見出し画像

松原岩五郎「最暗黒の東京」現代語訳

松原岩五郎が、「国民新聞」に断続的に掲載した東京の下層民・貧民街の記事を整理し、さらに加筆・再構成して明治26年11月に民友社から刊行した『最暗黒の東京』の現代語訳である。

松原岩三郎は、慶応2年に島根県淀江町(現在の米子市)に生まれ、上京して苦学しながら小説家をめざし、明治23年に『好色三人男』を、24年に『かくし妻』『長者鑑』を出版して硯友社系の新進作家として一定の評価を得たものの、大きな成功を収めることはできなかった。明治25年秋にはジャーナリストに転じて徳富蘇峰の国民新聞社に入社し、25年11月から26年8月にかけて5つの異なるタイトルの下に断続的に下層民・貧民街に関するルポルタージュを紙上に連載した。

明治10年代の後半から日本経済は封建制農業社会から資本制工業社会への移行期を迎え、新たな工場労働者が生まれるとともに、所得格差が拡大して東京・大阪などに大きな都市スラムが形成されるなど、大きな社会的変動が生じていた。このことがジャーナリストの関心を集め、下層民や貧民街を扱う記事が多数書かれた。陸羯南が社長をつとめる「日本新聞」には、桜田文吾が貧民街のルポルタージュを明治23、24年に断続的に連載し、さらに明治26年6月にそれらをまとめて『貧天地飢寒窟探検記』として刊行した。このことが「日本新聞」とライバル関係にあった「国民新聞」の松原岩三郎が『最暗黒の東京』を刊行する直接の契機となったと考えられている。桜田文吾が用いた「飢寒窟」「貧天地」という用語を松原も用いているのは一種のオマージュであると考えることができ、桜田の著作から大きな影響を受けたことを自ら明らかにしたものといえるだろう。

『最暗黒の東京』の最大の特徴は、著者の松原岩五郎が新聞記者という身分を隠して東京の三大スラムに入り込み、実際にその世界で様々な仕事を経験するという「潜入ルポルタージュ」の手法を全面的に採用して書かれていることにある。(ただし、後半の主題である人力車夫の世界に入り込むことは、さすがに難しかったのか、こちらは通常の新聞記者としての取材に基づく記述になっている)。『最暗黒の東京』は第2次世界大戦後に名著としての高い評価が確立したとされているが、これは戦後にルポルタージュ文学・ノンフィクション文学が盛んになったことと無関係ではないだろう。今日では『最暗黒の東京』は、我が国におけるルポルタージュ文学・ノンフィクション文学の先駆的な著作と見なされている。

この現代語訳の底本としては『明治名作集』(「新日本古典文学大系 明治編30」、2009年、岩波書店)に収録された「最暗黒の東京(抄)」を用い、中島国彦先生による校注・補注・解説から多くを学びました。本文の校注を現代語訳に利用させていただいたことを明らかにして、深く感謝を表します。また、上記の版には収録されていない章については、全文を収録した2種類の文庫版、すなわち立花雄一による注と解説を収めた岩波文庫版(1988年刊)と編集部による注記と坪内祐三による解説を収めた講談社学術文庫版(2015年刊)があり、それらを参照し現代語訳の参考にしました。特に、講談社学術文庫版は表記の大幅な現代化と改行の見直しが行われており、この点に関しては全体にわたり参考にさせていただきました。以上、ここに記して深く感謝を表します。なお、『最暗黒の東京』の原本には久保田金僊による挿絵が多数収められており、それらは本文の理解に資するものですが、原本を国会図書館デジタルコレクションで見ることができること、さらに岩波文庫版・講談社学術文庫版によっても見ることができることから、ここには掲げないことにしました。

現代語訳「最暗黒の東京」

松原岩五郎 著   上河内岳夫 現代語訳

[序文]

 『国民新聞』紙上で、すでに世間の喝采を博したものから今回抜粋し、さらに新たな材料を得て増加するものがほとんど過半、それをもってこの冊子とする。世間の人が、もし、

 ◎最暗黒の東京とはどんなところか。◎木賃宿の混雑はどのような状態か。◎残飯屋とは何を売るところか。◎貧民クラブは誰によって組織されたのか。◎飢えはあなたたちに、どのようなことを教えるか。◎「寒窟かんくつ」の経済はどうなっているのか。◎あなたはなぜ貧になったか。◎「貧天ひんてん」の融通はどうなっているのか。◎あなたは貧民街の質屋を知っているか。◎子供と猫はどのような時に財産となるか。◎新開町はどの方角にあるか。◎銅貨はなぜ翼を生じるか。◎座食とは何を意味するものか。◎黄金と紙くずはいずれが価値が高いか。◎老いぼれ車夫とはどのような者か。◎生活の戦争とはどのようなものか。◎下層の噴火線とは何か。◎車夫の食物は何か。◎下等飲食店の一番の顧客は誰か。◎飲食店の下女とはどのような者か。◎労働者の事業報告書とはどのようなものか。◎日雇い労働者の人数はどのくらいか。◎妻帯者および独身者の状態はどうか。◎夜店の景況はどうであるか。

 そのほか、競り市はどうなっているのか。朝市はどうなっているのか。文久銭[江戸の銅銭で明治にも小額通貨として流通]での市場はどうなっているか、すべてこれらの疑問を解釈しようと思うならば、来たって「最暗黒の東京」に学べ。彼は貧天地の予審判事であり、飢寒窟の弁護士であり、細民[下層の貧民]を見る顕微鏡であり、また彼は最下層をのぞく望遠鏡である。


最暗黒の東京     

                             乾坤一けんこんいち布衣ふい[松原岩五郎]

 生活は一大疑問である。とうといのは王公から下は物乞いに至るまで、どのようにして金銭を得、どのようにして食料をもとめ、どのように楽しみ、どのように悲しむか。楽は何か、苦は何か、何によって希望をもち、何によって絶望するのか。ここに編集・記録するのは、もっぱら記者である私の最暗黒の生活の体験談で、慈神に見捨てられて貧児となったあした、日光という綿入れを避けて暗黒飢寒きかんの街に入ったゆうべ。彼は暗黒に入り彼は貧児と肩を並べ、その間にいて生命をつなぐこと500日余り、職業を改めること30回、種々のことに目をとめて雑多なものに遭遇した。およそ貧天地の生涯を終わりにして、我が記憶にあるかといささか信じる所を記して世間の仁人じんじん[情け深い立派な人]に訴える所があろうとする。

 某年の某月某日、記者である私は友人数名と会食し、会話がたまたまロンドンの物乞いに及んだ。「彼らが左手に黒パンをつかんで食いつつ、右手に拳を握って富豪を倒そうとする様子は、なんと世界の奇観であることか。イギリスのストライキ、フランスの共産党、あるいはプロイセンやロシアの社会党・虚無党、それらの事件が起こる理由を探ると、必ずそこに甚だしい生活の暗黒がないはずはない」と語りあったのは、みな当代の俊英で、天下の有志家の雛や卵でなければ、これまた世界の大経世家の新芽として将来を期待される者である。その議論はつねに世界の大勢にわたって、おのずから年少で気鋭であるとのそしりを免れなかったが、この議論は記者である私の感慨を引くところが決して少なくなかった。時はまさに豊稔のときで、穀物で実らないものはなかったが、それなのに米価がしきりに高騰して、細民はみな飢えに泣き、方々で餓死の声さえ起こるのに、一方の世界[鹿鳴館を指す]では名目の立たない宴会が昼も夜も開催されて、よろこび楽しむ声が八方で湧き上がり、万歳を唱える声は都の中に満ちている。昨日までは平凡なものと思っていた社会も、ここでは忽然と珍しい技巧の物になり、手を挙げれば雲が湧き、足を投げ出せば波が湧く世界を前に、どうして独り読書や学業に耽ることができようか。すなわち大業は他人には秘密にして、独り自ら暗黒界の光明線であることを決意し、細民生活の真の状況を文章にまとめようと約束して、旅心にむち打って、ぶらりと身を最下層の「飢寒窟きかんくつ」に投じた。

 この行動には、もともと私に一つも元手があるわけでもないし、またもとより一つも声援があるわけでもない。思うに私一個人の学問と知識が、すなわち我が知恵あるいは我が勤労ないし我が健康が、最暗黒の世界においてどのくらい私に福祉を与えるものであるかを見るのは、独り貧民街探検者としての自分を知るだけではなく、学問の修業者であった自分を知る点において大いに利益があるだろうし、かつまた私が貧の状態にいる一時の課業であるにとどまらず、それはまさに我が人生における生涯の生きた試験とならないことはないと期待した。すなわち私は私に1厘の資本を与えず、また一つのよい評判を着せることもなく、いわゆる着のみ着のままの天涯の一漂泊の貧児として、数年間、最暗黒裏の居候いそうろうでいることにしようと決意したのであった。

 天涯漂泊するような一人の貧児が、どのようにして最暗黒裏に寄食していたのか。
 時は[明治25年]9月の下旬で、残暑の炎熱がいまだなお路上の砂塵を容赦なく焼き、馬が蹴り上げる砂、車が跳ね上げる煙、まき水のために立ち上る炎塵で、往来の人は蒸されるようで、ことに労働者は困難で、暑さにあてられる人を往々路上に見る。このような時の挿絵さしえのような光景として常に一群の物乞いが、朝市の店ざらしになった生ウリ・生ナスをかじりながら軒下に立ち、あるいはひと山5厘の腐った桃を恵まれて、わずかに飢えをしのぎつつなおあらゆる掃きだめを探して、すえた飯・腐敗した魚の骨を拾い食いする様は、どれほど彼を慄然りつぜんとさせたことか。とは言え彼も今は貧児の一人である。例えその衣類はいまだ物乞いのように破れておらず、その身はいまだ物乞いのようにけがれていないが、彼の数日間の野宿と数日間の飢渇は著しく彼の人相をやつれさせて、誰の目にもまさしく彼は、貧天地の出身で「物乞いの児も三年たてば云々うんぬん[やはり物乞い]」という運命を持って成長した風情の者以外には思われない。路傍の警察官も彼を一人の立ちん坊[坂下に立って、車を待って後押しをして稼ぐ者]としてとがめる以外にとがめる必要はない。往来の人も彼を一人の物乞いとして憐れむ以外に憐れむ事情を持たない。炎天をしのぐために頭上に麦わら笠を一がいかぶって、煮しめたような着物の二つの袂に腐ったスモモを包んで、忽然と谷中の墓地に現れ、物乞いが群がりあそぶ辺りを立ち食いしつつ行くと、ある者は猜疑の目でにらみ、ある者はうさんくさいという目でとがめるにもかかわらず、すでにそれが同類であることを認識した目つきであることを試験して、彼は大いに満足した。ああ、こうしてこそ私は寄り合いの物乞いの飯を食うことができ、ハンセン病患者の介抱もなすことができるだろう。いざ、速やかに彼らの街に入って、新しい客人とならうと、貧民街探検者であった彼の当時のていたらくは、実にこのようなものであった。彼の野宿、彼の飢渇、ならびに堕落した彼のスモモの立ち食いは、要するに彼が「暗黒大学」に入る大学予備門[現在の大学教養課程に相当]における修業前の一日の課業であった。

1 貧民街の夜景

 日は暮れた。私が暗黒の世界に入るべく足を踏み出す時刻が来た。「さあ、それでは」と貧大学の入門生は、何の職業を持つ者ともつかぬみすぼらしい浮浪のていで、そろそろと上野の山を下ると、早くも眼下に一つの絵画のような光景が現れてきた。これはあたかも蒸気機関車の客車を連結したような棟割長屋むねわりながやで、東西に長く、南北には短く斜めに伸びて縦横に連なり、左側は寺院の墓地に区切られ、右側の一帯は町家に出入りして凸字あるいは凹字の型をしている。この一区域が東京府下15区のうちで最多数の廃屋を集めた例の貧民街で、下谷山伏したややまぶし町から万年まんねん町、神吉かみよし町などを結びつけた最下層の土地[現在の台東区北上野・東上野の一部]として知られている。

 町家を通り抜けて一歩この貧民街に入り込むと、無数の怪人種たちが今まさに大都会の出稼ぎを終えて、ある者はつるはしを担ぎ、ある者は弁当箱を背負い、ある者は汗で塩ばんだ労働のための衣服をまとい、ある者は棒ずれになった土木のための制服を着て、3人ずつ5人ずつ道連れをなして帰るのは、これはちょうど一日の力仕事を18銭の小銅貨カペイカに換えた日雇い人の一類であり、いつもの晩餐の店に急いでいるにちがいない。その後から敷紙しきがみのように日焼けした顔の車力しゃりき[大八車を引く荷物運搬人]の夫婦が、わずか一枚の手ぬぐいで愛児の腹を包み、フクロウにあざけられたような可憐な顔を夕日にさらさせつつ、その寝床に帰る。その後から12、3歳の貧しい少女で、姉と見えるのは三味線を抱え妹も同様に手に扇子を持って編笠をかぶり、稼ぎためたわずかの銭を数えつつもどる。そのあとからよぼよぼとした羅宇らお屋[きせるの竹管の交換屋]の老爺ろうや、あるいは下駄の歯の入れかえ屋の老爺・子供だましのあめ菓子売り・空き瓶買いの女連れ・紙くず拾い・往来の諸商人が帰る。そうしてこの街の特産物である幼稚園的な芸人である越後獅子などは、おのおのその看護者に伴われて、ゆで蟹あるいはトウモロコシのあぶり焼きを食べながら、疲れてほとんど歩くことができない足を引きずってけつまろびつして帰る。

 貧民街の出入りの要所とも言うべき町家の辻には、今荷をいたばかりの夕河岸ゆうがし商人[夕方の魚市場で魚を仕入れた商人]や、戸板にナス・キュウリ・ジャガイモ・芋・コンニャク・レンコンのくずなどを並べて出す八百屋、あるいは塩鮭・干鱈ひだら・スルメ・サバやアジの干物・串柿を売る五十集屋いさばや[乾魚・塩魚店]がある。これに対する漬物屋の店では、ヒネたくあん・漬けナス・ラッキョウ・梅干しをひと山100文で売り、その隣の居酒屋の前は焼鳥・焼きスルメ・焼きトウモロコシと匂いで道をふさぐ。あるいは古下駄を地べたに並べた店・ガラクタ・古着、いずれも貧民街の需用に相応した商品を並べて夕景を賑わしている。なかでも夕河岸の魚屋は最も活発な手腕を振るって、サメ・マグロを割き、ブリ・カツオを料理し、傍らからカニをゆでて出す女がいれば、エビを選びながら盛出すのに忙しい若僧は奇異な数取りの呼び声で叫んでいる。多数の人がみな夕河岸の店に集まってその新鮮な切り身一切れを買おうと思い、あるいはアラを買って帰る人、あるいは刺身を依頼する人、見物する人が四方から群がってきてさながら黒山を築きあげている。

 すべての店頭に油煙が輝き始めた最暗黒の夜景のなんとにぎやかなことか。その居酒屋には多数の労働者が入り浸って飲み、その飯屋には無数の下等客が混み合って食い、その寄席という下等な演芸所は混雑する老若男女の客で満たされ、しきりに演台の余響を戸外に鳴らしつつ客を招くのを見た。貧大学の入門生はこれらの雑響をさえぎって一直線に他の暗黒に踏み入ると、夜景がちょうど尽きようとする所で、一個のすすけた軒の行灯あんどんを見かけた。すなわちこれが木賃宿きちんやどであって下層の人々が雑多に混合する所である。そこで私は、まず我が貧大学課程の第一の課業として今夜この「混合洞窟」に入り込み、貧天地の一部分を代表する各種の人物について、その状態を見届けようと思い、きびすを返してこの家に入った。

2 木賃宿

 木賃宿に入って、まず見るものは、その宿屋になんと種々雑多な者がいるかということである。ああ私をしてしばらく彼らとともに、遠征的行商または遍歴商人わたりあきうど・旅芸人・せん箇寺がじそう[全国の多くの寺院を巡礼する参詣者]・回国巡礼[諸国霊場巡り]などの群れに入れさせてほしい。彼らの生涯はどれほど旅行の珍談奇話によって満たされていることか。彼らは今その小説の第一回を終わって、都会でしばらく休息をとる時なのである。そうであるので、彼ら行商人達が長旅に備えた輜重しちょう[軍が輸送する軍需品]のような各種の道具箱、芸人・軽業師らが曲座を設けるための長柄の傘・天幕およびそのさお、二十四拝にじゅうよはい[親鸞の24人の高弟を開基とする寺院の巡拝者]の負櫃おいびつ、回国巡礼者の笠あるいは錫杖しゃくじょうつえの類い、長旅で疲れてすり切れた足袋・草履ぞうりに至るまでが、たくさん並んで、彼ら宿泊者の混雑を示している。

 まず例によって宿泊料3銭を払い、宿主の命令的な注意に従って履物を紙片で結んで縁の下に投げ込んでおき、案内されて座敷に行くと、そこは3間を開放した座敷で20畳敷きほどの所である。中央の柱に掲げた一個のブリキ箱に入れたランプがこの室内を照らす灯火である。泊り客はすでに5、6人あっておのおのが一隅に割拠し、杉の丸太を5寸ほどに切り落としたものを枕として、それに仰向けに伏している者もあれば、その枕をたばこ盆に代用してきせるをたたく人もあり、また別の一人は例のランプの下で剃刀を持って正座しつつしきりにあごをなでていたが、恐らく室内が混雑するのに先だって今のうちに髭を剃っておこうというのだろう。

 新たな客人である私は、右側の少し暗い所に座をとったが、そこには数多くの積重ねた夜具類があって、あかにまみれた布団の襟から一種一通りではない臭気を放ち、そぞろに木賃的な不潔を思わせたのみならず、私の隣に座った年寄りの男は子供相手の文久銭のあめ売りであるが、その煮しめたような着物から紛々と悪臭をみなぎらせて、首筋または脇の下の辺りをしきりにきさがしつつ、所在ないつれづれに彼の小虫[シラミ]をかみ殺しているのを見て、私はほとんど座っているのに耐えがたく、機会を見ていずれへか場所を変えようと思っているうちに、また4、5人の客がどやどやと入ってきた。見ればみないずれも土工・日雇い的な人物で、半身にじゅばん一枚を引っかけた立ちん坊風の男、あるいは老車夫もあった。続いて帰ってきたのは、旅商売のこうもり傘直しを職とする夫婦連れの者で、4歳ほどの子供を連れていたが、その妻である者は広い世間で木賃宿の経験を積んできた者と見え、万事にすこぶる世慣れて軽快な愛嬌を持ち、入ってくるや室内の数多い人を見て、「まあ、たくさんことおじさんが」とまず一言子供を喜ばせつつ、私の傍らに座を占めて双方に会釈した。私は傍らに座って密かに彼女の容貌を見ると、色は黒くて鼻が低く、唇が厚くてその歯はお歯黒で染めていたが、その顔つきがはなはだ醜であるにも似ずに自然に愛敬を持ち、その天地を家とするていの虚心坦懐さと、人を見てことごとく同胞と見なす慈眼を持って振舞っていた。

 時に傍らに日雇いらしい若者がいて、そのほころびかかったじゅばんの袖を縫い止めようとしていたが、彼女はたちまちそのおぼつかない手振りを見て、そばから奪い取った。冗談のうちに手際よく縫い止めて与えたので、若者はしきりにその親切を喜び感謝した。私はこれを見て密かに、「ああ、彼女はすでに混合洞窟の木賃宿を麗しい家庭としている。万一彼女が誤って牢獄の人となることがあっても、恐らくは彼の囚人らに接しても、なおまた叔父・叔母の情愛を持って親切を尽くす人ではないか」と思った。果たせるかな、彼女の懐に安らかに宿っていた彼女の子供は、手に2つの桃を持ちつつこの数多い人々の一座を喜んで室内を戯れ回り、最後に彼のあめ売りの年老いた男の肩に取りすがってどうかと思われる技芸を習いつつ喜んだのは、何とも私の目で黙って見ていられないほどである。

 そのうちにまた幾人かが帰って来た。宿の主婦あるじが来て床を敷こうと言うので、おのおのが立ち上がって手伝いをしたが、一畳一人の割なのでずいぶん窮屈を感じるだろうと思っていたが、事実はそれをも許さず、一張りの蚊帳かやに10人以上の諸込もろごみなので、どうやって耐えることができるだろうか。蒸されるような空気のうちに労働者の体臭が醸成されて、時々呼吸をふさぐほどであるのに加えてノミの進撃があり、蚊帳は裾から破れているので蚊軍は自由に入れるようである。この境遇にあってもなお、私はシラミをひねりつぶしていたあめ屋のそばに近づかないことを祈っていたが、天命であることか、いつしかすでに伝染したことと見えて膝の辺りが不思議にむずがゆくなったので、指先を入れて探ってみたところ、果たして一匹のしつこく潜む小虫である。彼があかを食らい血を吸い飽きて麦粒のように太っているので、あまりのことに私は手でつぶすこともできなかった。

 ああ、うそだ、うそだ。私は先日このような暗黒界に入るべき準備として数日間の飢えを試験し、幾夜の野宿を修業し、かつことさらに堕落した行為をして、これで彼ら貧民に臆面なく接着できると心密かに期待していたが、実際の世界を見るに及んでたちまち戦慄し、彼の微虫一匹の始末さえできなかったのは、我ながら実に不甲斐ないことであった。ああ、想像は面目ないことにハンセン病を病んだ物乞いの介抱さえできるだろうということであった。けれども実際は困難であり、シラミをひねりつぶす翁の傍らにいることもできないのである。

3 天然の寝床と木賃宿

 「蚊軍、ノミ軍の襲撃」とは平凡な形容にすぎないが、その実際がどれほどうるさい蚊や耐えがたいノミ・シラミのために攻めさいなまれるかになると、私をしてほとんど言語を断絶させる。ただ夜もすがら眠い目をこすりつつ首筋を打ち、脇の下をさすり、背中をなで回し足の裏をかき、左へ座し、右へ転じ、起きて見て寝て見て、あるいは立ち上がり、衣を振るい、精神は朦朧として不快は限りなく、眠ろうと思っても寝付かれず、ごろごろして一夜を明かす。これが実に混合洞窟の実際の状況である。早起きして手を洗って口を注ぎたいと思うが完全な金盥かなだらいはなく、わずかにブリキのさびた物が一個、生温い濁り水を汲んだ手桶とともに便所のそばに出してあったが、私はなお口を注ぐためにこれらの物を使いたいとは思わなかった。表口が開くや否や、まっしぐらに飛び出して新鮮な大気を呼吸し、八方を駆け回ってわずかに掘り井戸を見出し、そこでようやく釣る瓶つるべ[井戸水をくむ桶]で顔を洗った。

 貧民街探検者としての私は、当時どれほど意気地いくじがなかったことか。一見しただけで驚いた貧民街の怪人種であるシラミをひねってかみつぶしたあめ売り翁の傍らを恐れるくらいの臆病者が、どうしてハンセン病を病んだ物乞いの看病ができるだろうか。たった一夜の経験でこりた木賃宿の実際の状況は思わず日頃の野宿を思い起こして、軟らかな草のベッドがしたわしく思えたのも無理はない。けれども鬼のような腕を持ち、鋼のような身体を持って働く彼の日雇い・土工のような者すら3度の食事を省き、着たい衣服を買うことができなくても、毎夜3銭ずつの木賃を払うのはどうしてなのかを考えよ。これは例えそれがノミ・シラミ・蚊・臭気・醸成される体臭・ひどい暑さによって攻められるとは言っても、なおその寝床は彼の柔らかく涼しく美しく豊かな天然の寝床に優る所があるが故である。思うに草の寝床も千夜に一夜の風流としてたまさかの天体現象を楽しむには、この上もない慰みであるが、これを積極的な寝床としては到底論じることができない。風流な寝床としては柔らかい緑の毛氈もうせんも、積極的な寝床としては露に湿ったイラクサの上である。彼の木賃宿において醸成される体臭に蒸されるのは艱難かんなんであるけれども、それは忍ぶことができる。けれども三更さんこう[子の刻(午後11時から午前1時の間)]に、星を友として寂寞せきばくとした大地に身を沈めるのは、長く耐えられることではない。かつまた蚊軍・ノミ軍に襲撃される苦はずいぶん苦であるけれども、野に伏して夜更けにヘビ・カエル・ガマなどに寝床を探られる気味悪さに比べれば、あえて甚だしい苦痛ではないのだろう。

 このことからつくづく思うのは、かつて人間の自適の頂点であると私が心に密かに決めていた昔のひじりの西行が、「独り住む片山里かたやまざとの友なれやー」[ひとり住む片山陰の友なれや嵐に晴るる冬の夜の月]と読み残した一首の名歌、ないしは芭蕉の名月の一句[名月や池をめぐりて夜もすがら]、これはともに古今の名吟・千古の絶唱として絶賛されてきた。嵐が晴れた曙の月を眺めては頭陀ずだぶくろで、「さあ、これからは」と一生涯をひのき笠と1本の竹杖の軽さに任せた夢の世界を楽しんだが、今にしてこれを思うと、ああ、私もまた凡夫に落ちたのであった。片山里の独り住まいも飢えてはさすがに詩も神髄に入ることができない。例え夜もすがら池を巡って名月のあざやかなのを見ても、常に自分の庵がなく自分の寝床がなければ、どのようにして美景の懐に入ることができるだろうか。西行も3日野宿をすればわけもなく木賃宿を慕うだろうし、芭蕉も3晩続けて月を見て明かせば必ずや蚊軍やノミ・シラミの宿をいとわないようになるだろう。

 ああ、木賃なるかな、木賃なるかな。木賃宿は実に彼ら日雇い・土工・立ちん坊のような仕事を初めとして、貧民街の各独身者の仲間が「3日の西行、3夜の芭蕉」を経験して、そうして後に慕って来る最後の安眠所であり、ノミ・シラミはもとよりいとう所ではなく、苦熱・悪臭もまた意に介するに足りない。彼の一畳一人の諸込もろこみ部屋も、5つ6つの破れた蚊帳に10人を追い込む動物のような待遇も、彼らのためには実に貴重な瑶台ようだい[玉で飾った美しい御殿]であって、ここに体を伸ばしここに身を広げて身体の疲労を回復して明日の健康を養い、もって百年の寿命を計るのであれば、破れ布団も錦繍きんしの夜具であり、切り落としの枕も邯鄲かんたんの製作であると知るだろう。[「邯鄲の枕」の故事に基づく表現]。

4 住居および家具

 野宿と木賃宿を比較しての優劣論を心に浮かべつつ私は混合洞窟を出立して、早速この身を入れるべき格好の洞窟を見つけ出そうと種々に苦心して考えたが、なにぶんにも土地不案内であるので、差し当たってこれといった妙案もなかった。まずともかくはこの社会における職業の一通りの様子を見るのが一番便利だろうと堅く心に決めて、街々の裏から裏へと抜け歩き、端から端まで残る所なく一通りの検分をなし遂げたが、ああ、私はこの日図らずも、生来いまだかつて見たことのない数多くの巧緻な「美術品」を見たのである。実に私はこれまでどこの博覧会・どのような勧業場[商品の展示販売所]・製作所でもかつて見たことがない奇なる天然物・妙なる製作品・驚くべき手芸品を見たのである。

 諸君、決して笑わないでほしい。生活は実に神聖であり、貧乏は実に荘重な事実である。いやしくも人間生活上の事実であれば、それが鹿鳴館の仮装舞踏会(ファンシーボウル)であるのと貧民社会の台所騒ぎであるのとに軽重があるべきはずはない。いやむしろ仮装舞踏会に向かってはそれを笑うべき無遠慮も、貧乏な台所に向かっては笑うことが甚だしく残忍な振舞いであると言わざるを得ない。ああ、彼らの家は元来どのようなものなのか。彼らの日用雑器はどのようなものなのか、彼らの衣服や彼らの食物はどのようなものなのか。そうして彼らは元来どのようにして生活しつつあるのか。読者よ、試みに想像せよ。彼らの家、彼らの日用雑器は古来いまだかつてどのような人にも描かれず、またどのような書物にも記載されていないのである。世の中には数多くの博覧会・美術会・共進会[商品の品評会]があるが、彼らの家、彼らの日用雑器の実画は、いまだ描き出されていないのである。世の中には数多くの画工・名匠があって、お姫様の弾琴だんきん・華族の宴会・家禽かきん・山水が数多く描かれるにもかかわらず、絶えて彼らの家具・日用雑器は描かれたことはなく、世の中には数多くの文人作家がいて、才子の入浴・佳人の結婚、あるいは楠正成の忠戦のことなどが仰々しく記載されるにもかかわらず、いまだかつて彼らの生活の実際の状況は記述されたことがないのである。博覧会でも見ることができず、共進会でも見ることができず、画家にも描かれず、小説家にも書かれず、絵にもなく書物にもない一種特別な世界の事物を見たことなので、その事物はことごとく新規なもので、私の見聞は空前に新奇にならざるを得なかった。

 私は実に貧家の事物のために、私の耳目を洗礼(バプテスマ)したのである。ああ、彼らの住家は、実に9尺の板囲いである。そうしてその周囲は実に目も当てられないほど大破に及んだもので、その床は低く柱はわずかに覆ろうとする屋根を支え、畳は縁が切れて隅々がわらをばらした上に身を置いて、家内の数人が団欒をとる。あるいは縄で仏壇をつるし、または古いつづらを清めて神体を安置し、それによって祖神・祖仏を奉祀ほうしする崇敬心を損なっていない。そうして驚くべきはその家財とも呼ぶべき日用雑器であって、土のかまどは大きく崩れ、釜の縁は古瓦のように欠け、膳には縁がなく椀はことごとく剥げたものである。すり鉢の欠けたものがなお火鉢として使われ、土瓶のひびが入ったものもなお油紙を貼って間に合わせる。かつ、その日用の雑器として使用される傘はどのようなものであるか、これはその骨に各種のきれをハギ集めてわずかに開閉されるものである。その履物はどのようなものであろうか、これは実に木片に縄、継ぎ布つぎきれ、竹の皮などをよってわずかに足をつなぐものである。そうしてまた、その夜具・寝床の類いはどうであろうか。これまた実に彼らの生活の欠陥を表す好材料で、神秘な睡眠をとるべき彼の布団は風呂敷、あるいは手拭いの古物、またはこうもり傘から剥いだ傘の布などで覆ってわずかに綿の散乱するのを防ぐという丹精の物である。

 これが、実に彼らの家具および日用雑器である。世間の人はこれを見て、その間に合わせの甚だしいことを笑い、あるいはことさらに彼らが狂言じみた生活に甘んじるものと思い込んで嘲笑する者がないわけではない。けれども思ってみよ、彼らが本来何を苦しんでこのような狂言じみたまねをするものだろうか。彼らは実に生活上やむを得ずに、こうした間に合わせを現すものである。彼らは実に必要に迫られてこの狂言じみた様を描き出すのである。彼らの生活はすべて「欠乏」という文字で代表されているものであることを知らないだろうか。彼らはすでに万事欠乏のうちに生活している。どうしてその欠乏を満たすための「経営」がないだろうか。木片に縄を通して履物とする、これは実に彼の欠乏を満たすための大経営ではないのか。土鍋のひびが入って欠けたものに油紙をして物を煮る。これは実に彼の欠乏を満たすための惨憺たるもくろみではないのか。世間ではミケランジェロ、または左甚五郎匠などが惨憺の意匠で製作した彫刻を見て感動しない者は、美術を知らない者であるとする。けれども貧民の間に合わせの道具を見てその意匠を思わず、単に不器用な狂言道具としてこれを冷笑するのは甚だ残酷なものと言わざるを得ない。なぜならばもともと彼らの見苦しい不器用品は、例えこうもり傘の布を剥がして作った布団・夜着の類いと言っても、一旦必要が迫って製作するというもくろみが惨憺に至ると決して彼の古昔の名匠・大家などが経営した図案に異なることがないからである。

 このように彼らは万事欠乏のうちに生活する。金銭は社会の流通物であるけれども、彼らの社会には金銭なるものがほとんど浸透することはない。精巧な器具・美麗な日用雑器・あらゆる品物は、あたり一面に積まれて人々が自ら取るに任されたほどの有り様であるけれども、彼らのためには鏡の中の花・水中の月であってもとよりこれを取ることはできず、また取ってこれを使用する権利を剥奪されているもののようである。ゆえに彼らは品物を山積みした大都会の中央に住みながらも、なおその身は広漠とした無人の原野にある者のようである。伝え聞く福島中佐[訳注:ドイツ公使館付武官であった福島安正は帰国にあたり、シベリアを単騎横断して世界を驚かせた]がシベリアにて購入した毛皮の靴は、格好が不器用で粗製の甚だしいもので、もしこれを身につけて東京の市中などを歩いたならば直ちに路上の物笑いになるべきほどのものであるが、食物がなく人情のない蒙古の野を跋渉ばっしょうする[いろいろな所を歩き回る]には、これが実に必要な日用雑器で、これによって1万キロメートルの行程を旅行してきた中佐のためには実は一代の珍宝であり、まことに希代の日用雑器として保存されるものであろう。そうであるから彼らの所用に属する欠けた土瓶や割れたすり鉢においても、また同様に食物がなく人情がない砂漠の生活において使用してきて、これによって湯を飲みこれによって粥をすすってきた彼らのためには、実に貴重な日用雑器、尊い家財で決して傍らより見て笑うべき品ではないことを知るのである。

 ついでに言う。金銭で調達することができない人々の器具がどのようなものであるかは、この貧民街を一見して初めて知ることであるが、彼らは火事場において焼けてちぢれた鉄板またはブリキのさびた物を拾い集めてこれで雨漏りがするひさしの天井に補い、あるいは一升樽の鏡[ふた]の抜けたものを拾ってこれを手水鉢に代用し、瓦を集めて手造りの炉を切り、または天竺木綿てんじくもめんなどを包む舶来の布袋を伸ばして畳の上敷きに使いまたこれを夜具に用いるなどは、ずいぶん惨憺の情景である。そうしてここに彼らが真の経営によって作られた物と思われるのは、彼ら下肢障害者が出稼ぎの時に用いる「車輪付き移動台」であって、縁はどぶ板を打ち付けたようなもので底に竹を渡し、前後に心棒を通してそれに松の木を輪切りにした車を着けてコロとなし、さおで地面を押すにしたがってゴロゴロと進んで行くように作ったものである。実にこれは単独生活をしたロビンソン・クルーソーのような製作物で、彼らの砂漠の旅行において欠くことができない要具であり、そうしてその経営は彼の黒塗りの人力車や舶来の自転車などの精巧なものに比べてもなお数十倍の手間を費やしたものであることは明らかである。

5 貧民街の稼業

 貧民街探検記に「裏から裏へ通り抜け、街から街へ入り込んでたまたま行き止まりの所に突き当たると、頭をかいて後もどりするのは、常によんどころない場所に建てられたこの社会の「総後架そうこうか」とか言う共同便所である」という。もっともこの貧民街は以前にちょっと記載しておいたように、一つの荒地に向かって蒸気客車の四輪車を並べたようなもので裏もなければ表もなく、したがって往来として人道の完全な通路はなく、まんじの字あるいはともえの字の形に地面に間をあけて家を建て連ねたものなので、人道の中央点に便所を設けてももとより苦情があるはずもないけれども、ここに居住する人々が家にいてこれを眺めると、まさしく南風が香って来ようとする所、日光・月光が恵みを投げようとする所を遮蔽して常に悪臭を放つ。これはその地代を上げるのに忙しい地主の慈善によってそうならざるを得ないのである。貧民街に来て住む人々は常にこの道理を会得しなくてはならない。

 それから巡ってこの街々で渡世をする者を見ると、まず最も多いのは人力車の車引きで、日雇い・土工の諸職人がその大部分を占め、くず買い・くず拾い・羅宇らお屋・かけ屋[鍋釜の修理屋]・こうもり傘直し・ざる屋・ブリキ屋・塗師屋ぬしや[漆塗り職人]・瀬戸物ツギ・鼻紙きなど、世の中の廃物をつくろって生計を立てる手工人を初めとして、彼の祭文語さいもんかたり・辻講釈つじごうしゃく傀儡にんぎょう使い・のぞきからくりなどの縁日の香具師やし[見世物などの興行をする者]、または幼稚園的芸人である角兵衛獅子の子供を飼って稼がせる親方・日済ひなし[日割り決済]の高利貸・損料屋[物品リース]・縁日の小商人・売卜者ばいぼくしゃ[占い師]・灸点家きゅうてんか・あん摩・巫医ふい[病人の枕元での祈祷師]・看板書き・その他の巡拝修行者としてはせん箇寺がじそう六部ろくぶ[法華経納経のために66の霊場を巡る僧]・巡礼などがある。まともではない商品を商う者としては宮物師みやものし[傷んだ魚類を扱う]や暖簾師のれんし[傷んだ野菜類を扱う]があり、その他にウリ・ナスを売る小八百屋、塩鮭・干物を商う小魚屋、たきぎ屋、小道具屋、および荒物屋を兼ねる焼き芋屋、子供を集めてもんじゃ焼きをする一文菓子の小商店、その他に夜商いの路上商人、古下駄・古着の繕い、内職人としてはマッチの箱張り・楊枝削り・鼻緒縫い・石版色付け・足袋屋仕事・葉たばこ伸ばし・うちわの骨削り・金物磨き・紙くず選り、その他の小稼業になると到底枚挙して尽くすことができない。

 さて見渡すところ数十種の世渡り稼業は、その好みを着けるべき点は決して少なくないが、どうしようもないことに、この裏で稼業する人々のもうけ高となる所は多くても2、30銭には昇らず、少ないと一日わずか5、6銭の手間賃で就業するくらいなので、どうして一人であっても新しい客人を請じて、これにご馳走する[ここでは仕事を分け与える意]余裕があるだろうか。むしろ彼の土工・日雇い・米つきの部屋、または軽業師・見世物師などの部屋で、多人数が寄り集まって健全な労働をもって設立された組合があれば、直ちにはせ参じて新食客になろうと決意したのであるが、この街ではさらにこのような部屋的組織の完全なものがなかったので、私が身を投じて研究すべき貧大学の第一課程は必然的に他の貧民街で取なくてはならないことを見極めたので、貧天地の最後の探検はこれを第3学期の課業に譲ってひとまずここを立ち去ったのである。

6 日雇いの周旋

 下谷を去って浅草に行き、阿部川町のある土工部屋を訪ねて私は一応の申込みをしたが、人員が一杯であるという理由で謝絶された。それから花川戸という所の同業の部屋頭を訪ねて行ったが、これまた申込みが多人数であるとの理由で交渉はならなかった。そこを去って馬道6丁目に住む人請ひとうけ[仕事の紹介業]の某という親分株の所へ行き、軽業師の仲間か、あるいは他の香具師などの仲間に加わってひと稼ぎをしたいというよしを申し込んだが、これもまた早速の運びには至らずに終わってしまった。それなのにこのうちにふと仲間同士の渡り合いの事柄について、二つ三つ聞き知ることがあったので、心にわかに発明したように彼の英語の初学者が辞書にすがってJ・S・ミルの『代議政体論』[『代議制統治論』]などをたどり読む心で、どのような大暗黒裏、大怪窟かいくつにもちゅうちょなく身を投じて、十分な研究をなすべきことを決意したのである。

 それなのに思いがけないことに、この近傍において東京一と言うよりは恐らくは日本一の最暗黒の怪窟として、士君子[学問があり徳行の高い人]の口にはその名称を唱えることをはばかられた旧世界の遺跡[吉原遊郭]があって、そうしてその怪窟と言えば、およそ世の中のありとあらゆる悪心の結晶体・生活の犠牲・魔物の標本・誘惑の神・肉欲の奴隷などが心中の闘争をもって活動する混合洞窟であって、東京中の秘密と言うよりはむしろ日本国、恐らくは世界中の秘密が集まってきて爆裂する最後の大戦場とも言うべき所で、誘惑の神や悪魔の変形などが活発な技量を振るう所であるとは、どうして推測することができただろうか。そうであるからわずかな間この怪窟の裏面に立ち入って、錦が飾られた裏の雑巾ぞうきん的な文様を見るならば、およそ世間にあふれている人情の僻所・局所・痛所・療所がはっきりと私たちの眼底に映じてくるべくして、人間生活の側面しかも最も錯雑とした人間生活の側面、もしくは美の装飾を剥がした世話心中の狂態は、日常の茶話として喫飯・喫煙の間に感じとることができるような所であって、いながらにして世相の秘密を知るべき大機関的な洞窟が眼前の数尺の所にあろうとは、どうして推測することができただろうか。私はこれを聞いて踊り勇んで一切の計画をうち捨てて直ちにこの魔窟に向かって身を投じようと決心したのであった。けれども運命の手綱は勇み立つ駒の手綱を引き止めたのである。私は顧みた、「ああ、私はいまだ人に仕えることができない。どうして鬼神に仕えることができるだろうか。いまだ貧民街の単純なことも探ることができない。どうして魔窟の錯綜することをよく探ることができる技量があるだろうか」と。そぞろに身のほどを観念してここを立ち去った。

 行けよ、飢寒窟、見渡す限りボロの世界に。私は浅草からまた下谷に戻り、上野山崎町から、根津宮下町・小石川柳町・伝通院裏・牛込赤城下・市ヶ谷長延寺谷町など大都会の周囲を縁取った各小貧民街の裏から裏へとさまよって、ついに山の手の第一等の貧民街と評判の四ツ谷鮫ヶ橋[後の若葉町]と言う所に来た。鮫ヶ橋に入って、私はあらかじめ聞き及んでいた親方株の清水屋弥兵衛という人を訪ねた。弥兵衛氏は田舎出の土工あがりの人物で、やや度量が広く情け深いところがあることから貧乏人の信頼を得て、その人の言葉は貧民街の中で多少の威厳を持って聞かれることになった。一面識もないにもかかわらず私が一人の労働者として生計を立てることについて相談すると、「人間は遊んでいては食べていける者ではない」「元気な男が骨を惜しむということがあってはならない」という老農夫のような金言を実践躬行きゅうこうする彼の口からものを言わせて、ついに私を近所の残飯屋に周旋してくれた。

 ああ、残飯屋。残飯とはどのようなものだろうか。これは大きな厨房の残り物である。諸君は、試みに貧民を形容するとき、はじめどんな言葉が適当であると考えるだろうか。「飢寒」「ボロ」「廃屋」「喪貌そうぼう」[みすぼらしい姿]。けれども私は、「残飯」または「残菜ざんさい」[残り物のおかず]という二つの文字が、最も痛快で最も適切であると思わずにはおれない。そうして今、私はこの貧民を形容するのに適当な「残飯」もしくは「残菜」を内容とした残飯屋を目前に控えて、私は行くまいと思ってもできず、私はとんで行った。

 まず見る貧民街の残飯屋の光景は、西から入ると貧民街の入口で少し引っ込んだ家であった。やや広い表側の空き地には5、6枚のむしろを敷いて残飯のすえたものをこうじのように日に干したものがあったが、これは一時に売り切れなかった飯の残りを干しほしいいにして後日に売るためのものであろうか。彼らのためにはすなわちこれが彼の恐慌への備蓄的なものであろうと想像された。家は傾斜してほとんど転覆しようとするほどだが突っかえ棒をしてこれを支え、軒は古く朽ちて屋根一面に苔が生えひさしは腐ってまばらに抜けた所から、出入りする人々の襟に土塊つちくれが落ちないかと危ぶむほどの家であった。室内は田舎の住居のようで座敷よりも庭が広く、ほとんど家全体の3分の2を占める場所に数多くの土取りざる・半切り桶[すし桶]・醤油樽・粗大な壺や瓶・その他に残飯や残菜を入れるのに適当な器具が、ことごとく不潔で整列されずに並べられているのを見た。それなのに思いがけないことに、この不潔な廃屋こそが、実に私が貧民生活のあらゆる境遇を実見して飢寒窟の消息を感じることができた無類の(材料収集に都合がよい)大博物館になるだろうとは、どうして推測することができただろうか。

 ついでに言う。一面識もない私は、弥兵衛氏の尽力によって他の労働的な客人になることができたが、その妻である者もまた田舎にいるような朴訥な人で赤ん坊を背負いながら私を残飯屋に案内する途中で、「いったいこのような仕事がつとまるかどうか。とにかく2、3日は辛抱してほしい」と言い、その雇主に紹介するときに「なにぶん素人しろうとなのでよろしく」と私を子分のようにおさえて依頼した。それから2、3日たって様子を見に来たときに「どうですか骨が折れませんか。もし辛かったら代わりの人を差し向けますよ」といろいろと親切にいたわってくれたが、そのたびごとに私は彼女の情け深い心根をくみとったのである。

7 残飯屋

 弥兵衛氏の周旋でその日から私は残飯屋の下男になり、毎日、朝は8時、昼は12時半、夕方は同じく午後の8時ごろから大八車に鉄砲ざると呼ぶ直径が一尺余りの大ざる、にない桶、または半切り桶、醤油樽などを積んで、相棒の二人とともに陸軍士官学校[現在防衛省がある市ヶ谷に所在]の裏門から入って、3度の常食の余り物を仕入れて帰ることになったが、何と言っても元来箸より他に重い物を持ったことのない身が、にわかにこのような力仕事の仲間に入ったことなので、その労苦は実に容易なことではなかった。力は無理をして出すことができるが、労働の呼吸に不案内であることからたびたび子供のような失策を重ねて主人の不機嫌を買うことが一方ではなかった。けれどもこれもまた貧大学の前期課程であるので、ここの我慢が肝要であるとじっと辛抱するうちに、日ならずしてその呼吸も覚えて、後には最寄りの怪人種などから「番頭、番頭」と尊称されるようになった。

 ところで、この「残飯」は貧民の間にあってすこぶる関係が深く、彼らはこれを「兵隊飯」と呼んで古くから鎮台営所[陸軍兵営、市ヶ谷に所在]の残り飯を意味するものであるが、この店で売りさばくのはその士官学校から出る物でひとざる(飯量がおよそ15貫目)を50銭で引き取り、これを1貫目がおよそ6銭くらいで売る。もっともこれに付属する残菜ざんさい[残り物のおかず]はその役得として無料で払い下げるものであるが、何はさておき学校の生徒を初め教官をふくめての人数で1000人余りを賄う大きな厨房の残り物であるので、ある時は彼の鉄砲ざるに3本から5、6本くらいは出ることがあって、汁とおかずはこれに準じ、たくあん漬の切れ端から食パンのくず、ないしは魚のアラ、焦げ飯など、みなそれぞれの器にまとめて荷造りすると、ほとんどこれは一小隊の輜重しちょう[輸送・補給用の軍需品]ほどもあって、毎日の3度の運搬は実に私たち3人が苦労する所であった。

 そうして、この残り物を買うのはどのような者かと見渡すと、みなその界隈の貧民街の人々で、これを珍重することは実に[中国の八珍味の]ゆうしょう鳳髄ほうずいもただならずと言うことができて、私たちが荷車を引いて往来を通ると、彼らは実に天子の乗り物を拝するように、老若男女の貧民らがみな手に手にざる・面桶めんつう[曲げ物の食器]・重箱・おひつ・小桶あるいは丼・岡持ちなどといった手頃な食器を用意しつつ道の両側で待ちもうけていて「今帰ってきた」「今日はたくさんあるようだ」「早く行かなくては」などと、めいめいがささやきながら荷車の後を追ってくるかと思えば、店頭では黒山のように待ち構えて、車の影を見ると等しくさざめき立って、さながら福島中佐[シベリアを単騎横断した軍人]の歓迎ともいうようにさっと道を開いて通すや否や、我先にとざる・岡持ちを差し出して「2銭下さい」「3銭おくれ」「これに1貫目」「ここへも500匁」と肩越しに面桶めんつうを出し、脇の下から銭を投げる様は、何に例えることができるだろうか。大根だいこん河岸がし[京橋の青果市場]や魚河岸[日本橋の魚市場]の朝市に似て、その混雑はなお一層奇態な光景を呈していた。そのおかずといい、漬物といい、煮しめやたくあんなどは、みな手づかみで売り、汁はどぶろくのように桶から汲んで与え、飯ははかりに掛けるのだけれど、もし面倒な時はおのおのの目分量と手加減ですます。

 飯の余りやおかずの残りは、元来の払い下げの節においては普通一般には施し与えるような物品であるけれども、いったんここに引き取って売りさばけば、またこれもひとかどの商品である。あるいは「虎の皮」「土竈へっつい」「アライ」「株切」などと残り物の上に種々の異名をつけて賞味するのはなかなかにおかしい。「株切」とは漬物の異名であって菜漬・たくあん漬のようなもの、またはキュウリやナスのようにヘタもしくは株の着いた頭尾の切れ端をいい、「アライ」とは釜底の洗い流しであって飯のあざれたものを意味するもので、「土竈」とはパンの切れ端であって、これはその中身をえぐった食パンがさながらかまどのような形をしていることから、このように異名をつけたものという。さて「虎の皮」とは何だろうか。これは怪人種らの諧謔かいぎゃくで実に焦げ飯の異名としたものである。巨大な釜で炊く飯はどうしても多少は焦げ案配に炊かないと上出来とはならないことから、釜の底にすえられた飯が一面に付着して、さながら虎やヒョウの皮か何かのようにまだらに焦げているので、このように名づけたものであろう。さて、例え「虎の皮」にせよ、「土竈」にせよ、すでに残飯であれば、これは貧民街の貴い商品であって怪人種らが争って買い求める所である。

 世の中で「桂をき、玉をかしぐ」[『戦国策』]というのは、富豪者の奢侈を意味することであるが、実際にこれをなす者は富豪者ではなく、かえって貧民でしかも極貧・飢寒の境にある者こそが、真に玉を炊ぎ、桂を焚く者である。試みに、彼の貧民たちがいつも決まって買う1銭2銭ずつの炭・たきぎ・漬物がどれほど高値であるかを、そうしてまた彼らの5合7合ずつの米や挽き割り麦がどれほど少量であるかを見よ。10人20人を賄う大きな厨房の経済には平常は米・薪の徳用買いということがあるので、実際は玉や桂のような材料も会計上は薪炭しんたんの値段となるのである。これに反して貧民の台所では毎日の材料を一銭的な小買いによって用立てるので、普通の薪炭も計算上では実に珠玉の価格となるのを免れない。銭が稀である貧民街の人が、どうしてこの珠玉を炊いて生活できるだろうか。残飯や残菜は実にこの一銭的な台所の惨状を救う慈悲の神とも言うべきものである。彼ら5人の家族で飯を2貫目、残菜を2銭と漬物を1銭、総計で14、5銭くらいで一日の食料は十分になるのである。もし強いて一銭的な材料によってこれを満たそうとすると彼らは日に30銭を費やさざるを得ない。こういうわけで残飯屋の繁昌は、常に最下層の生活談における典型的な光景の一つに数えられるのであった。

8 貧民と食物

 越後屋[三井呉服店]または大丸屋[大丸呉服店]のめしき男が、たきぎを焚くのに少し注意することによって、どれほど多くの薪をそこで余らせることができるのか。小説として書かれた越後伝吉[もとは講談の登場人物]その人が、厨房が散らかっていることが長く災いとなっていた吉原遊郭の一つの大店おおみせの飯炊き男として勤務するため新契約を結んだ日の後のことである。彼が薪を焚くことの親切と漬物を切ることの器用と、およびわずかな砂糖、わずかなかつお節を倹約し、醤油の残り物、味噌のたまり、もしくは焦げた飯の一塊を始末することによって、どれほど多くの費用を省いて、そうしてそれが3年積もって、どれほど多くの資本を作りだしたかという一事は、私たちを常に珍しい話に入らせるための特別の題目であり、そのことは芝居もしくは講談によって証拠立てられる。

 けれどもこれは決して特別の題目ではない。都会の下層に住んで常に厨房を神聖にするように注意を持つ人は、越後伝吉その人よりも、より多く倹約になおより多く器用であるようで、それが事実である。とは言え彼が倹約によって養われた質朴の心をもって、直ちに奢侈の問屋を料理するべく走った時には、極端な相互の習慣から闘争を生じるはずで、それがどれほど奇異な見ものであったことか。

 事実は常に極端なものを結びつけることによって珍しくなるものである。そうして私の境遇は平凡なものを結びつけることにおいて、またこの越後伝吉であった。私は、私がまだ残飯屋に入らない以前においては、焦げた飯や魚のアラがどのくらい価値があるかを疑っただけではなく、漬物の残りは常にこれを廃棄すべきものと思っていたが、特別な人々の生活を見るにしたがって、食物が貴重とすべきものであることを覚らされ、彼らが飢えによってどうしようもない時には、粉になったパンや枯れたネギの葉もなお立派な商品として通用することを見た。

 貧民の群れが、どれほど残飯を喜んだことか。そうして、これを運搬する私がどれほど彼らに歓迎されたことか。私は常にこの歓迎に報いるべく、あらゆる手段をめぐらせて厨房を探し、なるべく多くの残り物を運んで彼らに分配しようと努めた。けれどもまたある朝、そこ(士官学校の厨房)に運搬すべき残り物が何もなかった時は、哀しかった。けれどもまたある夕べ、そこに飯およびおかずの余された新しい残り物が3両の荷車に余るほど積まれた時には、うれしかった。そうして私はいつもこれらの潤沢を表す時にこれを「豊年」と呼び、いつもこれらの払底を表す時に私は「飢饉」と呼んで、食物を渇望した彼らに向かって前触れをしていたのである。

 ある朝、――それは3日間1ポンドの飯をも運ぶことができなかった、それほど哀れな飢饉がうち続いたある朝であるが――、厨房を探して運ぶべき何物もなかった時に、私はどれほど貧民の嘆きを見せられるのかと、大きな失望をもって立った。けれども私は空しくは帰らなかった。私はわずかの食料を争うように、賄い方まかないかたに向かって「貧民を飢えさせない部屋頭閣下、今日に限って願わくはあのパンのくずでも」と嘆願を始めた。その時に彼は「もしもお前がそれほどに請うならば、そこに豚の食うべき餡殻あんがらと畑を肥やすのに適当なジャガイモのくずが、後刻に来るゴミ屋を待っている」と言う。私がそれを見た時に、それはいも類で作られたあんのやや腐敗して酸味を帯びたものと、洗った釜底の飯と絞った味噌汁のかすであった。例えこれが人に食わせるべき物ではないとは言え、数日間の飢えにはこれが多少の饗応となるだろうから、注意をもってそこにあったすべてを運び去った。

 こうして私が帰った時に飢えた人々は非常な喜びを持って迎え、「飢饉」と私が一言前触れをした時に彼らの顔色がみな失望に包まれた。「おお、どうしたことだ。おびただしい食物がそこにあるではないか」と荷車を見て一人が叫んだ時に、店の主人が珍しいものを探るような目を注いだ。「飯ならば早く分配せよ、私たちはただおかずだけでよい」と催促が始まった時に、荷は解かれ、そうしてそこに並べられた。人々は彼らの3日間の飢饉から、そこにどのような豊年のごちそうが湧いたかを疑うようにのぞいた。腐ったあんを名づけるつもりで私がこれを「キントン」と呼んだ時に、店の主人がどれほど高価な珍菜ちんさいであるかを聞きただし、そうしてそれが一椀5厘で売られた。味噌の糟がなお多くの需用者を持った。すえた飯が売れて足りなかった。 

 ああ、どれほどこれが話題にすべき奇態な事実であったことか。私は、内心において、残飯を売ることは確かに人命救助の一つであり得て、自分は小さな慈善家であると思っていた。それなのに、これが時としては腐った飯やすえた味噌、すなわち豚の食物および畑の食物をもって銭を取るというおう[裁判官がその情理に基づいて処罰を決める罪]を犯す余儀のない場合に陥らせた。もしもあなたたちが世界に向かって大きく眼を開くならば、彼の貧民救済を唱えて音楽を鳴らす人、または慈恵を名目として旗を立てる尊い人々らが常に道徳を語りまた慈善をなすこと、それが必ずしも道徳・慈善ではないことを見るであろう。

9 貧民クラブ

 文学者と交われば文学者の話を聞き、政治家と交われば政治家の話を聞くのと同様に、貧民と交わればまた話を聞くのは貧民の話である。人はおのおのがみなともに、その社会における秘密を語り合う者であり、もし語り合わなければ飽きることがない者である。世の中の何々文学クラブや何々政党クラブ、または何某なにがし集会所や何某会合所といった場所に、その社会の人々の名誉談や失敗談はもちろん、その他に奇話・珍説・一切の秘密、すなわち新聞の雑報的な瑣事が漏洩ろうえいして来て方々から集まるように、貧民の集会所においてもまた同様に貧民に関する一切の秘事が日ごとに潮流のように流れて来て、彼らの社会における新聞紙の第三面[社会面]を埋め尽くすものである。私がいる残飯屋は、あたかも彼の人たちの社交クラブとも言うべきもので、下男の境遇にあった私は、すなわちここの書記役であったのである。

 どれほど貧民クラブが、多数のクラブ員をもって賑わったことか。彼らのめいめいが一個の面桶めんつう、一個のざる、あるいは小桶、あるいは味噌こしを手に手に携えて、クラブの庭にしゃがみ、あるいは腰掛け、あるいは立ちながら若干の時間を待ち受ける間において、おのおのがその平常の体験談を材料として例の談話会を催すのであった。

どれほど彼らが談話の材料に富んでいるか、試みに私にその2、3種を編纂させよ。

・運動会の余慶 ――― かつて青山の練兵所[現、明治神宮外苑]において、某法律学校の春季大運動会が催された時に、まかない人から弁当として生徒一人につき一個ずつの折り詰めが割り当てられたが、多くの学生の中にはこれを食べる者が少なく、1200人前の弁当を配り合わせてかれこれ3、400個も残したので、その幹事である人は心得ていて、早速その最寄りで見物していた一人の貧しい家の子供を招いて、「さて、今日の恩恵として君たちにこの土産をあげることにする。どれほど多くの仲間を集めて来られるか」と言ったので、貧しい家の子供は大いに走ってげきを伝え、「原でお弔いがある。みなの衆行かないか」と触れ回ったところ、たちまち集まった者が100人余りであった。この日のように施しに福があったことは、かつてなかった。はうような子供の手にも一つずつの所得があって一家5人の一日の食膳を儲け、近年珍しい施餓鬼せがき[餓鬼世界で飢餓に苦しむ亡者に食物を供えて弔う法会]であったとして、その慎ましやかなご馳走を喜び合った。他の貧民街の人々がまたこれを聞き伝えて遅ればせに駆けつけたところ、練兵場の中央に山のように弁当がらが積み重なっているのを見出して、その中から飯の残ったものを拾い出して持ち帰ったが、これまたひとかどの所得であった。最後に5、6人の物乞いが、どこからともなくこのことを嗅ぎつけて来て、残り物を掘り返す傍らから食い尽くし、ついには蟻の所得も残さなかったということである。ああ、ちょっとした学校の運動会でこのようであれば、もしあれが戦争ででもあったならば、どれほどこの人々が潤ったことだろうかと語らい合った。

施与せよまい――― 某という頭取から府下の貧民一同へ、「玄米50石を施与するので、貧窮者一同は誘い合わせて、高輪泉岳寺に集まるべし。ただし一人につき米5合ずつの事。〇年〇月〇日、行事主催者」と、方々の辻に掲示した。「なんと玄米5合の施しとは。早速に行ってこの賜物をもらわないか」「5合と言えば少ないけれど、家内3人の一日の食事として時の急場を救うには十分だ」と、遥かな泉岳寺まで歩数をものともしないで行くと、どうして推測することができようか、今日は切符の施しで、現物の米の受け渡しは明日のことであろうとは。ああ、何と施主たる者の「貧民」を知らないことの甚だしいことか。貧民は決して明日の我慢がある者ではない。もし貧民にして明日の我慢があるほどの余裕があれば、どうして初めから貧民をもって甘んじるだろうか。貧民は実に今日今夜の忍耐もできないほどに、せわしなくかつ苦しいものである。貧民救助として単に物を与えることの主眼が、実にこの苦しくせわしない場合を救いとることが肝要であるとするならば、その取り扱いは極めて直接であり、与える物はなるべくすぐ使う物でなければならない。すなわち衣類よりは食物、米よりは飯であり、施主の手が貧民の手に触れるほどに直接にしなければならない。それゆえ、それをもらう者においてもそれがすぐ使うものであることを喜んで、遥かな道を遠いともしないで、2里3里をいとわずに走ってそこに赴き、それでその日の危急をふさぐのである。それなのにこれを切符にして明日を待たせるようなことは、轍魚てつぎょ[わだちの中の魚]の苦しみを知らないものであって、せっかくの救米を無益にしたものであった。「切符や手形は物品の為替券で、すでに世間の余裕がある者が利用するところである。それなのにこれを今日のお救い米に使用するとは、施主は知らずに貧民を余裕のある者と見たのだろうか」と語る者があったが、実にもっともなことと聞こえた。

 昔はお救い米と称して、広い庭に俵を積み出し、難渋している人がうのに任せて、いやしくも袋の口を空にして来る者には、誰彼の差別なく施し与えたものであるが、こうすると貧民の狡猾な者がしばしば姿を変えて空袋の取り次ぎをする者があることを予期しないので、得る者が過分に得て一人一升の主眼が満遍なく行き渡らないことを危ぶんで、このように[切符の事前配布の]規則を立てたものであろうか。いやしくも施主として万民の上に立とうと思うならば、ぜひともその心眼を寛大にすべきである。例えその中に狡猾な者があって、人の3人前もしくは5人前をむさぼり取る者があるとしても、これは決して驚くに及ばない。いやしくも貧民として彼が生存する限りは、到底彼一人の身をもって数人前の分配を占領するというけちなことは許されない。必ずやその日随一の働き者として周囲の称賛を博するとともに、そのむさぼり得た物品は、直ちに近隣の人々に向かって散じて、満遍なくその土地の潤いとなるのを見るのは、ほとんど共産主義に類似したことがこの社会で行われているがゆえである。このことを考えずに眼前に窮屈な法を設けるとは、施主である者は炊煙すいえん的組織[食物を分け合う世帯的な組織]をどのように見たのか分からない、云々。

 これらの例は毎日の新聞雑報[社会面の記事]のネタとして、私がクラブの談話を筆記したものに過ぎない。そうしてここで私が一段と奇異な事実として感じたのは、往年私が慶応義塾の末席にあって修業中に、当時のお坊ちゃん育ちの間に「まかない退治」[学校の寄宿舎や下宿屋で、献立の不満などから寄宿生が団結して、炊事室の器物をこわすなどの騒ぎを起こすこと]ということが流行したが、一度その徒党に加わって非常な乱暴を働き、広い食堂であたかも一揆が起こったように、おひつ・皿・膳・茶碗の区別なく、手当たり次第にうち捨てたことがあった。その狼藉は、後になお記憶して忘れることができなかったが、これが図らずも貧民社会の潤いとなったことを、数年の歳月を経て、今この貧民クラブにおいて聞こうとは、思いもよらないことであった。そうしてまた彼らの中で老齢の者の記憶には精密な残飯の歴史があって、これが時々貧民叢話の傍証としていつも引用されるのを見た。それによると、20年前、東京の開き初め、すなわち鎮台屋敷というものが置かれた当時には、さすがに江戸の気性を受け継いだ貧民は、「兵隊飯」などは食うものではないとしていて、賄い方[食事の用意をする人]は常にその始末に困って、時にはわざわざ舟を漕いで品川の海にうち捨てたことさえあったのに、今はそれさえ銭によって買うことが容易ではなくなったのは、全く世の中が逼迫している証拠であろう。あるいは狡猾な商人たちが、厨房に出入りして残り物の競り買いをしたり、または卑しくけちな賄い方が彼らと通じて利益を図ることがあり、貧民にますます値段の高い食物を食べさせるようになった。たしかに商人がない場合には惜しいことに食物を海中に投じるという不始末があるかわりに、常に貧民が無料の食物を食べることができるが、すでに商人という者がその間に入って有無を通じるようになると、もったいなくも天産物をむだに消耗するということはなくなるが、この貧民は常に飢えざるを得ない。ああ、恐るべきことかな経済原理、翼がなくして飛び足がなくして探り、ついにこの暗黒界にもぐり込んで、この残飯である物乞いの飯の間を周旋するに至るとは。要するに貧民クラブの雑報ネタを、もし世間にダントンやマラー[フランス革命のジャコバン派の指導者]のような人がいて、他日に「貧民新聞」を発行する計画があるとすれば、私は差詰めその編集長としてこの材料を収集するだろう。おかしく、滑稽なことだ。

 こうして私は残飯屋にとどまること数日、半身は貧民クラブの書記となって彼らの生活の実地報告を編纂し、またもうひとつの半身は飯炊き男の越後伝吉となって焦げた飯や古くなったたくあんを案配して、彼らの緊急に向かって供給することに努めたが、さて太平の世の中ではほとんど無用な我が身も、ここに至ってすこぶる有用な人になり、一日も欠くことができない店の監督役として処遇された。けれども本来これは、一つの世界探検船である。同じ港に長く碇泊するのは広い世界を観察する道ではないと、ほどなくここに錨を引き揚げ、一週間の給料25銭と恵んでもらった下駄げた1足を航海の費用として、ここを出帆し、また例の労働者の宿所である弥兵衛氏の宅を埠頭として、ここでしばらく出発すべき航路の羅針盤を取り調べた。

 世界中の出稼ぎ人が集まるサンフランシスコの港とも言うべきこの労働者の宿泊所においては、あたかも彼らの希望にカリフォルニアの金鉱があるかのようである。いずれも越中・越後・加賀・越前など多くは北陸地方出身の屈強な働き人であって、あるいは永田町の官邸へ馬丁として住み込もうと希望する人、あるいは遊女屋・料理屋・呉服店・酒問屋などの大店おおだな[大型店]で飯炊き人として働こうと望む人、あるいは湯屋の水くみ・そば屋の出前持ち・または米つき・酒造男と職業が何であるかを問わず高い給料を望む人々がいて、新しい希望をもってどれほど東京が他県に比べて銭もうけがあるかを語る。また一方ではあたかもパナマ運河の開削事業が中途で廃業したかのように[訳注:実際は中断で後に完成]、出稼ぎ3年の間に必死となって働いて貯めた金をいずれかの開削事業へ投じて無一銭となって後悔する人々、あるいは東京も予想したほどの金もうけはない所なので、これから北海道に向けて出立しようと思う人々、札幌の大火[明治25年4月]で動産を失って流れ流れてまたこの大都会[東京]へ糊口の道を尋ねてきた人、あるいは真に越後伝吉の衣鉢いはつを継いで呉服屋へ3年、酒屋へ7年と江戸的な奉公の風をもって給金を貯め込み、毎年30両ずつを国元へ送金する辛抱人といった一類の人がいる。彼らはほとんど眼に一つの文字もなく[字が読めず]、また心に一つの偽計もない純朴な連中であり、故郷に通信しようとする時は2銭あるいは2銭5厘の書き賃を払って文言を依頼し、木綿の四巾よはば風呂敷に柳行李を包んで、その中に衣類や足袋などを収めて防備を堅固にして、一枚のはしらごよみ、あるいは荒神こうじんごよみとか称して、「彼岸」「八十八夜」「土用」「盆」「二百十日」などの厄日やくびが象形文字で描き出された「田植えのアルマナック」[農事暦]とも言うべき一種の暦、あるいは氏神鎮守の「守札」または善光寺如来の「御符」のようなものを携帯して、5年ないし7年間に稼ぎ出した金がどれだけの金額に上り、またはその金によって何反歩の田地を購入できるかを目的として労働する人々であったが、十中八九は大抵その目的を遂げる者であった。

 戦争では炊き出し方となり、軍旅では運送方となり、田舎では耕作の人であり、都会では厨房の人であり、どのような場合でも常に人生生活の下段で働く彼らの覚悟がどれほど健全で、その平常はどれほど安楽であることか。彼らは身を働かせることのほかには希望を抱かず、労賃を求めるほかには多くをむさぼらず、青々とした故郷の山々や豊かに実った田間の沃野を最後の楽園として思うことのほかには、何ものをも見ることがない。彼らの生涯には一つの小説もなく一つの伝奇もないけれども、彼らの朝夕には摩滅することのない一つのバイブルというものがある。どれほど彼らの血液が清潔なことか。ああ、私をしてもしもこの不治の疾病(学問をしたという一つの不治の疾病)がなかったとすれば、直ちに進んで彼らの群れに入ることができたはずなのに。しかしそれはとにかく、私は今年100人の政治家がいて社会の上層で働くよりも、むしろこの種の人物が一人いて世の中の下層で静かに仕事をすることのほうを喜んだのであった。

 滞在した数日の間に、私は彼らの書簡をしたためる代書人となり、その信書を読み聞かす翻訳人となって過分の尊敬を博し、他方で彼らの行状を観察して大いに得るところがあったが、さてこれからどちらの方角に向かって出帆するか、面白い事実を探求しようと思うと、常に多くの人数・人種が集まる方面に向けて舵を取らなければならない。世界周遊を目的として東洋の事情を見ようと思えば、必ずまず香港・上海・神戸・横浜へ行かなくてはならない。ニュージーランドの名もない港やカムチャッカの寂しい岸辺へ船を着けたとして、どうして混合する人々の顔つきを描くことができるだろうか。遊廓や市場いちばが最後の課題か、安宿や土工部屋は格好の場面ではないのか、芸人仲間・職工組合もまた久しく不問に付して置くべきではないと、独りおのずから比較するうちに、桂庵けいあん[口入れ屋]の神が、意外な所から手を下して、当分私の身を引き受けようと申し込んできた。私は驚いて、それがどのような所であるかを問い合わせると、近所で八百屋を業とする店で一人の買出し人が最近逃亡して甚だ不自由を感じているので、その後釜として早速雇い入れたいとの事実であった。

10 新網町

 東海道からすると旧江戸の入口で芝浦の海浜に近く、四ツ谷・下谷の両貧民街と相対して、正三角形の最後の起点となる所に一つの区域[新網町、現在は港区浜松町の一部]がある。ここもまた窮民の住居で、廃屋が500余り集まり、狭さ汚らしさの甚だしいことになると、おそらく東京都下の6貧民街[訳注:この表現は一般的ではなく、どこを指すかは明らかではない]の中でその第一に位するもので、たまたまその貧しい状況を目撃してそれを形容する人が、「彼らは自ら、ここが日本一の貧乏人の寄り集まる園であると自己を認識している」と書いている。

 家は客車のような長屋であるが、順序よく配列して比較的に清潔であるのは鮫ケ橋である。町は退廃して混雑を極めるが、各戸は平穏で比較的ボロを表さないのは下谷万年町である。けれども彼らが自認して日本一のゴミ捨て場であると認めたこの地の境遇は、あらゆる不潔をもってあらゆる混雑を料理し、泥水が至る所あふれてくさったネズミが日光に暴露され、便所は放任され朽ちた履物が山となり、すえた飯や腐敗した魚の汚穢を極めたものが、ここかしこに散らばって路傍に放置される有り様である。家の軒の破れたむしろから家の中がのぞかれ、落壁が人顔を描くような状況で、その人間生活の最後の墜落を示した様子は、さながら砲撃された野外の兵営を見るようである。

 家の広さも5畳敷であるのは稀で、大概は3畳に土間が2尺である。狭いものになると薄縁うすべり[布で縁取ったむしろ]を2枚敷き合わせただけで、甚だしいのは2坪の座敷をむしろのびょうぶで中を仕切り、そこに夫婦・兄弟・爺婆じじばばと子供を集めて、6、7人が体を抱えて雨露をしのぐ状況である。そうしてその畳のないものはあらいたこもを敷いてわずかに身を置き、むしろといっても古いとんびとんび合羽がっぱのようにくすぶり破れて、糸目が切れて隅々のわらのばらけたものが多い。家財として見るべきものは、屋内を探して古つづら一個が資産で、縄とたすきをつなぎ合わせて仏壇をつるすほどの造作である。膳や椀はあるがことごとく縁が欠け、鍋釜はあるが多くは普通の日用雑器ではない。ここで万般の物の不足の例として土瓶で汁を煮るのを見たが、それよりさらに甚だしいのは欠けたすり鉢に灰が盛られたのを見て、初めてそれが火鉢であることが分かったのである。

 獣類を食用に処理した余りの内臓を買ってきて案配し、舌・膀胱・腸・肝臓などの壊れた物を串刺しにして煮込み、路傍に鍋を据え出してこれを売る。一群の少年はその周囲を取り囲んで味加減を賞味し、「ホク」「フハ」または「シタ」などの名称を暗記して鍋の中の美味を探る。これはこの貧民街の一種の料理屋である。価格は2厘。8歳ほどの少女に背負われた子で、その年齢を見るとようやく産後10か月で、いまだ目に色がなく、声に言葉がなく、口に歯がない乳児が、またこの串を口にしてあたかも乳房のように甘いねぶりを求めようと泣いていた。ある一群の子供たちは猫の死骸を埋葬しようとして便所のそばに穴を掘って騒ぎ、ある一群の子供たちは下水の溜まりを排出しようと思って満身がドブネズミのようで、その不潔な、その醜悪な遊戯は、おそらくは彼らの父兄が日夜従事する業態を模倣したもので、その雛形を学ぶ行為はそぞろに彼らの教育の地位を知るのに十分である。

 この貧民街は、もともと北と南に別れている。南河岸は商家に近くて貧困の状況も軽く、野菜を売る店があり、雑菓子屋があり、文久店・五十集いさば店・薪炭しんたん・煮売り・漬物・雑魚・アサリ・からびた塩魚・ないし足袋・股引ももひき・じゅばん・ボロ切れをつくろって売る店・貸し夜具・残飯屋・くずのような古道具屋・卜筮うらない灸点きゅうてん・並びに書簡したため所、かつ稀には一個の唐臼を据えて足づきする米屋、白米1合に値段をつけた量り売り、一銭的なお客の需用に応じる万般の日常品売店がある。南はそれ相応の店構えがあってむさ苦しい町ではあるものの町家の姿をなしているが、北は全く無職業一帯の住まいで、半ばは物乞いの境遇である。板壁の崩れかかった破れ目にボロ切れ・新聞紙を貼って、かろうじて人目をよけるのみである。

 この貧民街において渡世する諸職人についてその主な者を挙げると、第一に人力車夫がその半ばを占め、日雇い・土工職工・紙くず買いを初めとして、アサリ売り・足駄直し・羅宇屋・鋳物師・ボロ師・灰買い・桶屋・そのほかあらゆる縁日の小細工人の類いである。これらはこの社会にあって営業柄が上等の部類で、雨天に降り込められない限りは日にいく銭かの稼ぎをなして、ともかく今日を暮らすのにそれほどまでは事欠きを来さないけれども、これより下って彼の「むしろ商人」の仲間になると、一日にもうける高は甚だわずかで、口を糊するのに年中難儀することを免れないのである。

 生業なりわいとして陸に動く者は、交わる自然によって商人の気風を写すけれども、海に働く者は、日夕うろこの色になじんで風俗はおのずから漁師に似る。手網を持ちかえて川尻にエビをとる者があり、たらいを浮かべて浅瀬でアサリを拾う者がある。ハゼ釣りを稼業とし磯菜取りを稼業とする者は一本のさお、一器の壺をもって子供から集める。やや知恵があり、やや資力があり、ややひょうきんな者、やや字を解する者は、みな自分自身の働きによって口を糊する。利益の細かい者は、ほおずき屋で彼は文久銭から集める。元手の小さい者は納豆売りで、山々が5、6銭の買出しである。そうして一家5、6人の口を過ごしていく者があり、それはあん摩・鍼治しんじ者・加持かじ山伏・八卦はっけ見[易者]、なお巫女みこ星見家ほしみか[星占い]の仲間であって、霊験奇跡の魔力を失った者は、ある朝この街に来てその余命をつなぐ者が多い。

 ここから見世物師の木戸番も出て、賭博所の張り番も出る。身が軽いことが飛ぶ鳥のようで知恵の賢いことが猿郎えんろうのような12、3、4歳の悪賢い子供で、神社仏閣の祭礼や衣香帽影いこうぼうえい[多くの人が集合している様子をいう]の裏面に隠れて、人の袖下そでしたから金を稼ぐ一類である、すり・万引き・昼鳶ひるとんびと呼ぶ即席のかっぱらいで、すでに探偵の眼中に含まれた者が、この街だけで3、40名に上るという。

11 飢寒窟の生活費

 衣食住の三つのもので貧民が重荷に悩むのは家賃である。新網町、鮫ケ橋町のような所はもちろん、他の貧天地においてもその日稼ぎの細民向けに建てられた家並みは、概して日掛け[一日単位]の集金である。おそらく月極めとしてまとまった金額を請求しても、この種の生計の者には到底かなうことはない。それゆえこれをその日の生活費のうちから算出して、毎日あるいは隔日に足を運ばせることにしている。家賃の階級が上等なものは、日掛4銭で四畳半に二畳の小座敷がついた造作がかなりのもので、貧民の中で比較的資力のある者の住居として飢寒窟の中で稀に見る家である。彼の客車のような長屋であって横向けに畳を3枚敷く造作で、露天に木台を置いて膳椀を洗う彼の天幕のような小屋では、総じて日掛2銭から3銭くらいで一列の10家が共同便所によって家屋の背後で用をたすものである。下って月50銭から40銭のものがあり、大破を放任して野獣の住居とその構えを比べても遠くないものである。そうして日掛3銭以上の場所では、例え天幕のような小屋であると言っても、細民の一日の生活費から見ると甚だしい重荷であるので、大多数はたれかれが同居してその負担を軽くするという計略をとっている。それゆえボロ師はくず屋と同居することが多く、縁日の小細工人は呼び売り商人と、日雇い稼ぎは車夫・土工の類いと、その他は辻芸人は辻芸人と、盲目の人は盲目の人と同業が呼びあい集まりあって一個のかまどを立てるのである。

 一か月に10円の収益を上げる者は5円を厨房一切の雑費に使い、余りの5円を家屋・衣装・寝具・日用雑器・履物・その他の日用の諸雑品の費用に充てて、かつかつに生活をする。これがその一日の生活費であり、このような人々はもとより遊楽の余裕はなく、交際に使えるような金もなく、まして修飾の冗費、まして貯蓄に回す余資はあるはずがない。そうではあるが困苦の生計をなす者でも決して衣食住の三つで満足であるはずはない。時としては遊楽の義務があり、つきあいがあり、不時の災厄・祝い・弔いそれぞれの出費は、余儀なく平常の一日の生活費の中から算出せざるを得ないので、家計が常に不足するのを免れないのが一般の習いである。貧民街に住む者の一日の生活費は、これより下ること数等ないしは数十等の下級をさ迷うことから、一日の稼ぎ高を衣食住の三方に振り分けることができないだけでなく、わずかに一升の米を買い一種類の漬物を買う費用に一日の労賃を使い切ってしまい、家賃は妻女の内職で補い、薪炭は明日に延ばし、塩や味噌は明後日に延ばして、ようやくその日を送るようであっては、必要な衣類の調達は不時のもうけを待つか、そうでなければ日済の金を借りて一時しのぎをする他に大きな策はない。

 車夫の営業は飢寒窟の中でやや活発なものである。一日の労賃30銭は貧天地の一日の生活費に比較して甚だ豊かなものであるが、損料[車の借料]・わらじ・ロウソクその他の営業用の諸費用にすっかり消えてしまうものが日に10銭以上に上ることから、実質的な計算上に余裕を見ないことは、彼の土工・日雇い人の類いに等しい。成年男子が力仕事で一日に獲得する所は22、3銭に過ぎず、これで一日の生活費の王である米を買い薪を買って、醤油1銭・味噌1銭・灯油1銭・雑魚1銭、なお漬物・たばこ・茶・炭・家賃・損料など一銭的な雑兵は、主人の帰宅を待ち受けて八方から飢渇の声をあげて迫る。いまだ財布の口は開かないのに、労賃の過半は蝶・蜂・イナゴのように羽が生えて飛び去る。

 車夫のような労働者に比べて、やや耐久的な生計をなすのは夜商人である。彼らはスイトンを煮、稲荷鮨を作り、一椀5厘ほどのマカロニを煮出し、うどん粉を3升、米を2釜の仕込みで、一日の資金は20銭を超えない。彼らが利潤とする所は、売上げではなくて多くは残り物である。商品の残りをこうにあてて、売上げを明日の元手へ回し、これでわずかに商売の利得を見る。けれどもこれはただ夜業のみで、昼間の半日はまた他の仕事を務めて一日の生活費を助ける。この類いの細民でよく働く者は、早朝はアサリを売り、昼間は座ってする仕事に励み、夜に入ってまた露店を担ぐ、一人で2足ないし3足のわらじを履き替えて稼業をする。これが貧天地の商売人の習いである。もし雨天が連続して営業が退廃に及ぶか、そうでなければその人が飲酒で金をむだに使って、質屋・日済貸・損料屋などと交渉を開くようになると重税が荷担して終日あくせくとしてもなお足りないようになる。彼らは常に「貧民の境遇は、実に石上の住まいである」と言う。なるほどその通りである。石は鋼鉄で火打ちされて火を出す他には、土地を掘り起こして穀物を作ることができないし、穴を掘って水を湧かせることもできない。この故に彼らはただ人々がきしむ際に発する火によって生活を営むのに過ぎないのである。なお、その火の車のような生活については、後段の「融通」の部で説く所があるだろう。

12 融通

 質屋・日済貸ひなしがし[日割で取り立てる貸金]・無尽講むじんこう[掛金を持ち寄り抽選・入札などで順番に給付を受ける庶民金融組織]・損料屋[物品リース]などは、例によって下層社会へ一時的な金品の融通を助けるものである。細民がこれらの融通法によって受ける利益および損失、その事実関係になるとずいぶん複雑なもので、ひとかどの研究に値する所だが、今にわかにその区別をするいとまはない。彼の芝新網町・四ツ谷の鮫河橋・下谷万年町・神田三河町などの最下層の土地向けに立てられた質屋が、その四面が崩れて目も当てられない荒ら屋あばらやの一方に、高くそびえる門戸を構え、壁で塗り込めた蔵・レンガの塀・鋼鉄の忍び返しなどの防備が堅固であるとともに、着実な富の分量を示すのもまた決して偶然のものではない。高利貸もそう、損料屋もそう、無尽講の発起人もまたそうである。彼ら金主きんしゅが成功した因縁については種々あるだろうけれども、結局のところただ細民の膏血こうけつ[あぶらと血]を丹精したものに過ぎないのである。どうか少しその丹精の模様について言わせて欲しい。私は、当分、質屋・損料屋の店員として諸君に語るところがあるだろう。

 貧乏町の小さな質屋とかけて何と解くか。諸君、試みに一日私の家に来て商売のやり方の有り様を見給え。実は世の中はどれほど物騒千万なものであるかをご覧ください。その顧客として朝夕出入りする人々は、大抵は、土工日雇い人・車夫・くず屋・暖簾師のれんし[傷んだ野菜類を扱う商人]・古物買い・棒手振り[天秤棒による物品販売の商人]・職工などで、その質草の材料は、しるしばんてん・股引ももひき・じゅばん・夜具蚊帳の類いが通例であるけれど、少し干ばつ恐慌の場合になると、直ちにおひつを持参し、さらに鍋・釜・鉄瓶・傘・火鉢などに及び、あるいはボロ切れ・くず綿・手桶・盤台・車輪・履物になる。例え下駄や傘のような物でも、いやしくも見て10銭以上の価値があると思われる品ならば受け取って相当の銭を貸す。けれども質草は衣類を通例とし、夜具・傘それ以上は古道具品から銅鉄類に及んで、取扱いに不便な品は2倍もしくは3倍の利息で回す。利息の割合は規則[質屋取締法]によって、1円につき2銭5厘に制限されている。けれど貧民街の小質屋に向かって大枚たいまい1円の質草を投げる者は至って稀有のことである。通例は50銭以下で20銭か10銭の口が頻繁である。それゆえ50銭には1銭8厘を取り、20銭には1銭を取り、10銭にはなお8厘を取る。すなわち10銭の口は10人分取り扱えば、1円を貸出して1か月に8銭の利益を収めるものである。しかしながら、これはただ質屋の太平な時代を観念して計算したものに過ぎない。細民で金銭に逼迫する者は、決して10銭の質草を1か月間安閑として置く者ではない。大概は1週間を超えず、あるいは2日3日、甚だしい時は朝夕に入れ替えをする。すなわち晩にはかりを質に入れておひつを請け出し、朝にじゅばんで股引ももひきの入れ替えをするように、その頻繁なことは筆で表現することができない。その都度に手数料として8厘ないし1銭ずつの1日分の利息を払う。これを「捨利しゃり」という。貧民街の質屋は、十中八九はみなこのような客で賑わう。これを「直参じきさん」[特定の質屋をいつも利用する者のこと]という。おそらく規約外の取引を許した者であって、通帳を持参する必要がなく、また時としては無抵当で、例えばきせる1本または手拭い1筋をしるしとして置けば、1日ないし2日間は該当品の代りとして融通を許される。この場合には質屋もまた一種の日済貸であって、あえて質草を庫裏へ運ぶ手数を煩わさず、またいちいち質物台帳へ記入する面倒を見ない。座辺に預かっておいて朝夕の求めに応じる。これはあたかも貧民の輸出入(稼ぎ高)を吟味する一種の税関吏とも言えよう。御直参の名誉のある者は、その実は質屋での奉公人であって1日の所得の1割ないし2割は捨利のために貢租こうそ[貢ぎ物]をする勘定である。一見すると甚だ愚かな行為であるようだが、これは細民一般の習慣でむしろ先天の約束によって受けて来た一種の持病であるとも言うことができ、その境遇ではまたこれもやむを得ない事情が存在するのであるだろう。

 質屋に次いで忙しいのは日済貸ひなしがしである。1円を貸して日に3銭ずつ取り立てて40日で返済するのをそと日済という。また80銭を貸して日に2銭ずつ50日で返済するのがあり、これをうち日済という。ともに月に2割の利息である。このうち手数料として5銭と印紙料1銭を引き去ると正味は75、6銭に過ぎず、もし期限内に完済しなければ債主はこれをよい機会であるとして喜び、残額に少しばかりを補足してまたこれを元金に書き直す。結局は利息をもって利息を殖やす工夫である。このようにして借主は一生奉公する。債主は得意を獲得すればなかなか捨てず、あくまでこれに丹精を施して一生使役する。顧客は耕作人のような者である。計算すれば1円の資金を1年間に360銭にする勘定になるが、日済は決して利息計算をもって言ってはならない。1円の元金は、貸出した当日から取り立てるものなので、債主の懐中はすでに3割以上の成算があり、その丹精の仕様によってこれが直ちにまた明日の元金となる。すなわち右から取って左に貸出し、向こうから集めて隣へ回し、元手を豊かにして利息を殖やし利息から集めて元手を組み立て、細かく切って一つにまとめ、朝散ちょうさん暮集ぼしゅうする。このようにして一年中の精算を見るとわずか1円の元資が立ち回って7、8円に上る。わずかな利益を細かく計算するいわゆる「ねずみ勘定」で、細かな金粉の交接によって驚くべき利殖をなす。取る者はあえて詐偽さぎをするのではなく、ただひとえに丹精をするだけである。取られる者はまた決して愚かであるのではなく、ただ計算に暗いだけである。結局日々に消えていく日済であることから、負債主である者は格別の用心はないけれども、債主の巧妙な計略はおそらくここにあるのである。例えば麻酔剤で肉を切るようなもので、切られる者は甚だしい苦痛を感じないようではあるが、睡眠中に奪い取られる大切な血液によって結局その身は消耗させざるを得ない。

 高利貸と細民の間には種々の事情があってなかなかの証文一通りの貸借に終わらず、その融通法についても千種万様であって、彼の相対あいたい証文のような臨機の場合の取引、あるいは「書入れ」と称して芝居興行主が金を借りるようにある無形物を抵当にして一時の融通をなすことがある。例えば借主が車夫のような者であれば、年末歳暮の切迫した時日に債主と談判すると正月の3日間を抵当として借金することができる。すなわち大都会の盛観である年始年頭を書入れにして節季の融通を請うものである。あたかも興行主が見物人の木戸銭を書入れにして金談[金銭の貸借の相談]をなすように、天晴あっぱれ、3日の上り高はすべて債主の所有で、正味5、60銭の金をわずか3日間で1円にして返済しても、もとより双方の約束であるのでこれに苦情があるべきはずはない。もちろんまたこの場合には一年に一度の関所であるので、これによってぜひとも妻子の晴れ着を受け出して、ぜひとも1枚ののし餅を買わなければならない。富士山の絶頂に登って一膳の飯が2銭に値し、1個の卵が5銭で売れるのも、その値段を聞いて空腹を我慢できるのでなければ、例え60銭の金が1円に向かい10銭の餅が18銭に向かっても今更ちゅうちょすべきではない。「恩日おんじつ書入」[債務履行日を恩恵的に猶予する契約]の金談は、大抵この通りであり、高利家が最も利益を見る時であり、また最も危険がある時である。すべてどのような融通に属する場合でも、すでに日済貸の手から受け取るものであれば、1円の金は到底75銭より以上に通用することはできないものである。世間で1斗5合の米を食う時も、これと同様の融通に依頼して生活する人々は、常に7升3合の米を食うという覚悟がなければならない。このようにしてさらに例の税関のような質屋に依頼し、また彼の地頭のような損料屋に依頼して生計を立てる人々においては、1円の稼ぎ高も身に着く所は正味5、60銭で、食う所の白米は上って6升の高価に至るようになる。明治年間に1円について6升の米を食う者はおそらく他にあるはずはない。「桂を焚いて玉を炊ぐ」という贅沢は、天下の富豪の食膳を形容する言葉ではなく、かえって細民の台所をいじめる言葉だと言うが、果せるかな、高利貸に依存して衣食する人々は、日本一の高い米を食う者と知らねばならない。

 日済に続いて危急なのは損料屋、すなわち貸し衣裳・貸し布団・貸し車などである。貸し布団は1枚が8厘から2銭まであり、もっとも絹布の上下3枚襲ねで一夜30銭から5、60銭に上る損料物もあるけれども、これらはもっぱら贅沢社会の需用であって、寒をしのぐために供給する貧民街の話ではないので、ここでこれを語る必要はない。貸し衣裳もまた同様に1枚が3銭から5、6銭くらいまでのもので、多くは下等芸人の一日の晴れ着に向かって用立てる。なかには股引ももひき法被はっぴまた布子[木綿の綿入れ]を貸す家がある。これは車夫的な労働者の必要に向かって備えたもので、大抵は貸車営業者がこれを兼業する。とりわけ貧民街において繁昌するのは貸し布団で、冬の12月から翌年の3月までの厳冬4か月間の戦争、いわゆる飢寒窟の強敵に向かって供給するものなので、その時節になれば貧民街の営業の中で何かよくこの商売の激しさに及ぶものがあるだろうか。細民の生計は夏から秋に移る際に、ただ一枚の着物さえも着替えることができないほどなので、ましてや夜具・布団の詮索は到底できることではない。しのげるだけは日光という綿入れに依頼してしのいでも、12月という月に入ると日光はもはや頼むことができない。ここに至って一枚の布団を用意しようと思っても、にわかに作ることはできないので、余儀なく損料[リース]に依頼せざるを得ない。おそらく細民で覚悟の英邁な彼らは、決して初めからあえて損料に依頼するようなことは本意ではなく、一年中借り布団のために払った損料を計算してその高に驚く者は、みな振るって決心をして、来年はぜひとも一組の夜具を新調して自分の安眠をと覚悟しない者はいない。けれども残念なことに実際にその場合に至ると、さすがにこれを実行する資力がないものと見え、憐れ今年もまた今年ももとのままでなおまた損料屋の手数を煩わすに至るのは、いずれもみな同じである。これは実に余儀のない貧民の状態で、英邁な覚悟が貧民の間に存在するにかかわらず、損料が繁昌するのはこれまた自然の道理の類いであろうか。これによって貸し夜具の繁昌は、芝新網町などは340、350戸の貧民街の中において損料布団を営業する店が7軒で、その商売を活発に行う者は大概4、50枚から100枚くらいの商品を備えて、とっかえひっかえに貸出す。これが12月を超えて1月の中旬頃になると、物品がにわかに欠乏を告げて顧客の請求を謝絶するようになる。ことにその物品と言えば煎餅せんべいのような薄縁うすべりのものでなければ、雑巾のようにがわを継ぎ集めたもので、これを借用して一夜1銭ずつの損料を払う者はいずれもみなよくよくの貧家で、見るのさえ憐れな母子3人が裸体を抱き合って身を縮め、震えかつおののいてかろうじて厳寒を防ぐ。この場合においても料銭を延滞するに至れば、直ちに寝所へ踏み込んで剥ぎ取らざるを得ず、実に涙があってはできない商売法で無慈悲道と見られても余儀はない。

 普通の場合において質屋は細民の飢えに向かって金銭を貸与し、損料屋は細民の寒に向かって物品を貸出すのであるが、時としては損料布団もまたこれが一種の融通品で、少し無頓着な者は臆面なくこれを融通に使用する。すなわち一夜が2銭の布団ならば質屋は喜んで30銭以上を貸すだろうから、後日の難儀はともかく一時の危急しのぎとして、これまた屈強な計略である。けれどもこのような罪を犯せば罰金はてきめんで、着ることのない布団の損料を毎日2銭ずつ払わざるを得ず、この困難を救おうとしてまた第二の計略を巡らさざるを得ない。計略はすなわち犯罪であり、犯罪にはまた罰金が付加する。この罰金を償うためにまた第3回の計略を巡らさなければならないという余儀のない場合に至る。第三の行為は第四の行為を喚起し、第四の行為はまた第五の行為を呼び起こす。こうして次第に罪過に罪過を重ねてついに重罪に陥る。憐れむべし、わずか30銭の融通のためにこの人は大枚5円なにがしの大借財家となり、損料布団1枚を質に置いたために「三方四方、7、8軒の財産を濫用した大罪人」と名指しされるようになった。人生の行路は険しく計略は意図のようにならず、最後の大破裂に至ってその人の所業を見れば、実に言語道断、沙汰の限りで不埒ふらち千万せんばんの極度であるけれども、その原因を尋ねると針小でちっぽけな事件に過ぎない。貧民街の相談の材料は常に大概この辺を彷徨する。

 危急な場合の融通として質屋と貧民の間を往復する物件は、ただ決して普通一様の衣類・日用雑器に限らず、時としては煮た食物・植えた植物・生命ある家畜・塩や味噌のような流動物もまた一時入れ替えの質種しちだねとして、彼らの間にもてあそばれる余儀のない場合がある。車夫が困窮して車の輪を抜き、日雇い者が困窮して着ている白張りをたたみ、洗濯婦が困窮してその衣類を包むようなことは、すでに委託品の私用の罪であることを知っているが、事情においてまた忍びない所がある。炊きたての飯を持参された場合、醤油の詰まった樽を持参された場合、ソテツ・キンカン・ザクロの植わった植木鉢を持参された場合、これらはもとより規約にはないところではあるが、すでに店を開いて日頃の懇意を重ねた上はいくぶんの情実を察して臨機の約諾を与えざるを得ない。このような習慣からある質屋では手飼いの猫を預かった例があり、ある質屋ではカナリアの雛を預かった例があり、そうしてまたある質屋では実に仏壇の位牌を預かったことがある。彼のソテツ・彼のザクロ・この家畜・この珍鳥かつこの位牌がどのような因縁によってこのような恥辱にあうに至ったか、その事実を探求すればこれまた一条の小説のような記事になるだろう。狡猾な物乞いの社会では2歳から3歳くらいの貧家の子供を賃借して融通に使うことがある。すなわち葬礼や祭礼に向かってお恵みを求める時で、人頭によって慈恵者の眼を欺く手段とする。生命のある人間もここに至ってまた一種の商品となる。けれどもまさかこれを質としては置く人もないだろう。

13 新開町

 大阪は16万世帯の富を持っており、東西が40町にわたる大都市であるけれども、高い所に登って見る時は、四天王寺の五重塔から一望に見渡すことができる。京都では愛宕山・清水寺において、名古屋はシャチホコの城[名古屋城]において、横浜では野毛の山において海をもあわせて一望されるだろう。けれども、東京はあの高い十二階[浅草の凌雲閣]に上がっても愛宕山に登っても、九段坂・上野の山・湯島天神台・駿河台に登っても、わずかにその3分の1ないしは5分の1を見るにすぎない。例えば盲目の人が象の体形を探って絵を描くのと違いはない。そうであれば、このとても大きな動物の内部の生活的な機能が時々刻々に働く有り様はどうであろうか。内科専門の大博士は数百千人で、その首脳部へ集まって、おのおのがともに局部の容体ようだいを診察しつつ、この報告として毎日数万部の雑誌・新聞紙を発行する。けれども、その生活機関は地区の外に広くかつ深いので、肺の局所・胃の局所・血液が停滞し混乱する所・繊維が錯綜しねじれた所になると、さすがの大博士・名医もいまだ十分な診察を遂げることができず、空しく匙を握りしめる者もあるだろう。とにかく、この動物である都会の生活的な機能の運動力といえばすこぶる大きなもので、その商品といえる食物は、毎日数万両の荷車で中央市場から各所へ運ばれ、その人間という血液は日に6万台の抱えの人力車で東西南北へ走り、そうして、その繊維、その細胞は常に方角から方角へ動き、各所から各所に転じる。その運動力を総括すれば、一年で富士山をも平たくするだろう。

 閑話休題(それはさておき)。大都会の地面は時々刻々に研磨されるのであり、がれた地面はまた直ちに家でふさがれるのである。八方に散在する大名屋敷が次第次第に開かれて新開町となったものは、三田では薩摩が原、本所では津軽が原、下谷では佐竹が原、牛込における酒井の屋敷、講武所こうぶしょの原、三崎町の原、仙台屋敷、土井屋敷などである。その中でここに最も細民に便利なように開かれたのは、佐竹が原の新開町である。幅員が3町にわたる地面は、ほぼ2000軒の汽車のような小屋と仮屋のような商店を連ねて、新道が縦横にはしる。その最も繁昌を極めた所には胴体丸出しの馬肉屋があり、店舗を競うものは田舎的なそば屋・うどん屋・鮨屋・在郷的な万屋よろずや・八百屋・五十集屋いさばや・ガラクタ建場・下等席の緞帳芝居・競り市などで、いずれを見ても、みな先月・先々月、昨日・一昨日ないし昨年・一昨年の開店と思われるような一種異様な景気をかきたてて、皮肉な商品の陳列をもってひときわ往来の眼をそばだたせる。数えるとわずか一辺が数町内の境域において、6軒の野菜店と7軒の馬肉屋と6軒の定席じょうせきと4軒の五十集屋いさばやと12軒の古道具屋と4軒のブリキ屋と30軒のボロ綿屋と4軒のガラクタ屋と8軒の古鉄屋と、および6軒の田舎そば、5軒の鮨屋、4軒のまんじゅう屋、4軒の煮売り屋、3軒の揚げ物屋、5軒の飯屋、3軒の居酒屋、3軒の餅屋、2軒の競り市をもって満たされる。これによって界隈がどのような人々の住居であるかが分かるだろう。

 そうしてこの雑居的な新開市の特別看板と言うべきは、その髪結床かみゆいどこ、その魚店、その天麩羅屋、その鮨屋、その馬肉屋、その煮売り屋の低い床・狭い店・事欠いた小座敷を飾る熨斗のしのような百万駄のビラで、あるいは白い布にあるいは紙に、兼公・正公のヒイキをもって金千匹・鯣百束・大蒸籠せいろ・正宗十駄・七福神・宝船・大鯛おおだい・団十郎・百万両などの縁起のいい文字あるいは絵画を最も奇異な筆で描き、素人細工の彩色を施してすっかり往還の眼を誘う所は、他所では見ることができない新開地の看板であって、大工・左官以下の熊公・八公諸氏の嗜好を発揮したものである。

 その上、そのガラクタ店といえるくず屋の建場には、古帽子・古かばん・古馬具・古つづら・古机・古戸棚・古靴・古たんすなど人生生活の幾多の辛酸をなめてきた種々の廃物や壊れた日用雑器が店頭に山積されて、荒布あらめ[コンブ科の海藻]のようなボロ・芥のような紙くずの塚が築かれた間に埋もれて、3人あるいは5人の女が、髪毛や紙くずを選り分ける傍らで、新聞紙・雑誌の古物をはかりに掛ける人・空瓶を縛る人・御払箱を担ぎ込む人・帳面反古を荷造りする人などが、混雑喧騒する所に一種の趣があるのは、これまた新開町の看板である。そうしてそのよしず張りの寄席が、車夫・土工・往来諸商人らの立ち聞きを許して、祭文や浪花節を語り、幡随院ばんずいいん長兵衛ちょうべえが助六の徒党の手柄を囃すという一段から、馬肉屋・天婦羅屋がしるし半てんを着用した紳士を招いてビラが天井を周旋するという一段、並びにそれらの女中が頭上に赤い布をかぶり、首筋に白粉おしろいを施した所は、またもって新開町の一種の風俗と見て認めないわけにはいかない。

 この風俗、この景気を他にして、なお人々の顔に、あたかも金魚が水から水へ放されたように、生気や活動の色が見えるのも、一つは新しい家に移ったという望みによるのだろう。

14 競り市

 一辺が3町の四角な地面に千をもって数える客車(ワゴン)のような小屋と数十軒の板葺き屋根と数十軒のブリキ屋根と数十軒の仮り屋のような商店とをもって開かれた彼の新開市は、最も手軽に世帯を持ち、最も低廉に生活しようと思う人々のかまどを集めて繁栄を促したので、その土地に合致する商売の仕組みにおいてもまたおのずから一種の方法がなければならない。ある人が「貧世界の無造作」「利勘の立ち回り」と言う所で、競り市の建設はまたこの一つである。数町の区画の間に20軒余りの古道具店を並べたこの地の生計は、自然の申し合わせでここに2か所の競り市を開いたのである。会場とも言うべきその家は、ブリキで天を覆った彼の仮屋のような造作で、店は12畳ほど敷かれた所に仲間を3、40人集め、みなその道の商人である。中に頭領がおり、すなわち「せり方」であって、やや鑑識がある者である。これにそって帳方が一人、他に繰出し役の2、3人が背後に控えて周旋する。その物品は、主に道具屋の寝物ねもの[売行きが悪く、久しく手元においている商品]で、すべて雑多なガラクタ的な古器物である。それが木製・竹製・陶器・革具であるかを問わず、銅鉄類・ガラス類・紙製品・石工品であるかはもとより論なく、つづら・燭台・戸棚・米櫃こめびつ・のこぎり・矢立て・膳椀ぜんわん・机・障子・花瓶・掛け物・火鉢ひばち桐油合羽とうゆがッパ・唐傘、それが履物であるのと食器であるのと、それが床の物であるのと厨房の物であるのとに差別はなく、いやしくも人間生活に用いられる物品はすべてここの商品で、現物を運び次第、何ほどかの価格でセリ売りされるものである。手数料は3分5厘で、売人と買人においておのおのが一分ずつ負担する。この種のセリ市はもっぱら最下層の商人向けで、薄資な道具屋仲間が物品の寝物のために疲弊することから、一時の融通のために申し合わされたもので貧天地の最寄りに多く、四ツ谷箪笥町たんすまち・麻布十番・芝浜松町・八丁堀の内・神田豊島町・本所外手町・浅草・下谷の各所、その他には商売の都合によって臨時に催されるものが至る所にある。200年の昔、江戸や大坂の貧民街においてこの種の融通が行われたことは、井原西鶴の著書にも見える。

 付け木[火を他の物に移すときに用いる木片]のようなまき一把で、すでに2銭の価格である東京の台所においては、竹くず・かんなくずはもちろん、おがくず・わらくず・こも・炭俵もまた、焚きつけ・いぶしの材料として金銭をもって売買される商品である。まさか間違えば薪物たきものになり、かまどの下へ打ちくべても飯をいく釜かは確かに炊ける代物であると最後は目算して値踏みする。これは実に大都会の生活が商人の耳にささやく所で、どのような虫食い戸棚・慶長年間の米櫃こめびつ・足利時代の障子の壊れた物・鎌倉時代の壊れた長持ちでも、またこの目算を土台としてセリで相応の値段が出される。それから先の相手は例の貧民である。彼らはまさかの場合に扉を砕いて炊くことがあり、桶を壊して煮ることがある。このような時節の防備として、もし古長持ちの一個もあればその時の格好の材料である。昨晩に米と漬物は買ったけれど、今朝になって薪と炭がなく、先般、ひっ迫した時に畳の下の床板を一枚剥がして焚いたところがあいにく湿って燃え付きが悪く、よんどころなく畳を半畳ばらして焚き付けにしたので、家中がほこりだらけになり、おまけにネズミの小便が蒸発して臭気が一室にびまんしたなどの事実は、最暗黒の東京において12月ないし1月頃に流行する「貧竈病ひんそうびょう」で、一世の大作者の作り事にもないほどの風景であるが、これらは実に印紙を貼って保証すべき事実であり、もし偽言であると思われるならば遠慮に及ばないのでのぞいてご覧なさい。その跡は歴然で「座敷の真ん中から泥棒が入ったような大きな欠乏がございますので分かるでしょう」とは、彼らの日常の談話である。このような時の防備として、もし古長持ちの一竿ひとさおもあったらばどうであろうか。飯ならば4釜や5釜は炊くことができて、付け木のような木片・おがくず・炭俵に銭を出すよりも遥かに勘定高いものであるのは相違がない。そうであれば、虫食いの戸櫃とひつ・足利障子・鎌倉机はもちろんのこと、欠けた皿・剥がれた重箱・割れた膳・砕けた桶をもみなこの道理に準じて相応の値段を持ち、ざる・味噌こし・まな板・十能じゅうのうなどの古物も立派な商品として3分5厘の手数に掛かって、活発に運転するのである。

 競り市の模様は一個の品、あるいは一組の品、もしくは数種見込みによって合併した品を、一と口として値踏みにかける。これを「振り出し」と言う。買おうと思う者は、八方から口を出して値を付け、低価からだんだん高価に上らせて、買い焦る所がすなわち「せり」である。もちろんその間において売方と買方の双方が互いに一座の場面を見て、商売上の狡猾さを出す。けれども大抵は決着の所で売り放すのである。万一不相当と見なせば、そのまま引っ込ませるだけである。そうして、その貫目はみな旧例と古い格式によって「銀一両」「判三枚」「一エ五」「二エ五」「一朱一貫」の呼び声である。銀一分は25銭、一朱は6銭2厘、一エ五は1匁5分であって1銭2厘に当たる。当日の出物でものとして私が見聞したのは概して銀1分以下の物品で、古つづら・手箱・鍋釜・建具・植木鉢・茶だんす・負櫃おいびつ・陶製火鉢・鉄器・金網・やかん・水瓶・南京小皿・おひつ・どんぶり洋灯ランプ・塗り鉢などが最も多く、そのやや高尚なものとして扱われたのは、掛け物・花瓶・釣り灯籠どうろう・額・真鍮物・古仏像・竹製の花筒・びょうぶ・ついたて・古刀剣類であり、その下等な物としては、たらい・味噌桶・ざる・石臼・こたつ・七輪・まな板・手桶・米浸こめかし・備前陶器・酢や醤油など用の塩入れの厨房雑具である。そうして、その1円以上の価格を持ったものとしてはおりだんすと仏壇がある。その店晒たなざらし物と見えたのは、紙製のたばこ入れが数品とせっけん・歯磨き・下駄・唐傘などがたくさんあったが、これらは近いうちに夜見世の商品としてまた大道に並べられるであろう。なお大工道具・左官道具として、のこぎり・かんな・のみ・墨壺・つち・てこ・やすりなどの古物も競られていた。

15 古物買い

 戸数が千軒あれば、人々はともいをなすのに差し支えがない。まして30万人という多数になるとその下層に働く者は、すべて共食い的でない者はいない。いやしくも独立して働く稼業ならばどのような種類の商売でも、これを神聖に守って稼ぐ以上は一概にその日の糊口に苦しむことはなく、ことはただその人の健康と注意だけである。その資本は10円以下、そのもうけ高は25銭、これがすなわちこの4里四方の大市場に散在する無数の兵隊的な商売人の資格であって、極めて穏当な戦争の場合を予算化したものである。これより以上は各自の運と駆け引きにあり、あるいは意外な難所にさしかかって散々に敗北して命脈が危ういこともあれば、時には案外な功を奏して一躍して士官的な地位に昇り、10円の資本金が100円の融通を効かせ、25銭の予算も50銭以上に立ち回って、表側へ商店も開き店員も使うようになる。けれども軍旅は多難であり、銃を担ぐような商売人の生涯は常に蹉跌を意味し、伏兵による砲撃の危難にあって満身創痍、銃も剥がれ剣も奪われて、無資格の落武者おちむしゃとならない者は、おそらく稀である。

 古物商の中間に働く仲買の多数は概して失敗を重ねた商人の落武者で、その商品取り扱いの技量においては、彼の甲冑をよろって幕内に安座している将軍的な資産家にも劣らない者がある。彼らのある者は懐中に1厘の用意もなしにうまく商売に携わり、甲乙双方の間を周旋して幾分かの利益を上げる。古着仲間においては、彼らをバッタと呼ぶ。毎日、商品の買出しに得意の建場たてば[くず屋などが集まり、その日買い取った品物を売り渡す問屋]を巡って、あるいは質屋・道具屋の召喚に応じて不用品の値踏みをする。例え懐中に1厘の手付金を持たない時でも、平日の律儀にわたる愛顧によって等しく売買の契約をなす。建場の商品でやや利益を見る物は貫目相場のボロ切れで、懐中の準備が2、3円あれば塚のように買出される。裏屋に住む婦女子の仕事としてこれを選り分けると多少の掘出物を得ることはあるが、ボロの丹精には手間を費やすので、資本が枯渇した仲買はこのような面倒を見ることができず、1割ないし2割の口銭を読んで問屋から問屋へと卸すという活発なことを喜ぶ。競り市に関係する仲間は主に道具屋の間を周旋する者で、懇意の道具商数軒の委託を受けて市場に出席し、見込みの物品をせり買いしてこれを店へ運びあるいは店の不用品を借用してこれを市場に提出し、これによって一般の商人間の有無を相通じる。下級兵士のような商人としては、これらが一番の駆け引きを要するものである。

 そうして、これらの商人が偶然の出会いによって利益を上げるのは、多くが世帯仕舞いを引き受ける時である。一つの家産の世帯を仕舞って立ち退きがある時、招かれて見積もりをして不用品の一切をどれほどの代価で引き受けるかという交渉である。例えば、今ここに一個の箪笥、一個の仏壇を売ろうとして道具屋を招く時には、甲乙丙の値踏みする所は大概同格で、1円の物について10銭以上のはねを伸ばすことは稀なものである。そうではあるが、すでに世帯を仕舞って立ち退きを急ごうとする場合においては、奇妙にも甲乙の言う所は単に差額があるだけではなく、一人の値踏みは5円と言い一人の値踏みは2円と言い、そうしてまた一人は時として10円以上に見積ることがある。世帯仕舞いの値踏みは、常にこのような相場をもって相互に同業者の目をくらませる。商売の具合はまた不思議なものである。そうしてたまたま5円で引き受けた道具の中から、一個7円以上の価値がある日用雑器が出ることがあり、ガラクタを捨て売りにしてもなお2円の利潤がある。もっともこの場合には、おのおのの懐中に十分な余裕がなくてはならない。

 交渉が整って払うべき代金がない時には、余儀なくこれを資本家に相談せざるを得ない。そうすると物品はすべて金主の所有になり、惜しいことに宝器の山に入りながら、その報酬としてはわずかな骨折り料をもらうに過ぎない。この事実を無念として資本の薄い商人が困苦するのは魂胆中の魂胆で、家財を質屋に入れて高利を借り、甚だしい場合は妻子を裸体に剥いで、一日一夜、寒の憂き目を見させることがある。資金を調達して利益が予算の通りになっても、差引勘定すると質の利息と高利の日歩とその奔走に必要な費用のために少なくとも利益の4、5割を引かれて、せっかくの奔走も奮発に値しないことが多い。商人に資本がないのは鳥に翼がないようなものである。

 古物商の下で働くくず屋になるともとより資本を必要とはしないけれども、紙くずを10貫目買入れて、その利は8、9銭に過ぎない。ボロ切れ、古銅鉄の類いで少しの利潤を見るとは言っても、資本が薄くて物品がまとまらないのでこれを値売りすることができず、大概は貫目相場のくず物として建場へ卸す。建場はくず屋の金主であって一人に付き2、30銭か50銭くらいまでの資本を貸して商売を励ます。あたかも探偵か手先を使って罪悪を探させるように、その手を広げる家は一軒の建場で14、5人から20人の配下を使って物品の収集をさせる。そうしてよく働く者は50銭の資本を朝夕4、5度に運用して、毎日平均2円以上の材料を運搬する。これらは実に格別に働きのある者で、その奮発心がない者になると一日かけて20銭の資本さえ使いこなさない場合が多い。12月に入って町家のすす払いの前後、および4月を出て世間がようやく春暖の気候に向かうと繁忙になるのが通例である。古仏壇から金銭が現れる先例、あるいは古つづらの底から古代錦絵の珍しい物が出てきて意外な利益を与えること、この種の商売としてなきにしもあらずとは言っても、新聞紙の発行以来世間の人の注意はまた一段と高まり、廃物は吟味の上に吟味を重ねて、よくよくの品でなければくず商の手にかけないばかりか、注意深い人々はかまどの下の灰からネズミが放った糞までもかき集めて値段に掛けるほどなので、当世このような試しはただ小説として残るだけである。

 彼の死人、病人の着ていた夜具衣類で、新調の白衣のものがある。縊首いっしゅ・入水・服薬・自刃その他の種々の方法で変死した不浄者の被服で、甚だ結構上等の物がある。一つの血痕もなく一つの膿痕もない物であっても人はこれを汚物のように嫌う。ボロ師の商売として時に甘い利潤を上げるのは、まさしくこれらの不浄物を取り扱う時である。売買は真の涙銭(訣別銭けつべつせん)であえて価格を唱えず、実価が5円に価するほどの物品も1円の訣別銭で引き受けて帰ることがある。イカモノ師はすぐにこれを晒して直ちに新衣を作る。病床の汚物・血痕・膿痕の不浄なものも彼らの職業から言えば、彼の墨汁やインキの洗い難いものよりもかえって安穏の思いであると言うことだ。

16 座食

 「座して食らえば山をも空しい」[働かずに暮らせば、山のような財産も尽きてしまう]という一句は老婆の慣用語で、すでに陳腐に属したものであるが、それが事実であることはちょうどスタンリー[イギリスの探検家]の野蛮国[アフリカ]探検とともに一大事実であることを失わない。ある家族が中等の階級から下等に落ちる際、あるいは下等のある階級からある階級に転じる際には、必ず「居食い」または「売食い」[手持ちの財産を処分しながら暮らすこと]という一つの事実を通じて歩むもので、彼ら家族にとっては零落の一大歴史であるに違いなく、いやしくも都会的な生活を通してきた家族として多少はこの事実を踏まない者はいない。片々を採集してくれば、これまた一部の貧民新聞となるだろう。

 座食的な生活の長いものになると10年、20年にわたって、事実上ほとんど人の一生涯を埋め尽くすものである。けれどもその命脈は大概2、3年で尽きるのが通例である。その短命な場合になると3か月、5か月、満一年を出ずに亡びる者がある。大店おおだなが倒産してその主人が気力を奮い起こすことがなくなった場合、亭主が死んでその家族が方向に迷った場合、ある災難・ある事情にあって余儀なく彷徨ほうこう的な生活をとるようになった場合、あるいは商売が不景気で収支が合わない場合、すべてこれらは実に居食の歴史を踏むべき至当な運命である。最初は第一にその家を売りその建具を売り、その商品の残ったものを売却して一時の借家住まいをする。すなわち行宮あんぐう[天皇行幸の際の仮のすまい]的な生活であって交際も減り外観も捨てて、以前は30円もかかった家計は今は10円で償われ、米・薪も多くは買わず、魚屋・八百屋も新顔の人を呼び入れて質素な言葉を使うと、厨房の失費は案外に少額なものになって結果はまことに無難であるようだ。そうではあるが、居食いの神は、元来、打撃を目的としている。この行宮はどうして永遠でありえようか。貯金は1年目に蕩尽とうじんされ、衣類や日用雑器は2年目に蕩尽され、そうして無形の融通は3年目になりその跡を絶って、家族は行宮を出て行かざるを得ない。

 居食いにおける1年目は、数百円の「御用金」によって生活することであるので、その心は勅任官のように寛大なところがある。居食いにおける2年目は、数十点の家産で生活することであるので、その心はいまだ属官のようにあくせくした者には落ちないけれども、3年目に無形の融通に依頼して衣食する境遇に至ると、日夜奔走する彼の小役人が雑務に追われるような切迫を見る。彼の大店の零落した者が前世紀の余沢によって数年間座食の命脈をつなぐという事実は挙げてこの問題に入るべきものであって、小型の商人であっても前世紀に属する恩義や貸借の名簿を調べて、なおよく1年間生計をたてることができる。あるいはうち捨てた証文を訴訟にかけ、あるいは悶着した事件を調停して、それによって幾分か座食の材料に供する。ある者は質草の売却について受ける餞別銭によって、数か月の家計を支えた例がある。座食の最後の収入は概して墓石の売却であって、数代にわたる富豪の栄華は一基の卵塔らんとう[台座上に卵形の塔身をのせた墓石]に数十円を残した恩沢があるので、これを倒してなおよく最後の生計を立てるのに足りる。

 このように、この悲しむべき売食の事実が人間の生活を説明するのは極めて深刻なもので、座食1年目に売却した1000円の金は、2年目に売却した100円の金よりも寿命が短く、2年目の100円の金は3年目の境遇における10円の金よりも価値がないのが、一般の売食的な生活の通例である。今、これをある一つの事実に照会すると、かつてある田舎の富裕者が都会の生活をしたって、当時3000円に近い貨幣と7つのこうの衣類と他に雑品としてほぼ数百円に値するほどの財貨を携えて来住したのであるが、前後3年の間にすべて蕩尽して無一物の身となったのはあえて珍しいことではなかった。けれども、その後1年を経て田舎へ帰り、親族や旧友に説いてようやく100円ほどに値する商品を携え、もって第2回の移住を試みたが、前回の無分別にこりた彼は格別の注意をもって数十年の家計を支えることができたのであった。思うに売食3年の間は座食の生活であると言っても、その人の鍛錬によってはまた一種の運命を開く場合がある。これらは実に世間の俗事や自然の冥利であって、衣類・日用雑器を売却した経験によって古着屋となり、古物商となり、ボロ師・仲買の内幕を覚え物品の鑑識を熟知して、3000円の財産を消耗してなおよく300両の古手買いとなることができた実例がある。「天道は人を殺さず」「天は自ら助くる者を助く」とは、きっとこれらを言うに違いない。

17 朝市

 八百屋の大商店であるものは大八ともいうべき大型の荷車で、八百屋の小商店であるものは大六ともいうべき中型の荷車で、また八百屋の最も小商店であるものおよび街道の呼び売りの小商人は、一荷いっかのざるかごで、おのおのがその市場に向かって走る。これが実に毎朝の課業で、365日、日曜も大祭も厄日も吉日もない毎日の課業である。芝・赤坂・京橋および日本橋の八百屋は[京橋の]大根だいこん河岸がしの市場へ、本所・深川の人々は三河島の市場へ、芝・麻布の人は目黒の市場へ、小石川・本郷・下谷の人々は駒込および谷中の市場へ、四ツ谷・牛込・赤坂の人々は新宿の市場へ、浅草・本所・葛西の人々は千束・小塚原および本所の各所の小市場へ向かって、おのおのが買出しをする。これはこの膨大な大都会が自然の地理によって開いた地方的・郡県的な青物市場である。

 そうしてここに中央政府的とも言うべき中枢の大市場で、東京府下15区内の野菜商という野菜商が集まらないことのない果実の大きなマーケットで、朝の東京第一の盛景、恐らくは朝の日本第一の盛景として残されたものが一般に多町たちょうの青物市と呼ばれる大市場である。15の大小の区を囲んだ各郡の村および郷、すなわち北は砂村以東の新田・葛西の果てから、西は練馬の里に至るまで、南は目黒・渋谷一面の地、東は砂村以東の新田・武蔵6郡・下総2郡における園および畑が大小の荷車によって動きつつ、朝の2時から8時まで絶えず入荷する。この大きなマーケットは神田多町にあって、佐柄木さえき町・新石町・須田町および三河町・連雀町の数町内を埋めて一つの大きな「世」の字形をなす取引場である。その街道は、240の青物問屋と37の乾物店と23の荒物および玩具問屋および47の荷車問屋、12の飲食店によって組織されている。その500余りの店舗と数町四方にわたる人影は、山間の一小都会を開拓して人間で埋めた形である。おそらく毎朝人が集まることが、おおよそ5万人と伝えられている。その問屋の数からすればほぼ大根河岸を10倍にした盛観で、その市場の広さからすれば大坂の天満河岸の青物市場を3倍にした景況である。そうして、その取引上の金額を算定すると魚河岸が活発であることと比べるとやや遜色があるだろうが、その物貨の景色・物品の数・売買の区域の広さになると遥かに魚河岸を超越して、その人影・店舗および物資の方々からの集中が大きいことで朝の市場の第一に置かれる。

 時に市場は秋の初めの出荷で、野菜や果物の種類は枝豆・ナス・トウモロコシ・カボチャの黄ばんで霜が降ったもの、梨の熟して好時節であるもの、スイカは累々として往来に満ち、芋の茎は林のように軒をふさぎ、ミョウガ・新芋・ユズ・フジマメなどは半切り桶あるいはむしろに広げられてほとんど人がその上を歩くのに任せられ、新ショウガの色に紅をさしたもの・芋の子の白く洗い上げられたもの・大砲のような洋種スイカ・トウガン・マクワウリが山をなす中にも、ブドウ・桃・梨の過半は箱詰めの取引で買う人はその中から見本を一個選んで味をかじる。四面が野菜や果物の色に埋まって、往来はただ人の足のみである。人の肩が相重なって銅貨1銭を落とす余地もない。その頭上をざるが飛び、その足下をわらじがぶつかりあい、荷車の車輪と車輪が互いにかみあう。日光が有機化学の作用を促して、土壌を様々の美術に造形する。それが今朝の出荷として、どのようにおびただしくあるのか。

 畠の液が車によって運ばれ、山の精が籠によって送られる。そうしてまたここで売買上の受け答えが南洋トラック島のサンミ王子の言語よりも難しく、「サルマタ・ヤゲン・ロンジ・ダルマ・チギ・ヤッコ・セイナン、ゴンベ」などの隠語が早口に投じられる彼らの売買をそばから聞くと、それがどれほど蛮風であることか。そうして、なおまた彼らの売買上の文字がサンスクリットの草稿よりも難しく、1時間の備忘のために記される当座帳の1ページが、不熟練な速記者的な筆法で急々きゅうきゅうに、八百屋仁兵衛を「八百二」に、万屋勘兵衛を「よろかん」に、麹町番町の源七を「ばん源」に、小日向こびなた水道町の正七を「ひな七」または「ひなまさ」あるいは「こび七」などに略記するように一切を筆任せにして、その筆記者の当人も1時間後になると、これが「八百勘」であるか「万勘」であるか、ほとんど推測できないほどの殴り付けで用務を達する。それをそばで見るとどんなに笑止なことだろうか。おそらくこのサンスクリットの殴り書きおよびトラック諸島的な隠語はこのマーケットにおいて実に欠くべからざる用材であり、これを利用して売買を活発にする問屋・荷主および他の商人が昼食前の2時間の商況を争う様子は、ちょうどその時の市場取引の激しさを見るのに十分である。

 そうしてこの激しい取引、あふれ返る野菜、混雑する人影、熱閙ねっとう・雑踏、社会生活の群がる響きが紛然雑然とした間において、図らずも私を一瞬間ワーズワース[イギリスのロマン派詩人]と握手させたものは、市場の一隅に尊く陳列されていた晩秋の果物であった。地球の回転が太陽系の基準からはずれて75日先駆けしたかのように[季節が進んだかのように]、新柿および新栗が半ば黄色の色模様で、苔を破って出芽し秋露を頂いた初茸とともに、草の包みの内から現れたのは、今朝、青物市場で私の眼に映じてどれほど珍しいことであったか。日本の国は広く谷は深い。いったいどこの山奥から出したのか、どのようなむろで作ったのか。思うに厳冬にたけのこを出し、新春にきゅうりを並べ、三伏[夏の極暑の期間]の炎天に早くもすでに晩秋の果物を見せることはこの市場以来の特色であって、大都会が稀物の名を好んで食べる贅沢は国々・島々の深山幽谷へ響き渡って天狗の神もご承知なので、深山の猿が狼に告げて魑魅ちみ魍魎もうりょうの食客などがもたらしてきた物であるのではないか。 

 この通り、まずこれが市場の表面の様子である。そうしてこの朝の東京第一の盛景が、我が最下層の生活に関係して、ここにどのような幸運を分けるものであるのかを見るのは、またこれは一つの問題である。彼のわずかに15、6銭の元手で、晩菜ばんさい[売れ残った野菜]を一荷、山のように買い出す数百人の暖簾師のれんしを初めとして、無数の呼び売り商人、鮨・草餅・串団子・氷菓子・包丁・縄・ざる・籠および手帳・たばこ・矢立て・菅笠・付け木・木札・銭差し・熊手・アワビ貝などの食品および用品を提げ売りし、または立ち売りする子供、娘、小商人がいる。あるいはマムシの干物・イボタの虫・籠もり蟹・「天狗の梅」(珍奇な植物の名)・金の石(鉱物)あるいは金の花(石英の類い)・ざくろ石・帆立貝などの山海の遺物・珍物を並べて珍客を待つ小香具師の一類から、荷車をひいてあるいは担いで汗膏あせあぶらの賃金で食べる無数の立ちん坊や荷車の見張りに雇われる番人がいる。最後に、この市場のわらくずを掃除する竹箒の労働者および残り物に集まる物乞いの群れに至るまで、彼らが詳細どのような福分を受けつつあるかを訪れて問わざるを得ない。

18 十文銭の市場

 文久店のお客の多くは下等社会の子供である。彼らが都会に育った因果から、生まれながらにして広い野原からの追放は許されない。馬車・人力車・荷車・電信柱が往来する間でのかけっこや鬼ごっこは危険であり、目隠し鬼や草履ぞうり隠しはその地面を持たない。木登りや川の魚取りはその場所がない。むやみに大凧を揚げてはならないし、むやみに綱引きをしてはならない。独楽こま回しは往来の人の足を傷つけ、小石投げは戸や障子の損害賠償となる。芋畑がないので芋を掘ることはできず、うり畑がないのでウリやナスをもぐことはできず、ましてや桃・栗・柿の木によじ登って果実泥棒といった戯れをすることはできない。もし彼らが誤ってこうした戯れを真似ようとすると、すぐに彼の地主あるいは家主・大家または管理人に一喝されて、「ガキ」「寝小便」「食いつぶし」などの汚名を着せられることになる。それゆえ彼らの腕白大将・ガキ大将も自然に退陣して文久店の一隅に割拠し、30文を払ってもんじゃ焼きをするのでなければ、メンコを握って3尺四方の地面で勝負を争うだけである。

 腕白大将やガキ大将がすでにそうであれば、その令夫人であるどろんこの貴婦人はどうであろうか。彼のオチャッピーと称する未来の女傑、ヤンチャと称する少国民のともえ御前ごぜん。彼女らは花を野に摘んで袂に入れることはできず、手籠てかごを持って貝を浜に拾うことはできず、しかもなお慈母の注意は馬車のけがを恐れ、祖母の心配は人力車の転覆に近寄ることを危ぶむ。それゆえ庭先に2尺のござが敷かれて、3寸四方の箱がどろんこ娘の家屋であって、客間があり、台所があり、かまどがあり、鍋があり、膳があり、椀がある。包丁はブリキで、御馳走はようかんである。これで女の赤ん坊を饗応し、これで花婿を迎える。彼の宮崎湖処子・嵯峨の屋おむろ・漣山[巌谷小波]・バーネットら当世第一流の作者先生[児童文学の作者]たちが極力筆硯ひっけん[文筆]を磨く所もまさしくこの辺で、彼女らどろんこ娘はこまっしゃくれたことに家庭のささいなことを記憶していて、1歳で婚儀を営み1歳で子供をもうけるという飯事ままごとに及ぶ。そうしてその巧みであることになると丹波ほおずきをブリキのたらいに入れて、上から貝の杓子で水を注ぐ。これを怪しんで問うと、これはまさしく赤ん坊に産湯をつかわせるのであると言う。見る者は、あきれてその妙智に驚く。

 このようなことが都会の子供の遊戯である。そうしてその遊戯の材料は、すべて彼の文久店に仰いでいる。豆鉄砲・笛・ラッパ・花火・福袋・福菓子・メンコ・ほおずきなどの遊戯品から、落花生・一文菓子・肉桂にっけい・糖水・焼きしじみ・あんず・巻き鮨・砂糖漬けなどの食品に至るまで、子供によって望まれる千種万様の奇々妙々で、細小を極めたこの商品の買出しは、彼らによって「十文銭市」と呼ばれた青物市場の一角にある。どれほど多くの品物を仕入れるとしても、一軒の店で20銭以上を仕入れる客はいない。一個の重箱に5銭の駄菓子を仕込み、一個の組箱に4銭の巻き鮨を仕込み、あるいは3銭のふかし豆、2銭のほおずき、あるいは1銭で5把の肉桂、4銭で2升の落花生、あるいは福袋が4つ、豆鉄砲が5本、あるいは焼きしじみが10串、糖水が7瓶。その仕込高を問えば、甲の商店へ3銭5厘、乙の商店へ2銭8厘、左右5、7軒の商店を渉猟してその仕入高を計算しても合計が25銭に上る者は稀である。そうして、その支払金の種類の多くはみな銭差ぜにさしにつないだものであり、永楽銭、文久銭、青銭[寛永通宝四文銭の俗称]、かつ今はもうないけれども4、5年以前までは彼の頑骨不霊であった天保銭の重いものが、この取引社会で横行していたと言う。商店は両側に軒を並べて、物品を往来の半ばへ突き出し、取る客があるのに任せて勝手にこれを選ばせるという便宜を尽くす。選ぶのに客は欺くことがなく、計算するのにかつて誤りがない。最も小型の売買でまた最も繁昌する所であって、実に文久市場と呼ばれるその名に背かないのである。そうしてこの客と呼ばれるのは、すなわち文久店の主人公で、多くは40歳以上の老女である。神田の区内はもちろん下谷・浅草・本郷・四ツ谷・麹町・麻布の辺より早朝に来る人があり、あるいは南葛西・北豊島・千住・板橋・目黒・渋谷などのへんぴな所から3日おきあるいは5日おきくらいに出て来る人がある。その数はおよそ数千人に及ぶ。文久市場の一角は、常にこの種の大勢の人々が道をふさぐ。これは青物市場の副産物ともいえよう。

19 無宿坊 

 いやしくも回漕船かいそうせんが10そう以上入港する港、いやしくもウエアハウス[倉庫]が3棟以上立つ所、貨物の上げ下ろしの河岸、荷作りの場所、市場、工作場の足場(グラウンド)には、必ず仲仕なかしという者がいる。一枚の肩掛けをけさ懸けにして尻切り半てんの立ち姿で、厚徳丸の荷をおろして永代丸の水揚げに走る。すなわち苞落ひょうおち[未詳]の賃金をとる者で、多くは飛び入りの稼ぎである。東京でこの種の力仕事の労働者が多いのは、川口霊岸島・深川木場・米倉庫の最寄りの地・四日市の三菱倉庫の近傍・魚河岸・神田川・揚場である。一か所に集まる者は数十人で、そうして青物市場に属する者が最も多く、八方の僻遠へきえんの地から荷車をせき立てて集まる者は、およそ千をもって数える。近いのは九段坂・上野から、遠いのは青山・目白・巣鴨の辺りから、60貫ないし80貫の荷車を引く人は10町を3銭くらいの相場で雇われる。最下層の職業の中で最も体力を要するものである。午前7時から8時の間に市場に集まって、それからまた買い出しの八百屋を見出してその荷を引く。終わればまた、九段坂・万代[万世]橋・揚場・上野などの随意の場所で休息して、苞落ひょうおち[未詳、包装されていないという意味か]の荷物を担ぐ。あるいは直ちに魚河岸へ赴いて荷車を引く人の買出しをして、五宿・板橋などの宿場へ行って儲けることがある。日に20銭をもって最上の稼ぎ日とする。あるいは10銭内外で日を暮らす者は少なくない。人力車の後押しのために坂下に立つ者は常に1銭的な報酬で、粟餅あわもちの一片でわずかに空腹を補う。この類いの憐れむべき者は寝るのに3銭の木賃の寝床もなく、日中の数時間を木陰で憩って落ち着かない睡眠を取る。雨にも傘はなく雪にも着物はなく、ただ日光という綿入れを浴びて生活する野生的な生涯であって、いわゆる立ちん坊である。そうではあるが、1銭も物を請うて食うのではなく、人の恵みに依頼して身を養うのではないので、その衣服がどれほど汚れ、その顔がどれほどけがれていてもその心は物乞いではないので、その行いに廉恥れんち[恥を知る心]があることは、決して彼の悪徳な車夫一類の者と同じではない。

 上・中・下、いずれの社会においても、その社会の制裁を嫌っておのおのが自ら異なる仕事につく。そうして最下層においてその社会の制裁を嫌う者は、おそらく多くこの立ちん坊の仲間に見る。彼らのある者は、家主の苛酷かこくを憤ってその住居を明け渡した者がある。彼らのある者は、親方の圧制を怒って労働の仲間を脱した者がある。そうしてまた彼らのある者は、妻が薄情であることを恨んで男の一人暮らしをした者がある。その住居を明け渡す時、その仲間を脱する時、その一人暮らしをする時には、心の中に一分の憤懣を蓄えて必ず何かをなしとげようという気持ちを奮い起こさせたものであるが、残念なことに徒手では何もできず、貧寒に頼る者はない。歳月が無為に流れて数年、今はほとんどその当時を忘れて覚えていないようであるが、たまたま一方の栄耀を見ると、このことが悲傷の媒介をしないことはない。

 もしも世の中に運漕するべき船がないとすれば、大儀ながらも私たちは灯火をつけるならば1合の石油のためにロシアの国まで走らないわけにはいかない。16方里の間に菜園を見ない東京の住民が、廉価にかつ潤沢に野菜を得るのは何の賜物であろうか。青物市場の問屋は、常に低い口銭とわずかな手数料をもって荷物を引き受ける。そうではあるがその主な力は、常にこれを運搬してくる人々の恩恵に帰さなくてはならない。彼らの賃金は直接に商品の上に掛かる。「立ちん坊」「物乞い」「宿無し」と人は常に彼らの労力に価値がないことをいやしめる。けれどもこの価値のない労力が直ちに形を変えて、私たちの食膳の低廉な野菜や果物となるのを知らないだろうか。畑から市場に来る80貫目の荷車は、運搬の賃金として8銭を計算する。彼らの賃金は実に1貫目が1厘である。キュウリならば12本、ナスならば20個、誰がこのような低廉な労働をなすだろうか。もしも世の中に市場がなく八百屋がなければ、私たちは一把のしょうがを買いに谷中まで走らざるをえない。これを思うと、彼ら立ちん坊は荷主のために常に1割の所得を奪われ、問屋もしくは八百屋のために1割の所得を奪われ、そうして常にこれを需用する私たちのために少なくとも2、3割を奪われている。無慈悲な世間のために、常にその所得の4割、5割を奪われつつある彼ら力仕事の労働者。今日もしも私たちの財布に通用する金が10円もしくは100円あるとすれば、そのうちの5円もしくは50円は常に彼らの財産であることを覚悟しなくてはならない。たまたま彼らが路傍に伏して、ボロを着て凍え、残飯に飢えるのを見て、私たちはどのように考察すべきものであろうか。

20 最暗黒裏の怪物

 私の貧大学の課程中のある夏[明治26年]のことであった。ひとたび宮物師[傷んだ魚類を扱う商人]の仲間になって、刺しサバ・スルメ・マス・棒ダラなどの宮物を担いで、秩父を目当てにして川越の在郷から売り始めて、大宮郷に着くまでに大概を売り尽くしたので、そこからまた商売のやり方を変えて、今度はガラスビードロの風鈴屋の仲間になり、時節柄、気楽な上州商い[現、群馬県での商売]と出かけ、高崎の在郷から安中・板鼻の近傍をめぐって、ついに彼の温泉客で有名な伊香保の薬泉場へたどり着いた。ここで図らずも一つの話すべき好材料を発見したのであった。それは果たして何事であるか。世間で知られているように伊香保の宿は、榛名山はるなさんの中腹に構えられた一幅の崖地であって、屋上に屋を積み、階下に階を重ねて、通路は狭く往来はわずかに石段を積み重ねて歩道を開いた所で、隣はすなわち屋上で、裏は家の軒下である。旅館・茶店ちゃみせ・料理屋は上層にあって鉱泉の新しいものを引き、酒類・灯油・野菜・荒物を売る店や仕出し屋・洗濯屋・飲み屋・煮売り屋・新聞縦覧所・貸本屋などは多く下層にあって入浴客の需要を充たす。大きなものは数百人の入浴客を泊める旅館から300の店舗は、壁画大の山腹をはって西北の谷間に面しているので、下層の住家は一日中太陽を見ることは稀であり、そうしてこの下層にまた下層がある。さて、その最下層という所は、どのような有り様で、かつどのような人が住む所であるのかと見ると、まずその家は酒屋・八百屋・荒物屋など下層の家の床下を5尺ばかり掘った穴倉で、出入りは梯子はしごでするようになっていて、3尺の出入口はすなわち天井の窓であって往来の人が歩行する所にある。穴倉の中は10畳ないし12畳の広さで四壁を板で囲った所で、植物の新芽が芽生え、二酸化ケイ素の臭いが一室に広がってこもった空気が鼻に迫る洞穴である。近ごろ世間で「最暗黒」という文字がみだりに利用されて、世間にその解説に苦しむものが多い。けれども形容することができない最暗黒の生活は実にここにあって、どのような眼で見ても、ここを最暗黒の世界ではないとする者はあるはずもない。

 そうして、これらの穴倉の中で寝食をする者は、元来どのような種類の人であるかと見ると、いずれもみな治しがたい病気あるいは言語障害や聴覚障害などの持病があって通常の生活を営めなくなった人で、多くは入浴客の余興によって生活する座芸者・笛や尺八を吹く者・琴や三味線を弾く者であるか、その他はみな揉み治療・あん摩など鍼灸をつかさどる者の類いである。今ここにその身体の障害を物色すると、両方あるいは一方の足に障害がある者があり、ジャガイモ大のこぶが額にあってカキのように眼をつぶした坊主頭の大入道、身長が低くて背を丸めたような小入道、天然痘のために顔にあばたを残した瞽女ごぜ、座敷では常に拳で歩行する足が悪い者、象皮症の者、小人症の者などで、これらの者が一つの穴倉の中に5人ないし7、8人で嗜好をともにして同居する。穴倉の中は暗黒で物を識別することができないけれども、居住する者がみな盲目の人であればもとより灯火の必要はない。

 その数は百数十人で、中に「酋長」がいる。はり治療をする者で、左の額上に椀の大きさのこぶがある大怪物であるが、25、6歳から40歳までの瞽女の妻妾4人を蓄えて、食事の時は常に左右から抱きかかえられて飲食をする。そのおごりたかぶったことは、さながら大江山の酒呑童子しゅてんどうじのようであって、客ごとに必ず一人につき3厘の上前をはね、穴倉の中の座業者はすべてここに貢ぎ、その鼻息をうかがって営業することは奴隷のようである。もし一人でも曖昧にすることがあれば、直ちにこの者の手足にかせをはめて鉄むちを加える。そうであるから他所から来てみだりに営業する者は、見つかり次第にとらえてこれを裁断する。おそらく宿内の座業権はすべて彼が掌握する所であるからである。こういうわけで彼は常に瞑黙暗算をしていて、宿内の客の増減・散財の景況・繁昌衰微の気運を考え、どの旅館にはどのような客があって、どのように振舞う者であるかに至るまでつぶさに吟味して、知らないということはない。百十数人の座業者が貢ぐ料銭は、ひと夏を積算すると数百円に上ることがあり、これによって彼はまた傍らで宿内の小商人に金を貸して、彼の高利の金利をまた繰り入れる。もし延滞する者があれば、直ちに盲目的な催促をなして一日も猶予しないのである。

 それだけではなく、またこの盲目の人はその膝下しっかに数人の子供を飼養してあん摩術を習わせ、2時間ごとに流しと称して、宿中をひと巡り呼び歩かせて、帰ればすぐにその客の種類を吟味し稼いだ金を没収する。常に稽古のためとしてその肩こりをもませ足をさすらせる。そうしてこれらの盲目の童子は、彼の瞽女ごぜと称する盲目の女性によって炊事された粥を食事として日課を務め、眼が見えないのにこのような懸崖けんがいを上下するのであった。そうしてまた彼の瞽女の仲間も平日はあん摩し、楽器を演奏し歌唱して賃金をとり、それをその主に奉じる。彼の盲目の人の艶福は常に仲間のためにうらやましがられる。おそらくこのような艶福、このような権威、このような栄耀、要するに彼が人の長であるという一つの技能は、南蛮鉄のような自信をもって我意を通すことと、人の言葉に耳をかさず舌から一歩も退かない土蛮的な強情さによるものであるけれども、またその瞑黙暗算の中から捻出してくる一種の法律と声を聞いて直ちにその臓腑を見るという天来の才能によらないことはない。とにかく彼は穴倉の中の一大酋長である。

 このような説話は、この都会を離れること数十里の上毛の伊香保の山中の事実として、風鈴屋の仲間がもたらしてきたものである。そうして我が暗黒の世界においても、よしんばその傲慢が彼のように甚だしくはなく、よしんばその艶福が彼のように贅沢ではなく、かつその仲間に向かって利益の歩合を徴収する約束のようなものがないと言っても、彼の大入道の面影はさながら至る所に存在して、時々我意を振るうのを見る。

 ついでに言う。彼ら盲目の人の蟄居的な生活は、極めて狭くて汚らしいもので、窮屈で幅は9尺に足りない。便所と台所はみな一室で、飲食と起き伏しの部屋を限定しない。漬物一品、野菜一菜で朝夕を過ごし、食事には汁物を求めず、常に臭気が強く辛みのあるニンニクやニラなどの野菜を混合し、椀や小皿は汚れている。食事が終わればすぐに器や皿の汚れをすっかりぬぐって、これを庫裏くりに収め、かつて洗ったことはない。部屋は常に塵芥に覆われていても掃除はせず、蜘蛛が巣を張り木の芽が萌え出し、あるいは湿気が浸透して、苔が毛氈のように生え、ばい菌が群生する。

21 日雇いおよび部屋頭

 力仕事の労働者の賃金には、日割勘定と受取仕事の二種類がある。日割勘定は日給であり、受取仕事は一人または数人の組合で、一事業から分割した一個の仕事を受け取ることであり、あるいは甲の場所の土石を乙の場所に運ぶのに一荷について何銭の割合で受け取るものである。けれども、彼らの通例の働き高は、まず日に18銭よりは少なくはなく25銭が上限である。もっとも臨時雇いは、一歩以上3貫から4貫くらいを請求することがあるが、一事業について20日ないし30日永続する勤め先は、日当が下げられて20銭であるのを通例であるとする。ただし部屋頭が請負師に請求する所は25銭を下ることはない。すなわち20銭には5銭をはね、18銭には7銭をはねるものを、通例の部屋頭の取り前とする。ただし部屋頭においては、力仕事用の器械の損耗、すなわちつるはし・もっこ・じょれんなどの損料を見積もらなければならない。また部屋によっては半てんを貸す所があり、諸経費を差し引いて30人の労働を出す棟梁は、日当1円ないし1円4、50銭の所得があるものとする。もっとも部屋頭であって請負師の地位に立つときは、一事業で200円を受け取って、実費が120円くらいに仕上げることがある。すなわち80円の所得であるが、この場合においてはもとより事業の責任をすべて負担して、完了の前に金銭の融通をつけなくてはならない。そうではあるが、このような棟梁は東京府下にいたって少なく、大概はみな請負師の取り次ぎをして、その下に隷属する者である。

 毎度のことながら、とかく上に立つ者は下を虐げやすく、機に乗じて利益を独占するなどの弊害を免れがたい。ただしこれも世間一般の風習として人事の交際に普通のことであるとするならば、それまでであるが、中には憐れむべき同胞に対してずいぶん憎むべき手段を巡らす者がある。請負師・棟梁の奸策かんさくである。労働が払底する折などは、もちろんこの奸策も施す余裕はないけれども、事業がひまで労働者の全体が仕事の欠乏に泣く時などは、つけ込んでこれをなすことが、もとより彼らの常例である。例えば、ここに一つの事業があり、棟梁は請負師から50人30銭ずつの割合で買い出したとせよ。ちょうどもし時節が不景気であり、日雇い者が仕事の欠乏に苦しみ、就業を依頼して嘆願を重ねる者が続々現れるような時に当たると、彼らは奇貨居くべしと、まず一人10銭ずつの上前をはね、50人の労働を35人で切り上げて、残りの15人の労働ははねた上前の銭をもって、35人にくじを引かせて労働時間外に余分の1時間ないし2時間の受取仕事によってこれを補い、こうして事業が成就した後に50人の日割の勘定で請求して、結局50人の仕事を25人、せいぜい30人の労働をもって補填するようなことがある。あるいは「六分人足」、「七部人足」(一人の労働に満たない虚弱者)をもって一人に通用させて、その上前を着服することなど、ずいぶんけちで風儀の悪い部屋頭がある。あるいは、また中には会社もしくは事業主からはなむけとして贈られた酒肴を独占して私用に供する者があり、甚だしい場合にはそろいの法被はっぴを柱に着せる者がある。

 そろいの法被云々うんうんの事実は、かつて阿部川町[現・元浅草]の辺りであったことである。某部屋頭の妻はすこぶるけちな性質で、かつ配下の労働者を見るのに慈仁がなかったが、ある時寛大な事業主から50名の人員のかしらに法被を1枚ずつ恵与しようということで部屋頭のもとへ送られてきた。それなのに、この取次をした部屋頭の妻は、天性のけちを抑えがたく、どうしてこの恩賜をむざむざと他人の物となすことができようか。けれども寛大な事業主が公然と見ていることもあり、到底私すべき物ではないことを知ってしぶしぶ思案を巡らせ、その最も懇意の15人の配下を選んで内緒で与えて、余った35枚を解いて布団の皮に使い、余りをことごとく機杼師はたしに売却して、知らん顔をした云々うんぬんということである。

22 飲食店の内訳

 東京府下において飯屋で有名なのは室町3丁目の某店、芝宇田川町の某店、牛込揚場町の某店で、これらは日に35円から40円近くまでの売上げを上げている。もっともその顧客は労働者ではなく、少し財布の豊かな商人や職工などの立寄りで、平均して一人前が8、9銭から10銭くらいの勘定をあげている。銚子を3本、刺身を1皿、汁と煮魚くらいで15、6銭を費やす者を最上の客とする。これより下って普通の飯屋になると、目のとどくかぎり車夫のような労働者のための飲食店でないところはなく、繁昌している所は厨房に下男2人・給仕3人・手間取り(下働き)1人・店頭に飯盛り1人(これは帳場にいる主婦の役である)、すべてで6、7人の人員をもって日々20円の売上げを上げている。野菜魚類ならびに米飯の仕込みは主人の仕事であって、毎日、朝市から買い出しをする。これらは飲食店のなかでも中の上に位置していて、融通が利き体裁もさほど見苦しくはなく、厨房は整頓されて甚だしい不潔を見ることはない。

 けれども一段下って彼の安飯屋になると、不潔で乱暴でほとんど状況を言い表すことができない。第一に目立つのはその家であって、軒は朽ち柱はゆがんで平長屋の板葺きのひさしは煤煙になめられて黒ずみ、厨房からあがる煤煙は家全体にみなぎりわたって室内は暗く(煙突の設置が不完全で、空気が流通する窓があけられていない)、ことに労働者の混雑に駆られて朝夕の掃除が行き届かないことから飯台の四隅はほこりにまみれ、天井裏がすけて見え壁は崩れるにまかせて修復することはなく、とりわけ厨房の混雑は実に感染症の根源で一面ゴミ捨て場を打ち広げたようである。即座に目立つのは土間の湿気で、例えばカワウソをはわせたようであり、狭隘な地面、低い屋根裏、長屋続きの便所・ゴミ捨て場・井戸などが一か所に集まって、カビの生えた水桶、汚泥の沈殿したたらい、とりわけ下水がせき止められて洗い流しの疎通を妨げ、雨天のしたたりは破れた窓に沿って台所にぽたぽた落ちることなど、およそ世に不潔と言えるほどの不潔はすべてここに集めたようである。れんこん・芋・たけのこの皮、イワシ・サバ・マグロなどのアラはみんな一か所に掃きためて数日間も厨房の片隅に寝かせ、それから発生する臭気・移り香が、蒸発する厨房の仕事をする下女の体臭に加わる。荒布あらめのようなボロボロの着物を着た下男、味噌桶からはい出したような給仕女、頭髪をくしけずって幽霊のような顔をした主婦、病床で食事する家娘むすめ酔漢のんだくれ胴間声どうまごえの男、貪欲に食べる者などによって、終日かまびすしい声が湧くようなこの最下等の飲食店は、浅草や芝近辺の場末に最も多く、神田三河町の界隈はどこもかしこもみなこれである。

 そうして、これらの店はたいてい一日に12釜ないし18釜(1釜に米3升)を炊き、煮しめを500皿(一皿が5厘あるいは1銭)、煮魚を100皿、刺身を50皿、鍋類を若干を売りきる。ただし、これらの社会の下等な力仕事の労働者の食欲に応じて饗応きょうおうするものなので、値段を安くして数を売り多数の中から利益を見出そうとするのであるから、勢い安価な物品を仕入れて供給せざるをえないので、まず第一に食品の材料に新鮮なものを望むことはできない。朝市の余り物というほどではないが、都合がよければ常にこうありたいと願って、いつも物品のあふれた方面より買い出してくる。すなわちサメのアラを一籠3貫で買い出して、これを大概は100枚の皿に盛り出して、1円の売上げを上げる。ある時は大マグロの頭を一つ買い出して、刺身を10枚、鍋を50、そのほか小皿を若干として、5、60銭の元手で3円以上を売り上げる。野菜や漬物もまたこの割合で売る。もうけにくいのはヒレのついた小魚の類いである。一尾が1銭の品を煮て2銭にして売ることは難しい。なおその他の繁昌する飯屋においては米飯には利益を見込まず、かろうじて薪代と手数料を勘定に入れるだけであり、これをもっておおよそ下等飲食店の経済を知ることができる。

 ついでに言う。下等な力仕事の労働者が常食とするのはおおむね各種の野菜であって、とりわけ切干し・豆腐のおから・ゼンマイ・ワラビ・ニンジン・ジャガイモ・各種のサヤ豆である。およそ好んで需要するような野菜は廉価に供給され、1回の食事が3銭以下の程度で満腹することができる。玄米飯と粗末なおかずは、調理法を加えることをせず、臭気が強く辛みのあるニンニクやニラなどの野菜を混合して食うに堪えないけれども、彼らにはこれが普通のご馳走であってまた嗜好にちょうど適しているのだろう。もっとも彼らの朝食は極めて淡泊な一汁一菜であるけれども、晩餐には間々濃い味の魚肉をたのんで食欲を満たす。ハマグリ鍋、葱鮪ねぎま鍋などである。そうしてここで彼らの境遇にとってすこぶる幸福なことは、ふぐが廉価であることである。彼らがいつも言っていることを聞くと、そもそもふぐは魚類の中で第一等に位置するほどの貴重な味を持ったものであるが、普通の人はそれが有毒であることを恐れて食べる者が稀なことから、市場では自然と投げ捨てられているとのことである。彼らのうちで健啖の者が不安に打ち勝って好きなだけ食べるのは、乱暴だと言ってもおそらく貪食者の常である。

23 居酒屋の客

 力仕事の労働者が浪費をする第一の場所は、飯屋を除くと居酒屋である。枡飲みで1杯、一息入れてわずかの御菜おかずをなめて立ち去る(俗に「兜をきめる」という)のは、急いでいるときである。彼らが人力車の梶棒をおろし、悠々と布団をかついで入り込んで、雨天・烈風・雪空で往来に人影が稀であると見込む時、もしくは長堤ちょうていを一飛びして過分の報酬を得て財布の中が福々な時は、悠然と御輿みこしをすえて酒杯を命じ、渇いた口腹に醍醐だいごを注いで、もって彼らが最大の娯楽とする華門を開放せざるを得ない。華門が開かれた。缶壺かんこに緑酒が1斗、銀びん[銀製の急須]、珠碟しゅちょう[真珠の小皿]、鳳凰ほうおうあつものは珊瑚の器に盛られ、熊掌のあぶり物はるりの皿にうずたかい。宮嬪が300人、侍女が3000人。酒肉盤上の栄花、金殿綺寮の娯楽。回顧すれば昨夜は苦役の奴隷で、今朝はこれこの王公である。俗世間の雑事がとこしなえに続くときに、華胥かしょうの国に遊ぶ盧生ろせいの一睡一瞬の「邯鄲かんたんの夢」であろうか。驟雨がたちまち覚醒を促して仰天すると、これはそもそも濁り酒にごりざけがなせる魔術であろうか。鳳凰の羹と思ったものは葱の汁で、龍髄の包み焼きと思ったものは、さざえの壺焼きであった。

 閑話休題。話かわって、力仕事の労働者が余儀なくもこの快楽をもてあそんで早朝深夜の差別なく、入り浸り飲み浸って泥酔を買い求めて浪費することはかなり盛んなことである。冬はシロウマという異名のある濁り酒、夏は焼酎で、いずれも辛烈しんれつ苦渋くじゅうの発酵物であって、銘酒を飲みつけた口にはとても堪えられないだろう。濁り酒は一合が2銭で、よく飲む者は一時に5本から7本を傾ける。中には衣服を質にいれて自棄やけ飲みで10本以上を傾ける者がある。それゆえに濁り酒屋にごりさかやの店前は常に空車でふさがっている。浅草・芝・神田などの力仕事の労働者が群がる場所に最も多く、ことにその繁昌するのは繁昌している醸造元で、群集する時は一日に1石以上を売る。煮しめ・煮魚を皿盛りにして供給して5厘1銭で売る。元来、濁り酒は八朔[陰暦の8月1日]以後の醸造で、厳冬の3か月間を最も盛んな時期とする。米を浸して18日で搾汁さくじゅうし、急速に醸造して急激に酔わせる方法を製造家に質問すると、元は1石の白米を仕込んで3石5斗に絞りあげる。すなわち2石8斗は水である。これを今、清酒の8斗が水で1石3斗絞りであるのに比較すれば、ほとんど3倍の水で倍の利益であることが分かる。飲食物の中で利益の潤沢なものは濁り酒に及ぶものはないと杜氏は言っている。焼酎は酒糟12貫目をもって8升を蒸留する。このうち3升がアルコール成分で、5升はただの水である。これを混合して一杯を一合のコップに注入して3銭で売る。辛烈しんれつ苦味くみであることはともに、他の豊饒なものの比ではない。 

 力仕事の労働者はこの激しい酒を購入して一時の興奮剤となし、これによって乱暴な力を出し無理な労働をなし、また疲労をいやす一時の薬剤として身体を欺く。ことごとく健康に有益であることはできず、狂水は循環して血液を乱し、ついには㾱疾[身体の障害を伴う不治の疾病]に倒れる。けれどもこの病気を患うまでは、これまたやむを得ない必要物で、彼らがこれによって力仕事を励まし、精力を保存し、またある他の元気を勧誘して進行を促す興奮剤とするなど、下層社会では実に容易ならざる精力剤であることを知るべきである。そうして力仕事の労働者のどのような種類が、この店の上客であるかを実見しようと思うと、ほとんどまた驚嘆せざるを得ないのである。以下にその標本を記載させていただきたい。

 一がいが5、6銭で購入できるまんじゅう笠のほとんどゴミためから拾われたように古びて破れ汚れたものをつくろって頭にかぶり、一足20銭で買うことができる股引ももひきは海藻のように破れちぎれて、巡査にとがめられつつもなお調達することができない人物。ひとたび1銭5厘で剃られひとたび2銭5厘で修理された頭髪はよもぎにように乱れ、一領12銭で質受けされ一枚15銭で調達されるような法被はっぴは、牛のシャツのように汚れあかがつき、汗がしみて臭気が鼻を打ち、歩行者にいとわれ同僚から避けられつつもなお調達しがたい人物。これらはその特別な標本であって、常に店頭の主人の奇妙な者を探索する視線を免れることができない者である。しかし彼らは酒杯の盤上では決して倹約ではなく、徳利が3本、なますが2皿、常に陶然として財布は空になる。その他にこれに準じて不釣り合いな性行がある各種の人物があり、破れ毛布ゲットに包まれて昼はコウモリのように光線を忍び(ただし格好な労働服がないため)、日没から初めて外出する夜明かし車夫、亀のように首を縮めモグラのように手足を縮めて歩行が自在ではないような土工(厳寒に薄衣であるために体の動きが活発ではない)は、老いぼれ・酔狂者などをもってその大部分が占められる。そうしてまた、中にはこれが余儀のない義務であるかのように酒盃を口先に貼り付けて顔をしかめ、甚だしい辛酸を忍んで飲用する者があり、実にやむをえない催促に駆られたようである。

24 夜業車夫

 徹夜の車夫を「ヨナシ」と呼んで、夕方から支度をして1時を過ぎる頃まで夜を更す者があり、あるいは9時頃から出かけて明け方に帰宿する者もあり、その数は決して少数ではない。ある人は「夜寝ない人は東京に5000人で、そのうちで車夫が4000人を占める」と言っている。実際、大都市の露店で徹夜する者は1000人をもって数えることができ、そうして車夫はこれの4倍である。どうしてまた過少とすることができるだろうか。たしかに夜業は昼業よりも賃金が豊かで、かつまた客を獲得するのが容易で、時としては意外な報酬を得ることがあって、彼らの営業の性質から希望する道楽心を満足させるのに適合する。すなわち「よき種」「よき鳥」「鳥を捕らえる」「珠を逃がす」などの隠語は、彼らの社会において活発に通用する言葉で、その獲物を略奪しようと専念して、夜露を犯し暗闇をつんざいて探求捜索することにすこぶる堪能である(一睨一顧いちげいいっこ。現在の車夫が客を狙うのは、さながら探偵のようである。読者はすべからく誤解することのないように)。

 そうしてこの少なくない人数は、新橋ステーションの近傍、京橋・鎧橋よろいばし[日本橋兜町]・万世橋まんせいばし・両国橋などの橋詰、浅草橋、雷門前、上野広小路、九段坂下、四ツ谷・牛込・赤坂などの山手の見附、赤羽橋・永代橋のたもとなどの道路が四方八方に通じている要路、北廓[吉原遊廓]・南廓[品川遊廓]・新橋・柳橋などの怪窟の狭い路地の出入口に寄り集まりたむろして、飄客ひょうきゃく[廓で遊ぶ客]が来て命じるのを待つ者があり、または彷徨・佇立ちょりつ・人影を追って徐行を心まかせにする者がある。そうしてまたあるいは辺ぴな街道筋・小路・横町・寂しい辻角などの寂寥な場所に停車して茫然と客を待つ者がある。雨の夜、雪の朝、たまたま歩行して見れば、彼らが往来の軒下にうずくまって、人影が近づいて来るのをうかがう状況を目に留めるだろう。烈寒、雨湿、さても辛抱強く、この寂寞な天地に網を張って、どのような鳥をうまく捕まえることができるのだろうか。無益でうかつな所業ではないかと思うが、実際は必ずしも想像するほどの世界ではない。大都会の人事は多端で、どのような烈風暴雨の夜でも往来に用務が断絶することはなく、例え深夜になって風の音が静まり人畜がともに眠って路上に物影を認めない時でも、なお「交通神の魔力」は活動して甲の場所から乙の場所へ伝わり、丙の家から丁の家に・某町から某町まで、カラスが立つように流星が飛ぶように、椿の花が落ちるように稲妻が閃くように暗闇をぬって卒然偶然に足音が響き人影が現れて、彼らの営業に追従する。

 これが実に大都会に奇特な恩恵で、彼ら営業者のよって立つ所である。寒い夜は股間に提灯をはさんで暖をとり、夏は幌の内で一睡を催して払暁を待ち、雨には軒下に佇立して毛布ケットを首から巻き下ろし、こうしてわずかに冷気雨湿をしのいで、客があれば急いで半てんを脱いで走る。道がぬかるんで歩くのに悩む時、あるいは雨脚が傾斜して通行に困難を感じる時は、すなわち彼らが不意の獲物を射る時であって、10町走って8銭、あるいは麹町から深川まで40銭などという値段を請求するのである。そうしてまた時には飄客ひょうかくが「ウタイコミ」[車夫の隠語、客からの依頼]で乗車することがあって、中央市場から遊廓に持ち込むのは、過当な花代[祝儀]を恵投される時である。このために彼らはこの夜冷えを犯して健康を害するにもかかわらず、夜もすがら闇をぬって、立ち止まり、彷徨し、客を待ち、獲物を尋ねさがして歩くのである。

 そうして彼らの稼ぎ方にニ様がある。甲を「クロウト[玄人]」と言い、乙を「シロウト[素人]」という。玄人稼ぎとは、すなわち純粋のヨナシ(夜業仕事)で、一直線に例の獲物に着目し、あえて短い距離安い賃金では動かず、夜半に雑踏する客はすべて他人に譲って、最後の1、2人の客に留心傾倒する者である。時としては夜もすがら1厘も稼がないことがあり、あるいは1時間に50銭、雨天3日で3円を稼ぐことがあり、気を焦らず体を労せず悠然として獲物の呼吸を伺うのはまことの玄人である。素人はこれに反して夜半の雑踏の客に着目し、あせって息を切らせて我先にと乗車をすすめ、新橋から本郷へ8銭、両国橋から赤坂へ10銭などという鳥を上客として争って分け合い、5町・8町・12町の距離で2銭3銭、5銭7銭などの端銭を集めて奔走し、しばしば12時ないし1時が過ぎる頃まで営業して退散する。その数は数え切れないほどで、薄暮に往来を連絡して人と肩がぶつかる者は、10町四方に1000人をもって数えることができる。

 おでん・煮込み・大福餅・のり巻・いなり寿司・すいとん・そばがき・雑煮・ゆで小豆・焼鳥・茶飯あんかけ・うどん・五目飯・かん酒・汁粉・甘酒などの屋台店は、もっぱらこの彼ら夜業の車夫によって成り立つもので、その要地で商売する者は毎夜2円から3円近くの食品を商い、利益はおおよそ3割内外でかん酒・煮込み・切り餅などがその多くを占める。なかには大きな傘を担ぎ出して天蓋をしつらえ障子を建て回し、4、5人の手伝いの女や子供を使役して飯や天麩羅を炊き出して売る者がある。この類いの露店は午後10時に通行して、新橋から万世橋までの総計でかつて86個を数えた。同じく12時の通行で41個、夜が更けて午前2時の通行で23個を見残した。すなわち露店6に対して2の割合で徹夜であることが分かる。

25 宿車

 門盛楼もんせいろうの片陰、大きく広い店の脇道、待合所・料理屋・官舎・会社・御屋敷の所在する近傍には、必ず宿やどぐるま[車宿で顧客を待つ人力車]というものがあるのを見る。すなわち車屋の部屋である。店がまえは縄のれんを下げ、行灯・腰障子[下方が板張りの障子]に屋号を記し、車台5、7両と桐油塗りの雨合羽10襲ねが、塗りを光らし車輪を磨き、真鍮バネ・ゴム幌・綿スコッチの膝掛け・蹴込けこみの敷き皮で、1両の車台につき15円の装飾である。紺の法被はっぴに白い股引ももひきの血気盛んな若者5、6人が、声に応じて威勢よく駆け出す。触込み仕事[触れ回って取る仕事]や追掛け仕事を意気地がないとあざける連中で、京橋南鍋町[現、銀座5、6丁目]から目黒まで雨天に3台で1両2分、平河町から向島へ5台で往復2円を大負け[値引き]の賃金として、祝儀をむさぼり求めて昼食・茶菓のご馳走にあずかる仲間である。1か月3円の食費で飯は食い放題、夜具・じゅばんを初め股引ももひき法被はっぴの洗いすすぎをみな宿の世話に任せる。あるいは徹夜して昼寝し、普段は座敷に囲炉裏を切って佐倉産の炭を焼き、あぐらをかいて放談・大笑する。同輩を「亀公」「源公」と呼び、あるいは「えーおい、聴きねえ」または「ねーおい、見ねい」などの冒頭をもって会話して、「チャブタラ」「スカタン[間抜け]」などの述語をよく用い、シガレット(巻たばこ)をくわえてカルタ(骨牌)[花札]をもてあそぶ。御者ぎょしゃや馬丁と交際を持ち、でろれん祭文[大道芸・門付け芸]を学ぶ。いわゆる「車夫中の車夫」で純粋な部屋者である。

 親方の取り前は、大抵売上高の3割で、売上高が1か月の平均で8、90円に上るのをまず上等の部屋であるとする。もっとも正月と4月は例外である。このうち4、50円を6、7名の稼ぎ高として配当し、残余の30円ないし35円を親方の収入として勘定して、人力車の損料・器具の損料・炭や油その他の雑費に充当するものである。八官町・弓町などの銀座裏・平河町・隼町・赤坂田町の辺りは上部屋であり、みな得意先を持つ古顔である。けれどもこれらの上部屋は現今は至って少なく、大抵はみな半触込み・半追掛けで、ことに近年は辻車[流しの人力車]が繁殖したことと賃金の下落で宿車ははやらず、よほど贅沢な顧客でなければ申込みがないので、軒行灯のきあんどんだけでは営業が立ち行きがたく、普段は大抵辻に出て営業するのである。車代[人力車の損料]としては日に4銭を収める。5台の売上高は平均で5、6円で、これに触込みの上前をはねて1か月の収益10円内外を親方の利潤とする。それゆえなかなか車台を新調する余裕はなく、くさび[車輪の心棒の端にさす]には泥がつき、泥除けは剥げ、膝掛けは粗末で蹴込みに毛皮はなく、一両がようやく5、6円の品で修繕した物が多く、装束はまた新しくすることができない。

 そうしてその非常に貧しいものになると、宿の体裁は畳が破れ庭は朽ち、当座帳は鼻紙を綴じ、炉辺ではまきを焚き、膳椀は壊れ、かつ寝所は2階に天井がなく、煤煙が藤のようにはい下がり頭上は低くむねはりは傾斜し、座敷はたわんで踏みごたえがなく、朝夕寝床をあげず、障子を払わず、塵芥を掃くことはなく、マッチの点しかすやロウソクの芯が残され、破れ布団が積み重ねられ、竹の皮や木枕が散乱する。一面が荒涼とした寝室にあるいは横向きに寝ころがってあるいは倒れ伏して、鮨・大福餅を食い、あるいは丸く集まり座って花ガルタやチョボイチ[サイコロ賭博]を戦わせ、わいせつを語り遊女屋の光景を演じる様子は、ほぼ彼の土工部屋を彷彿ほうふつさせる。屋根代が1銭、布団料が1銭、車代を合計して1か月に1円80銭を宿元へ納める勘定であるが、多くは滞納を生じて厳しい催促にあい、3、4か月で他に転じるのを一般の風俗とする。

 そうしてこの類いの労働者はおおよそ1万人で、薄暮から車を出して午前1時まで、あるいは払暁の2時間と夜半の3時間だけ営業して、日に20銭から時としては37、8銭を手に入れ、また1銭も稼がないことがある。食事は戸外でして、日に7、8銭から20銭まである時は使い、なければ倹約して飲食に決まった回数はない。あるいは下等な講談に立寄り、緞帳芝居[小芝居]をのぞき、同輩と金を出し合って快飲して賭場を開き娼妓に費消する。そうして年中が着のみ着のままでさしたる財産はなく、四角の帯一筋と格好のよい下駄一足の蓄えもない。時には巻たばこをくわえる口であって、きせるの雁首はひしげ、かます[刻みたばこを入れる小袋]は破れて粉を漏らし、いずれも婦人のひんしゅくを買わないことがない身持ちである。このような者がみな部屋住み車夫の境遇である。

26 老いぼれ車夫

 1円20銭の家賃、四畳半に3尺の台所、家内4人の暮し、日に25銭の生活費。これが中等の世帯持ちで、まだ甚だしくおいぼれていない者である。また甚だしく子供を放り出して堕落の境遇に追わないとも言える。けれども一段下って年齢が50歳を過ぎて、頭が禿げ顔はしわだらけになると過激な労働には耐えられず、終日営業して骨が痛み、目がくらみ、虫歯がうずき、喘息が起こる。身体一面に膏薬を貼って灸をすえようやく起きるような者になると、妻が手内職をしなければ家賃を補うことができず、娘が絵の具屋に通勤しなければおかずを食べることができないのである。土地が低くて湿気のある狭い路地に住んで、身を平たくしないと通行できず、体をかがめないと入りがたい家の軒は朽ち、ひさしは老婆の歯のようにまばらに抜け、日光は遮蔽されて室内は暗くさながらむろのような住居である。古つづら・ござ・破れ布団の他には家産はなく、かまどはボロボロに崩れ、畳の上敷きは常に荷馬の腹帯のように汚れているが、これを新調する資力はないのである。けれども、これらはなおいまだ一個の世帯持ちであることを失わないのである。

 それより下って彼の60歳で車を引き、68歳にしてなお力仕事に従事する者や、実に養老院または救貧院に入るのが適当な男やもめの境遇を見れば、ますます大都会の無慈悲を嘆かざるを得ない。彼らのある者は、実に頼るべき親戚はなく、またよるべき主家はなく、もとより一個の厨房を立てる資力がないので、貧しい煙管の羅宇屋と同居するか、またはくず屋・下駄の歯入れ・あめ菓子売りなどと厨房を合同して、下谷万年町・四ツ谷鮫ケ橋または芝・麻布などの貧民街においても最後の例外となったあばら家に居住する。根板は崩れ、天井は流滴に湿り、壁紙はシミを流してヤモリが足跡をいんした暗黒の部屋に蟄居して、眼をきらつかせ、ため息をついて言うのである。

 「はあ、つまらねえ、つまらねえ。世の中はもう飽きたちゅうに不思議はあるめえ。もう苦労するほどの物はねえぜ、苦労したって一人前食うほど稼げねえだ。店賃たなちんはガミガミ言われる、家の者には面倒がられる。車屋じゃいい顔して貸さない、これはもう首でもくくれよう。野郎め。屋根代ガミガミ言って見ろい。てめえの軒の下へしゃがんでふんどしくくりつけてやるぞ。車屋の因業婆いんごうばばあめ、もしおれの車を没収でもしやがると、台所からしゃがんでくたばってやるぞ。べらぼうめ、68[歳]の老爺おやじを知らねいか」

 暗黒の部屋における怪しい眼の光と物憂いため息は、終日このような妄想魂もうそうこんをおさめた半身不随の廃体である。けれどもこの廃体も始終価値のない妄想界に沈没している訳にもいかないので、気を取り直して稼業に出て行かなくてはならない。稼業だって? どうやって往来の人はこの老骨を買うべきか、かつまた老骨はどうやって往来でその労力を売るべきか。読者はご覧頂きたい、彼らが破れた半てんを着て古毛布をまとい、廃車の梶棒を握りつつよぼよぼと貧民街の左右を彷徨し低回しているのを。彼らがたまたま客を獲得すれば虫が這うように歩み、3町で息を切らせ、2町で腰を伸ばし、4、5町で気息奄々えんえんとしてほとんど倒れようとするまでの苦痛を忍んで、わずかに賃金を得て一椀の飯を口腹に補うのである。そうして乗る者は老人婦女だけではなく、時としては壮年血気の健脚者も賃金が安いことを見込んでこの老人を駆使する。世間の事態は逆さまであるようだ。警視庁の取締りにはもとより厳重な規則があるけれども、彼らはこれをなさないと餓死せざるを得ないので、法被はっぴを借り代人を立てて表面の検査を済ませて密かに営業するのである。私たちは平日往来において彼らの苦労のない顔色やつつがない容態をたとえ見たとしても、これは一時的に彼らが日光の恩恵によって快活な青空を見た気の晴れによるに過ぎない。きびすを返して、その蝸廬かろ[蝸牛の殻のように小さい家]を訪れると、彼らの境遇が実に妄想もうそうであることを認識する。

27 生活の戦争

 現今の東京府下で営業する人力車の数は6万台で、そのうちの2万台は順番に休息をとる車として控え、あとの4万台がすべて外出して営業するという実際の計算になるので、車夫一人の一日の生活費を25銭と見積もって内々の計算をしても、彼ら労働者が日に1万円の賃金を得ないことには、普通に生活することができないのである。実に1万円、あたかもこれは東京人一同が申し合わせて、その玄関に日当1万円の大車夫を抱え置くことに等しい。抱え主は普通にこの日給を下げ渡すべきだろうか。車夫は普通にこの賃金を受け取るべきだろうか。そうしてまた、大都会はよくこの大車夫をまことに養うことができる力量があるだろうか。私たちにぜひとも熟考させよ。都下の30万戸、150万人の現住民が、深川の米倉庫を食い減らすこと4500石、人間の生命をつなぐべき最も第一の必需品にしてなお日に3万円に過ぎない。東京の人が乗車賃に払うものは、実にその3分の1に達する。大衆150万人の中に一人として米を食べない者はおらず、一回の食事も米をやめることはできないだろう。それなのに営業車を利用する者は、世の中に幾人あるだろうか。老人・子供・婦女子の大半・深窓の人・座業者・貴紳、そうして世にたくさんいる貧民または馬車に乗る人などを除くと、世間に営業人力車を利用する者は、まことに少数にならざるを得ない。これを今個人的にただすと、ここに多忙な事務者いて、毎日用務のために車代30銭を払って、うち10銭は鉄道馬車に投じた者がある。鉄道馬車の繁昌は多くの人が見る所で、人力車は常にその営業を奪い去られるような光景があって、なおわずかに350円の売上高に過ぎないのである。そうしてまたここに普通の商人がいて、商用で神田から銀座に行き、銀座から深川へ用達ようたしして、一日に20銭を人力車に払ったのである。けれどもこれは毎日ではなく、3日もしくは5日に一度の乗用であるに過ぎない。そうしてまたここに保養を思い立った人があり、忍ヶ岡しのぶがおか[上野公園]から金龍山浅草寺・墨堤ぼくてい[隅田川の堤]・亀戸などへ足を伸ばして、当日の散財のいくらかのうちで車賃30銭を費やした。けれどもこれはたまたま晴れた清和な好天気に乗じた出遊しゅつゆうに過ぎず、一か月に3回もあるはずがない。そうしてまたここに友人や親戚への訪問や病気見舞いなどの人があり、某区から某区へ巡って車賃若干を支払った。そうして世間の無沙汰は75日に一度の見舞いで、例え当日人力車の賃金に10円を支払うと言っても、一日に平均して車夫の懐中に落ちる所は、12銭5厘にすぎない。到底これで車夫を養うことはできない。訪問者や保養者は寥々りょうりょうと少なくて、もとより車夫を養うのに足りない。それならば商人だろうか、事務者だろうか、都下の住民を平均して、この種の人物が元来どれくらいの数いるだろうか。ことに眼前の鉄道馬車の繁昌が、林のように人を積んで一日の売上高が500円を超えることができないのと比較すれば、彼らの営業は実に危うからざるを得ない。東京の人はよく彼らに1万円の車賃を払うことができるのか、払わなければ彼らは餓死せざるを得ず、餓死したくないと思えば、彼らは1万円を請求しないわけには行かない。これは実に現今の難問題であって、上下社会の平均を測るべきはかりであるべくして、かつ下層社会の生活のよって定まる所を見るべき標準であろうか。ぜひとも生活戦争の実際の状況を開陳するようお願いしたい。

 時刻は正午である。両国橋の橋畔の停車場に車夫が集まって語る。[訳注:以下は人力車夫の会話である。名前を原文の甲乙・・・から、AB・・・に変更した。対応は以下の通り。甲A・乙B・丙C・丁D・戊E・己F・庚G・辛H・乾I・坤J・巽K・艮L]
「A兄貴、夕べは?」
「俺はあれから『ダリカン』[40銭]よ」
 AがBに質問して
「あれから手前はどうした」
「あれからもう意気地のないあぶれよ」
 CはDにひそひそ話で言う。
「おらあ、ひどかった。夕べは『バンドウ』[8銭]だ」。
 Aは穴の開いた赤毛布ケットを腰にまとい、Cは紺の法被はっぴに白い脚絆をつけ、Bは破れた筒袖つつそでを着て、ボロ股引ももひきを身につけ、Dは兵隊帽をかぶって背骨が曲がっている。一人は元気盛んな男、一人は老いぼれ、一人は肥満して豚のようで、一人は非常に痩せて蚊の脚のようである。頭の格好は、あるいははげ頭、あるいは若者のいなせな髪形、まんじゅう笠、はち巻き、大黒帽子である。そして手甲てっこう・袖じゅばん・長股引ももひき・半股引ももひきなど一様ではない身なりであり、不ぞろいな姿形すがたかたちである。あるいは鋭い眼光・魯鈍な顔面・残酷な容貌・俊秀な眉目・野卑な人相・賢そうな目つきであり、あるいは平たい鼻・猫の額、また高い鼻・すらっとした痩身とあらゆる骨相の標本を集めたようなこの仲間である。
「どうです当今の閑なことは」
 Iが言うと、Jが語ることには、
「私どもは、先刻新橋まで買出しに行きましたが、あっちはまだひどうごす。橋から先は車で埋まって歩けない。龍閑町[現・内神田]へ「セイナン」[7銭]の帰りで、飯一杯無罪でげすて[飯一杯の収入にしかならない]」
 Kは追っかけ仕事が下落したことを言い、Lは停車場仕事がさびれたことを言う。「べらぼうめ、赤坂へ300で誰が行くものか。車屋さんは米の飯を食って稼ぐんだ。べらぼうめえ、東京の者は石の上の住まいだ、水まで買って飲むのを知らねえか」
 と、勤番者[値引きしない車夫]は悪口を吐いた。
「亀の野郎め、また行きあがった。本当に意気地のないヒョウタンだ。帰ってきたら胴骨どうぼね[あばら骨]を打ちくじいてやろう」。
 亀の野郎は、正直者である。安値で仕事をして、仲間からのけ者にされた。
「どうだ世帯持ち、夕べはしっかり稼いだか」
 世帯持ちは笑ってうなづいて
「そうさ氷川へ『ドテジバ』[12銭]、本郷へ『ドテゲン』[15銭]、それから帰りに観音へ『ドテヤマ』[18銭]だ」
「この畜生め」と仲間は叫んだ。
 ある者は毎日の稼ぎ高にほらを吹き、ある者は1か月5円の平均であることをありのままに話す。あるいは神田の車代が高いことを言い、あるいは上野の交番がやかましいことを言い、賃金の下落・損料の不納・部屋の放逐、あるいは無銭飲食・居酒屋の不面目、または賭博に敗走したこと・金貸しを踏み倒したこと・無尽に当たり損ねたこと、姦淫を遂げることができなかったこと、その他の嘆息すべき話題・放笑すべき問答・高尚らしい議論・卑猥な珍談が、断続し、沸騰し、流伝し、渦巻いてくるこの壁のない大集会は、知らず知らずの間に変則的な自家生活の実相を説明して、風塵木石に吹聴する。どれほど彼らの境遇が閑散として気楽であるかを見よ。
 こうした所へ一人の紳士がかばんを提げて突然現れると、多くの車夫は雑談を放り出して一斉に立ち上がり、眼を鋭くしてこの紳士を見る。
 Aがまず叫ぶ「旦那、参りましょう」、続いてBが「旦那、お安く」と言う。
 Cは近づいて「旦那、どちら様へ」、Dは突進して「旦那、ご都合まで」
 紳士は彼らを振り返って、ひと睨みした。ABCDは一斉に躍り立って進み、口をそろえて「旦那、どちら様へ」
 紳士は一言、「衆議院」
「かしこまり」
 バタバタ、ガラガラとABCDEFGHは我先にと空車を引きずり出して、紳士の八方四面から梶棒を差し向けた。紳士は当惑して、あ然とした。
「畜生め」「べらぼうめ」「俺が先だ」「何をぬかす」
「くそでも食らえ」「野郎、張り倒すぞ」「ふざけ上がるな、瓢助め」
 ガラガラ、バタバタ。
「旦那、参りましょう」「何をぬかす、この畜生」
「俺が先だい、べらぼうめ。旦那、参ります。糞でも食らえ」
「どつき倒すぞ、ヒョウタン野郎め。旦那参ります」
「旦那、旦那」
 一面の光景は、まさに戦争である。

28 下層の噴火線

 利益は上に独占されて下層に金銭が流れて行きわたることはなく、賃金は安く稼業は閑で、すでに労働者はまさに絶体絶命に陥ろうとしている。彼らの仲間には、これを予防する策はあるだろうか。彼らの思想はどうか、彼らの知識はどうか、彼らの卓絶した見解はどうか、彼らの高尚な議論はどうか。彼ら力仕事の労働者には、もとより社会的な思想があることはない。ただし追究すればこれがないわけではないが、彼らは世間のことよりもまず第一に自家の生計に忙しい。彼らは日に35銭の賃金を得れば、東京の未来がどのように進歩し、どのように退歩しても、別に心を痛めることはないのである。

 けれどもまた中には自家営業上の困難から帰納して、乗客の種類・人力車の台数・物価賃金の比較・世間の購買力・倹約あるいは奢侈の程度など、最も卑近で浅い知識を振るい出して憂慮する者がいないわけではない。6万台の車といい、5万人の力仕事の労働者といい、25銭の生活費といい、1万円の賃金という。東京は東京自身が運動する歩行または奔走のために、毎日1万円を払わなくてはならない無契約の抵当品を負債として抱えている。東京人は、よくこの抵当品の利子を返済することができるだろうか。一刻一秒でも利子の返済を怠ると、飢えた債主は速やかに厳しく催促をするだろう。実に厳しく催促し請求して、得られなければやめない。試みに、少し小ぎれいな着物を着て、少しつやのある羽織を着て、少し贅沢な履物を履き、こうもり傘・帽子・かばんなどを携えて町中に立ってみよ。飢えた債鬼が往来の八方から群がり集って厳談し督促すること、我を争って追随し請願することは、あたかも戦場のようになるのではないか。実に厳重な貸金の催促と言わずに何と言えるだろうか。「巧慧こうけい」[巧みで聡い]な一人の車夫は、「当今の追っかけ仕事は乗られるのではなく、乗せるのである」と言っている。「怜悧れいり」[利口]な一人の労働者は、「現今の客は乗る気が三分で、乗らぬ気が七分である」と言っている。実にその通りである。三分の乗る気はあっても財布と相談すれば、到底七分の乗らぬ気に勝たれざるを得ない。それなのに巧慧な車夫はこれに追随して、巧言令色、百方請願ようやく口説き落として、これを乗せる。乗せたのは立派な客であるが、元来七分は乗らぬ気の種である。怜悧な者は客の内情を察し、巧慧な者はこれを口説き落とす。二者が合体して「百怜ひゃくれい千慧せんけい」[百の怜悧と千の巧慧]にして初めて、一人の客を獲得する。これが実に現今の追っかけ仕事の実際の状況で、都下の8200こうの停車場のいずれの場所に持っていって、どのような車夫に聞いても、これを「虚言である」として退ける者はいないだろう。このような仕事のやり方が、どうして真実の営業になるだろうか。必要をもって起こった営業になるだろうか。大都会が養うべき力量があって、養うことができるお抱え車夫であり得るだろうか。

 以上は、もとより記者である私の偶感で一つの管見論であるに過ぎないけれども、多くの労働者はこの奇想をよく理解してよい善後策を講じる知恵を振るわず、ただ一途に眼前の小さな恵みに拘泥して言うのは、「鉄道馬車を倒すべきだ」「円太郎馬車[乗合馬車]は廃止すべきだ」「車代を廉価にすべきだ」「巡査の制裁を寛大にすべきだ」ということである。ああ、これは何事であろうか。鉄道馬車の収納高は、彼らの生活費の総計より見れば、実にわずかなものである。けれども彼らは、これを目の前のカタキであるとしてすこぶる念頭をわずらわせる。彼らは時々刻々、この「長蛇」[馬車]のために自家の営業を略奪され、豊かな稼業を貧乏にされ、豊饒な地面を砂漠にされるかのように感じて、常にこれを撤回しなくてはならないという。けれども慎重に考えてほしい、長蛇の収納は350円ではないのか。これをすっかり倒したとしても、彼らの財布にどれだけの利益となるだろうか。彼らの総数に配分すれば、実に1銭にも満たない数字である。けれども彼らは時々刻々に自家の商売ガタキを目撃して、5銭・10銭あるいは日に稼ぐべき半額・全額をつかみ去られたように感じて、寄る所・触る所において切歯扼腕して語る。その通りである。彼らの同輩は明らかにこの長蛇を妨害視して、一揆や暴動をもってこれを転覆し去ることに同意を表す。けれども彼らの仲間には首謀者や首領であるべき人物はなく、そうしてまた彼らの社会には檄文・集会・団結・同盟などの機械的な勢力もしくは精神的な運動力がすこぶる微弱である。彼らはめいめいの意志においてすこぶる発動がある。けれどもこれを概括した威力には乏しい。彼らは5本の指の交弾力はあるが、一つの拳としての大勢力はない。それゆえに彼らの噴煙は天を衝くべき噴火山の頭上にはあらず、常に山腹または海底の下層に存在するのを見るのである。

 どれほど利益を独占されても、下層の噴火熱はいまだ噴火山脈への経路を探すことができず、なお地下に混乱が浸透する状況を見る。もちろん彼らの社会には事に臨んで団結するという粘着力に乏しいことは明らかである。けれどもここで鉄道馬車あるいは乗合馬車が日に3000円ないし5000円の収納をなして、営業上で屹然きつぜんと彼らの強敵となれば、あるいは彼らも全身を挺して同盟団結をもって強敵を倒す策を講じるに至るかどうか予想できない。けれども何を言うにも、馬車賃が合算してわずか1000円にも満たない収入であるので、これを倒したとしても格別彼らの財布に豊かな配当があるとも見えないので、進んで事を企てるのも愚の至りであるとして手を控えているのであるというのが、聡明な馬車会社の説である。聞けばなるほど利益の独占と言っても、強いて大きく言うほどのことでもないのだろうか。けれども下層の不満は、苦熱の度を加えるにしたがって急激に起こって、突然意外な所で沸騰するという奇観があるだろう。馬車会社は一つのはるかな山に過ぎないだろうが、彼らのためには危険な火山質であって、あたかもその火導脈に当たっているもののようである。

 閑話休題。噴火のない下層の苦熱はどれほど混乱を極めていることか。ある日、記者である私は、彼らの営業について実際の景況を見届けようと思い一人の車夫の後を追った。彼ら営業者は常に「買出し」と称して、へんぴな住所から繁華な場所に向けて空車を引き出すのを通例とする。すなわち本所二つ目・三つ目・割下水わりげすい・亀島町・太平町など[いずれも現墨田区本所地区]の裏屋に住む車夫は、主に両国・相生町通りに車を出し、谷中・根津・堂前・稲荷町の辺りの僻遠の地に住む者は、上野広小路・上野山下・雷門前・吾妻橋などの繁華に向け、外神田一面・下谷の車夫は万代[万世]橋へ、深川に住む者は、江戸橋・鎧橋・小網町・小舟町・蛎殻町・水天宮の近傍・人形町一帯の繁昌地へ向け、その他に芝・赤坂に住む者は新橋へ、麻布に住む者は赤羽橋・三田へ。それぞれ最寄りの繁栄して人馬の往来が絶え間なく続く方面へ向けて車を出す。あるいは彷徨客を追い、直立して四辺を見回し、もしくは停車し休息して四辺が閑静か喧噪かを伺い、群集の中から客を見出して丁重な言葉づかいをするのである。しかしながら、客の多い所はまた同業者も多く、車両が街道に連なって往来が紛糾し、いわゆる「よき鳥」「よき種」も数多い「歯にぶつかって微塵みじんとなる」(「歯にぶつかる」とは、車夫が客を付けること、「微塵」とは賃金が粉砕されたことを言う、彼ら社会の隠語である)。小用の客は、大半が鉄道馬車に奪い去られて「馬車値」になり、また頻繁に姿を見せる巡査の見張り、ガラクタ馬車による蹂躙、その他に繁華に伴って出没する種々の塵影に妨げられて、安穏に営業することができないのである。あるいは金比羅や水天宮の縁日・観音の開帳・隅田堤の桜・上野や芝の山内などの公園で事がある日、もしくは酉の市・元日の恵方参りなど衣香[衣服にたきしめた香]や帽子の影が群集する方角をしたって車を向けても、同様に雑踏にさえぎられ揉まれて十分な稼業をすることができず、あぶれて帰る者が多い。素人・正直者・老いぼれ・気が鈍い者は、総じてそうである。そうして繁華な場所・交通の要所・枢要な地区においては、常に残忍な同類の噛みつき合いを見る。

 ある日、素人の車夫は梶棒を握って、突然「買い出し」に向かった。往来の雑踏ではもとよりよい客を得ることはできない。屈託して左右を目を細めて見ると、あたかもうまく新橋ステーションに汽車が来着した模様である。これ幸いと空車をしぼって、急いで停車場ステーションに向かい、蟻の穴を崩したように群集が波立って来る前に車を差し向けると、果たして手荷物を提げた一人の福客が見つけて乗車してきた。「得たり賢し[しめた]、よき鳥、よき種、神機妙算」と喜びつつ梶棒を差し上げて、まさに出発しようとすると、その後から「野郎待て」と車を食い止める者がある。彼が驚いて見ると、これは同じく一人の車夫である。何事かと思う間に、また一人が背後から突然現れて、彼の頭上に痛い一拳を加えて、「泥棒め」「どこからやって来やがった。車をぶち壊して仕舞うぞ」と剣幕が鋭く、残酷な面相に泥棒呼ばわりされながら、彼はなおいまだにその理由を悟らない。「この野郎。太い野郎だ、さあ梶を下ろさないか。べらぼうめ20両の株だい。テメエたちに横取りされてたまるものか」「つらあ見あがれ、この盗人野郎め」「覚えてやがって、今度来やがったたら、どてっ骨なぐりとばすぞ」「この瓢助め」。実に停車場は、20円の敷金である。彼はようやくその理由を悟り、争う力もなくすごすごとして立ち去り、向こう側の停車標識を見て梶棒を下ろした。「おいおい若い衆どうしたんだ。そこへ腰を掛けるなら、気の毒ながら3両持って来な」。ハッと彼はまた驚いて振り返った。「いやなら除きない。そこはお前たちの腰を掛ける所じゃねえぞ。この寝ぼけ野郎、顔でも洗って来あがれ」。これは飛んだ所で、所詮まごつく場所ではないとまた空車を引きずって往来に出かけ、佇立ちょりつして茫然と眺める眼前へ、忽然と一人の客が現れて「九段坂まで、安く行かないか」、「はい、かしこまりました」と梶棒を下ろして、あわてて乗せようとする所へ、後ろから一人の勇み肌の壮年の男がガラガラと引きずって来て「旦那、参ります」と梶棒を下ろす。「いや、そうはなるまい」。「何をぬかすこの野郎、おいらがコサイタ客だい。べらぼうめ、ぐずぐずぬかしあがると、張り倒すぞ」と、荒々しい車夫は暴言を吐き、乱暴に客を奪ってとっさの間に走り去った。彼はあ然として、去って行く後ろ姿を打ち眺めていた。「こらこら、なぜ往来の真ん中へ突っ立っているのか。どこだ、免許証を出せ。いつ車を引き始めた。何、女房が亡くなってどうした。いかんぞ、処分を負わせてやろうか」。彼はただ平身低頭するだけである。

 どれほど憐れむべき力仕事の労働者が、他人による利益の横取りに会うことか。そうして身軽ですばやい者はどうであるのか。読者はぜひとも彼らの営業圏について注目してほしい。一人の車夫が飛んできて歩行者の背後から、「旦那、参りましょう」。他の車夫は怒りでにらんで「何をしやがる停車場の前で」「停車場がどうした、もうろくめ」「こん畜生、太い野郎だ。さあ交番へ来い」「べらぼうめ、交番も明番もあるものか。さあ旦那、召して下さい」「うぬ生意気ぬかしあがる。殴り倒すぞ」「何だ殴る。この野郎め」、ついに乱拳・殴打・撲闘を見る。

29 車夫の食物

 現今における東京の車夫社会の食べ物を、高貴な人・深窓の人、または様子を知らない山奥の人々が見聞すると、どれほど驚くことだろう。と言っても彼の先生たちがあえてムカデを食べるわけでも、大蛇を食べるわけでもないが、普通の人の眼に映じるのは何とも不思議なものにならざるを得ない。両国橋のえびす餅・こわ飯、浅草橋・馬喰町のぶっかけ飯、鎧橋よろいばし力鮨ちからずし、八丁堀の馬肉飯、新橋・久保町の田舎そば・深川飯、これらは彼の先生たちが最も便利であるとしている食物店であり、風塵ふうじん一飛、額の上の汗を拭きつつここへ立ち寄って、一方の眼で往来を見つめ一方の眼で食器を見つめて箸と茶碗を持ちながら辺りを見回して客に注意し、よき鳥があれば食事の間でも逃すまいと鋭敏な神経をそばだてつつ早々に食べ終わって箸を投げ、まだ食道が調わないのにきびすはすでに返されて1町ほど客を追いかける。今飯屋の前に立っていたかと思うと、その身はすでに30町の所へ飛んで来て休息しているのを見る。これが実に路上稼ぎ人の営業法であり、こうしなければ賃金を積むことができないからである。試みにいま彼らが便利であるとする食品について、昨今の流行から2、3種類を選んで登録しよう。

丸三そば――これは小麦の二番粉とそばの三番粉を混ぜて打った粗製のそばである。すり鉢のような丼に山のように盛り出して、値段は1銭5厘、普通の人であれば一椀で一回の食事の腹を満たすのに十分である。

深川飯――これはバカ貝[アオヤギ]のむき身にネギを刻んでいれて煮込み、客が来れば白飯を丼に盛ってその上にかけて出す即席料理である。一椀が同じく1銭5厘で、普通の人には磯臭い匂いがして食うに堪えないようであるけれども、彼の社会では冬の日の最も簡易な飲食店として大いに繁昌している。

馬肉飯――これは甚だ風趣を損なう名前であるが、現下の下等食店の中で一番の盛景で賑わう。料理の方法は、深川飯と同じ案配であるが、そのたねは馬肉の骨付きをこそげ落としたものなので、非常に脂のにおいが強く鼻をうって食べることができないかのようである。一杯が1銭で、健啖である労働者は好物にしていて3、4杯を重ねる。

煮込み――これは労働者の滋養食で、種は食肉処理場から牛の内臓すなわち肝臓や膀胱、あるいは舌筋などを買い出して、これを細かく切って、肉片として田楽のように串を通し、醤油に味噌を混ぜた汁で煮込んだものである。一串が2厘で好んで食う者は立ったままで20串を平らげるのを見る。生臭いにおいが鼻辺にして近づくことができない。にえ[いけにえとされる牛]の味は異なものでとても常人の口に入るものではない。加えてその調理法が不潔であり、炰汁ほうじゅう[肉を焼いた汁]に血液を混ぜて煮出して、あたかも籠城して食糧が尽きた窮余の雑兵が人肉をほふって煮たように見えて慄然りつぜんとした心地がする。けれども仲間はこれを食べなければ真正な車夫肌ではないように心得て、いずれも好んで食べることが甚だしい。そうして、これを煮売る者はいずれも病気や傷害などのために通常の生活を営めなくなった人で、もとより貧民街の老いぼれなので、案配する完全な器具を持っていない。鍋は古銅鉄屋かねやに10年も晒されたような壊れた器で渋くさびつき、ガラクタ屋の軒下に雨ざらしとなった下駄箱の砕けたものをわずかにつくろって鍋を支える。これを見ると世の中に塵芥ちりあくたとして捨てる物は一つもないのかと思える。広い天下の道具屋の店には、鍋・釜・盤台はんだいの完全なものが山のように積まれて朝夕の始末に困り、年々歳々、雨ざらしになって廃れて行くのに、しかも当分これを購入する客人はない。

焼鳥――煮込みと同じく滋養品として力仕事の労働者が好んで食べる物である。シャモ屋の厨房から買い出した鳥の臓物を案配して蒲焼きにしたものである。一串が3厘から5厘で、香ばしい匂いが忘れがたいと先生たちは蟻のようにたかって賞味する。

田舎団子――うどん粉をこねて蒸し焼きにし、これに洋蜜またはキナ粉をまぶした物。舌触りが悪く、とてものどを通る品ではない。もし誤って食べると沸騰散ふっとうさん[炭酸水素ナトリウムと酒石酸をまぜて水に溶かした清涼飲料]を4、5杯も傾けないと消化しがたい心地がする。けれども健胃の労働者はこれを昼食の代用として、かすかなわらじ銭を蓄積するのである。

30 下等飲食店第一の顧客

 下等飲食店とりわけ飯屋・居酒屋は浅草・神田・芝の辺りに最も多く、みな労働者の飲食によって成り立つ。一番繁昌するのは両国の近傍で至る所に群がり集まる車夫や小商人、往来を急ぐ諸種の細民・労働者の立食いを待って黎明から煮炊きを急ぎ、晩の10時ないし11時過ぎまでは入れ替り立ち替りの客人の混雑で店前は常に秩序なく入り乱れている状態を招く。こわ飯・うどん・からみ餅・牛肉煮込み・そのほか馬肉飯はその看板を赤く彩り、深川飯・丸三の田舎そばや天ぷらそばなど数えるのにいとまがない。とりわけ一膳飯屋は神田三河町の辺りに最も多く、3町四方のうちに15、6軒を数えることができる。下谷竹町の新開市・万代[万世]橋や和泉橋の近傍・八丁堀岡崎町・向こう両国・本所二つ目通りなど、車夫・力仕事の労働者の群集に近い所は、みなこの種の軒店のきみせで満たされ、縄のれんや軒行灯のきあんどんに「安売り」の看板を掲げて出す。

 飲食店における一番の顧客は、車夫・土工で、彼らの独身者はすべて往来において稼いだ銭を往来にまき捨てるのを常とするものなので、一年一日のように元旦のあけぼのから大晦日の徹夜に至るまで、祭日・弔日の差別なく通して、この飯屋において飲食する習慣である。そうであるから労働者で顔の古い者は、至る所の飲食店に懇意であって多少の便宜を持つべきはずであるけれども、実際にはそうではない。一切が初対面の応対でなじみが極めて薄いのは、さすがに大都会の商売である。

 さて彼の人力車夫の仲間が、飲食店で散財する状況がどうであるかを見ると、もとよりその稼ぎ高の数は知れたものであるけれども、彼らの過半はあえて身に美服を着ようという望みはなく、もちろん高尚な思念を養おうという意欲もなく、ただ野卑な保養で身を楽しませるほかには、ひたすら飲食の欲があるだけなので、日に稼いでは飲み、稼いでは食うのに忙しい。したがってその方面に当たる飯屋・居酒屋が彼らのバラセン(散財する金銭)をつかむことがおびただしいことから、彼の下女や子供の下男は鋭敏に彼ら散財者の運命を予言する。すなわち一人の車夫が早朝に縄のれんをくぐって入る。子供の下男が推測していることは、彼は明け方に両国から客を乗せて新橋まで走り、そうして帰路は京橋よりここまで5銭の帰り仕事を引いて来た。彼の財布は少なくても12銭をもって満たされ、彼が今朝いくらの奢侈をするか、試みに前兆をひと試ししよう、ということである。車夫先生には、果たしてそれらしい態度があった。彼は、明け方の仕事にひと汗かいて手拭いを絞りつつ、片手に布団とたばこ袋を提げて、醤油樽に腰を掛けた。傍らを見れば2、3人の土工がすでにたばこを吸い終わって立とうとする所で、向こうには四角の着物(労働者と違って袖のある衣服)を着たおそらく軽業師の親方らしい男が、どこかの帰りに立ち寄ったものと見えて、朝食からすでに5、6本の燗徳利かんどくりを膳に据えて、ほろ酔い顔を呈している。その傍らにまた車力[大八車を引く荷物運搬人]の女房らしい者が、5、6歳の子供を伴ってきて、しきりにむさぼり食う様子である。そうして数多くの醤油樽を積み重ねた小暗い片隅に赤毛布けっとのボロをまとって犬のようにうずくまり、こそこそと食べる老人がいる。彼の顔は黄色に腫れて甚だしく不健康の相を現し、彼の足はよろめいてほとんど体を支えるのに耐えないようである。思うに彼は「ヨナシ」であるに違いない(前に記したように、白昼は弊廬へいろ[壊れた家]に閉じこもって日光を見ず、夜間は露に打たれて身体の精気を失っている夜なべ車夫である)。

 新たに入ってきた彼の車夫は、汁と煮しめを命じて食事にかかった。子供の下男は、彼の財布が豊かであることを知って、ことさらに一皿2銭の煮魚や一皿3銭の刺身があることを叫んだ。けれども彼は黙って応じなかった。間もなくまた一人の車夫が入ってきた。子供の下男は声をからして、精進魚類を読み上げた。車夫は刺身を命じて膳を囲んだ。引き続いてまた一人来て、ふぐ鍋を命じてあぐらをかいた。ふぐ鍋と刺身に挟まれた前の車夫は、ついに発言して命じた。果たしてそうであった。彼は贅沢な食品に囲まれて余儀なく過分の朝食をとり、飯6椀に一汁三菜で、5銭8厘を勘定しなければならない運命に迫られた。彼らは朝食においてこの通りである。昼食はどうなるだろうか。晩食にはいくらの値を払うべきだろうか。けれども想像することをやめよ。彼らは朝食の後に都合のよい仕事がなく、正午の号砲が過ぎてからは1銭も稼がず、薄暮にわずかに10町走って二銭貨を得ただけである。憐れむべし、彼らの昼食は馬飯2杯であり、彼らの晩食は切り餅1片である。

31 飲食店の下女

 1円半の給料と2年ごとに唐綫とうざんの着物を恵まれる者と同じ奉公人であるが、彼女らには2倍もしくは3倍の労苦があるだろう。年齢は15、6歳から20歳はたち前後のみな都会人ではあるが、中でも厨房で働く者は、骨幹がたくましく力量は男子をしのぐ者がある。月に一回の休日のほかは、終日、混合する体臭が蒸発する気中にあって、供膳と食器を洗う仕事に服さなければならない。その苦労はとても優しい婦人には耐えがたい。ことに彼女らが難渋するのは冬時で、厳寒で霜が深く地をうがつ暁には、彼女らの指先は暖まらない寝床と間断のない手足の粗使あらづかいによってひび・しもやけに腫れ、指先の働きを失ってついに洗うべき食器を洗うことができない。そうでなくても不潔な飯台は、糞汁くそじるをこぼしたようになる。廃屋・陋劣な店舗は、もとより彼女らの住居である。坑夫・傭人ようにんはもとより彼女らの伴侶である。彼女ら厨房の仕事をする下女の健全で身元が確かな者は請宿うけやど[口入れ業者]から入った者であるけれども、中にはすこぶる不健全でほとんど廃人のような容貌の者がある。これらのある者は私生児・棄児すてごなどで、ほとんど孤児院・養育院などへ入るべきであった者が、偶然に道を行く人に拾われてようやく成長した不運薄命の記念物である者が多い。ことに心を留めて凝視すべきは彼女らの境遇における寝床であって、寝床は実に人間衛生の基礎であることを忘れてはならない。それなのに本来の彼女らのための寝所が設けられることはない。普段は泥酔する客の座敷で2、3畳にすぎない狭隘な棚下をわずかに片付けて、駅馬の腹帯のようにあかがついた夜具を耕牛の鞍衣くらしたのように汚れた上畳うわしきに敷いて、2人あるいは3人が、四方から引き合いつつ甲女は乙女の尻に枕をし、丙女は甲女の脇の横にひそんで小犬のようにまたかいこのように、足は伸びず手は広がらず身体はともに伸びやかではない。このため身体はまた普通に伸びず、加えて終日の疲労と不規則な飲食の仕方と卑湿な住宅、陰鬱な動作によって体格の発育を妨げ、ある者は非常に肥満しある者は非常に痩せ衰え、あるいは背が低くて横幅が太り、あるいはすねが長くてうなじが短くさながらポンチ絵を見るようで、そうしてまたその年齢は童顔にして30歳を超えた者がある。青い顔をして髪が乱れボロをまとい足を湯水で洗って、言動は白鳥がつっ立っているようにただ機械的に発音し行動するだけである。そうしてまた美顔で優美な姿で、やさしい顔付きに曲折があって物言いはゆっくりして言葉は尊く、到底貧しい世帯の生まれではないような者がある。人種の混交に修験者はいよいよ天帝が怠慢であることを怪しんだのである。

 体格の発育云々うんぬんについては、次のような話がある。かつて一車夫で浅草の近くに住んでいる者があって、朝暮の飲食を最寄りの店でするのを通例としていた。ある時思いがけない幸運を得て某貴顕の人のお抱えとして、数年間外国の公館に奉仕して故国の空を夢に思っていた後に、程あって帰朝し、ふと彼の飲食店に立ち寄ったところ、さきに14、5歳の処女と思っていたその店の下女が、依然として勤続していて相変わらない容顔を見るのが不思議であった。「浦島の子はそのしわの面相に驚いて玉手箱を投げ出したのに、彼女の童顔が今も変わらないのは奇態であるなあ」と我を怪しんだ後に、このことを旧知の人に質問すると、同様に彼女の童顔を見ることがすでに10年余りであると語った。そうであるならばもはや彼女は40歳に近いだろう。年齢が人生の半ばを過ぎてなお童の髪型は不思議であると噂したが、これらの例は決して下層社会の高欄にもたれず[意味不詳]に数えなければならない。

32 労働者の事業報告書

 銀行や会社の営業に事業報告書があるなら、車夫や日雇いの営業にも事業報告書がなくてはならない。そうしてあちらには有給の簿記方がいて、営業の成績を精密に取り調べて報告するけれども、こちらの社会ではもとよりこのようなことはない。しかしながら彼らが営業者であれば、こちらもまた営業者である。社会の責任は、どうしてこれを無調査にしておくべきものであろうか。記者である私は一日彼らの簿記方となって調査をした。読者諸君は、決して見て無益としてはいけない。アメリカ合衆国の調査委員はこのために毎月、200ページの大冊を編んでいる。

●一等車夫――これは年齢が18歳以上35、6歳までで血気盛んな青年かつ壮年の独身者で、無病健脚であり、俗に「鋼鉄はがねつくり」という仲間の一人について取り調べたものである。

  番号 賃 銭  経 路      町 数  乗 客 
   1  8銭  上野~日本橋    22町  田舎紳士
   2    12銭  江戸橋~四ッ谷   30町  高等商人
   3    20銭  九段坂~亀戸・往復 30町  令夫人
   4    5銭  九段坂~京橋    20町  青年事務家
   5    20銭  銀座~北廓[吉原] 45町  会社員(ただし深夜)
    合計  65銭             177町

 ただしこれは一か月に1、2回の最も都合のよい賃金の日を取り調べたものなので、平日はこの半額以下であることを知らなければならない。

二等車夫――これは年齢が30歳以上4、50歳までの労働者で、多くは妻子がある。体質は老衰というほどではないが、少壮者のように健脚で疾走することができない者の一人を調査したものである。

       番 賃 銭   経 路     町 数  乗 客 
                   1  5銭  両国~永代     20町  商人
                   2  3銭  深川~浜町     10町  細君
      3  8銭  鎧橋~虎ノ門    28町  会社員
      4  4銭  芝久保町~赤羽   15町  令嬢
      5  10銭  新橋~本郷     33町  官吏
                   合計  30銭            106町

 ただしこれも3日に一度のよい賃金を調査したのであるので、毎日がこの割合になることはできない。

虚弱者――これは年齢が60歳前後の老衰者または体が弱くて力仕事に耐えることができない半病人の中から調査したものである。

     番     賃 銭    経 路    町 数  乗 客 
    1  3銭     万代橋~浅草     10町    職人
    2  2銭      上野~観音     8町   老婆
    3  4銭      観音~本所    20町   農民
    4  2銭5厘   両国~観音    14町   老爺
    5  3銭     和泉橋~水天宮      13町   婦人
    6    2銭    神田~両国     6町   商人
           合計    16銭5厘              71町

 老いぼれ車夫の営業は大抵このようである。彼らは壮年車夫のようによい客をつかむことができず、またつかんでも十分な賃金を得て走ることができない。わずかに壮年車夫がうち捨てた「鳥」を拾って乗客とするのである。彼らは賃金の他に1銭もしくは5厘の増銭ましせんを乗客から恵まれる時は、実に三拝九拝してその恩を感謝するのである。どれほど彼ら老いぼれ車夫が哀れなことか。そうして記者である私はまた、さらに彼らの人数の多寡について調査した。(表は1000人についての比例である)

    健脚者        200 [/1000人]
    並          500 [/1000人]
    虚弱者および老耄者  300 [/1000人]

 ただし警察署の簿冊面では、50歳以上の営業者は割合が寡少であるようだけれども、実地に調査すれば案外に老人が多く、かつ年齢が壮年であって、なお病気で虚弱な者が甚だ少なくないことを見る。

33 日雇い労働者の人数

 浅草において阿部川町あべかわちょう、松葉町から西方一帯の場末、下谷広徳寺したやこうとくじ裏町、神田における三河町みかわちょう、本所外手町そとでちょう以東のへんぴな地、芝浜松町、深川における富岡八幡の近傍はいわゆる「府下労働者の巣窟」であり、そのほかに各区の場末場末に散在して居住する者もまた少なくない。一朝事あるに当たっては、地区ごとに5、600人をくり出すのに差し支えがないという。この大衆である多くの人々は、みなその親方である者に隷属して、勝手に就業することを許されない。親方はこの社会の小隊長であってとうりょうともいい、また部屋へやがしらともいい、やや威厳があって4、50人の配下を引率する者を相当の顔役とする。通例は部屋頭の上に請負師うけおいしがあり、請負師の上に会社があるのを順序とするけれども、時によっては会社から直ちに棟梁に委託することがある。または会社も請負師もなくして部屋頭が直ちに請負をなすこともある。

 そうして、その仕事の主なものは、府庁の土木課から計画される道路の修繕・橋梁の架け替え・水道工事・溝浚どぶさらい[どぶ掃除]・逓信省の事業に属する電話機の架設・その他の諸官庁・諸会社の土木事業、町家の家普請などで、その仕事の大きなものは「内外用達会社」または「東郷組」、そのほかは日本橋槙町まきちょう・材木町の辺りにある用達会社の手を経て請負師から持ち込むことがあり、三菱・三井物産・安田・平沼などの一つの会社の請負師に属して働く者がある。とりわけ鎌倉河岸の「葬儀社」、小石川の「彼得会社」に属する者は通例は100人内外であるけれど、葬儀社のように臨時に多数の人員を必要とする時は一時に1000人、1500人の労働者を2、3人の請負師・部屋頭の手から徴募することがある。すなわち某大臣の祭儀と某会社社長の葬式か某遊廓主人の葬礼がぶつかった時などでは、東京府下の力仕事の労働者の過半が白装束を着て日暮里に谷中に、青山に豊島が岡に、輿こしを担ぎ華を持って労働する時である。グラント将軍の来遊[明治12年9月]と憲法発布[22年2月]と岩崎弥太郎氏の葬式[18年2月]とは、ほとんど明治10年の戦争[西南戦争]以来の彼ら人員の締め切り日で、彼ら人員が払底を告げた時は、彼らの財布に不時の実入りがあった時である。ゆえに彼らはグラントと岩崎氏を忘れず、「憲法発布が再び来てくれ」と祈るのも無理はない。これをもって彼ら人員が太平の日において、どのような仕事をなしつつあるかの大概をお知りになるでしょう。

34 妻帯者および独身者

 日雇い仲間で妻子のある者は、痩せ世帯ながら家を持って裏屋に蟄居ちっきょし、日々の厨房にこときながらも一家の主人として世間に出るのである。その日計をいうと一日に20銭であり、白米2升5合の代金と薪が高い折には大束で5束、これで家族3人の口を養う。経済的な妻はシャツ・足袋底またはハンカチのへりいをして、日掛け4銭の家賃の補足をする者がある。または仲間の1人、2人を同居させて薪代あるいは炭・油などの雑費を埋め合わせる者がある。けれども想像するのをやめよ。彼らの妻は大抵が無精でこれらの小技術について入念にしようとは思わない。同居人のある者は家賃をためておいて逃亡するのが常例で、結局は家主に延滞をして立ち退きを請求されるのに終わる。

 これに反して気楽なのは独身者である。これらの者には大抵部屋頭が住居を貸し与える。すなわち「はまり込み」である。天井を張っていない2階の10畳あるいは12畳の広間に5人ないし7、8人くらいを同居させて、夜具料(冬時でも五幅いつの布団1枚で、夏は敷きござである)の1銭と屋根代の1銭を払わせる。いずれも20歳から30歳前後の壮年の男で、神田三河町・芝浜松町の辺りに多い。明けあけがらすが曙光を知らせて人の喧噪がようやく繁く、馬車・荷車の音がにわかに喧擾けんじょうを加えるに当たっては、夜来むさぼろうと思った彼らの寝床も無残に奪い去られて、一瞬間綺麗な夢の見残しを追想することを許されない。わずかに疲れた腕をなでつつ枕元を眺めると、前夜のむだ食いは竹の皮に残り、盤台ばんだい[浅く大きな桶]はやがてそば屋の請求を待って支払わねばならないのに、甲は昨夜講談に行って帰らず、乙は泥酔して交番の厄介になり、5人の割前を3人の懐中で弁償するなどの不始末が、仲間を通じて行われるのは土工部屋の常で、阿部川町の裏長屋・下谷竹町の辺の親方に属して鉄道荷物車の運搬に従事する者はみなこれである。彼らは日々1銭の屋根代と1銭の夜具料とわらじ代と湯銭とたばこ銭と、そのほか法被はっぴ股引ももひきなどの切替えに要する金銭を普通に計算する時は、稼ぎ高の内で飲食に費やす額が甚だ少なくなるのが分かるだろう。けれども彼らは飲食店において時として過分の奢侈をして、またある娯楽に向かって決して軽視することができない濫費をすることがある。

 数年前、まだ都下で木賃宿が廃止されていなかった時には、有妻と独身の差別なく力仕事の労働者の過半は、ここに同住雑居して各自が世帯道具を所有し、10畳ないし14、5畳の一間に3家族もしくは5家族が混合し、一個のかまどを5、7人ずつで共同して使用し、甲家族は北の隅・乙家族は西の隅・丙は左側・丁は右側と、各自が座敷の片隅に陣取って飲食し、わずかに一脚のついたてまたは腰びょうぶの類いで相互の厨房を隠蔽いんぺいし、やがて夜になると各自の陣屋を撤収して、入来客の寝床に譲り、いびきの音がごうごうとする傍らで飯を食べ汁をすすっていたのである。あるいは子供の放尿が一座を騒がしたり、終夜ノミ・シラミに襲われて安眠できなかった目のとどく限りボロの社会は、今はどこに向かって落ちて行ったのか。浅草松葉町・四ツ谷鮫ケ橋・芝新網町などの裏屋が、おそらくこれらの歓迎者であるだろう。

35 夜店

 「大都会で夜店が繁昌するのはなぜか」と、唐突に疑問を提起されたとき、一言でこれに答えられる満足な言葉は、例え聡明な頭脳を持っている人でもなすことができない所である。記者である私は「これは下等社会における購買力は、夜になって初めて盛んになる所があるからである」と言いたい。けれどもこれは漠然とした言い方にすぎない。もちろん下等社会の購買力は昼が3割で夜が7割であり、主人が夕暮れに帰宅して家をうるおすと、それから妻が外出してすべての日用品を調達するのが習いである。けれどもこの単純な道理は広く夜店に適用できるものではない。

 ある商人は言っている「大都会で夜店が繁昌するのは、商人が時をセルが故である」と。[訳注:ここで「セル」は「競る」と「sell(売る)」を懸けている]。 そもそも大都会の商品は、実物よりはむしろ時間が貴重な価値を持つ。朝売りの新聞紙は1枚が1銭5厘で、夕刻には8厘、5厘、夜半になるとこれが3枚1銭に値が下がる。もちろんこれは日刊の新聞紙についての相場であるが、一般の商品、都内で商われる物品のすべては、みなこのような運命を持つのである。青物市場における野菜の相場は大抵午前8時に定まって10時に割下落し、11時半になると品物の種類によってはほとんど半値で放り出される。魚市場でもまた同じでゆう河岸がしの品は朝には価格を保たず、午前10時を過ぎると例の宮物師[傷んだ魚類を扱う商人]に捨て売りする。ただ古着市場のみは朝夕の相場にさしたる変動はないものの、その時節向けの商品とは、時節ではないと現金取引でおおよそ3割方の思い切りがある。そうして、その時節の継続も決して10日間を越すことがないので、古着商人は「時をセル」のに緩慢であってはならない。くず屋の建場においてこうもり傘のお払い物を買い入れるのに、冬の12月から1月にかけては1本がわずか8、9厘の相場であるが、2月の末から3、4月になると同じ品で1本が3銭以上に上る。これは時節の到来に臨むからである。そうして新しい意匠の人形やガラス玉のような玩具でもまた同様に初日の縁日に現れた品の価格は、第2・第3の日には半分もしくは四半分の価格に下落する運命を持つ。金魚・植木の類いもみなそうである。玩具商人の同類もまた、実に時をセラなくてはならない。結局のところ「時をセル」のは「価格をセル」という道理で、価格が競られる所では必ず物の繁昌を見るのが自然の勢いである。「夜店が繁昌するのは、商人が時をセルが故である」という言葉は、まことによい。ぜひとも記憶して後日の参考に供するべきである。

 東京に店を持つ商人が1万人いれば、店を持たない商人もまた1万人いる。夜店の商人は少なからざるを得ない。そうして東京には数万軒の大商店があって、年々歳々の商品のきず物や店晒たなざらし物がほとんど毎日のように蔵の隅から掃き出されるので、夜店の商品は潤沢にならざるを得ない。夜の東京に一段の賑わいを催すものは、また偶然ではないのである。

 夜の東京における第一の盛景は、道具市として知られた人形町の新開市である。ここへ向けて商品を張る者は、近くは浜町・大坂町・八丁堀一面の古道具商人であり、あるいは深川・神田などに住んで2、30町の遠方から運んで来る者も、また少なくはない。その他に銀座通り・神田須田町・浅草広小路・麻布十番・八丁堀岡崎町・深川森下町・外神田・本郷・四ツ谷・麹町などはみな夜に入って路上が一段と光を増す。縁日が盛大なのは蛎殻町2丁目の水天宮で、おびただしい人影を見るにはいまだかつて東京第一の地であるとする。西は鎧橋から、米市場を横切って北の方、大坂町に至るまで一帯の往来はみな露店によって満たされ、油煙がみなぎり渡って常に半夜を焦がす場所である。虎ノ門の金比羅宮・鉄砲洲の稲荷神社・深川不動尊・小石川の伝通院・麹町番町にある二七不動尊・小川町の五十稲荷・具足町[京橋2丁目]の清正公・神楽坂の毘沙門天などが、まずその盛んなものとして知られている。

最暗黒の東京 終


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?