徳冨蘆花「謀叛論」現代語訳
「謀叛論」は、明治44年2月1日に、徳冨蘆花が第一高等学校の弁論部新旧委員更替記念特別講演会で行った講演の草稿である。この講演会の直前の1月末に、大逆罪によって幸徳秋水ら12名の死刑が執行されるという状況の下、講演の内容は政府に厳しい批判を浴びせるものとなった。
まず、大逆事件について見ておこう。戦前の刑法には、天皇・皇后・皇太子など皇族に対し危害を加える罪として「大逆罪」が規定されていた。大逆事件は、明治天皇暗殺計画の発覚に伴う社会主義者の弾圧事件である。その経過は、「社会主義運動への抑制に管野スガ・宮下太吉らが明治天皇暗殺を企図し、明治43年5月、宮下が爆裂弾実験を行う。これを端緒に、当局は幸徳秋水を主犯として、全国の社会主義者数百人を検挙し、大逆罪容疑で26人を起訴する。12月からの大審院の公判は一審のみ・非公開で実施され、明治44年1月18日に、死刑24人・有期懲役の判決を下す。翌日、天皇の特赦で12人を無期懲役に減刑した上で、同24日・25日に処刑を執行した。管野・宮下ら4人による暗殺計画はあったものの、幸徳秋水を含めそれ以外の者は冤罪であった」(『岩波日本史辞典』による)というものである。
徳冨蘆花は、判決の直後から桂太郎首相に対して助命嘆願の働きかけを行うとともに、「天皇陛下に願ひ奉る」という一文を書いて、朝日新聞に掲載しようしたが、当局は判決後一週間をおかずに処刑を執行してしまった。蘆花の講演は、当局に対する激しい憤りの中で行われたのである。講演は、多くの学生に感銘を与え万雷の拍手に迎えられ、さらに社会的にも大きなインパクトを与えた。一方、講演の内容が不敬であると当局によって問題にされたが、結局のところ「蘆花は、結局一度として警察当局の取調べも受けず、ただ第一高等学校の新渡戸稲造校長と弁論部長の教授が譴責処分を受けただけで終わった」(中野好夫)のである。
「謀叛論」には、そもそも完成原稿はなく、残された自筆草稿から第三者が復元したもののようである。このためタイトルを「謀叛論(草稿)」とすることや、部分的に異なる表現をとるバージョンが存在する。この現代語訳の底本としては、伊藤整他編『徳冨蘆花集』(日本現代文学全集 17、増補改訂版)、講談社、1980年刊に所収のものを用いた。あわせて中野好夫編『謀叛論 他六篇・日記』、岩波文庫、1976年刊と坪内祐三・松本健一編『徳冨蘆花・木下尚江』(明治の文学 第18巻)、筑摩書房、2002年刊を参照した。特に筑摩書房版につけられた花崎真也・川岸絢子両氏による脚注から多くを学びました。脚注の一部を現代語訳に利用させて頂いた所もあることを明らかにして、深く感謝いたします。
なお、この現代語訳では、読みやすさの観点から段落を増やしました。
現代語訳 謀叛論
徳冨蘆花 著、上河内岳夫 現代語訳
僕は武蔵野の片隅[世田谷区粕谷、現在の蘆花恒春園]に住んでいる。東京へ出るたびに、青山の方角へ行くとすれば、必ず世田谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松がばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部守直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向こうに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田は、50年前には互いに不倶戴天の仇敵で、安政の大獄で井伊が吉田の首を斬れば、桜田門外の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって、谷一つをはさんで差向かいに安らかに眠っている。
今日の我らの人情の眼から見れば、松陰はもとより純粋にして純な志士の典型で、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛毅な好男児である。朝に立ち野に分かれて、斬るの殺すのと騒いだ彼らも、50年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、結局のところ今日の日本を造り出すために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎない。彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけのことを存分にして土に入り、その余沢を明治の今日に享受する百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切って[畝を作って]いる。
諸君、明治に生れた我々は5、60年前の窮屈千万な社会を知らない。この小さな日本を60数個の碁盤に仕切って、ちょっと隣へ行くにも関所があったり、税が課されたり、人間と人間の間には階級があり格式があり身分があり、法律でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものはみな禁止、新しい事をする者はみな謀叛人であった時代を想像して御覧なさい。実にたまったものではないではありませんか。幸いにして世界を流れる一つの大潮流の余波は、しばらく閉ざした日本の水門を乗り越えくぐり抜けて滔々と我が日本に流れ入って、維新の革命は一挙に60藩を掃討し日本を挙げて統一国家とした。その時の快活な気持ちは、何ものをもってしても比べるべきものがなかった。
諸君、解脱は苦痛である。そうして最大の愉快である。人間が懺悔して赤裸々な姿で立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地の間に素っ裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何とも言えないのである。明治初年の日本は実にこの初々しいこの解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ぎ脱ぎ、二枚剥ぎ脱ぎ、しだいに素っ裸になっていく明治初年の日本の意気は実に凄まじいもので、五箇条の誓文が天から下る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投げ出すなど、自由・平等・革新の空気が混じり合って、その空気に蒸された日本は、まるで竹の子のようにずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したと言おうか、むしろ狂気と言おうか、――狂気でもよい――狂気の快は狂気ではない者が知りえない所である。誰がそのような気運を作ったか。世界を流れる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。我が先覚の諸士・志士である。いわゆる「志士は苦心が多い」で、新しい思想を導いた蘭学者にせよ、局面の打破をこととした勤王攘夷の浪士にせよ、時の権力から言えば謀叛人であった。彼らの千荊万棘[多くの困難]を渡った艱難辛苦は、――なかなか一朝一夕に説き尽くせるものではない。明治の今日に生を享受する我らは、十分に彼らの苦心を酌んで、感謝しなければならない。
僕は世田谷を通るたびにそう思う。吉田も井伊も白骨になって、もはや50年、彼らおよび無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に到達させた。日本は、もはや明治となって40数年、維新の立役者の多くは墓に入り、当時の学生の青二才も、福々しい元老もしくは分別臭い中老になった。彼らは老いた。日本も成長した。子供ではない、だいぶ大人になった。明治の初年に狂気のように駆け足で来た日本も、いつの間にか足もとを見て歩くようになり、内観するようになり、回顧もするようになり、内治のきまりも一先ずついて、二度の戦争[日清、日露]に領土は広がり、新日本の統一はここに一段落を画した観がある。維新前後の志士の苦心も、いささか報いられたと言わなければならない。
そうであるならば新しい日本史はここに完結を告げたか。これから守成[創業を受け継いで事業の基礎を固めること]の歴史に移るのか。局面回転の必要はないか。もう志士の必要はないか。とんでもないことである。50年余り前、徳川三百年の封建社会をただひと煽りに押し流して、日本を打って一丸とした世界の大潮流は、うまずたゆまず澎湃として流れている。それは人類が一つになろうとする傾向である。四海同胞の理想を実現しようとする人類の心である。今日の世界はある意味において5、60年前の徳川の日本である。どの国もどの国も陸海軍を並べ、税関の障壁を押し立てて、兄弟どころか敵味方で、右で握手して左でポケットのピストルを握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら、実に片時もたまらない時ではないか。しかしながら人類の大理想は一切の障壁を押し倒して、一つにならなければ止まない。一つにしよう、一つになろうとして踠く。国と国との間もそれである。人種と人種の間もその通りである。階級と階級の間もそれである。性と性の間もそれである。宗教と宗教――数え立てれば際限がない。部分は部分において一つになり、全体は全体において一つとなろうとする。その大渦と小渦、鳴戸の渦もただならぬ波瀾の最中に、我らは立っているのである。この大回転・大軋轢は無際限であろうか。
あたかも明治の初年の日本の人々が、みな感激の高調に上って解脱また解脱、狂気のように自己をなげうったように、我々の世界もいつか王者がその冠を投げ出し、富豪がその金庫を投げ出し、戦士がその剣を投げ出し、知愚・強弱という一切の差別を忘れて、青天白日の下に抱擁し、握手し、小躍りする刹那は来ないであろうか。あるいは夢であろう。夢でもよい。人間は夢を見ずに生きていられる者ではない。――その時節は必ず来る。無論それが終局ではない、人類があらん限り、新局面は開けて止まないものである。しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシーの刹那に達することができれば、長い長い旅の辛苦も贖われて余りあるではないか。その時節は必ず来る、着々として来つつある。我らの真心がそのように囁くのだ。
しかしながらその愉快は必ず我らの汗をもって、血をもって、涙をもって贖わなければならない。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説[『ジェルミナール』]にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋を密かに鋸でゴシゴシ切っておく。水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑といわず、知らぬ間に水が回って、回り切ったと思うと、突然、鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろしい勢いをもって瞬く間に総崩れに落ち込んでしまった、ということが書いてある。旧組織が崩れ出したら案外速やかに、ばたばたいってしまうものだ。地下に水が回る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が必要だ。犠牲、実に多くの犠牲が必要だ。日露の握手を来すために幾万人の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一つではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。――新式の吉田松陰らが出て来るに違いない。僕はこのように思いつつ、常に世田谷を過ぎていた。思っていたが、実に思いがけなく今明治44年の冒頭において、我らは早くもここに12名の謀叛人を殺すこととなった。たった一週間前の事である。
諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で血を流すのは嫌である。幸徳君らにことごとく真剣に大逆をやる意志があったかなかったか、僕は知らない。彼らの一人大石誠之助君が言ったというように、今度のことは嘘から出た真で、弾みに乗せられ、足もとを見るいとまもなく陥穽に落ちたのかどうか。僕は知らない。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ない苦しまぎれに、死に物狂いになって、天皇陛下と無理心中を企てたのか、否か。僕は知らない。冷厳な法の目から見て、死刑になった12名がことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らない。「一無辜を殺して天下を取るも為さず」[一人の罪のない者を殺して、天下を取ろうとしてもできない]で、その原因事情がいずれにもせよ、大審院の判決の通り真に大逆の企てがあったとすれば、僕は甚だ残念に思うものである。暴力は感心ができない。自ら犠牲となるとも、人を犠牲にはしたくない。
しかしながら大逆罪の企てに万不同意であると同時に、その企ての失敗を喜ぶと同時に、彼ら12名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけない。まして彼らは有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献げて人類のために尽くそうとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとしても、その志は憐れむべきではないか。彼らはもとは社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐い? 世界のどこにでもある。しかるに狭量で神経質な政府は、ひどく気にさえ出して、ことに社会主義者が日露戦争に非戦論を唱えるとにわかに圧迫を強くし、足尾騒動[足尾鉱毒事件]から赤旗事件[山口孤剣の出獄歓迎会で荒畑寒村・大杉栄らが「無政府共産」などの旗を振って逮捕された弾圧事件]となって、政府の権力と社会主義者はとうとう犬猿の仲となってしまった。
諸君、最上の帽子は頭にのっていることを忘れるような帽子である。最上の政府は存在を忘れられるような政府である。帽子は上にいるつもりで、あまり頭を押さえつけてはいけない。我らの政府は重いか軽いか分らないが、幸徳君らの頭にひどく重く感じられて、とうとう彼らは無政府主義者になってしまった。無政府主義が何が恐い? それほど無政府主義が恐いなら、事がいまだ大きくならないうちに、地位の低い役人ではいけない、総理大臣なり内務大臣なりが、自ら幸徳と会見して膝詰めの懇談をすればいいではないか。しかし当局者はそのような不識庵[上杉謙信]流をやるにはあまりに武田[信玄]式・[徳川]家康式で、かつあまりに高慢である。得意の章魚のように長い手足で、じいとからんで彼らを締め付ける。彼らは今や堪え兼ねて鼠は虎に変わった。彼らのある者はもはや最後の手段に訴える他はないと覚悟して、幽霊のような企てがふらふらと浮いて来た。短気がいけなかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼からどのように見ても、天の眼からは彼らは乱臣でもない、賊子でもない、志士である。天帝はその志を憐れんで、彼らの企てはいまだ熟しないで失敗した。彼らの企ての成功は、平素からの志の蹉跌を意味したであろう。天帝は皇室を憐れみ、また彼らを憐れんで、その企てを失敗せしめた。企ては失敗して、彼らは捕らえられ、裁かれ、12名は政略のために死一等を減じられ、主だったそれ以外の12名は天の恩寵によって立派に絞首台の露と消えた。12名――諸君、今一人、土佐で亡くなった、多分自殺した幸徳の母君があることを忘れてはならない。
このようにして彼らは死んだ。死は彼らの成功である。パラドックスのようであるが、人事の法則、負けるが勝ちである。死ぬのが生きるである。彼らは確かにその自信があった。死の宣告を受けて法廷を出る時、彼らのある者が「万歳!万歳!」と叫んだのは、その証拠である。彼らはこうして笑みを含んで死んだ。悪僧といわれる内山愚童の死に顔は平和であった。こうして12名の無政府主義者は死んだ。数えることができない無政府主義者の種子は蒔かれた。彼らは立派に犠牲の死を遂げた。しかしながら犠牲を造った者は実に禍なるかな。
諸君、我々の血管には自然に勤王の血が流れている。僕は天皇陛下が大好きである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・天皇陛下は質実剛健、実に日本男児の標本である御方である。
とこしへに民安かれと祈るなる吾代を守れ伊勢の大神
その誠は天に迫るというべきものである。
取る棹の心長くも漕ぎ寄せん蘆分小舟さはりありとも
国家の元首としての堅実な向上心は、三十一文字に看取される。
浅緑り澄み渡りたる大空の広きをおのが心ともがな
実に立派な御心がけである。諸君、我らはこの天皇陛下をいただいていながら、たとえ親殺しの非望を企てた鬼子にもせよ、何ゆえにその12名だけが許されて、それ以外の12名を殺さなければならなかったのか。陛下に仁慈の御心がなかったのか。御愛憎があったのか。断じてそうではない――たしかに輔弼の責任である。もし陛下の御身の近くに忠義硬骨の臣があって、
と、身をもって懇願する者があったならば、陛下も御頷きになって、我らは12名の革命家の墓を建てずにすんだであろう。もしこのような時にせめて山岡鉄舟[政治家、明治天皇の侍従]がいたならば――鉄舟は忠勇無双の男で、陛下が御若い時に英気にまかせて、やたらに臣下を投げとばしたりされるのを憂えて、ある時いやというほど陛下を投げつけ、手強い意見を申し上げたこともあった。もし木戸孝允がいたならば――明治の初年に木戸は陛下の御前で、三条、岩倉以下の公卿が列座する中で、面を正して陛下に向かい
と、凜とした様子で言上し、陛下も慄然として御容をあらため、列座の公卿はみな色を失ったということである。せめて元田永孚宮中顧問官でも生きていたらばと思う。元田は真に陛下を敬愛し、「君を堯舜に致す」[仁政を行った古代の理想的帝王に至らせる]のを畢生の精神としていた。せめて伊藤さん[伊藤博文]でも生きていたら。――否、もし皇太子殿下が皇后陛下の御実子であったなら[皇太子すなわち大正天皇は側室柳原愛子の子]、皇后陛下には御考えがあったかも知れない。皇后陛下は実に聡明で恐れ入った御方である。
浅しとてせけばあふるゝ川水の心や民の心なるらむ
皇后陛下の御歌は実に為政者の重要な戒めである。「浅しとてせけばあふるゝ」、堰き止めれば溢れる、実にその通りである。もし当局者が無暗に堰き止めなかったならば、数年前の日比谷焼打ち事件[日露戦争のポーツマス講和条約に反対して発生した暴動事件]はなかったであろう。もし政府が神経質で意固地になって社会主義者を堰き止めなかったならば、今度の事件もなかったであろう。しかしながら不幸にして皇后陛下は沼津に御出でになり、物の役に立つべき面々はみな他界の人になって、廟堂[朝廷]にずらりと頭を並べている連中には唯一人の帝王の師である者もなく、誰一人として面を冒して[相手の意に逆らうのを恐れずに諫めて]進言する忠臣もなく、惜しむべきことに君徳を補佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇の大切な機会を見す見す看過して、国家百年の大計から言えば、眼前の12名の無政府主義者を殺して、将来永く無数の無政府主義者を生むべき種を播いてしまった。忠義立てして謀叛人12名を殺した閣臣こそが真に不忠不義の臣で、不臣の罪で殺された12名はかえって死をもって我が皇室に前途を警告し奉った真の忠臣となってしまった。忠君忠義――忠義顔する者はおびただしいが、進退伺いを出して、「恐懼恐懼」と米つきバッタの真似をする者はあるが、御歌所に干渉して朝鮮人に愛想を振りまく利口者はあるが、どこに陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ給うように希う真の忠臣があるか。どこに不忠の嫌疑を冒しても陛下を諫め奉り、陛下をして敵を愛し不孝の者を許し給う仁君となし奉らねばやまない忠臣があるか。諸君、「忠臣は孝子の門に出ず」[忠臣は、親孝行な家から出る]で、忠孝はもともと同じ道である。孔子は孝について何と言ったか。
行儀がよいのが孝ではない。孔子は、また言っている。
体ばかり大事にするのが孝ではない。孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体[天皇の身体]ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職[天皇の食事を扱う職]と皇宮警手[警備職員]とが大忠臣でなくてはならない。今度のような事こそが、真の忠臣が禍いを転じて福となすべき千金の機会である。列国も見ている。日本にも無政府党が出て来た。恐ろしい企てをした、西洋ではみな打ち殺す、日本では寛大で度量の大きい皇帝陛下が、ことごとく罪を許して反省の機会を与えられた――と言えば、いささか面目が立つではないか。皇室を民の心腹に打ち込むのに、このような機会はまたと得られない。しかるに彼ら閣臣の輩は事前にその企ての兆す理由をなくさせるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転させる機智や親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子24名を、荒れ出すが最後「得たりや、おう」と引き括って、二進の一十、二進の一十、二進の一十[そろばんの割算の九九]で綺麗に二等分して――もし25人であったら12人半ずつにしたかも知れない――二等分して、格別物にもなりそうもない足の方だけ死一等を減じて牢屋に追込み、手強い頭だけを絞殺して地下に追いやり、「あっぱれ恩威並び行われて候」と陛下を小さな楯として五千万人[当時の日本の総人口]の見物に向かって気どった見得を切るとは、何という醜態であるか。
単に政府ばかりではない、議会をはじめ誰も彼もみな大逆の名に恐れをなして、一人として天皇の明徳のために弊害を除こうとする者もいない。出家僧侶、宗教家などには、一人くらいは逆徒の命乞いをする者があってもよいではないか。しかるに「管内の末寺から逆徒が出た」といっては、大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、「恐れ入り奉る」とは上書しても、「御慈悲」と一句書いた者がないとは、何という情ないことか。幸徳らの死に関しては、我ら五千万人が等しくその責任を負わねばならない。しかしもっとも責めるべきは当局者である。総じて幸徳らに対する政府のやり口は、最初から蛇が蛙を狙うようで、随分と陰険・冷酷を極めたものである。網を張っておいて鳥を追立てて、ひっかかるが最後網をしめる、陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼らは国家のためにする積もりかも知れないが、天の目からはまさしく謀殺――謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも暗中にやってのけて――諸君、議会における花井弁護士の言葉を記憶せよ、「大逆事件の審判中に当路の大臣は、一人もただの一度も傍聴に来なかった」のである――死の判決で国民を脅して、12名の恩赦でちょっと機嫌を取って、それ以外の12名はほとんど不意打ちの死刑――否、死刑ではない、暗殺――暗殺である。
せめて死骸になったら一滴の涙くらいは持ってもよいではないか。それにあの執念な追及の仕様はどうだ。死骸の引取り、会葬者の数にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押し込めて、死体の解剖すら大学ではさせない。できることなら、さぞ12人の霊魂も殺してしまいたかったであろう。否、幸徳らの身体を殺して無政府主義を殺すことができた積もりでいる。彼ら当局者は無神・無霊魂の信者で、無神・無霊魂を標榜した幸徳らこそが真の永生の信者である。しかし当局者も全く無霊魂を信じきれないと見える。彼らも幽霊が恐いと見える、死後の干渉を見れば分かる。恐いはずである。幸徳らは死ぬどころか活溌溌地に生きている。現に武蔵野の片隅に寝ていたかく言う僕を引きずって来て、ここに永生不滅の証拠を見せている。死んだ者も恐ければ、生きた者も恐い。死減一等の連中を地方監獄に送る途中の警護の仰山さ、始終ピストルを囚人の頭に差しつけるなぞ、――その恐がり様もあまり酷いではないか。幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万人の陸軍、何万トンの海軍、幾万人の警察力を擁する堂々たる明治政府をもってして、数える程もない、しかも手も足も出ない者どもに対する怯え様も甚だしいではないか。人間は弱みがなければ滅多に恐がるものでない。幸徳ら、もって瞑すべし[心残りなく成仏できるだろう]。政府が君らを締め殺したその前後の慌て様に、政府の、否、君らが俗に言う権力階級の鼎の軽重は分明に暴露されてしまった。
こんな事になるのも、国政の要路に当たる者に博大な理想もなく、信念もなく、人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚に忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にして甚だしく時勢に遅れたことの致す所である。諸君、我らは決して不公平ではならない。当局者の苦心はもとより推察しなければならない。地位は人を縛り、歳月は人を老いさせるものである。廟堂の諸君も昔は若かった。学生であったが、今は老成人である。残念ながらお古い。切り捨てても思想は明々白々である。白日の下に駒を疾走させて、政治は馬上提灯の覚束ない灯りにほくほくと痩せ馬を歩ませて行くというのが古来の通則である。廟堂の諸君は頭の禿げた政治家である。いわゆる責任ある地位に立って、慎重な態度をもって国政を執る方々である。当路に立つと、処士横議[民間人の勝手な議論]は、たしかに厄介なものであろう。仕事をするには邪魔も払いたくなるはず。統一統一と目指す鼻先に、反対の禁物は知れたことである。老人の胸には、花火線香も爆烈弾の響きがするかも知れない。
天下泰平はもちろん結構である。共同一致は美徳である。斉一統一は美観である。小学校の運動会に小さな手足がそろうことすら心地がよいものである。「一方に靡きそろひて花すゝき、風吹く時ぞ乱れざりける」[香川景樹の歌]で、事ある時などに国民の足並みが綺麗にそろうのは、まことに余所目にも立派なものであろう。しかしながら当局者はよく記憶しなければならない、強制的な一致は自由を殺す、自由を殺すのはすなわち生命を殺すのである。今度の事件でも彼らは始終皇室のため、国家のためと思ったであろう。しかしながらその結果は皇室に禍し、無政府主義者を殺すことができずにかえって、おびただしい騒動の種子を蒔いた。諸君は謀叛人を受け入れる度量と、未熟な学生に聴くという謙遜がなければならない。彼らの中には維新志士の使い走りなどをして、多少は先輩の当時の苦心を知っている人もあるはず。よくは知らないが、明治の初年に『近時評論』[評論雑誌]などで、大分政府にいじめられた経験がある閣臣もいるはず。いじめられた嫁が姑になって、また嫁をいじめる。古今同嘆である。当局者は初心を点検して、学生にならねばならない。
彼らは幸徳らの事に関しては、自信をもって精一杯やったと弁解するかも知れない。冷ややかな歴史の眼から見れば、彼らは無政府主義者を殺して、かえって局面展開の地を作った一種の恩人とも見られよう。吉田に対する井伊をやった積もりでいるかも知れない。しかしながら徳川の末年でもあるまい、白日青天、世の中が平和に治った明治44年に12名という陛下の赤子、それのみならずなす所があるべき者どもをいじめ抜いて、激させて謀叛人に仕立てて、臆面もなく絞め殺した一事に至っては、政府は断じて、このことの責任を負わなければならない。「粗布をまとい、灰をかぶって[悔い改めて]」[マタイによる福音書11-21]、不明を陛下に謝罪し、国民に謝罪し、死んだ12名に謝罪しなければならない。死ぬのが生きるのである、殺されるとも殺してはならない、犠牲となるのが奉仕の道である。――人格を重んじねばならない。負わされる名は何でもいい。事業の成績は必ずしも問う所でない。最後の審判は我々の最も奥深いものによって定まるのである。これを陛下に負わせ奉るようなことは、不忠不臣の甚だしいものである。
諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見なされて殺された。だが、謀叛を恐れてはならない。謀叛人を恐れてはならない。自ら謀叛人となることを恐れてはならない。新しいものは常に謀叛である。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな」[マタイ10-28]。肉体の死は何でもない。恐れるべきは霊魂の死である。人が教えらえた信条のままに執着し、言わせられるように言い、させられるように振舞い、型から鋳出した人形のように形式的な生活に偸安して、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれが霊魂の死である。我らは生きねばならない。生きるために謀叛しなければならない。古人は言った、「いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となる」と。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものでも、脱ぎ捨てねばならない時がある、それは形式が残って生命が去った時である。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」[マタイ8-22]、墓は常に後にしなければならない。幸徳らは政治上に謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓にすがりついてはならない。「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい」[マタイ5-29]。愛別・離苦に、打ち勝たねばならない。我らは苦痛を忍んで解脱しなければならない。繰り返して言う、諸君、我々は生きなければならない、生きるために常に謀叛しなければならない、自己に対してまた周囲に対して。
諸君、幸徳君らは乱臣賊子として絞首台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰が志士としての動機を疑うことができるだろうか。諸君、西郷隆盛も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のような者があるだろうか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならない。
(明治44年2月1日 第一高等学校における講演草稿)
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