崎の拘留所がとても凄まじかったのに引き換え、すべて我が家の座敷牢に入れられたくらいの待遇で、この両人のうち、かわるがわる護衛しながら常に私と雑話をして、また食事の折々には暖かい料理をこしらえては私にすすめるなど、すべて親切であったが、約二週間たって中の島監獄へ送られた後も国事犯者として処遇された。その待遇は長崎の厳酷であったのとは比べることができない。長崎警察署はいつくしみがなく、人をさながら犬猫のように見ていたので一時は非常に憤慨したが、昔、徳川幕府が維新の大事業にあずかって力ある志士を虐待した例を思い浮べ、深く思い諦めていたが、今大阪では、さすがに通常の罪人としては処遇せずに言葉も丁寧であって、監守長のような者も時々見回って、特に談話をなすことを喜び、なかには用もないのに話しかけては、ひたすら私の意を迎えようとした看守もあった。

4.4 眉目よき一婦人

 ここにおかしいことは私と室をともにする眉目の麗しい婦人がいたことである。天性は卑しくはなく、しきりに読み書き習字の教えを求められるままに、私もその志に愛でてなにかと教え導いたところ、彼女はいよいよ私を敬い、私はまた彼女を愛して、はては互いに思い思われ、私が入浴するごとに彼女は来て垢を流しくれ、また夜になると床を同じくして寒空に凍るばかりの蒲団を体温で暖めて、なお私と互い違いに伏して私の両足を自分の両腋下にはさみ、どういう寒気もこのすきに入ることがないようにした、その真心のありがたさ。この婦人は大阪の生まれで先祖は相当に暮した人であったが、親の代に至って一家の暮らし向きがにわかに衰えて、婦人は当地の慣習として、ある紳士の外妾となったが、その紳士は太く短く世を渡ろうと心掛ける強盗の凶漢だったので、その外妾となったこの婦人も定めてこの事情を知っているだろうとの嫌疑を受けて、すでに一年余りの長い日をいたずらに未決監として送ってきた者であるとのことだ。この事情を聞いて私は同情の念をとどめることができずに、典獄の巡回があるごとにその状況をくわしく述べて、婦人のために無実の罪を訴えたところ、その効果があったかは分からないが、私が三重県に移った後で、婦人は果たして無罪の宣告を受けたとの吉報を耳にした。しかるにこの婦人と互いに親しくしたことが、意外にも奇怪千万な寃罪の原因となって、一時は私と彼女とが引き離されるという滑稽談があった。当時の監獄の真相を詳らかにする一例ともなるだろうから、今その大概を記して、大方の参考に供しよう。

4.5 不思議の濡衣

 私が彼女を愛し、彼女が私を敬慕したのは、上述のような事情である。世の中には淫猥で無頼な婦人が多いのに、ただ彼女の境遇がとても悲惨なのを憐れむあまり、私の同情も自然に彼女に集中して、さながら親が子に対するような有り様であったが、ちょうど同じ年頃なので親子と言いがたいのはもちろん、また兄弟姉妹の間柄とも異なり、よそ目にはどのように見えただろう。当時の私はひたすらに虚栄心、功名心に胸を焦がしつつ、ジャンヌダルクを理想の人とし、ロシアのアナキスト(虚無党)を無二の味方と心得ていた頃なので、二人の交情がよそ目にはどのように見えても、私のあずかり知らぬ所、あるいはまた知ろうとも思わなかった所であった。私はただ彼女の親切に感じて自分もできるかぎり、彼女に教えて彼女の親切に報いることを努めていたところ、ある日、看守が来て、突然彼女に向かい「所持品を持ち監外に出ろ」と言う。さては無罪の宣告があって、今日こそ放免されるのであろう、何にもせようれしいことと喜ぶにつけて、別れが悲しくて人知れず流す涙にむせんだが、そうではなくて彼女は私たちの室を二間ばかり隔てる室に移されたのであった。彼女の驚きは私と同じで余りのことに涙も出ず、当局者の無法も程があると腹立たしいよりはまずあきれて、さらになぜか理解しかねた折に、他の看守が来て私に向かって「景山さん今夜からさぞ寂しかろう」とあざ笑う。私は何の意味とも知らずに、今夜どころか、ただ今より寂しくて悲しくて心細さの遣る瀬ない旨を答えて、「どうしてこのような無情の処置をして改過遷善の道をさえぎり給うぞ、監獄署の処置は余りといえば奇怪なので、署長の巡回がある時に、おもむろに質問すべきことこそあれ」と、あらかじめその願いを通じておいたが、看守はにこにこ笑いながら「細君を離したら、困るであろう、悲しいだろう」と、またしてもからかうのであった。その語気の人もなげなのが口惜しくて、我にもあらず憤然として憤ったが、なお彼らが想像する寃罪には気づくはずもなくて、「実に監獄は罪人を改心させるよりは、罪人を一層悪に導く所である」とののしったが、彼はわずかに苦笑して「とかくは自分の胸に問うべし」と答えた。私はますます気持ちが高ぶって「自分の胸に問えとは、私に何か失策のあったのか、罪があれば聞きたい。親しみ深き彼女を遠ざけられた理由を聞きたい」と迫ったけれども、平生は悪人をのみ取り扱うのに慣れた看守たちは、一途に何か誤解する有り様で、私の言葉には耳をかさずに、いよいよあざけり気味に打ち笑いつつ立ち去ったので、私は署長の巡回を待って、つぶさにこの状況を語り、私の罪を確かめようと思っていた。彼女も他の監房に転じた悲しさに、慎み深い日頃のたしなみも忘れて、看守の影が遠ざかるごとに、「先生先生、なにゆえにこのように隔離させられたのか、何とぞ早くそのゆえを質して、初めのように同室に入らしめよ」と打ち嘆くので、「もとより署長の巡回があれば、直ちに愁訴して互いの志を達すべし、しばらく忍びがたきを忍べかし」などと慰めたのは幾度だっただろうか。

4.6 直訴

 囚人が署長に直訴することは、ほとんど破格のことで許しがたい無礼な振舞いとして数えられる由であるが、私は少しもそのことを知らず、ある日、巡回してきた署長を呼び止めると、署長も意外の感があったもののようであったが、他の罪人とは同一ではないという理由で、私の直訴を聞き取り、さらに意外の感があった様子で、彼女をも訊問の上で、黙して帰署してしまったと思うやがてのこと、彼女は願いのように、私の室に帰ってきた。後になって聞けば、このことの真相は、実に筆にするにも汚らわしい限りである。今日はいざ知らず、その当時は長い年月の無聊の余りであろうか、男囚の間には男色が盛んに行われ、女囚もまた互いに同気を求めて夫婦のような関係を生じて、二人の女の中で割合に心が雄々しき方は夫のような気風になり、優しい方は妻らしくなり、このようにして不倫の愛に楽しみふけって、永年の束縛を忘れ、一朝変心する者があると、男女間における嫉妬の心を生じて、人を傷つけ自殺するなどの椿事を引き起こすことが通常であった。現に便所に入って、職業用のはさみで自殺を企てた女囚を、私も目の当たりに見て親しく知っていた。そうであるならば無知蒙昧の監守どもが、私の品性を認めることができずに、純潔ないつくしみの振舞いを、直ちに破倫非道の罪悪であると速断したことも、またあながちに無理ではないが、さりとて余りにおかしく腹立たしくて、今もなお忘れがたい記念の一つになっている。

第5 既決監

5.1 監房清潔

 中の島の未決監獄に一年余りいて、堀川監獄の既決監に移された。なお未決でありながら公判開廷の期日が近づいたので、護送の便宜上、客分としてこのように取り計られたのである。事件が進行して罪否がいずれかに決する時が近づいたのを、せめてもの気晴らしとして、のっぴきならない彼女との別離が来た。堀川においては、ある一室の全部を開放して、私を待っていた。中の島未決監より監房はさらに清潔で、部屋といっても恥かしくないほどである。ここに移った私は、だんだんと俗界に近づいたような心地がした。ここでも親しい友が間もなく私の前に現れた。彼女らは若い永年囚であった。いずれも私の歓心を買おうと、夜ごとに私の足を撫でさすり、また肩などを揉んで、およぶ限りの親切を尽くした。私は親の膝下にあって厳格な教育を受けたことから、このような親しみと愛とをもって遇されるごとに、親よりもなお懐かしいという念を禁じられなかった。

5.2 お政

 ここにお政といって大阪の監獄きっての評判の終身囚がいた。容姿はすぐれて美しく才気があり万事に聡い性格であったので、誘工[囚人に仕事を指導すること]のことはすべて、お政でなくては目が開かぬとまでにたたえられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚より敬いかしずかれていた。彼女もまた私がここに移ってから、何くれと親しみ寄って、読書に疲れたころを見計らっては、自分が買い入れた菓子やその他の食物を持ってきて、「算術を教えてください、算用数字はどのように書くのか」など、いとまさえあれば、そのことの他に余念もなく、ある時は運動がてら、水撒きなども気晴らしになるでしょうと、自ら水を担いできて、せつに運動を勧めたこともあった。彼女は西京の生まれで、相当の家に成長したが、どういう因縁だろうか、女性であるのにしばしば芸者狂いをして、その望みを達したいと、数万円の金を盗んだ報いで、たちまちここで憂き年月を送る身となった。当時は今日の刑法とは異なり、盗んだ金額によって刑期に長短をつけた時であったので、彼女は単なる窃盗でしかも終身刑を受けたのである。その才人であることは一目瞭然で、実に目より鼻へ抜ける人とはこのような人を言うのだろう、惜しいかな、人道以外に堕落して、同じく人倫破壊者の一人となった由を聞いた時は、私も思わず慄然としたが、そうではあるが、もともと鋭敏な性格であったので、監獄内の規則をよく遵守して勤勉にして怠らなかった功により、数等を減刑されて無事出獄した。大いに悔悟するところがあって、ついに円頂黒衣[僧衣]に誠意を表し、一、二度は私の東京の身を寄せる所にも来たことがある。また「島津政懺悔録」と題して演劇にも仕組まれ、自ら舞台に現れたこともあったが、その後はどうなったのだろう、消息を聞かない。

5.3 空想にふける

 このように私は入獄中、毎日読書にふけっていたとはいえ、自由の身であれば新著の書籍を差し入れてもらい、大いに学術の研究もできただろうが、漢籍は『論語』、『大学』くらいで、その他は『原人論』[圭峰宗密の著書]とか『聖書』とかの宗教書が許可されただけなので、ある時、英学を独習することを思い立ち、少し西洋人に学んだことがあるのを基として、日々勉励したが、やはり堂に入らずに終わったのは恥ずかしい次第である。在獄中には、出獄したらどうしよう、志を達したならばこうしようと、種々の空想にふけっていたが、出獄して間もなくその空想はすべてあだとなったのは失望の極みであり、しらずしらずのうちに堕落して、半生を夢と過ごしたことは口惜しい。せめては今後を人間らしく送ろうという念は、こうして懺悔の文章を書いている間も本当に痛切である。

5.4 監獄の役人の真相

 私の在獄中は別に悲しいと思ったこともなく、うかうかと日を明かし暮らしたのも無理はない。功名心に熱した当時のことであるので、毎日、署長看守長さては看守らが来て種々の事々を話しかけられ慰められ、また信書をしたためる時などには、若い看守が物好きな好奇心から監督を名目として監房に来ては、落書きなどをして、私が赤面するのを面白がり、なお本気の沙汰とも思えない振舞いに渡って、私をもてあそぼうとする者もあり、中には真実を込めた艶書を贈ってきて、よい返事をと促す者もあり、また「君がジョセフィーヌたらば、我はナポレオンたらん」などと遠回しに言う者もあって、諸役人はみな、私の一顰一笑[顔色、機嫌]をうかがっているという観があったのも、おかしなことではないだろうか。

 それゆえ女監取締りのような者すら、私の愛顧を得ようとして、密かに食物菓子などを贈るという有り様なので、獄中の生活はかえって不自由がちな俗界に勝ること数等で、裁判のことなどは少しも心に掛からず、覚えず、またも一年ばかりを暮らしていたが、明治19年の11月ごろ、ふと風邪に冒され、だんだん発熱が甚だしく、ついには腸チフス病との診断で、病監に移された。治療は怠りなかったが、熱気がいよいよ強く、すこぶる危篤に陥ったので、典獄署長らの心配はひとかたではなかった。弁護士からは保釈を願い出て、さらに岡山の両親に病気危篤の旨を打電したので、岡山ではもはや私を亡くなったものと覚悟して、電報が到着した夜より、親戚故旧の者が寄り集まって、私の不運を悲しみ、遺体の引き取りの相談までしたとのことだった。しかし、幸いにもいくほどもなく快方に向かい、数十日を経てようやく本監に帰ったうれしさは、今も忘れることができない所であることよ。他の囚人らも私のために、日夜全快を祈っていたとのことで、私の帰監したのを見るより、さながら父母の再生を迎えるように喜んでくれた。これも私が今も感謝に堪えない所である。不自由な牢獄で大病に罹患したことから、一時は全快したものの、衰弱の度が甚だしく、病気よりは疲労で死ぬのではないかと心配したが、これすらようやく回復して、ついには病前よりも一層肥満して、その当時の写真を見ては一驚を喫するほどである。

5.5 女史の訃音

 それより数日を経て、明治20年5月25日、公判開廷の際は、ちょうど健康回復の時期で、頭髪がことごとく抜け落ち、やかん頭のみにくさは人に見られるのも恥かしい思いであったが、後になって聞けば私の親愛なる富井於菟女史は、この時に俗界にあって私と同じ病にかかり、薬石効なくついに冥府の人となったのである。さても頼みがたきは人の生命かな。女史は私たちが入獄してから、ひたすら謹慎の意を表して、キリスト教に入信して伝道師になろうと大いに聖書を研究していたのに、迷心執着の私は生きて、信念堅固な女史は逝ってしまった。逝ける女史を不幸とすべきか、生ける私を幸というべきか、この報を聞いたときは実に無限の感に打たれた。

5.6 生理上の一変象

 ここにまた一つ記しておくべきことがある。このことは、たとえ真実であるとしても、忌むべきこと、はばかるべきこととして、大方の人は黙して語らないことではあるが、一つは生理学および生理と心理との関係を探求する人々のために、一つは当時の私が女というよりむしろ男らしかったことの証拠にもなろうかと、あえて身の恥を打ち明けるのである。読者は、一方的にはしたなき業とのみ、おとしめられることが無ければ幸いである。さて記すべきこととは何か。それは私の身体が普通ではなくて、牢獄にあった22歳の当時まで、女にはあるべき月のものを知らなかったことである。普通の女子は、たいてい15歳前後より、そのものがあると聞くが、私は常に母上が心配されたように、生まれつき男子のように殺風景で、婦人のしおらしい風情は露ほどもなく、男子と漢籍の講義に列席してなお少しもはずかしいと思ったことはなかった。そうであるから母上は私の将来を気づかうあまり、時々「恋せずば人の心はなからまし、物の哀れはこれよりぞ知る」という古歌を読み聞かせては、私の振る舞いを戒めなさったほどなので、幼友達がみんな人に嫁して、子を挙げる頃となっても、私のみは未だにあるべきものを見ないことを知って、母上はいよいよ不安になって、あるいは世にいう石女の類ではないかなどと思い悩まれた。しかるに今獄中で、ある日突然そのことがあり、その時の驚きはいまさらに言う必要もないだろう。私の様子が常になく慎ましげであり、顔色さえ悪かったのを、親しい女囚にあやしまれ、しばしば問われて隠しておく術もなく、ついにことしかじかと告げると、彼女の驚きはかえって私にも勝るものだった。

5.7 理想の夫

 このように男らしい私の発達は早かったが、女としての私は、極めて遅い方だった。ただし女としては早晩夫を持つべきはずの者なので、もし私が夫を選ぶ時機が来たならば、威名が赫々とした英傑を配偶者にしようとは、これより先に、すでに私の胸に抱かれていた理想であったが、もとより世間知らずの小天地に生息していては、鳥のいない里の蝙蝠であるとは知りようもなく、これこそ天下の豪傑であると信じ込んで、最初は師としてその人から自由民権の説を聞いて、敬慕の念がだんだんと育って、突然夫婦の契約[婚約]をしたのは、小林である。されどいまだ「ホーム」を形成するべき境遇ではないので、父母兄弟にその意志を語って、他日の参考に供し、自分たちはひたすら国家のために尽力することを誓っていたところ、図らずも私の自活の道である学舎が停止されて、東京に行くという不幸に陥り、なお上述のような種々の計画に関与して、ほとんど一身を犠牲として、果ては身の置き所がない有り様となってからは、朝夕の糊口の途に苦しみつつ、他の壮士たちが大井、小林らの助力を仰いだのとは違って、私は髪結、洗濯を業として、とにもかくにも露の生命をつなぐうちに、朝鮮の事件が始まって長崎に至る道すがら、私と夫婦の契約をした小林は言うまでもなく、妻子や親族を国もとに残して置いた人々さえ、様々の口実を設けては賤妓をもてあそぶことを恥とせず、ついには磯山のように破廉恥な振舞いをあえてするようになったことを思い、このような私欲にみちた人が、どうして大事をなすことができるのかと大いに反省する所があり、だからこそ長崎において永別の書状を小林に送ったのであった。しかるに今公判の開廷の報に接して、先に一時の感情に駆られて、小林に宛てた永別の書簡が、はからずも世に発表されたことを思って、我ながら面目なく、また小林に対して何となく気の毒な情も起こって、小林がもしこの書簡を見れば、定めて良心に恥じ入るだろう、私の軽率を憤りもするだろう、私は余りに一徹であった、彼が汚れのない愛を汚して、神聖な恋を踏みにじったのを、どのようにしても黙ってはおれず、もはや一週間内で死する身であるので、この胸中に思うだけを遺憾なく言い残しておこうとの覚悟で、かの書簡を書いたものなので、義気がある人、涙がある人がもしこれを読めば、必ず両手にいっぱいの同情の涙にむせぶであろうが、小林は一体これをどのように見るだろうか、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書簡のために、有志家の面目を損じるにちがいない、威厳をも損なうにちがいない、さても気の毒の至りであることよ。私とても再び彼ら同志に逢うことはないだろうと、予想したからこそ、このように夫婦の契約があることを発表したので、今日の境遇があることを予知すれば、もはや愛の冷却した者に向かって、強いて昔の事を発表して、相互の不利益を醸成するような、愚をなさなかったであろう。そうではあるが私は実に、同志の無情を嘆いていたのであり、特に小林の無情を怨んでいたのである。「生きて再び恋愛の奴となり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじて従うよりは、むしろ潔く、自由民権の犠牲たれ」と決心して、このように彼の反省を求めたのであるのに、同志の手には落ちずに、かえって警察官の手に入ろうとは、かえすがえす面目のない業であった。いやもう公判開廷の日には、病と称して出廷を避けるべきかなどと種々に心を苦しめたけれど、その甲斐はついになかった。

第6 公判

6.1 護送の途上

 いよいよその日となると、また三年振りに俗界の空気に触れることがうれしく、かつまた郷里より、親戚知己が来り会して、なつかしい両親の消息をもたらすこともあるかと、このことを楽しみに看守に守られ、人力車で監獄の門を出ると、署の門前から江戸堀の公判廷に至るまでの間は、あたかも人をもって塀を築いたかのようで、その雑踏は名状することができない。大阪市民は元来政治の何物であるかを理解しなかったが、この事件があってから、ようやく政治思想を開発するようになったと聞く。またこのことによって私たちの公判がいかに市民の耳目を動かしたるかを知るのに十分である。

6.2 公廷の椿事

 明治18年12月頃には、嫌疑者がそれからそれと増加して、総数が二百名とのことであったが、多くは予審の笊の目に漉し去られて、公判開廷の当時に残る被告は63名となっていた。されどなお近来では未曽有の大獄で、一度に総数を入れる法廷がないので、仮に63名を9組に分けて、各組に3名ずつの弁護士をつけて、さていよいよ開廷された。まず公訴状の朗読があったが、「これより先、磯山清兵衛は(中略)大井、小林らの冷淡なる、ともにことをなすに足る者にあらず云々」の所に至ると、第3列目に控えた被告人の氏家直国氏は、憤然として怒気が満面に満ちて、肩をそびやかし、挙動が穏やかではないと見えたが、果たして15ページ上段7行目の「右議決の旨を長崎滞在の先発者の田代季吉云々」のところに至ると、突然、第1列目にいる磯山清兵衛氏に飛びかかり、一喝して首筋をつかんだ様子で、場の内外がひとかたならず騒擾して、表門警護の看守巡査は、いずれも抜剣にて非常を戒めたほどであった。とかくするうちに看守、押丁らが打ち寄って、かろうじて氏家を磯山から引き離した。この時、氏家は何か申し立てようとしたが、裁判長は看守押丁らに命じて氏家を退廷させ、裁判長もまたこの事柄について相談があるとしてひとまず閉廷し、午後になってさらに開廷した。その後公判は引き続いて開かれたが、最初の日のように63名がそろうことはなく、たいてい一組とこれに連れ添った看守とのみが出廷した。しかもなお傍聴者は毎日午前3時頃より正門に詰めかけ、3、4日も通ってきてようやく傍聴席に入ることができるという有り様で、私たちの通路は常に人の山が築かれていた。

6.3 大井の情書

 こうした中でも小林は、時々看守の目を盗んで、紙石盤にその意思を書きつけ、これを私に送ってきて、私に冷淡な挙動があることをなじるのを通例とした。(紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられ、これに意志をしたためて公判廷に持参し、こうして弁論の材料とするのである)。そうではあるが私は長崎で決心して以来、再び同志としての言葉を信じなかった。「あなたは愛を二、三にも四、五にもする偽りの君子である。どうしてここで純潔の愛をもてあそぼうとするのか」と、いつも冷淡に回答してやった。

 意外であったのは、大井から心情を込めた書状を送ってきたことである。東京に在住中に、私はしばしばその邸宅に行って、富井女史の救出の件について、旅費の補助のことまで頼んだことがあったが、当時、氏は女のさしでがましいことをいやがって、その上にまた私たちが国事に奔走するのをいやがる風があったが、今その真心に私を思うこと切なる由を言い越されるとは、意外であった。私はさらに合点が行かず、ただ女が珍しいという好奇心に出たものであると大方に見過して、いつも返事をしなかったところ、ついには挙動にまで思いが表れて、いかにも怪しく思われるので、これほどまでの心入れを、どうしてこのままにしておいていいだろうかと、いささか慰藉の文を書いて答えた所、それ以来両人の間の応答はいよいよ繁く、果ては私をして小林に懲りた男心をさえ打ち忘れさせたのも浅ましい。これが実に私の半生を不幸不運の淵に沈めた導火線であったと、今より思えば、ただ恐ろしく口惜しいけれども、その当時はもとよりこのような成り行きを予知することができなかった。一途に名声が赫々の豪傑を良人に持った思いで、それ以後は毎日公判廷に出るのを楽しみ、かの人を待ち焦れたことは、ひとつには不思議なことである。こうして私はさながら甘酒に酔ったように興奮し、憂鬱に閉ざされがちの精神も引き立てて、互いに尊敬の念も起り、時には活力に満ちた口ぶりに接して、おのずからいやしく下品な情も失せて、心のあり方はにわかに気高く品性も優れているように感じつつ、公判も楽しい夢の間に閉じられて、私は一年有余の軽禁錮を申し渡された。大井、小林らの主だった人々は、有期流刑とか無期とかの重罪であったので、いずれも上告の申立てをしたけれども、私のみは既決に編入された。なお同志の人々と同じ大阪にいることを頼みにして、時にはかの人の消息を聞くこともあろうなどと、それをのみ楽しみに思っていたが、やがて三重県の津市に転監されると聞いたときの失望は、木より落ちた猿のそれにも似ていただろうよ。

第7 就役

7.1 典獄の訓誨

 伊勢へ行くのは私たち一年半の刑を受けた人だけで、十数人の同行者があった。通常であれば東海道の五十三次は詩にもなるような景色であるのに、囚人用の柿色の筒袖に腰縄さえつけて、巡査に護送される身では、われながら興ざめで駄句さえできず、あまつさえ大阪より付き添ってきた巡査が、みんな草津で交代したので、せめてもの顔なじみもいなくなって、みじめな思いの中で三重県津市の監獄に着いた。到着したのは夕方ごろであったが、典獄[刑務所長]はかねてから報知に接していたと見え、特に出勤して、一同を控え所に呼び集め、今も忘れられない大声で、

「拙者は当典獄の平松宜棟である、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝逓に相成りたる被告人らである、当典獄の配下のもとに来りし上は申すまでもなくよく監獄内の規則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその方らの身分職業姓名を申し立てよ」

と一同に名乗らせて、さて私の番になった時に、

「お前はいわんでも分る、景山英であろう。うら若い年頃の身にしてかかる大事を企て、今拙者の前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう。ああ今頃はどこにどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前のことを心配しているに相違ない。お前も親を思わぬではなかろう、一朝国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」

と同情の涙をうかべての訓誨に、悲哀の念が急に迫って、同志の手前これまで堪えに堪えてきた望郷の涙は、さながら堰をきったようで、我ながらしばしは顔もあげることができなかった。典獄は沈思して、

「そうあろうそうあろう、察し申す。ただこの上は監獄内の規則を謹守し、なお無頼女囚を改過遷善の道に赴かしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、あなたが平素の志たる忠君愛国の実を挙げ給え。たとえ刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の膝下にありて孝を尽せかし」

などと、その後も巡回の折々に種々にいたわってくれたので、ついには自分が軽禁固であることも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を尽くした。

7.2 女監の工役

 朝も5時に起きて支度をして、女監取締りが監房を開きに来るごとに、他の者とともに静坐して礼義を施し、次いで井戸端に行って順次顔を洗い、終わってから労役場で食事をして、それよりいよいよその日の労役を初めて、あるいは赤い着物を縫い、あるいは機を織り、糸を紡ぐ。まず着物の定役を記すと赤い筒袖の着物は単衣ならば3枚、袷ならば2枚、綿入れならば1枚半、また股引は4足縫い上げることを定めとし、古い直し物も修繕の大小によって予め定数があり、女監取締りが一々これを割り当てて渡すのである。私はもとより定役のない身でたとえ終日書物を友としたとしても、あえて拒む者はなかったけれども、せめては婦女の職分をも尽して世間の誤謬を解こうと、進んで定役のある女囚と伍して毎日定役とする物を仕上げて、そうして2時間位は終業より前に自分の監房に帰って、読書をするのを例とした。それゆえ私は出獄する時に相応の工賃を払い渡され、小遣いの余りの分だけでもなお10円以上に上った。これは重禁錮の者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするのが通例であるのに、私はこれに反して三分を官に収め七分を自分の取り分としたからで、在監がもし長ければ相応の貯蓄もできて、出獄の上はひとかどの用に立ったであろう。

7.3 藤堂家の女中頭 

 私の幸福は、どこの獄にあっても必ず両三人の同情者を得て、陰に陽に庇護されたことである。なかでも青木女監取締りのような人は、私の倦労を気遣って毎度菓子を紙に包んで持ってきて、私がひとり読書にふけるさまを、とてもうらやましそうに見とれていた。されば私もこの人を母とも思って万事に分け隔てなく交わったので、出獄の後も忘れることができず、同女が藤堂伯爵邸の女中頭となって東京に来た時に、私は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道がないかといろいろと心を砕いたのち、同女の次女を養いとって、いささか学芸を授けてやった。

7.4 少女

 私の在監中に、16歳と18歳の二人の少女がいた。年下なのはお花、年上なのはお菊と呼んでいた。この二人を特に典獄より預けられて、読み書き、算盤の技はもちろんのこと、人の道ということをも、説き聞かせて、およぶ限りの世話しているうちに、やがて両女がここに来た子細を知った。お花は心の様はさして悪くなく、ただ貧しい家に生まれて、ある年の村の祭礼の折とかに、兄弟が多くて晴衣の用意なく、遊び友達が良い着物を着るのを見るにつけても、自分がまとうぼろが恨めしく、乙女心のあさはかにも、近所の家に掛けてあった着物を盗んだということである。またお菊は幼少の時、孤児となって叔父の家に養われていたが、生まれつきか、あるいは虐待された結果によるのか、しばしば、よこしまの道に走って、すでに7回も監獄に来て、出獄の日ただ一日のみを青天の下で暮したこともあった由である。打ち見たところでは、両女ともに、十人並みの容貌をそなえているので、一層不憫であるとの思いが加わって、なんとか無事出獄の日には、わが郷里の家に養いとって、一身の方向を授けてやりたいと、両女を左右に置いて、同じく読み書き習字を教え、露いささかも偏頗なく扱ってやったので、両女もいつしか私に懐いて、互いに競って私をいたわり、あるいは肩をもみ脚をさすり、あるいは私のたしなむ物を、己の欲を節して私にすすめるなど、いじらしいほどの親切で、このような美徳を備えながら、なにゆえ盗みの罪を犯したのかと、一層深い哀れを催して、彼女らがもし私より先に自由の身となったならば、私の出獄を当署で聞き合せて、必ず迎えに来るようにと言い含めておいたが、両女はついに来なかった。私が出獄の後で監獄より聞いた所によれば、両女ともその後は再び来ることはなく、お花は当市の近在の者で、出獄後間もなく名古屋へ娼妓に売られ、またお菊は叔父の家にも来ることはなく、その所在を知るに由なしとのことであった。ともかくも私の行くところ、どこの監獄でもこんなことが起こったのは、どういう因縁があるのかは知らない。あるいはこの不自由な小天地で長く世をはばかって肩身狭く日を送ることの反響として、このような人心の一致集中を見るのかもしれないが、その集中点が必ず私にあるのは、私に一種の魔力があるためではないか。もし果たしてそのようなものがあるとするならば、いざこの身が自由となった時、あらゆる不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷の光明を授けることが、あながちに難しくはないのだろうとは、当時の私の感想であった。

7.5 看守の無学無識

 当市の監獄には、大阪のそれとは異なって、女囚中に無学無識の者が多く、女監取締りと言った者も大概は看守の寡婦などが糊口の勤めとしてなしているのであった。それゆえ何事も自己の愛憎に走って囚人を取り扱う道を知らない。ひとえに定役の多寡をもって賞罰の目安とするふうなので、囚人は何日まで入獄したとして改過遷善の道に赴くことは思いもよらず、悪しき者はますます悪に陥って、取締りの甘心を迎えることに専念して、だんだんに狡猾で陰険な風を助長するのみである。ゆえに監獄の改良を図ろうとすると、相当の給料を支払って品性の高い人物を、女監取締りとすることに努めなければならない。もしなおこのような者に囚人を取り締らせると、囚人は常に軽蔑をもって取締りを迎え、表で謹慎を表して陰で舌を吐こうとする。これをしも改過遷善を言い聞かせて勧める良法となすべきだろうか。ひとり青木氏の如きは、天性の慈善の心に富んでいるのか、別に学識があると見えなかったにもかかわらず、このような悲惨な境涯を見るに忍びないと、常に早くこの職を退きたいと語っていたが、私の出獄後、果たして間もなく辞職して、藤堂氏の老女[侍女のかしら]となった。今なお健在であるかどうか。

7.6 憲法発布と大赦

 それはさておき私は苦役一年で賞標[賞賛のしるし]を4個与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典があろうとしていたある日のこと、小塚義太郎氏が大阪より来て面会を求められた。大阪よりと聞いて、かつは喜びかつは動悸にときめきながら、看守に伴われて面接所に行ってみると、小塚氏は微笑で私を迎え、ひさびさの疎音を謝して言うには、「自分は今回有志家の依頼を受けて、入獄者一同を見回っており、今度の紀元節をもって、憲法発布あらせらるべき詔勅が下り、かつかたじけなくも入獄者一同に恩典……」と言いかけたとき、看守がさえぎって「その筋よりまだ何らの達しはない、めったなことを言うべからず」と注意した。小塚氏はなお言葉を継いで「あなたは何にも御存知ない様子、しかし早晩ご通知があるでしょう。いずれ明日にも面会に出頭しましょう。衣類等はいかになっていますか、早速にも間に合うよう相成っているかどうか」など、種々の厚き注意をして、その日はそのまま引きとった。私は寝耳に水の感で、何か今日明日に喜ばしい御沙汰があるに相違がない、とにかくその用意をしておこうと、髪をくしけずっておいたところ、果たして夕刻「書物などを持って典獄のところに出てくるように」と看守の命令がある。「やはり」と天にも昇る心地で控所に伴われて行くと、典獄署長らが居並んで、謹んで大赦文を読み聞かされたのである。なお典獄は、威儀厳かに「あなたの罪は大赦令によって全く消除されたので、今日より自由の身たるべし。今後はますます国家のために励まれよ」との訓言があった。聞くや否や奇怪の感がふっと私の胸に浮かびでた。昨日までも今日までも、国賊として使役された身が、一時間内に忠君愛国の人となって、大赦令の恩典に浴するとは、なんと不思議な有り様であることか。人生は幻の如しとはそもそも誰が言い始めたのか。一時はただ茫然としていたが、小塚氏の厚い注意で、衣類も新調されたものに着替えて、同志6名とともに三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着いた。

第8 出獄

8.1 令嬢の手前

 旅館にはすでにそれぞれの用意がしてあって、実に涙がこぼれるほどの待遇である。夜にはまた当地の有志家の慰労会があるといって、その地の有名な料理亭に招待され、翌日は茶会をするとしてある人より特に招かれたので、午後よりそこに行ったところ、令嬢のお手前で薄茶のもてなしがあった。さらに自分にも一服をとの所望があったので、私はおぼつかない平手前を立てておわった。貧家に生まれたが、母上の慈悲で、いささかではあるが茶道を習い覚えたのであった。そうでなければ面目を失ったであろうなどと、今さらのように親の恩を思うのもおかしい。その後このようなことに思わぬ日を経て、ついに同地の有志家の長井氏克氏らに送られて鈴鹿峠に着き、それから徒歩あるいは汽車にて大阪に出る途中で、植木枝盛氏の出迎えがあり、私には美しい薔薇の花束が贈られ、一同へもそれぞれの贈り物があった。

8.2 大阪の大歓迎

 大阪梅田駅に着くと、出迎えの人々は実に狂わんばかり、私たち同志の無事な出獄を祝しての万歳の声が天地を震わせるほどである。駅に着くやいなや、有志家たちが花束を贈ろうとして、我も我もと互いに先を争う中に、なんとなつかしいことか、7年前に別れた父上が、病後の衰弱の身をもいとわず、親類の者に助けられて、ここに来ているとは。「おお父上か」と、人前をも恥じずに涙に濡れた声を振り絞ったところ、皆々は「そうだろうそうだろう」と言って、これも同情の涙にむせんだ。

 ずっとそのままではいられないので、同志の士に伴われ、父上と手を分かって用意の整えてある場所に行った。さらに志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎するとか、種々の文字を記した紅白の大旗に護られ、大阪市中を人力車に乗って引き回されたので、当地まで迎えに来た父上は、私の無事出獄の喜びと、当地の市民の狂するばかりの歓迎の有り様を目撃した無限の感とに打たれ、

「今日までの心配もこれですべて忘れてしまった。このまま死んでも残り惜しいことはない。これほど諸氏の厚遇に預かり、市民に歓待されるとは、思いもかけぬことだ」

と言いつつ、故中江兆民先生、栗原亮一氏らの厚遇を受けられた。夜になって旅館に帰り、ようやく一息入れようとしたが、来訪者が引きも切らず、よんどころなく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさは目が回るほどである。翌日は、大井、小林、新井らの諸氏が名古屋より到着するはずだったので、さきに大阪に着いた同志とともに駅まで出迎えると、間もなく到着して私たちが贈った花束を受け、それより徒歩で東雲新聞社に行こうとするが、数万の見物人および出迎えの人で、あんなにも広い梅田駅もほとんど立錐の余地がなく、私たちも大井、小林らとともに一団となって人々に率いられて、足も地に着かず中天にぶらさがりながら、かろうじて東雲新聞社に入る。新聞社の前も見物人が山のようであるので、戸を閉じて所要の人のみを通すことにすると、門外では「大井万歳、出獄者万歳」の声が引きも切らず、花火が上り剣舞が始まった。中江先生は

「今日は女尊男卑だ。君を満緑叢中の紅一点とも言うことができるだろう。男子にまじっての抜群の働きは、この事件の中で特筆大書すべき価値がある」

と言って、私をテーブルの上席に座らせ、そこで種々の饗応があった。終わっておのおの旅宿に帰ったのは、早や黄昏の頃であった。

第9 大井との関係

9.1 結婚を諾す

 それより大井、小林、新井の諸氏は松卯、私は原平に宿泊し、その他の諸氏もおのおの旅宿を定め、数日間はここの招待、あそこの宴会と日夜を分けることはなかったが、郷里の歓迎上の都合もあるので、それぞれほどのいいところで引き別れることとなり、私もいよいよ明日に岡山へ向け旅立つというその夜であった。大井より、「是非相談あれば松卯に来りくれよ」と言ってきた。何事かと行ってみると、大井も小林もおらず、しかたなく帰宿しようとするちょうどその時に、大井がひとり帰ってきて、私の訪れたことを喜び、「さて入獄以来の厚情は忘れることができない。今回互いに無事出獄するは幸いである、ここに決心して結婚の約束を踏もう」と言う。これはかねてからの覚悟であったけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに「両三日来中江先生、栗原亮一氏らがしきりに私に説いて、御身と小林とを結婚させるべきことを勧められた。よっていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべし」と答えておいたと言う。私がこれを聞いた時の驚きは、青天の霹靂にも例えるべきだろうか。しょせんは中江先生も栗原氏も深い事情をご存じなくて、一途に私と小林との交情が昔のようであると誤られ、この機会を幸いに結婚させようという厚意であるにちがいない。それはそうと覆水はどうして盆に返るだろうか。父上には「いずれ帰国の上で、申し上げることがあります」と答えておいて、それより中江、栗原両氏に会って事情を申し上げて、私にその意思がないことを謝罪すると、両氏も初めて自分たちの誤解であることを覚って、その後はそのようなことを再び口にしないようになった。このように私の決心は堅かったけれど、さすがに幼馴染みの小林の、今は昔、互いに睦み親しみつつ、明け暮れに訪いつ訪われつつ、教えを受けたことが多かったことを懐古して、また今の小林としても私に対して露も悪意のないことを察しては、この際に大井と結婚の約束をするのは情において忍びない所がないわけではなく、情緒が乱れて糸の如しと言うのだろうか、私もその思いを定めがたくて、「いずれ帰国の上で父母とも相談して」と答えたところ、もとより小林との関係を知っている彼は容易に承諾せず、「もし小林とともに帰国すると、他からの斡旋に余儀なくなって、強いて握手することともなるだろう、今の時を失っては」と、なお私を促してやまなかった。ついに軽率とは思いながら、ともかくも承知の旨を答えたことが、私の終生の誤りであったことだ。

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大井憲太郎 ( 出典:「近代日本人の肖像」(国立国会図書館))

9.2 一家の出迎え

 それより小林および親戚の者5、6名とともに船で帰郷の途についたが、やがて三番港に到着すると、その地の有志家、我が学校の生徒[かつての教え子]及びその父兄ら約数百名の出迎えがあって、雑踏は何とも言いようがなく、上陸して船宿につくと、そこにはなつかしい母上が飛び出してこられて「やれ無事に帰ったか、大病を患ったというのに、このような健やかな顔を見ることの嬉しさよ」と涙片手にすがり付かれ、「ああ今日はめでたい日であるから泣くまいと思っていたのに、覚えず嬉し涙がこぼれた」と言って、兄弟甥姪を呼んで、それぞれに喜びを分ちあわれた。挨拶が終わって、ふとかたわらに一青年のあるに気づき、この人は、船中でもいろいろ親切に世話をしてくれた。「彼は一体どういう人ですか」と尋ねたところ、「まったく何を言うのか、弟の淳造を忘れたか」と言われて一驚して、さても変れば変る者かな、私が故郷を出たのは7年の昔、彼が13、4歳の腕白盛りの頃だったが、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばれる身の上であるとか。「ほんとうに人の最も変化するのは13歳ごろから17、8歳のころである。見違えたのもいかにももっともなことではないか」などと笑い興じて、ともに人力車に打ち乗って、岡山の有志家が開催する慰労の宴に臨席するため岡山公園[後楽園]の観楓閣を目指して旅立った。この公園は旧三十五万石を領する池田侯爵の後園[岡山城の後方に位置]で、四季の眺めが尽きぬ日本三名園の一つである。宴の発起人は岡山屈指の富豪である野崎氏とその他の世間に名の知られた諸氏で、私たち及び父母親戚が招待された。席上では諸氏の演説があり、また有名な楽師を招いて「自由の歌」と題する慷慨悲壮な新体詩を、二面の洋琴に和して歌わせた。これを聴いた時、私は思わず手を握りしめ、「ああこの自由のためならば、死するもどうして惜しむことがあろうか」など、感無量になったのである。唱歌が終わって小林の答礼があり、それから酒宴が開かれ、おのおの歓を尽して帰路についたのは、やがて火点し頃であった。

9.3 久し振りの帰郷

 こうして私は母、兄弟らに守られつつ、絶えて久しい故郷の家に帰る。想えばここを去った時のさびしく悲しかったことに引き換え、今は多くの人々につきまとわれて、にぎにぎしく帰ったことか。今昔の感がそぞろに湧いて、幼児の時や友達のことなど、夢のように幻のように、はては走馬灯のように胸に行き交う。我が家に近い町はずれからは、軒ごとに赤い提灯が影美しく飾られて、さながら敷地祭礼[土地の祭り]のようであった。これはいったい誰のための催しかと思うと、穴にも入りたい心地がする、死んでしまったらかえって心やすいだろうとも思った。ああ、このような歓待を受けながら、私の将来はどうなるだろうか、大井と密かに結婚を約束したのではないか、そもそも私はどのようにしてこの厚意に報いようとするのだろうなど、人知れずもだえ苦しんだのである。

9.4 大評判

 我が家では親戚や旧知の人々を招いて一大盛宴を張った。芸妓も、舞子も来て、一家は狂するばかりである。宴が終わった後、種々のしめやかな話もでて、暁になっても興はなお尽きなかった。7年の来し方を、一夜に語り一夜に聴こうと気がせくのであろう。

 明けると郷里の有志家および新聞記者の諸氏の発起による慰労会あり、魚久という料理店に招かれた。朝鮮鶴の料理があり、私たちの関係したかの事件[大阪事件]に因んでのことであるとか。こうして数日の間は、ここの宴会かしこの招待と日も足らず、平生は疎遠であった親族でさえ、私を見ようと我勝ちに集い寄る程に、私の評判は遠近に伝わって、三歳の子供ですら、なお景山英の名を口にしない者がいなかったことは、今はつらい。

9.5 内縁

 それより一、二か月を経て、東京より大井らが大同団結しての遊説のため大阪地方を経て中国を遊説するとの知らせがあった。そうして私には「大阪の大井の親戚の某方に来りくるるよう」との特信があったので、今は躊躇している場合ではないと、初めて大井との関係を両親に打ち明けて、かつ今仮に内縁を結んでも、公然の披露は、ある時機を待たなくてはならない、それは大井には現に妻女があって、明治17年以来は発狂して人事をわきまえず、余儀なく生家に帰そうとの内意があるが、浅からぬ縁のある人のために終身の生活に不自由がないような手段を講じないで今急に離縁することは思いも寄らない。そうであるから大井もその職業とする弁護事務の好成績を積んで、そのうちに大事件の勝訴となって数万円の金を得た時に、彼女に贈って一生を安定させて、その後に縁を絶とうと言った。もっともなことと思ったので、しばらく内縁を結ぶという約束をしたのである、御意見はどうでしょうかと尋ねたところ、両親ともにちょうどその時は私の虚名に酔った時であったので、ともかくもあなたの意見に任せようと承諾して、なお大井が当地に来たら、自宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟ともそれとなく杯をさせようなどと、かなり勢いこんだので、私も安心して、大阪にいる友人を訪問することを名目として大井に面会して両親の意向を告げたところ、その喜びは一方ではなく、この上は直ちに御両親にお会いしようと、相たずさえて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも私の身の上を語り定めた後に、貴重な指環を親しく私の指に嵌めて立ち帰ったことは、全く手落ちのない扱いであると、私はもとより両親もすこぶる満足の様子が見受けられた。その後、東京に大阪に、はたまた神戸にと、私は、表面では同志として大井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつつ、その交情は日とともにいよいよ重なっていった。

第10 閑話三則

10.1 一女生徒

 そのころ私の召し連れていた一人の女生徒がある。越後の生まれで、あたかもうら若い17の処女であるにも似ず、なぜか髪を切って男の姿を学び、白金巾の兵児帯を太く巻きつけて、一見すると田舎の百姓息子のようないで立ちである。大井をたよって上京し、ぜひとも景山の弟子にという願いなので、書生として使ってくれという大井の頼みを辞しがたく、まずその旨を承諾して「さてなぜこのような変成男子の真似をするのか」と詰問したところ、「あなたは男のような気性であると聞く、それならばこのような姿で行かなければ、必ずお気に入らないだろう」と確信し、わざわざ長い黒髪を切り捨てて、男の着る着物に換えたのだという。それでは世間が私を見ることは、これほど誤っているのだろうか、そうとも気づかずにあくまでも男子をしのごうとする驕慢で粗野な女であると爪弾きされることの面目なさよ。有り体に言えば、私は幼時の男装を恥じて以来、天が女性に与えてくれた特色をもって、いささかなりとも世に尽くそうという考えだったのに、図らずも殺風景な事件にくみしたので、このような誤認をも招いたのだろう。さきに男のなすことにも関与したのは、こと国家の休戚[喜びと悲しみ]に関しては女子であっても袖手傍観すべきではない、もし幸いにして、私にも女の通性とする優しい情愛があれば、これをもって有為の士を奨励して、及ばずながら常に男子を後援しようとしたからに他ならない。かの男子とともに力を争い、はたまた功を闘わそうなどとは、私の思いも寄らぬことである。女はどこまでも女たれ、男はどこまでも男たれ、こうして両性が互いに助け合い、補い合ってこそ、初めて男女の要はあれと確信しているのに、図らずもこのような錯誤を招いたのは、私がはなはだ悲しみ、はた甚だ不快なことなので、私は女生徒に向かって諄々とその非をさとし、やがて髪を延ばさせ、着物をも女物に換えさせたところが、あわれ眉目秀麗の一美人に生まれ変わった。ほどなく郷里に帰り、他家に嫁して美しい細君となった。当時送ってきた新夫婦の写真が今なおあり、これを見るたびに我ながらわけもなく微笑の浮ぶのを覚える。

10.2 大奇談 

 そのころのなお一層の奇談がある。私が東京に家を定めたある日のこと、福岡県人の菊池某という当時キリスト教伝道師となって布教に努めていた者が、時の衆議院議員の嘉悦氏房氏の紹介状を携えて来て、私に面会することを求めた。もとよりどういう人でも、かつて面会を拒んだことのない私は、直ちに書生をして客室に招き入れさせ、やがて出でて面会すると、何を思ったのだろうか氏は私の顔を凝視しつつ、口の内にて「これは意外、これは意外」と言い、すこぶる狼狽した様子で、私の挨拶に答礼さえ施さず、茫然としていよいよ私を凝視するのみである。私は、初めは怪しんで、ついには恐れて、「これは狂人にちがいない。狂人を紹介した嘉悦氏もまた無礼ではないか」と、心に七分の憤りを含みながら、なお忍びに忍んで狂人のすることを見ていたところ、客はたちまち慚愧の体にかたちを改めて、「貴嬢願わくはこの書を一覧あれ」と言うので、何心なく開いて見れば、思いもよらない結婚申し込みの書であった。

 その文に言うには、

「(中略)貴嬢の朝鮮事件にして一死を投げ打とうとした心意を察するに、小林との交情が旧の如くならず、他に婚を求めるも容貌が醜怪で、突額短鼻、一目して鬼女怪物と異ならねば、この際身を棄てる方が勝るだろうと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。可憐の嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は姦夫と奔り、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚すれば、かかる悲哀に沈むことなく、家庭も睦まじく神に仕えられるだろう」と云々。

この通りに読み終わった私の顔に包み隠そうとしたが不快の色が見えたのだろう、客はますます面目のない体で、

「ああ誤てり、疎忽千万なりき。ただ貴嬢の振舞いを聞いて、直ちに醜婦と思い取れることの恥かしさよ。わが想像のいたずらになれるを思うに、およそ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢をめとろうと願う者なるべし。さあれ貴嬢がもし我が志を酌み給わなければ、我はついに悲哀の淵に沈み果てなん。ああ口惜しい有り様や」

と言って、ほとんど茫然自失の様子であったが、たちまちナイフをポケットに探って、私に投げつけ、またテーブルに突き立てて、私を脅迫して、強いて結婚を承諾させようと試みた。ついに狂ったと、私は急いで書生を呼び、適当にあしらわせつつ、座を退いてその後の成行きをうかがううち、書生は客をなだめすかして屋外に誘い、自ら築地にある某教会に送り届けたのであった。

10.3 川上音二郎

 これより先、大阪滞在中に和歌山市の有志家の招待を得て、大井と同行することに決め、畝下熊野(現代議士山口熊野)、小池平一郎、前川虎造の諸氏とともに同地に至り、同所の有志家の発起による懇親会に臨んで、大井やその他の人の演説があった。私にも一場の演説をとの勧めを否みがたく、ともかくも演説をして責めをふさぎ、さらに婦人の設立による婦人矯風会に臨んで、再びつたない談話を試みた。一同とともに写真の撮影をし、終って前川虎造氏の誘いによって和歌の浦を見物した。翌日は田辺という所で、またも演説会の催しがあり、有志家の歓迎と厚い待遇とを受けて大いに面目を施した。このように大井とともに諸所を遊説しているうちに、わが郷里の付近からもしばしば招待を受けた。この時は世間では私と小林との間に婚約が継続していることを信じていたので、小林との同行は誠に心苦しかったけれど、すでに大井と諸所を遊説していた身で、特に小林との同行を辞退しようもなく、かつは旧誼上も何となく不人情のように思われたので、大井が東京に帰るのを機に、私もいったん[岡山に]帰郷して、しばし当地の慰労会や懇親会に臨席した。こうして滞在している中で、川上音二郎の一行が岡山市の柳川座に乗りこんで、大阪事件を芝居に仕組んで開場するので、ぜひ見物してくださいとのことである。厚意を断わることができず、一日両親を伴って行ってみると、もとよりその技芸が今日のように発達していない時のことで、仕草といい、台詞といい、ほとんど滑稽に近くまったく一見にも値しないものであった。しかも当時大阪事件がいかに世の耳目をひいていたかは、市井の子女でこの芝居を見なければ、人にあらずとまでに思わせて、場内は、毎日、立錐の余地もない盛況を現わしたことでも知られるだろう。不思議と言うのも愚かではないのか。その興業中に川上はしばしば我が学校に来て、その一座の主な者とともに、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなど、すこぶる親切丁寧であったが、ある日、特に小者に大きな新調の引幕をもってこさせて、

「これは自分が自由民権の大義を講演する時に限って用いるはずの幕なので、何とぞ我が敬慕する尊姉の名を記入されたく、すなわち表面上は尊姉より贈られたものとして、いささか自分の面目を施したい」

と言う。私は当時の川上の性行を承知していたので、まさか新駒[中村芝鶴]や家橘[市村羽左衛門]の輩に引幕を贈ることと同一視されることもないだろうと、そのことを承諾したところ、このことを聞いた同地の有志家連は、自身は自由平等の主張をしながら、いまだ階級思想を打破できなかったと見え、たちまち私に反対してすこぶる穏やかでない形勢があったので、余儀なくその意を川上にもらして署名を謝絶したところ、彼は激昂して穏やかではない書簡を残して、即日岡山を立ち去った。しかるにその翌23年かあるいは4年の頃と思われるが、私も東京に行って本郷の切通しを通行する際に、ふと川上一座と襟に染めぬいた印半天を着た者に出会い、思わずその人を熟視すると、これがほかならぬ川上であった。彼も大いに驚たようで、別れて以来の挨拶ぶりも、前年の悪感情を抱いている様子もなく、

「今度、浅草の鳥越において興業することに決め、御覧のように一座の者とともに広告に奔走しています。前年とはちがってかなり辛苦を重ねたので少しは技術も進歩したと思う。江藤新平を演じるはずなので、ぜひとも御家族をともなって御来観ありたし」

と言う。数日を経て果たして案内状を送ってきたので、両親および学生友人を誘って見物したところ、なるほど一座の進歩は驚くほどであり、前年には半ば有志家で半ば俳優であった彼は、ついにこのように純然たる新俳優となりすましたのであった。彼は、

「昔は拝顔さえかなわなかった宮様方の、もったいなくも御観劇ありし際に、特に優旨をもって御膝下近くまで御招きに預かり、御言葉を賜わるのさえもったいないのに、なお親しく握手せさせ給えり」

と言って、彼は語り来ては随喜の涙にむせび、これも俳優となったお蔭であると誇り顔である。ああ、彼がもし私たちと親交を結んでいたとすると、彼の成功はなかっただろう。彼の成功は、全く自分の主義を棄て、意気を失ったことから得た賜物であったことよ。それにしても人の心の頼み難いことは、実に翻雲覆雨[人情が変わりやすいことの例え、杜甫の貧交行による]にも似ていることだ。昨日の壮士は今日の俳優、私はあきれて何も言えない。彼は近年細君[川上貞奴、女優]のお蔭で大勲位侯爵の幇間となって、上流紳士と称するある一部の歓心を求めるほかにまた余念がないとか聞く。彼もなかなか世渡りの上手な男と見える。この類いのふぬけ者は、どうしてひとり川上のみであろうか。

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川上音二郎 ( 出典:「近代日本人の肖像」(国立国会図書館))

第11 母となる

11.1 妊娠 

 これより先、私がなお郷里に滞在していた時に、小林との関係について他より正式の申し込みがあり、小林よりも直接に旧情を温めたいという旨を申し来るなど、気が気でないので、東京にいる大井に手紙を出してその承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途についたのは明治22年7月下旬である。この頃より私の容体はただならず、日を経るに従って胸悪くしきりに嘔吐を催したので、さてはと心に悟るところがあって、上京後大井に打ち明けて、郷里の両親にはかろうとしたところ、彼は許さずに「しばらく秘密にして、人に知らせてはならない」とのことで、私は不快の念に堪えられなかったが、このような不自由の身となっては、今さらにしかたがなく、彼の言うがままに従うに越したことはないと閑静なところに仮住まいをかまえ、下女と書生の三人暮しで、いよいよ世間の婦人の常道を歩み始めようという心構えであったが、事実はこれに反して、大井は最初私に誓い、はたまた両親に誓ったことをも忘れたように、私を遇することがかの口にするにも忌わしい外妾[めかけ、二号]同様の姿であるとは何事か。どういう事情があるか知らないが、私をこのような悲境に沈めて、ことに胎児にまで世の謗りを受けさせることを考慮しないとは、これをも親の情というべきかと、会合の都度せつに言い申し上げると、彼もさすがに憂慮の体で、

「今しばらく発表を見合わせてくれ、今郷里の両親に御身の懐胎のことを報告すれば、両親とても直ちに結婚発表を迫られるにちがいない、発表は容易だが、自分の地位として、またあなたの地位として相当の準備なくては叶わない。第一に、病婦の始末さえ、なおつかない今日の場合、如何ともせんようなきを察し給え。目下、弁護事務ですこぶる有望な事件を担当しており、この事件が成就すれば、数万円の報酬を得ることが容易なので、その上ですべて花々しく処断すべし、何とぞしばしの苦悶を忍んで、胎児を大切に注意しくれよ」

と他事もなき頼みである。もとより彼を信じればこそ、この百年の生命を任したのである。こうまで条理を尽くして説明されて、なお「それは偽りだろう、一時逃れの間に合わせだろう」などと、疑うべき私ではなく、他日に両親の憤りを受けるとしても言い解く術がないかと、事に託して叔母である人の上京を乞い、事情を打ち明けて一身の始末を託し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出を戒めていたうちに、「景山は今どこにいるのか、一時を驚動[驚き騒ぐ]させた彼女の所在が聞きたいものである」など、新聞紙上にさえ謳われるに至った。

11.2 分娩、悪夢

 その間の苦悶はそもそもどのくらいだっただろうか。面白くない月日を重ねて、翌23年3月上旬に一男子を得た。名は言うべきではない。悔いのある堕落の化身を母として、あからさまに世の耳目をひかせるのは、子の行く末のために、決してよいことではないだろうと思うからである。ただその命名について一場の奇談がある。迷信の謗りは免れないが、事実なので記しておこう。その子が身に宿ってから常に殺気を帯びる夢のみが多く、ある時は深山に迷い込んで数千の狼に囲まれ、一生懸命に勇を鼓して、その首領である老狼を引き倒し、上顎と下顎に手をかけて、口より身体までを両断したところ、他の狼児は狼狽してことごとく逃げ失せた。またある時は幼時かつて講読した『十八史略』中の事実、すなわち

禹江を渡る時、蛟竜船を追う。舟中の人皆慴る。禹天を仰いで、嘆じて曰く、我命を天に享く、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと。竜を見る事、蜿蜓の如く、眼色変ぜず。竜首を俯し尾を垂れて、遁る。     
[通釈:禹が長江を渡る時、蛟竜が舟を追いかけた。船中の人々はみんな恐れた。禹は天を仰いで嘆いて言うには、「私は上天の命を受けて、力の限り万民をいたわっている。生は仮の宿であり、死は故郷に帰るようなものだ。(何も恐れることはない)」と。竜を見ることヤモリも同然で、顔色ひとつ変えなかった。さすがの竜も首を下げ尾をたれて逃げ去った。]

という有り様がありありと目前に現れて、しかも私は禹の位置に立って、禹の言葉を口に唱えて、竜をついに驚き怖れさせ立ち去らせた。しかるに分娩の際は非常な難産で苦悶は二昼夜にわたり、「医師の手術によらなければ、分娩は覚束ない」などと人々が立ち騒ぐ折も折、ちょうどその時に陣痛が起って、それと同時に篠突く大雨が風に乱れ、鳴神[雷]がおどろおどろしく、鳴動し渡ったその刹那に、児の初声が挙がって、あんなにも盆を覆すばかりの大雨もたちまちにして晴れ上がった。後に書生の語る所によれば、その日雨の降りしきる時に、世にいう竜巻なるものがあって、その蛇のように細く長い物が天に上ぼるのを見たという。私は、児が重ね重ね竜に縁があることを奇遇として、それにちなんで命名[龍麿]して、行く末の幸多かれと祈ったのであった。

11.3 児の入籍

 児を分娩すると同時に、またもう一つの苦悶が出てきた。大井とは公然の夫婦ではないので、児の籍をどうするかということであった。幸いなことに、私の妊娠中しばしば診察を頼んだ医師は大井と同郷の人であり、日ごろから大井の名声を敬慕して、彼と交誼を結ぶことを望んでいたので、この人によって双方の秘密を保とうと、親戚の者より同医師にはかった所が、義侠に富む人であったので、直ちに承諾して、自分にいまだ一子さえないことを幸いに、嫡男として[医師の嫡男に偽装して]役所に届け出た。このようにして両人ともかろうじて世の耳目を免かれ、死よりもつらいと思える難関を乗り越えて、「やれうれしや」と思う間もなく、郷里より母上危篤の電報が来た。

11.4 愛着

 分娩後いまだ30日とは過ぎていないほどであったので、「遠路の旅行は危険である」と医師はせつに忠告した。されども今回の分娩は両親に報告していなかったことなので、今さらにそれとも言い訳しがたく、ことに母上が病気であるのに、どうして余所事のように見過ごすことができるだろうか。かりにも途中で死なば死ね、思い止まることはできないと、人々のいさめるのを聞かずに、叔母と乳母とに幼児を託して引かれる後ろ髪を切り払って、書生と下女とに送られて新橋に行って、発車を待つ間にも「児はいかになしおるやらん」と、心は千々に砕けて、血を吐く思いとはこれに違いない。実に人生の悲しみは、頑是ない愛児を手離すことより悲しいものはないが、それをすら強いて耐えねばならないとは、これもひとえに秘密を契った罪悪の罰なのであろうと、我と我が心を取り直して、ただ一人で心細い旅路に上ったところ、車中で片岡直温[実業家、政治家]氏が嫂の某女と同行されたのに会って、同女が乳児を懐に抱いて愛撫にひとかただはない有り様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫さ、探り慣れた母の乳房を離れて、にわかに牛乳を与えられることさえあるのに、哺乳器が口に含みにくくて、今頃はいかに泣き悲しんでいるだろう、汝が恋しい乳房はここにあるのに、そもそも一秒時ごとに、汝とさらに遠ざかるなど、我ながら日ごろの雄々しい心は失せて、児を産んでからは、世の常の婦人よりも一層女々しくなったことだ。さしも気遣っていた身体には障りもなくて、神戸直行と聞いていた汽車が、にわかに静岡に停車することになったので、その夜は片岡氏の家族とともに、駅近くの旅宿に投宿した。宿泊帳にはわざと偽名を書いたので、片岡氏も私が景山英とは気づかなかっただろう。

11.5 一大事

 翌日岡山に到着して、なつかしい母上を見舞ったところ、危篤であった病気がしだいに少しよくなったと聞いたのがうれしかった。久し振りに私が帰郷すると聞いて、親戚たちが打ち寄ったが、母上よりはかえって私の顔色が常でないのに驚いて、「いかにも尋常ではないようだ、医師を迎えよ」と口々に勧めてくれた。さては一大事、医師の診察によって分娩の事実が発覚すると、私はともかく、せっかく回復した母上の病気が、またはそれがために募って行って、悔いても及ばない事[死ぬ事]ともなるだろう。死んでも診察は受けないと、堅く心に決めたので、人々には少しも気分に障りがないとの旨を答えて、胸の苦痛を忍びに忍んで、ひたすら母上の全快を祈っていると、追々薄紙をはぐように癒えていって、果ては床の上に起き上がられて、私の月琴と兄上の八雲琴に和して、健やかに今様を歌い出しになった。

春のなかばに病み臥して、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近き老の身を、
うからやから[一家親族]のあつまりて、日々にみとりし甲斐ありて、
病はいつか怠りぬ、げに子宝の尊きは、医薬の効にも勝るらん

 滞在一週間ばかりで、母上の病気が完全に癒えたので、児を見たいという心がいよいよ勇み立って、今は思い止まるべくもなかったので、我にもあらず、適当な口実を設けて帰京の旨を告げて、かつ「私も思う子細があるので、遠からず父上母上を迎えとって、膝下に奉仕することとなすべき」など語り聞えて、東京に帰り、まず愛児の健やかな顔を見て初めて十数日来の憂さを晴らした。

第12 大井の変心

12.1 再び約束履行を迫る

 私の留守中、大井はしばしば来て幼児を見舞った由で、いまだ実子がいない境涯なので、今このように健全な男子を得たのを見て、どうして楽しく思わないことがあろうか。ただ世間をはばかって、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たい心を忍んでいるのであろう。それでは今一度約束の決行を促そうと、ある日面会したことを幸いに

「このようにいつまでも世間をあざむいて子供にまで恥辱を与えるのは、親としてあまりに冷酷に過ぎる、早く発表して私の面目を立ててください。もしこのままで自然にこの秘密が発覚することがあれば、私は生きて再び両親に会うことが難しいでしょう」

など、涙とともにかき口説いて、その後にまた手紙で訴えたところ、彼も内心は穏やかではなく、すこぶる苦慮の体であったが、ある時何を思ったか児を抱き上げて、その容貌を熟視しつつ熱い涙をはらはらと流した。けれども少しもその意中を語ることはなく、かつその日から、児を見に来ることもやや疎くなって行き、何事か不満の事情があるように見受けられたので、私もことの破れること[破局すること]を恐れて、ある日、女学校の設立の意志を説いて、彼に五百円を支出させた後、郷里の父母兄弟に書簡を出して挙家で上京することに決定させた。

12.2 挙家上京

 ああ、私はただ自分の都合によって、先祖代々師と仰がれていた旧家をある日その郷里から立ち退かせて、住み慣れていない東の空にさまよわせたのである。その罪の恐ろしさは、簡単には贖うべき術のあるはずもない。今もなお亡き父上や兄上に向かって、心に詫びない日はない。されどその当時は、両親の喜びはひととおりではなかった。「東京で日を暮らせるとは何たる果報の身の上だ、これも全く英子が朝鮮事件にあずかった余光だ」と言って、気の進まない兄上を因循だと叱りつつ、一家を打ち連れて東京に永住することになったのは、明治23年の10月であった。上京の途中で大阪の知人を訪ね、京都見物に日を費やし、神戸からは船に打ち乗って、両親および兄弟両夫婦および東京から迎えに行った私と弟[浦田淳造]の子の乳母の都合8人がいずれも打ち興じつつ、長い海路もつつがなく無事に横浜に着き、直ちに汽車で上京して、神田錦町の仮住まいに入った。一年余りも先に来ていた叔母は大いに喜んで、一同を労わり慰めて、絶えて久しい物語に余念がなかった。

12.3 変心の理由

 家族が東京に集まってから、大井の挙動は全く一変して、非常に不満の体で、訪問してくることもまれまれであったが、私はなおそれとは気づかず、ただただ両親兄弟に対して前約を履行していないことを恥じるがゆえであるとのみ思っていた。そこでしばしば彼に両親には悪意がないことを告げたが、なお言葉を左右にして来ず、しだいに疎遠の姿となって、はてはその消息さえ絶えるようになった。これは大いに理由があることで、彼は全く変心したのである。彼は私の帰国中に私の親友であった清水富子[小説家、清水紫琴]と情を通じて、私を遠ざけようと謀ったのである。

12.4 清水富子

 ここで清水富子(目下農学博士古在由直の妻である)の来歴を述べると、彼女はもとは備前の生まれである。父である人はある府庁に勤務中に看守盗の罪を犯して入獄したので、弁護士の岡崎晴正の妻となり、その縁で父の弁護を頼んだ。そうであれば岡崎氏は彼女にとって忘れてはならない恩人であり、私が出獄した際も岡崎氏とあいたずさえ、特に私を迎えて郷里に同行するなど、私との間柄もほとんど姉妹のようであったのに、岡崎氏の家計が不如意となるに及び、彼女はこれをいやがって、当時、全盛に全盛を極めた大井の虚名に恋々として、ついに良人であり恩人である岡崎氏を棄てて、思いやりもなく東京に出奔して大井と交際し、はてはその愛を盗み得たのである。このような野心のあることを知らずに、私はなお昔のように相親しみ相睦み合っていたが、ある日、大井から書簡があり、読みすすんでいくが、まったく何とも解することができなかったのは道理である、富子はいつの間にか懐胎してある病院に入院し子を分娩[明治24年11月]したのである。そもそもその書簡は、入院中の彼女に送るべきものであったのに、大井は軽率にも、私への書簡と取り違えてしまったこと、これは天罰というべきだろう。こうと知った私の胸中は、今ここに記すまでもないことである。直ちに大井と清水に向かってその不徳を詰責したところ、大井はますますその不徳の本性を現したけれど、清水は女だけにさすがに後悔したのだろうか、その後久しく消息を聞かなかったが、またも例の幻術をもって首尾よく農学博士の令夫人になりすまし、とても安らかに、楽しく清き家庭をととのえておられるとか。聞くところによると大井と彼女との間に生まれた男子は、彼女の実兄の清水某の手によって育てられていたが、その兄が発狂して頼みがたくなったことから、大井を尋ねて、その身を託そうと思いたったが、その妾のお柳のために一言にしてはねつけられ、やむなく博士某の邸宅に生みの母である富子夫人を尋ねると、これまた面会すらも断わられて、その後は行方知らずという。年齢はまだ13、4歳にちがいない。しかも辛苦のうちに成長したためか、非常に大人びた容貌であると耳にしたので、ああ何たる無情か何たる罪悪か、父母ともに人より優れた教育を受けながら、己の虚名心に駆られて、前途有為な男児を無残にも浮世の風にさらして、ほんのわずかのいじらしいと思う情愛さえ湧かず、やっと尋ねてきた子を追い返すとは、何たる邪険非道の鬼かと、私は同情の念がやみがたく、どうにかしてその所在を知り、及ばずながら世話をしてみようと心がけるものの、いまだにその生死をさえ知る道がないことは遺憾である。

12.5 驚くべき相談相手

 ここにおいて私は全く大井のためにもてあそばれ、はては全く欺かれたことを知って、私の憤恨憤怨の情はともかく、さしあたって両親兄弟への申し訳をどのようにしようかと、ほとほと狂わんばかりの思いであった。私を励まし、かつて生死をともにしようと誓っていた同志の中で、特に徳義が深いと聞えたある人に面会して、一部始終を語って、その斡旋を求めたところ、さても人の心の頼めがたさよ、彼は「すでに心変りした者を、いかに説得して責めたとしても、どうしようもないだろう。むしろ早く思い棄てて、さらにもっと良縁を求めるほうがよいだろう。世間にはおのずから有為な男子に乏しくないので、彼一人のためにあくせくすることは愚かしい」と言う。思いも寄らぬ勧告が腹立たしく、

「さては君も今、代議士の栄職を担っているので、最初の志望は棄てて、かつては政敵だった政府の権門家に屈従するのではないか。世間はおのずから栄達の道に乏しくないのに、大義のためにあくせくすることの愚かしさよと悟られたのか。ああ堂々たる男子もいったん志を得ると、その有難味を忘れることができず、どのような屈辱にも甘んじようとする、全く汚れきった人の心よ」

と、眼前で言いののしり、その醜悪を極めたけれども、彼は大井の変心を機会に私をたぶらかそうという下心があるかのようになお落ち着きはらって、この激しいののしりを微笑をもって受け流しつつ、その後もしばしば訪れてきては、あれこれと甘い言葉をろうし、また家人にも取り入って、私の歓心を得ようと努めた心の内がよく見えすいて、哀れでまたおかしかった。いや、彼のためにその妻から疑いを受けて、そのまま今日に及んでいることが、思えば口惜しく腹立たしい限りである。このように我が朝鮮事件に関与した有志家は、出獄後は郷里の有志家より数年の辛苦を徳とされて、たいてい代議士に選抜されて、一時に得意の世となったのである。また当時の苦難を顧みる者はなく、その細君すらもことごとく虚名虚位に恋々として、昔年に唱えていた主義も本領も失い果てて、一念その身の栄耀に汲々として、借金や賄賂が本職である有り様となったので、「かの時代の志士ほど、世に堕落した者はいない」などと世の人にも言い立てられるのである。このように意志薄弱でやる気のない人であるからこそ、私が大井のために無上の恥辱を蒙ったのを、かえって乗ずべき機会として、「いやになったら、また善いのを求むべし、これが当世である」とは、さても横に裂けた口[よこしまな言動をする口]かな。何たる教訓だろうか。

12.6 大井と絶つ

 彼らの家庭が乱れる有り様を見よ。数年間、苦節を守った最愛の妻に「良人の出獄がうれしい」と思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の苦悶を覚えさせ、酒色にふけり公徳を害して、わがままな振舞いが、いやが上にも増長するとともに、細君もまた失望のあまり自暴自棄の心となって、良人と同じく色におぼれ、はてはその子にまで無限の苦痛をなめさせるのも、どこもここも皆同様であるとか。ああ、このような者を信頼したことこそ過ちであったのだなあ。この上は自分から大井との関係を断って、心を改めて過ちを繰り返さぬことを誓い、この一身を愛児のために捧げよう、私は不肖といえども我が子は我が手で養育しよう、誓って一文たりとも彼の保護を仰がないと思い立って、その旨を言い送って、ここに完全に彼とは絶縁し、家計の保護をも謝して全く独立の歩調をとった。さて両親にもこの事情を語って承諾を求めたところ、非常に激昂して、「しかるべき人を立てて厳しく談判しよう」などと言いののしられたのを、「このような不徳不義の者と知らなかったことは全く私の過ちである、今さらいかに責めても、その甲斐はあるようもなく、かえって恥をひけらかすに終わるだろう」と、かついさめ、かつなだめたところ、ようやく得心してくださった。

12.7 災厄頻りに至る

 それより私は女子実業学校を設立して、幸いに諸方の賛助を得たので、家族一同がこれに従事し、母上は習字科を、兄上は読み書き算術科を、父上は会計を、嫂は刺繍科、裁縫科を、弟は図画科を、弟の妻は英学科をそれぞれに分担して親切に教授したところ、東京市内はもちろん近郷からも続々と入学者があって、一時は満員の姿となり、ありし昔[岡山の蒸紅学舎の時代]の家風を取り戻して、再び純潔な生活を送っていたところ、さても人の世の嘆かわしいことよ、明治25年の冬、父上が風邪の心地で仮の床に伏されると、心臓の病を併発して、医薬の効なくついに遠逝された。涙ながらに野辺送りを済ましてから、いまだ40日を出ないうちに、叔母上もまたもその後を追われた。この叔母上は私が妊娠した当時から非常に心配をかけたのに、その恩義に報いるいとまもなく早くも世を去られるとは、今にいたるまで遺憾やるかたもない。その翌年の4月には大切な兄上さえ世を捨てられて、わずかの月日の内に三度まで葬儀を営めることになって、本来貧窮な家計は、ほとほとなす術もない悲惨の淵に沈んだのを、有志家諸氏の好意によって、からくも持ち支えて再び開校の準備がなったけれど、杖とも柱とも頼んでいた父上と兄上には別れ、嫂が子供を残して実家に帰るなどの事情によって、容易に授業を始めるべくもなく、一家は再び倒産の哀れを告げたので、私は身の不幸不運を悔やむよりほかの涙もなかった。このうえは海外にでも赴いてこの志を貫こうと思い立ち、ゆっくりと不在中に家族に対する方法を講じつつあった時に、天はいまだ私をお捨てにならなかったのだろう、思いがけず後日、私の敬愛する福田友作と邂逅する機会をお与えになった。

第13 良人

13.1 同情相憐れむ

 これより先明治24年の春、新井章吾氏の宅にて一度福田と面会したことがあったが、当時の私は大井との関係があった頃で、福田のことは別に記憶に残らなかったが、彼は私の身の上を知り、ひとたび友誼を結ぼうという思いがあったようである。ある日、関東倶楽部[関東系立憲自由党代議士が結成したクラブ]に一友人を尋ねたとき、一人の紳士が微笑しつつ、「よいところでお目にかかりました。ぜひお宅へお尋ね申したきことがあります」と言うのを冒頭に、私の方に近づいて来て、慇懃に挨拶したのが福田である。「それはどういう御用ですか」と問い返したところ、彼は当時なお私の学校があると思っていたようで、「今回、郷里にいる親戚の子供が上京するので、ぜひともお願いしたいと思っています」と言う。よって私は、目下は都合があって閉校したことを告げ、「もっとも表面は学校生活をなしてはいないけれど、両三人を自宅に同居させて、読み書き、習字の手ほどきをしていて、それで差し支えなければお越しになってもよろしいけれど、実のところ一方ならぬ困窮に陥って、学校らしき体面をすら装うことができません」と話すと、彼は何事か大いに感じた体であったのも道理である。その際は彼も米国より帰朝以来、小石川竹早町の同人社[敬宇の私塾]の講師として懸命に尽力していたのに、不幸なことに校主の中村敬宇先生の長逝にあって閉校やむなき有り様となったのである。その境遇がちょうど私と同じだったので、彼は同情の念に堪えないように、しきりに私の不運を慰めたが、その後、両親との意見が和せずに、ますます不幸の境に沈むと同時に、同情相憐れむという念がいよいよ深くなり、果ては私に向かって「再び海外に渡航して、かの国にて世を終わらないか」などのことをさえ打ち明けるに至ったので、私もまたその情に打たれつつ「あなたは私と異なって、財産家の嫡男に生まれ給い、一たび洋行してミシガン大学を卒業し、今は法学士の免状を得て、めでたく帰朝された身ではないか。なにゆえにこのような悲痛なことを言われるのか。私のように貧家に生まれ今日重ねてこの不運にあって、あわや活路を失おうとする者とは、同日の話にはなりません」と詰問したところ、実に彼は貧困よりもずっとつらい境遇をさまよっていたのである。彼はたちまち眼中に涙を浮べて、

「財産家に生まれるのが幸福であるとか、あなたの言葉は間違っている。たとえばその日の暮しがとても具合がよくないものであっても、一家団欒の楽しみがあれば、人の世にとってどれほど幸福であろうか。もともと自分が洋行したのは、親より強いられて従妹である者と結婚させられ、初めよりごくわずかの愛とてもないのに、本当に押しつけの至りであることが腹立たしく、やけになって思いついた遊学であった。されば両親も自ら覚る所があってか、遊学中も学資を送ってきて、7年の修業を積むことができ、先に帰朝の後は自分の理想を家庭に施すことを得たいと楽しみにしていたのに、志はまたことと違って、昔に勝る両親の処置の情けなさ、このような家庭にあるのも心苦しくて外出することがしばしばになるにつれて、覚えずも魔の道に踏み迷い、借財が山のようになって、ついに父上の怒りに触れ、このような放蕩者に行く末は覚束ない、勘当すると息巻いておられる由を聞いたので、心ならずも再びかの国に渡航して身を終わらんと覚悟したのである」

と物語る。「ああ、私もまた不幸落魄の身である。不徳不義な日本紳士の中に立ち交るよりは、知らぬ他郷こそ恋しけれ」と言ったところ、彼はいきいきとして「それならば自分と同行する意志はないだろうか、幸い十年足らずかの地に遊学した身であるので、かの地の事情に精通している」などと、真心より打ち出されて、遠い砂漠の旅路に清き泉を得たように、うれしさ、したわしさの余りから、しばしば相会っては、身にしみじみと世のはかなさを語り語られる間柄となった。ある日、彼は改めて「あなたに異存がなければ、この際結婚して、そうして渡航の準備に着手しよう」と言いだした。私も心中この人ならばと思い定めていた折りから、直ちに承諾の旨を答え、いよいよ婚約を結んで、母上にも事情を告げて、彼も公然とその友人らに披露して、それより同棲することとなり、一時睦まじい家庭をつくった。

13.2 貧乏書生

 そのころの新聞紙上には、「豪農の息子が景山英と結婚した」などの記事も見られたが、その実、福田友作は着のみ着のままの貧乏書生だったのである。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラだったので、有志家と称する偽の豪傑連から、酒色をもって誘われ、その高利の借金に対する証人または連借人になることを承諾させられ、はては数万円の借財を負って両親に譴責され、今は家に帰るのをいやがっていた時であった。彼はアメリカから法学士の免状を持ち帰った名誉を顧みるいとますらなく、貴重な免状も反古同様となって、戸棚の隅で鼠の巣となっていたのである。かわいさの余りか、はたまた憎さのためか、「困らせたならば帰国するだろう、東京で役人などになってもらおうと学問をさせたのではない」と、実に親の身として、耐えがたいほどの恥辱苦悶を子になめさせ、なお帰らないなら廃嫡にするなどと、種々の難題を持ち出したが、「財産のために自分の抱負、理想をまげるべきではない」と、彼は承諾する気色さえなかったので、さしもの両親もあぐみ果てて、彼のなすままに打ち任せていたのであった。

 こうして彼は差し当たり独立の計をなそうと友人にも図って英語教師となり、自宅で教鞭をとっていたが、肩書きのある甲斐もあって、生徒の数がだんだんと増えていって、生計の営みに事欠くことがないようになったが、「さては彼は東京に永住しようとするのであろうか。棄てておけば、いよいよ帰国の念がなくなるだろう」と、国元より父の病気に託してしきりに帰国を促してきた。やむなく帰省して見ると、両親はこもごも身の老衰を愚痴って、「家事を監督する気力が失せたので、何とぞ家にいて万事を処理しくれ」と言う。もとより情にはもろい彼であったので、非道な圧制にこそ反抗もするが、ことを分けた親の言葉の前には我慢の角も折れ尽して、そのまま家にいようかとも考えたが、「多額の借財を負う身で、今家に帰ると、父さては家に苦難を及ぼすのは眼の前である」と思い返して、「財産は弟に譲っても遺憾はない、自分は思う子細があるので、多年の苦学を無駄にせずに、東京にて相当の活路を求めたい」と言い出したところ、両親の機嫌は見る見る変わって、「不孝者、恩知らず」と叱責したのであった。やむなく前言を取り消して、永く膝下にあるべき旨を答えたものの、七年の苦学を無にして田夫野人[教養のない粗野な人]とともに鋤をとって貴重な光陰を浪費することは、いかにしても口惜しかった。また私の将来とてしても、とうてい農家に来て慣れない養蚕、機織りの業をとることができる身ではないので、一日も早く資金を作って、おのおの長じる道により世に立つのがよいと悟ったので、再び両親に向かって、「財産は弟[小三郎]に譲り、自分は独立の生計を求める」と決心したことを述べ、わずかな資本の分与を願ったところ、思いも寄らぬ有り様で「家を思わぬ人でなし」とののしられ、たちまち出で行けがしに遇せられたので、大いに覚悟する所があって、ついに再び流浪の身となって東京に来て、友人の斡旋によって万朝報社の社員となった。彼が月給を受けたのは、これが最初で最後であった。

13.3 夫婦相愛

 これによって、ようやく米塩の資[生活の資]を得たけれど、彼が上京した当時はほとんど着のみ着のままで、諸道具は一切をくず屋に売り払い、ついには火鉢の五徳にまで手をつけて、わずかになんとか餓死を免がれるなど、その境遇の悲惨なことは、簡単には筆舌に尽しがたいことであった。しかし富豪の家に育った彼が、別に苦情を訴えることもなく、かえって清貧に安んじていたさまは、私をして、わけもなく気の毒の感に堪えられないようにさせた。私はこれに引き換えて、もとより貧窮に馴れた身であり、かつて得たいと望んでいた相愛の情を得てからは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めく権門の令夫人よ、あなたが偽善的儀式の愛に欺かれて、終生浮ぶ瀬のない凌辱を被りながら、なお儒教的な教訓の圧制に余儀なくされて、密かに愛の欠乏に泣きつつあるのは、私の境遇に比べて、その幸不幸はどうであろうかなどと、少なからぬ快感を楽しんだのであった。私は愛に貴賤の別がないことを知る、知愚の分別がないことを知る。さればその夫が、他に愛を分けて私を恥かしめる行為があれば、私は男子が姦婦に対する処置をもって姦夫にも臨むことを望む者である。東洋の女子、特に独立自営の力のない婦人にとって、この主義は余りに極端であるようだが、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進させるべき者で、男子は時と場合によりいわゆる都合によって、その愛を四方八方に立ち寄らすことができる者であると言うと、誰がその不公平であることに驚かずにいることができようか。人道を重んじる人にして、なおこの不公平な処置を怪しまず、衆口同音に婦人を責めることの残酷なことは、古来からの習慣がそうさせるとはいえ、20世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地はないのである。そうではあるが、これは独り男子の罪のみではなく、婦人の卑屈な依頼心が、また最もあずかって悪風習の原因となっているだろう。彼女らは常にその良人に見捨てられると、たちまち路頭に迷うという恐れを抱いて、何でもかじりついて離れまいと努めるのである。ゆえにその愛は良人にあらず、我が身にあり、我が身の飢渇を恐れることにあり、浅ましいことに彼女らの愛が、男子の乱暴な行いにあっても黙従の他がないのは、かえすがえすも口惜しいことだ。思うに夫婦は両者の相愛の情が一致して、初めて成立すべき関係であるがゆえに、人と人との手にて結び合わせる形式の結婚は私の首肯できないことである。されば私が福田と結婚の約束を結ぶと、翌日より衣食の途がないことを知らないわけではなかったが、結婚の要求は相愛にあって、衣服にはないこともまた知っていた、衣服は顧慮するのに十分ではないこともまた知っていた。常識のない痴情に溺れたと言ってはならない、私の良人の深厚な愛は、かつて少しも衰えなかった。彼は私と同棲するために、あたかも破れた草履のように数万の財を棄てたのであった。結婚の一条件であった洋行のことは、夫婦の一日も忘れることのない所であったが、資金調達の道がいまだならないのに、私は尋常ではない身[妊娠した身]となり、ことみな志と違って、貧しいうちに男子を生んで、哲郎と命名した。

13.4 神頼み

 しかるに生まれて二月と経たぬうちに、幼児は毛細気管支炎という難病にかかり、とかくするうちに危篤状態に陥ったので、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚者同然となって、風の日も雨の日もいとうことなく、住居から十町ばかり離れた築土八幡宮[千代田区飯田橋]に参詣して、「愛児の病気を救わせ給え」と祈り、平生好んでいる食物や娯楽をさえ断ったところ、そのためではないだろうけれど、それからしだいしだいに快方に向かったので、ひとえに神の賜物であると夫婦ともに感謝の意を表して、その後は久しく参詣を怠らなかった。

13.5 有形無形

 私は幼いころから芝居や寄席に行くのを好み、最も浄瑠璃をたしなんでいた。されどこの病児を産んでからは、全くその楽しみを捨てたところ、福田は気の毒がって、折に触れて勧誘したけれど、「すでに無形の娯楽[一家団欒]を得たので、また形骸は必要ない」と辞して応じなかった。ただ我が家庭をいかにして安穏に経過させようかと心はそれのみに強く傾いて、苦悶のうちに日を送りつつも、福田の苦心を思いやって、ともに力をあわせ、わずかに職を得たと喜べば、たちまち郷里に帰るという事情が起こる等で、彼の身心の過労は一方ではなく、あれやこれやの間に、惜しくも壮健の身が精気を失って、なすこともなく日を送ることの心もとないことである。

13.6 渡韓の計画

 これでは前途のためよくないと思案して、ある日、将来のことなどを相談し、かついろいろと運動していたところ、折よく朝鮮政府の法律顧問という資格で、かの地へ渡航するよい機会を得たので、これ幸いと郷里にも告げず、旅費などの半ばを友人より、その他は非常の手立てで調達して、渡韓の準備が完全に整った。当時、朝鮮政府に大改革があって、一時日本に亡命していた朴泳孝氏らも大政に参与して、権勢が盛んな時であったので、日本より星亨、岡本柳之助氏らが、その招聘に応じて朝廷の顧問となり、すでにしてさらに西園寺侯爵もまた勅命を帯びて渡韓していた。それゆえ福田はこれらの人によって、かの国の有志家の主だった人々に交わりを求めるのも難しくはなく、またかの国の法務大臣である徐洪範は、かつて米国遊学中の同窓の友であるので重ね重ねの便宜があると勇み進んで、いよいよ旅立ちの日に私に向かい、「内地では常に郷里のために目的を妨げられ万事に失敗して、あなたにまで非常な心痛をかけたが、今回の行によって、いささかそれを償うことができるだろう。あなたに病児を託すので願わくは珍重にせよ」と言って、決然と袂を分けたのに、その後、二週間ばかりして、またもや彼の頭上に一大災厄が起ろうとは、本当に悲しい運命であることよ。

13.7 妨害運動

 これより先、郷里の両親は福田の渡韓のことを聞いて、彼を郷里に呼び返すことがいよいよ難しいことを憂い、そのはて高利貸に福田の家資分産の訴え[借金返済の資力がないとの訴え]を起させて、かくして彼の一身を縛り、また公権をさえ剥奪して彼を官職につくことができなくして、結局落魄して郷里に帰るほかに道がないようにしようと企てたのである。それゆえ彼が仁川港に着くと、その宣告書はたちまち領事館より彼が頭上に投げ出された。彼はその両親の慈愛が、これほどまで極端であるとは夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほど苦しい金を調達して、最愛の妻や病児をも後に残して名残惜しい別れをあえてしたのに、慈愛はかえって仇となって、他人に語るのも恥かしいと帰京後に男泣きに泣かれた時の悲哀は、どれほどであったことか。実に彼は死よりもつらい不面目を担いつつ、せっかく新調していた寒防具その他の手荷物を売り払って旅費を調達して、ようやく帰京の途に着くことができたのであった。

13.8 血を吐く思い

 横浜に到着すると同時に、私に「ちょっと当地まで来れ」との通信があったので、病児を人に託して直ちに旅館に行くと、彼は顔色が異常で、身につけたものはただ一着の洋服のみとなって、その上帰国が本意でないことを語り出された。妻の手前ながら定めて断腸の思いであっただろうに、日頃、忍耐の強い人であったので、

「この上はもはやしかたがない。自分は死ぬ心づもりで郷里に帰って、田夫野人と伍して一生を終えるとの覚悟をしよう。このように志を貫くことができずに、再び帰郷するのやむなきに至るとは、御身に対してまた朋友に対して面目のない次第であるが、いかんせん両親の慈愛のその度が過ぎ、我をついに膝下に仕えさせるのでなければやめないだろう。病児を抱えて働かないで食べていくことは、到底至難のことなので、自分は甘んじて児のために犠牲となろう。何とぞこの切なる心を察して、しばらく時機を待ってくれ」

と言う。今は私も否みがたくて、ついに別居の策を講じたが、かの子煩悩な性格は愛児と分れて住むことがつらいので、折しも私が再び懐胎したことを幸いに、「病身の長男の哲郎を連れ帰って、母に代わって介抱しよう、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子を分けて、家庭の冷やかさを忘れさせよ」とのこと。はたまたこれも否みがたく、我と血を吐く思いを忍んで、彼の在郷中の苦痛を和らげるよすがにもと、ついに哲郎を彼の手に委ねた。その当時の悲痛を思うと、今もなんとはなしに熱涙の湧くのを覚える。

13.9 新生活

 こうして彼は再び鉄面をかぶって愛児まで伴って帰省したのに、両親はその心情をも察することなく、結局は彼が困窮の極みで帰省したのを喜んで、何とかして家に閉じ込めておこうと思っていたが、彼の愛児に対する態度が、少しも慈母の撫育[いつくしみ育てること]に異なることはなく、終日その傍らに束縛されて、さらに隠された意図はない模様であったので、両親はかえって安心の体で、自ら愛孫の世話をしてくれるようになり、またその愛孫の母なので、私に対してさえ、毎月若干の手当を送るようになったが、夫婦相思の情が日一日といや増して、彼がしばしば上京することがあるからだろうか、次男の侠太が誕生して間もなく、親族の者より私にも来郷のことを促して来た。彼はこれに反して、密かに来ないほうがいいと言い送ってきた。それは、かりに私が彼の家のような冷酷な家庭に入っても、到底長くとどまることができないことを予知したからであった。私としてもまた衣裳や金の持参なしに、遥かに身体一つを投じるのは、他の家ならば知らず、この場合においては、いたずらに彼を悩ます具となるに過ぎないことを知っていたので、初めは固辞して行かなかったところ、親族はやっきになって来郷を促して、「子供のためにまげて来り給え」などと、一層切に勧めてきたので、良人と児との愛に引かれて、覚束なくも、舅姑の機嫌を取り、裁縫やら子供の世話やらにあくせくすることとなったのは、思えば変る人の身の上であった。

13.10 ああ死別

 されど私のような異分子がどうして長くこのような家庭に留まっていられようか。特に舅姑の福田に対する挙動が、いかに冷ややかで、かつ無残であるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受けることを悟って、針の筵のそれよりも心苦しく、たとえいったんの憤りを招けば招け、かえって互いのためになるだろうと、ある日幼児を背負って、密かにに帰京しようと図っていたが、中途で親族の人にさえぎられて、その目的を達することができなかった。しかし彼も私の意を察して、一家の和合望みがないことを覚ったと見えて、今回は断然と廃嫡のことを親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めようとのことで、私もこれに賛成して、十万円の資産が何であろうかと、相談の上、私がまず帰京して、彼の決行が果たして成就するかどうかを気遣っていたところ、一か月を経て親族会議の結果、嫡男の哲郎を祖父母の膝下に留めて、彼は上京した。[弟の小三郎が跡取りとなり、哲郎を友作の弟として入籍]。夫婦は初めて愁眉を開いて、暖かい家庭を作り得たことを喜びつつ、さあ結婚当時の約束を履行しようという下心だったのに、悲しいかな、彼は百事の失敗に撃たれて脳の病[脳梅毒]をひき起こし、最後に上京した頃には、病はすでに膏肓に入りほとんど治療することができないようになって、時々狂気じみた挙動さえ著しかったので、知友にも勧誘をお願いして、鎌倉、平塚の近辺に静養させようと、その用意をおさおさ怠りなかったのに、積年の病はついに癒すことができず、末子の千秋の出生と同時に人事不省に陥ってついに起きず、36歳を一期として、そのまま永遠の別れとなった。

第14 大覚悟

 ああ人生の悲しみで最愛の良人に先立たれるより甚だしいことはないだろう。私もいったんは悲痛の余り黒色の僧衣をつけよう[出家しよう]と思ったが、福田の実家の冷酷なことは、亡夫の存命中より、すでにその気持ちや考えの分からない処置が多く、病中の費用を調達するという名目で、別家の際に分与した田畑を親族の名に書き換え、すなわちこれに売り渡したる体にして、その実は再び本家の所有とするなど、少しも油断しがたく、彼の死後はことさら遺族の飢餓をも顧みず、一切が投げやりの有り様なので、今は子どもたちに対して独り重任を負う身で、自ら世を捨て、呑気な生涯を送るべきではないと思い返し、亡夫の家を守ってその日の糊口に苦しんでいるのを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に舅姑を訪問して遺族の手当てを請求したのに、彼らは少しの同情もなく、ようやく若干の小遣い銭を送ろうと約束した。このような有り様なので、私は乳児[千秋]を養育するほか、なお二児[龍麿と侠太]の教育をゆるがせにできないことさえあって、苦悶懊悩のうちに日を送るうちに神経衰弱にかかって臥床の日が多く、医師より「心を転ぜよ、そうしなければ、健全に復しがたいだろう」などという注意さえ受けるに至った。「死はむしろ幸いだろう。ただ子らはなお幼くして、私がもしいなければ、どのようになって行くだろう。それならば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、私は責任をまっとうし、良人の愛に報いる道も立つ」と、自ら大いに悔悟して、女々しかった心が恥かしく、ひたすらに身の健康を祈って、療養に怠りなかったので、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出しても決して溺れないだろうとの覚悟さえ生じたので、亡夫の一週年の忌明けをもって、自他が助け合う策を講じて、ここに再び活動を開始した。それは婦女子に実業的な修養をさせるのが肝要であると確信し、思うところを有志家にはかったところ、大いに賛同されたので、すなわち亡夫の命日をもって、角筈女子工芸学校を起こし、またこの学校の維持を助けるべく日本女子恒産会を起こして、篤志家の賛助を乞い、貸費生の製作の品を買い上げてもらうことに定めたのである。恒産会の趣旨は以下の通りである。

  [ 「日本女子恒産会設立趣旨書」:末尾の15章に掲載 ]

 この事業はいまだ中途で、どのようになって行くだろうか、常なき人の世のことはあらかじめ言いがたい。ただこの趣旨を貫くことこそ、私の将来の務めである。

    *    *    *    *

 三十余年の半生涯は、顧みるとただ夢のようである。ああ私は今覚めたのか、覚めてまた新しい夢に入るのか。私はこの世を棄てるのか、この世が私を棄てるのか。進まんか、私に資と才とがない。退かんか、寒と飢とは襲って来るだろう。生死の岸頭に立って人のとるべき道はただひとつ、誠を尽して天命を待つのみ。

第15 付属文書

その1  獄中述懐 

(明治18年12月19日    大阪未決監獄において、時に19歳)

 元来私は、我が国の民権が拡張せず、したがって婦女が、古来の陋習に慣れて、卑々屈々と男子の奴隷たることに甘んじ、天賦自由の権利があることを知らずに己のためにどういう弊制悪法があることも恬として意に介せず、一身の小楽に安んじて錦衣玉食することをもって、人生最大の幸福名誉となすのみ。どうして事体の何物であるかを知っているだろうか、いわんや国家の休戚をや。いまだかつて念頭に懸けないのは、滔々たる日本婦女は皆同じで、あたかも度外物のように自ら卑屈し、政治に関することは女子の知らざることとなして、一つも顧慮する意志がない。このように婦女が無気無力なるのも、ひとえに女子教育の不完全、かつ民権が拡張しないことにより、自然女子にも関係を及ぼすゆえなれば、私は同情同感の民権拡張家と相結託して、いよいよ自由民権を拡張することに従事しようと決意した。これもとより私の希望目的にして、女権が拡張して男女同等の地位に至れば、三千七百万人の同胞姉妹が、皆競ってて国政に参加し、決して国の危急を余所に見ることなく、己のために設けたる弊制悪法を除去し、男子とともに文化を誘い、よく事体に通じる時は、愛国の情も、いよいよ切になるに至らんと欲するからである。しかるに現今の我が国の状態たるや、人民皆が不同等な藩閥の専制政体を厭忌し、公平無私な立憲政体を希望し、新聞紙上に掲載し、あるいは演説に、あるいは政府に請願して、日々専制政治が不可で日本人民に適せざることを伝えて、早く立憲政体を立て人民をして政治に参加せしめざる時は、憂国の余情が溢れて、どういう挙動がなきにしもあらずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風たるのみならず、憂国の志士仁人が、誤って法網に触れしことを、無情にも長く獄窓に坤吟せしむる等、現政府の人民に対する抑圧の挙動は、実に枚挙にいとまがない。なかんずく私の感情をもっとも惹起したのは、新聞、集会、言論の条例を設けて、天賦の三大自由権を剥奪し、あまつさえ私たちの生来かつて聞かない諸税を課したことである。しかしてまた布告書等に奉勅云々の語を付して、畏れ多くも天皇陛下に罪状を附そうとするのは、そもそもまた何事か。私はこれを思うごとに苦悶懊悩の余り、しばし数行の血涙滾々たるを覚えて、寒からざるに肌に粟粒を覚えることがしばしばである。暫時にして、おもえらく、ああ、かくのごとくなる時は、無智無識の人民諸税の収税の酷なることを怨み、いかんの感を惹起せん、恐るべくも、積怨が溢れて、ついに残酷比類なきフランス革命の際のごとく、あるいはロシアの虚無党の謀図するごとき、惨憺悲愴の挙がなきにしもあらずと。よって私たち同感の志士は、これを未萌に削除せざるを得ずと、すなわち先に政府に向かって忠告したる所以である。かく私たち同感の志士より、現政府に向かって忠告するのは、もとより現当路者に功績があることを思うからである。しかるに今や採用することなく、かえって私たちの真意にもとり、あまつさえ日清談判のように、国辱を受くる等のことある上は、もはや当路者を顧みるいとまはなし、我が国の危急をいかんせんと、ますます政府の改良に熱心したる所以である。私がつらつら考えるに、今や外交が日に開け、表に相親睦する状態であるといえども、腹中はおのおの針を蓄え、優勝劣敗、弱肉強食、日々に荒々しく強い欲をたくましくして、頻りに東洋を蚕食する兆候があり、しかして、その内我が国外交の状態につき、近く私が感じる所を拳げれば、先に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果たして、私たち人民を満足せしむる結果を得しや。しかのみならず、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明らけし。しかるにその結果は不充分にして、外国人も密かに日本政府の微弱で無気力なることを嘆ぜしとか聞く。私は、思うてここに至れば、血涙淋漓、鉄腸寸断、石心分裂の思い、愛国の情、うたた切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なきか、ああこの国辱をそそがんと欲する烈士は、三千七百万人中に一人もあらざるか、条約改正がなきことは、また宜なるかな[もっともだ]と、内を思い、外を想うて、悲哀転輾して、懊悩に堪えず。ああ、いかんして可ならん、たとえ女子たりといえども、もとより日本人民である、この国辱をそそがずんばあるべからずと、ひとり愁然と苦悶に沈みたりき。何となれば、他に謀る女子はなく、かつ小林等は、この際に何かを計画する様子なるも、私は上京中に他に志望する所がありて、しばらく一心に英学に従事して居たりしをもって、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにも関わらず、私は修業中なることをもって、小林の身を寄せる所を訪うことも、はなはだ稀なりしをもって、その計画する事件も、求めてそのころは聞かざりしが、私は日清談判の時に至り、大いに感じる所があり、奮然と書を投げ打ちたり。また小林はかねての持論に、「たとえいかに親密なる間柄たるも、決して、人の意を曲げしめて、己の説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんや我々の計画する所のことは、皆身命に関する事なるにおいてをや、我は意気相投じるを待って、初めて満腔の思想を、陳述する者である」と。何事においても、全てかくのごとくなりし。しかるに、たちまち朝鮮の一件より日清の関係となるや、私は先に述べしごとく、我が国の安危が旦夕に迫れり、どうして読書の時ならんやと、奮然と書を投げ打ち、まず小林の所に至り、「この際いかんの計画あるや」を問う。しかれども答えず。よって私は、あるいは書簡にし、あるいは百方言を尽して、しばしばその心事を陳述せしゆえ、やや感じる所がありけん、ようやく、今回の事件の計画中、その端緒を聞くことを得たり。その端緒とは他にあらず、すなわち今回日清争端を開かば、この挙に乗じて、平素の志を果たさん心意なり。しかして、「その計画はすでに成りたりといえども、唯一金額の乏しきことを憂うるのみ」との言に私は大いに感奮する所があり、「いかにもして、幾分の金を調えて、彼らの意志を貫徹させよう」と、すなわち不恤緯会社を設立するとの名目で、相模地方に遊説して、ようやく少額の金を調達した。しかりといえども、これをもって今回の計画中の費用に充つるあたわず、ただ有志士の奔走費位に充つる程度なりしゆえ、私は種々に粉骨砕身するといえども、悲しいかな、処女の身、いかんぞ大金を投じる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露見を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。よって思うに、到底私のごときは、金員をもって、男子の万分の一助たらんと欲するも難しと、金策の事は全く断念し、身をもって当らんものをと、種々その手段を謀れり。しかる所、たまたま日清も平和に談判が調いたり[天津条約]との報あり。この報たる実に私たちのためにすこぶる凶報なるをもって、やや失望するといえども、何ぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来すも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮は、日々朝野を論ぜず[世間を挙げて]、一般に開戦論を主張し、その勢力は実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしをもって、その脳裏に徹底する所の感情は大いに私たちのために奇貨なるなからんか、この期を失うべからずと、すなわち新たに策を立て、決死の壮士を選び、まず朝鮮に至り、事を挙げしむるにしかずと、ここにおいて檄文を造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、ともに合力して、辮髪奴[清国人に対する蔑称]を国外に放逐して、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る所も、先に政府は卑屈で無気力にして、かの辮髪奴のために辱めを受けしも、民間には義士烈婦がありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関するのみならず、一つはもって内政府を改良するの好い手段たり、一挙両得の策である。いよいよ速やかにこの挙あらんことを渇望し、かつ種々心胆を砕くといえども、同じく金額の乏しきをもって、その計画成るといえども、いまだ発するあたわず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ従事して居たりしが、当地においては、もはや目的なしとて、両人は地方遊説をなすとて出で行けり。しばらくして、大井は中途で帰京し、小林ひとりがとどまっていたが、ようやくその尽力により、金額が成就したことから、いよいよ磯山らは渡航することを決定して、その発足前に当たり、磯山は私に、朝鮮に同行することを告げた。よって私は、その必要のある所を問う。磯山は告げるに、「彼是間の通信者に、最も必要である」と答えた。私は熟慮してこれを諾す。もっとも私は、先に東京を旅立つ時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬する約束があって、長崎まで至る都合なりしが、その義務が終わりなば、帰京して、第二の策、すなわち内地にて、相当の運動をなさんと企図したりしが、当地(大阪)にてまた「朝鮮へ通信のため同行せん」との事で、小林もこれに同意したので、すなわち渡航を決心した。しかるに磯山は、いよいよ出発というその前日に逃奔し、さらにその潜所を知ることができなかった。それゆえやむなく新井がかわってその任に当たり、行くことに決せしかば、彼もまた同じく、私に同行せん事をもってす。私はすでに決心した時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と決別し、新井とともに渡航の途につき、長崎に行って、仁川行きの出帆を待ち合わせていた。しかるところ、滞留中に磯山の逃奔の一件につき、新井が代わるのに及んで、壮士間に紛擾を生じ、渡航を拒む壮士もある様子ゆえ、私は憂慮に堪えず、彼らに向かって間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの思慮なく、許容せざるをもって、私は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然と決死の覚悟をなしたりけり。その際に私は新井に向かい言うよう、「私はこの地に到着するや否や、壮士の心中をうかがうに、堂々たる男子にして、私情をさしはさみ、公事を投げ打たんとする意のあり、しかして君の代任を忌む風あり、誠に国家のために嘆ずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止まる方が好手段ならん」と言いしに、新井これに答えて、「なるほどしかるか、かくの如き人あらば、すなわち帰らしむべし、何ぞ多人数を要せん。我が諸君に対する義務は、畢竟一身を放擲して、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんや」と。私はこの言に感じ、ああこの人は国のために、一身の名誉を顧みず、内事はすべて大井、小林の任じる所なれば、あえて関せず、私はただその義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全うする者と、しばし讃嘆の念に打たれしが、私もまた、この行決死せざれば、到底充分平常希望する所の目的を達することあたわず。かつ私の今回の同行は、ひとえに通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士がありて、充分の運動をなさん。私は今たとえ異国の鬼となるも、こと幸いに成就せば、私の平素の志も、彼ら同志の拡張する所ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるにしかずと。すなわち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、私は女子の身で腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、すなわち爆発物のあるあり。たとえ身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情をもって向かうときは、何ぞ壮士に譲らんや。かつおもえらく、私はもとより無智無識なり、しかるに今回の行は、実に大任にして、内は政府の改良を図るの手段に当たり、外はもって外交政略に関し、身命を放擲するとの栄を受く、ああ何ぞ万死を惜しまんやと、決意する所あり。すなわち長崎において、小林に贈る書中にも、「たとえ国土を異にするも、ともに国のため、道のために尽し、輓近東洋に、自由の新境域を勃興せん」と、暗に永別の書を贈りし所以なり。ああ、私に親愛なる慈父母あり、人間の深情は親子を棄てて、また何かあらん。しかれどもこれは私事なり、私は一女子なりといえども、どうして公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を放擲して、あえて犠牲たらんと欲せしや、他なし、ただ愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして露見し、私の本意を達することあたわず。空しく獄裏に呻吟するとの不幸に遭遇し、国の安危を余所に見る悲しさを、私はもとより愛国の赤心万死を軽んず、永く牢獄にあるも、あえて怨むの意なしといえども、ただ国恩に報酬することあたわずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、うたた潸然たるのみ。ああいずれの日か我が平素の志を達することを得ん、ただ私はこれを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。

   明治18年12月19日大阪警察本署において
           大阪府警部補 広 沢 鉄 郎 印

その2  日本女子恒産会設立趣旨書

 恒産なければ恒心なく、貧すれば乱すということは人の常情にして、勢いやむを得ざるものなり。このゆえに人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、まずこれに恒産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その本性を全うせしめんとするは例えば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達するあたわざるなり。

 今や我が国都鄙[都会と田舎と]いたる所として庠序[学校]の設けあらざるはなく、寒村へき地といえどもなお咿唔[読書]の声を聴くことを得、特に女子教育の如きも近来長足の進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、我らの大いによろこぶ所なり。されど現時一般女学校の有り様を見るに、その学科はいたずらに高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美を旨としもって奢侈贅沢の用に供せられるも、実際生計の助けとなる者あらず、もって権門勢家の令閨[令夫人]となる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人を出すに足らず。これ実に昭代[太平の世]の一欠事にして、しかして我らのひそかに憂慮措くあたわざる所以なり。

 それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、よくその夫を援けて後顧の憂いなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その夫に別るることあるも、独立の生計を営みて、毅然その節操を清うするもの、その平生涵養し停蓄する所の知識と精神とに因るべきはもちろんなれども、我らをもってこれを考うれば、むしろ飢寒困窮のその身を襲うなく、艱難辛苦のその心を痛むるなく、泰然としてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。

 しかりといえども女子に適切な職業になるとその数は極めて少ない、やや嘱望すべきものは絹ハンカチの刺繍である。絹ハンカチはその輸出がかつて隆盛を極め、その年額は百万ダース、その原価はほとんど三百余万円に上り、我が国の産出中で実に重要な地位を占めたものであった。しかるにその後の趨勢はとみに一変して、貿易市場における信用は全く地に落ち、輸出高は、ますます減退するという悲況を呈するようになった。これもと種々なる原因があるものなるべしといえども、製作品の不斉一なると、品質の粗悪なこととは、けだしその主なものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なのは、その製作者と営業者とに徳義心を欠くがゆえであると言うこともできる。鑑みざるべけんや。

 そもそも文明が進み、分業が行われるに従い、機械的大仕掛けの製造が盛んに行われ、低廉な価格をもって、よく人々の必要に応じることができると言っても、元来機械製造のものたる、千篇一律風致なく神韻を欠くをもって、単に実用に供するに止まり、美術品として愛玩措くあたわざらしむることなし。しかるに経済社会の進捗し富財の饒多[豊かに多い]となるにしたがって、昨日の贅沢品も今日は実用品となって、贅沢品として愛玩されるものは、勢い手工の妙技をたくましくした天真爛漫なものに他ならないようになり、ゆえをもって衣食住の程度の低い我が国において、我が国産の絹布を用い、これに加うるに手工細技に天稟の妙を有する我が国女工をもってす、あたかも竜に翼を添えるようなもので、もって精巧にこれを生産し、世界の市場に雄飛す、天下にどうしてこれに抗争するの敵があり得るだろうか。しかるに事実がこれと反しているのは、我らの悲しみに堪えざる所なり、ゆえにもし今大資本家によって製品の斉一を計り、かつ姑息な利益をむさぼらずに品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきである。

 我らここに見るあり、さきに女子工芸学校を創立してうら若い年頃の女子を貧窮の中から救い、これに生計の方法を授けて、恒産を得て恒心あらしめ、小にしては一身のはかりごとをなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽させようとする、しかしてことややその緒についたのである。すなわちここに本会を組織し、その製作品の輸出について特別な便利を与えたいと思う。顧みるに我ら学浅く、才拙なり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企てるのは、誠に一片の衷情禁ぜんとして禁ずるあたわざるものあればなり。希わくは世の兄弟姉妹よ、血あり涙あらば、来りてこれを賛助せられんことを。

  明治34年11月3日  設立者謹述

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