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北村透谷「今日の基督教文学」現代語訳

北村透谷が、明治26年4月15日に刊行された「聖書之友雑誌」第64号に「すきや」の署名で発表した「今日の基督教文学」の現代語訳である。ここで「文学」は、狭義の文学である文芸の意味ではなく、それに思想・哲学や歴史を含めた広義の文学の意味で用いられている。この評論を発表した時に透谷は「聖書之友雑誌」の編集員の仕事をしていて、透谷の所得面の支えの一つになっていたと考えられる。いつから編集を担当するようになったかについては、明らかになっていないようであるが、同年10月末をもって免職になったことははっきりしている。

透谷は、26年2月に文学同人誌である「文学界」に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表して、山路愛山との間にいわゆる人生相渉そうしょう論争が展開されることになった。このため同年4月刊行の「今日の基督教文学」も、同論争の一環の評論として位置づけられることも多い。しかしながら雑誌の性格を反映して、その筆致は大きく異なっている。

この現代語訳の底本としては、『北村透谷集』(明治文学全集29、小田切秀雄編集、筑摩書房、2013年1月)に所収のものを用いました。あわせて勝本清一郎「解題」(『透谷全集 第二巻』、岩波書店、1950年10月)を参考にしました。

現代語訳「今日の基督クリスト教文学」

ー 今日のキリスト教文学 ー

北村透谷 著   上河内岳夫 現代語訳

 文学は時代の鏡である。その上に映じてきたところを見れば、いかなる思想がその時代に存在するか、いかなる主義がその時代に勢力があるか、国民の元気はいかなる方向に進みつつあるかなどのことを一目で承知することができるのである。

 宗教と哲学とは文学の元素[根源的要素]であり、いずれの国の文学を取ってきても、その宗教及び哲学から懸絶したものはない。けれども一つの宗教は直ちにその文学に影響を及ぼすものではない。哲学といえどもこれと同じである。宗教もしくは哲学が普通その影響を文学に及ぼすのは、必ずその宗教もしくは哲学が多少の勢力を社会に得た後であるだろう。ゆえに文学の舞台にまで達した宗教は、少なくとも社会の一つの動力となったものであることは承認することができるであろう。私はこの雑誌で、このような題目を詳論しようとするものではない。ただ今日の文学界にキリスト教の勢力がいかなる度合いにまで進んだのかを知るために、以下にその主な文学者とその文章の性質の一斑を示そう。思うに『聖書』と文学は極めて親密な関係があるからである。

徳富蘇峰 
 イギリス聖書会社の年報の中に、かつて日本の一著者について言うところがあったのを記憶する。そうしてその「当代最も勢力のある著者」云々のことからして、私はそれが蘇峰氏であるだろうことを知ったのである。彼は疑いもなく今日の一大勢力である。そうしてその勢力の淵源えんげんとするところは、キリスト教的思想から来るものが多い。彼は、自らは教会に籍を連ねないけれども、その一代の抱負はナザレのイエスに得たところが少なくない。彼は直接に文学の批評壇に立たず、政治社会に両足を投じているようであるが、時として迅雷じんらい[激しい雷鳴]のように批評界を騒がせることがある。近ごろの観察論という一篇(「観察」「国民之友」第186号、明治26年4月)は、あるいはためにする所があって書いたのであろうが、論旨は明晰であり一家の見識として特筆することもはばかりはない。彼が純粋なマコーレー派ではなく、またカーライルにもつかず、宇宙の真相は人間の力ではどうともすることができないことを説くようなことは、私はその卓見に服さざるを得ない。そうではあるが彼の所論はどこまでも人間の社会を重んじて、個人的な生命には少し軽いところがあることも免れない。「宇宙は無限であり、人生は多望である」と言うに至っては、私は密かにこの言葉を蘇峰先生に得たことを喜ぶ。蘇峰先生の宗教を代表するものは、恐らくこの一篇に過ぎるものはないであろう。

植村謙堂[正久] 
 私には神学者としての植村氏を見ることはできない。文人として、詩人としての植村氏は「日本評論」「福音新報」がこれを示している。「福音新報」における彼は実際的伝道者であり、「日本評論」における彼は理想ある詩人であり、彼はキリストを友として世を導くことを知悉する。彼は事実の世界において人間の生活を観察する眼光を持つけれども、天地を味わう詩人的霊眼は、彼を観察に甘んじさせない。時に沈痛な文章を「日本評論」の紙面に見ることがある。

内村鑑三
 彼の名は近頃、キリスト教文学の中に響いてきた。彼の『信者のなぐさめ』[基督信徒の慰]と題する新著を一読すると、いかにも天真の愛すべきものがある。アサガオは朝に咲いて夕方にしぼむものである。我々の生涯は甚だこれに類するものがある。アサガオは何物かに寄り添わなくては育成しがたいものである。我々の生涯は甚だこれに似たものである。剛を装い、健を飾っても、心性の中において何となく弱いところがあるのは人生の真相である。彼は自らを知り、また人生を知っている。知識には限りがあり、そうして彼は限りがある知識をもって限りのない人生の一端をこのように質朴に白状する。キリスト教文学の一つの現象として十分見るに値するものである。

宮崎湖処子
 彼の詩は純潔と清楚をもって世間の人にあまねく知られている。今年に入って、その独特の趣味がようやく現れてきて、数多くの小篇はあたかも砕けた玉を盤上に転がすようである。ワーズワースは今日に期待することはできない。もし「キリスト教的詩人でややワーズワースに近い者は」と問うならば、私はまず指を彼に屈するであろう。

山路愛山
 愛山君の名は近頃、もっとも多く世間に知られている。彼はクレド[信条]においてメソジストであるとともに、文学においてもメソジストを去ることを好まないようである。その評論は往々にして甚だ専断に失することがないわけではないが、着眼は非凡で、紙背に常に声があるように感じる。「護教」は彼のキリスト教を代表するものであって、初めから実際的道徳を重んじ、主観的観念を退け、平坦な倫理を広めることを希望するようである。私は彼が純然たるイギリス流の思想家であることを認める。我が国のように昔から形而上の思考にほしいままな土地にあって、彼のように実際的道徳を唱道することが、時勢の上から大いに必要であることを知るべきである。私は彼がますますこの主義の上に立って、雄視すること[威勢を張って他に対すること]を望むものである。ただ彼に惜しむべきことは、あまりにメソジストに流れて、個人的生命ライフを存外に軽視する傾きがあることである。

戸川残花
 詩人としての彼は、牧師としての彼よりも、多く世間に知られている。近頃、「三籟」という雑誌を発行して、いよいよ多く詩人となった。彼の詩思は、東洋的趣味が豊かで、社会の事実には近くはないものである。そうではあるが、天を知り、地を知り、かつ人を知るのは、必ずしも社会の事実のみに限らないだろうから、乾燥した今日のキリスト教文学に清涼で温血がある趣味を注ぎ込むものは、恐らくこの「三籟」になるだろうか。

松村介石
 この人の名は、目下、都下で騒がしい。『デビニチー』[1892年刊]の一巻は、彼をして哲学者の中に数えられさせようとしている。彼のキリスト教については、私は多くはこれを知らない。彼が主義とする三大性のようなものも、私はいまだ全く学ぶことができない。聞くところによれば、彼は熱意の人・確信の人・主義の人であって、その倫理に関する議論は実行を重んじるものである、ということである。

 その他に、巌本善治氏、横井時雄氏、磯貝雲峰氏など、一々紹介すべきであるが、事情があって記さない。

(明治26年4月15日、「聖書之友雑誌」第64号)

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