与謝野鉄幹「亡国の音」現代語訳
「亡国の音」は、明治27年5月に、日刊紙「二六新報」に連載された与謝野鉄幹による歌論である。「亡国の音」とは「国をほろぼすような詩歌」という意味で、鉄幹はこのような激しい言葉をもって保守的な御歌所派を批判し、短歌の革新を唱えたのである。
明治の新時代に短歌の革新を最初に唱えたのは、東京大学で学んだ新世代の国学者である落合直文であり、明治26年に短歌の革新のための短歌結社「浅香社」を創立した。しかし直文自身は旧派の短歌に対して融和的であり、より批判的な立場をとったのは、彼の実弟である鮎貝槐園とその盟友の与謝野鉄幹であった。落合直文の紹介で新聞「二六新報」の記者になった与謝野鉄幹は、明治27年5月、その紙上に「亡国の音」を連載し、名指しで御歌所派と呼ばれる旧派の保守的な短歌を批判した。この時、槐園は「二六新報」の歌壇の選者をしており、すでに歌人として知られていたが、鉄幹はまだ21歳の無名の若者にすぎなかった。彼が批判した高崎正風は57歳で、宮内省御歌所の初代所長として明治天皇の信頼が厚い人物として知られていた。鉄幹が男性的な歌を強調して御歌所派の短歌を批判したのは、日清戦争の開戦前夜という社会情勢が大きく影響しているだろう。
正岡子規は明治31年に『歌よみに与ふる書』を発表して短歌革新の声をあげるが、鉄幹と子規はすでに26年において短歌の革新について議論を交わしていた。後に『はてしらずの記』としてまとめられる子規の東北の旅の途上、鉄幹は仙台で盟友の槐園とともに子規と会っている。その経過を『はてしらずの記』から摘記しよう。26年7月19日に東京を発った正岡子規は、松島を経て、30日に仙台に到着する。
ただし、子規は『はてしらずの記』で槐園一人に会ったように記述していて、この時点では無名の若者にすぎなかった与謝野鉄幹の姿は消されている。
その後、鉄幹は明治29年に自らの主張にそった歌集『東西南北』を刊行し、さらに32年には新詩社を結成し、その機関誌として『明星』を創刊した。「明星派」は与謝野晶子・山川登美子・窪田空穂・石川啄木らを擁する新しい短歌運動の一大勢力となった。槐園は短歌から離れ、朝鮮にわたって活動した。朝鮮総督顧問を務めるとともに、朝鮮の考古学や古美術研究にも力をいれたことでも知られている。
この現代語訳の底本としては、『日本現代文学全集37 與謝野寛・與謝野晶子・窪田空穂・吉井勇・若山牧水集』(増補改訂版、昭和55年、講談社)に所収のものを用いた。
現代語訳「亡国の音(現代の非丈夫的和歌を罵る)」
― 亡国の音 (現代の男らしからぬ和歌を非難する) ―
与謝野鉄幹 著、上河内岳夫 現代語訳
昔の人の言葉に「文章の世道[人間が世間に対して取るべき道]に関係しないものは、巧妙であっても、どのような益があるだろうか」と言っている。私は和歌においても、常にこの言葉を心にとどめて忘れないようにしている者である。文には、衰世の文、乱世の文、盛世の文がある。盛世の文は雄大華麗、衰世の文は萎靡繊弱[元気なく弱々しい]、乱世の文は豪放悲壮で、各々がその世の気風を表わしてくる。王朝の文がみだりに華美を喜んで気魄・精神一到の男らしいものがないのは、衰世の文であるからである。鎌倉時代・南北朝の文を読んでくると、知らず知らず自分の腕を握りしめてこぼれる涙を振り払う。これは乱世の文であるからである。奈良朝・江戸時代の文は華麗さに富み、さながら政府の大臣が盛装して参内するようである。これは盛世の文であるからである。昔の人はまた「萎靡繊弱な文は乱世を胚胎し、豪放悲壮な文は盛世を胚胎する」と言っている。国家の盛衰と文章が関係して力があるのはこの通りである。私は和歌においても常にまたこの理を信じる者である。世間には愚論を吐いて恥じない者がいる。その言うことは「道徳と文学は全く別物である云々」。ああ、国を亡ぼす者は必ずこの類いの愚論を吐く者から出るだろう。
私は当代の歌を論難しようとするに当たって、まず一言で彼らの多くを覆うことができる。いわく「亡国の音」と。[明治の]聖世にあえて不吉な語を使って憚らないようであるが、思うにやむを得ないことである。
廃娼論をなす者があり、禁酒論をなす者があり、そうして一人もいまだに現代和歌排斥論を唱える者がいないのはなぜか。この言葉はすこぶる極端なようであるが、極端ではない。
酒色は人の肉体を毀傷して、その害ははっきりと見ることができるが、風流は人の精神を腐蝕して、その毒は冥々として[はっきりせず]知ることができない。一つはなお人身を亡ぼすことにとどまるけれども、一つは直ちに国家を危うくする。王朝の腐敗、足利・大内二氏の滅亡は実にその好適な例である。
人は誰か酒色を愛さない者があるだろうか。そうして、酒色のために身が亡ぶのを欲する者があるだろうか。私は最も和歌を愛する者であり、和歌をもって国を亡ぼすことを忍ぶことができないのである。
酒色の害は、酒色そのものに害があるのではない、人がその節を失うからである。和歌の害はまた和歌そのものに害があるのではない、人がその風を乱すからである。そうして和歌の風を乱し、和歌の毒を流す者は、現代の歌人より甚だしい者はいない。読者よ、私に忌憚なくこれを暴露させよ。
大丈夫[立派な男子]の一呼一吸は、直ちに宇宙を呑吐[呑んだり吐いたり]してくる。すでにこの大度量があって宇宙を歌う。宇宙はすなわち我が歌である。
歌には師授[師匠からの伝授]というものがある。師授はたまに「歌の形体」を学ぶのに必要になるだけである。歌の精神になると、私は直ちに宇宙の自然と合一する。どうして諄々とした[分かりやすく繰り返す]師授を待つことがあろうか。一呼一吸、宇宙を呑吐する度量といったものは、師といえども譲らないのである。このようにして大丈夫の歌は成立するのである。この見識がない者が、現代の歌人である。彼らは万事を昔の人に模倣するのであり、模倣の巧拙を争うのである。模倣をもって一生を終わろうとするのである。試みに彼らに向かって歌を問うと、「やまと歌は人のこころを種として」と言う『古今集』の序文やその他の昔の人の歌論は、直ちに彼らの口から鸚鵡のように繰り返されるだろう。また、『古今集』、『千載集』、その他に『桂園一枝』[江戸後期に刊行された香川景樹の家集]などにおける昔の人の歌例は、必ずや歌の模範として彼らの口から素読的に説き出されるだろう。これを要するに、彼らはただ昔の人があることを知るだけであり、宇宙自然のリズムが彼らの耳を打たなくなって久しい。
小丈夫[小人物]は小丈夫であり、にわかに大丈夫の量を養うことはできない。眼が低く手の卑しい者が、昔の人を模倣するのはまだよいだろうけれども、「犬はわずかに犬を知り、カエルはわずかにカエルを知る」である。小丈夫は、ついに大丈夫の歌を識別することができない。彼らはおのずから各々が自己の力量と合致するものを求めて、自ら昔の人の短所だけを学んでくる。『万葉集』以後、天下に大歌人はいない。たまたま「歌聖」と呼ばれる者があっても、短所が概ね長所に七倍する類いのみである。彼らはこの類いを崇拝して、その模倣をなし得ないことを恥じる。かの「小詞人」香川景樹[江戸後期の歌人]を崇拝して、「歌聖」の冠を捧げるようなことになると、その愚昧は最も笑うべきことである。
上を学ぶ者はかろうじてその中を得て、中を学ぶ者はかろうじてその下を得る。その下を学ぶ者になると言うに値しないのである。現代の歌人に昔の人を圧倒する程の傑作がないのはもちろん、香川景樹の仲間にさえも及ぶことができないのは、思うに下の下を学んで、それすらなお得られないことによる。このようにして婦女子の歌は成立するのである。
既に婦女子の歌であると、怒るのもつまらないことに怒り、笑うのもつまらないことに笑い、泣くのもつまらないことに泣き、感じるのもつまらないことに感じる。疑うのもつまらないこと、願うのもつまらないこと。女々しいとも女々しい、弱いとも弱い。陣頭の大喝が三軍を股慄[恐ろしさに足がふるえること]させる者がどこにあるのか。帳中[とばりの中]の一滴が千載を泣かせる者がどこにあるのか。ああ、このようにして明治の大歌人なのである。私は彼らの最も得意な声について、以下に論難を試みよう。
語調が流暢なことは、あるいは世の俗耳を驚かすのに十分であろう。されど品格は野卑、構想は卑俗であり、ああいったい誰がこれを現代歌人の第一位にいる人の作と承知するだろうか。
そもそも松島は天下山水の霊境で、大丈夫が行って彼の壮観に満足すると、芭蕉翁の沈黙を学んで一句の歌う所もなければ、そのままでやめるだろう。もし仮にも歌う所があるならば、それは必ずや雄大壮観な句で、自然の風光と一致したものが必要である。この歌の三四句は全くそれと反している。
松島の面白さは自然であることにあり、それを人為の箱庭に私物化しようと望むようなことは、何という心であろうか。思うに作者は縁日の植木屋を冷やかしてやろうという目で松島を見たのであろう。見るだけであるならばまだよいだろうが、植木屋を冷やかしてやろうという心で松島を歌ったのならば、松島の山霊水伯[山の神・水の神]の不平を知らなければならない。結局のところこのようなことは双子縞の羽織を着て、腰に矢立を差したような町の俗物が喜ぶ所であり、洒々落々たる[言動がさっぱりしていて執着しない]男子の胸中を歌ったものではないのである。
「枝ながら見よ」[*注1]「やはり野に置け」[*注2]、試みにこれら昔の人の作と比較してくれば、その品格は一つは高く一つは卑しく、その構想は一つは雅で一つは俗である。これほどに等級の差が著しい理由は、実に自然を愛することと人為を喜ぶことによる。作者は、歌で注意すべきことが、独り形態である句法・語法の上のみに限らず、その精神である自然との一致において最も思考を必要とすることを知らないのだろうか。
注1:萩の露玉に貫かむと取れば消ぬよし見む人は枝ながら見よ(よみ人しらず)
注2:手に取るなやはり野に置け蓮華草(滝野瓢水)
品格が野卑で、構想が卑俗なことは、この歌もまたそうである。四五の句の「橋があるのにわざと徒歩で渡ろう」とはどういうことか。水が清く月が澄んで、鮎の児がうれしそうに遊ぶという自然の景色、これを見て誰か心を動かされない者があるだろうか。それを橋から愛でるのが普通の人情、ことに自然を愛する人の行いであるべきなのに、裾をからげて靴を脱ぎ捨てて脛も露わに、そこを渡って清い水を濁し、澄んだ月影を砕いて、鮎の児の遊びを妨げたいと望むなどは、何たる殺風景であることか。
冬の日に人力車に乗った様子は、実にこのようなこともあるであろう。されどこのようなことを卑俗であるともせずに、歌によみ出した人の心はどのようなものであろうか。その心はどれほど歌に風韻が欠くべからざるかを知らないのであろうか。風韻をよそにして歌をよもうとすると、「屑拾いが過ぎゆく」「郵便配達夫が走る」「辻馬車ががたつく」など、いずれかよい歌になるだろうか。『おさむ出てかへゆきすぎぬまに』[不詳]とは、歌の形態を易しく説き示したものであり、歌の精神さえそのようなものだと心得ているのは、香川景樹の末弊に陥っているのである。
いかに題詠の余弊として歌想に窮したとはいえ、このような卑俗なことをどうしてよみ出すに至ったのであろうか。歌が他の韻文よりも優れている点は、高尚な雅致と優美な風韻とにある。野卑なこと卑俗なことなどを歌うには狂歌があり、俳句があり、なお様々の下等文学もあるだろう。歌をよむ者が最も心すべきことは、この点である。それなのにこの歌はどうしたのか。朧月夜の静かなことをそのままに愛でてこそ面白いだろうに、柳の枝を揺り動かしてみるなど、何たる殺風景の限りだろうか。雅致はいったいどこにあるのだろうか。歌相、歌品ともに野卑で、かの狂歌というものと変わる所もない、あわれあわれ。
「おび(帯)」という詞を二句におき、「すそ(裾)」という詞を四句にすえて、さてシタリ顔であるに至っては「手弱女風」の真面目であると言わなくてはならない。
海を行く者は、常にこの種の景色を見る。この種の景色はもとより満足なものである。そうして作者はこれを叙述すべき適当な法を知らないで、このような地口的な歌を作るとは、憐れむべきことである。
二句の「はやされて」という詞遣いが、まず卑しい。四句の「惜き枝をも折りてけるかな」とは、ああ、それにしても何たるケチン坊であることか。「けるかな」は非常な驚きと感嘆とを持つ詞である。『ひき植ゑし人はうべこそ老いにけれ松の木高くなりにけるかな』[凡河内躬恒]、このようにして初めて「けるかな」の用法を得る。ケチン坊の「けるかな」になると、今宗匠殿の真心が実にそのようなものだろうとは言っても、あまりに下品ではないだろうか。あわれ、大丈夫の眼を汚すものである。
「けり」は大丈夫の感嘆である。鴛鴦[おしどり]は鴨の群れには紛れない、そんなつまらないことにすら、今の世の六尺男児は感嘆せずにはおれず、歌にさえよみ出すのであるのか。さてさて三つ児[幼児]の思想、さてさて子供だまし。
「明けて見る」は口語そのままである。韻致のない詞遣いは、歌詞としては用いがたいことを知らないのだろう。「早咲の梅」は歌詞としてはまた未熟である。新年の朝日を早梅の上に見たのは面白いことは面白いが、作者の力が小さくてこれを叙するのに雅致のある句法をもってすることができない。それゆえこの無味出放題の三十一字を作るのである。ことに朝日を見るのに「窓」と限ったようなことは、その規模の何と狭小なことか。私はかつて「軒端・垣根・庭の面・窓・これらを歌うために、彼らは歌人であるのである」と言ったことがある。この語は少しも酷評ではない。
一句の「明けて[開けて]見る」を「年がアケテ見る」と言い懸けたようなことは、もって婦女子を喜ばせるのに十分である。
「麦のさむしろ」と言うことは、いまだ聞いたことのない熟語である。麦を乾した筵という意味であろうけれど、そうは聞こえがたい。「畳む間」ということは俗語そのままであり、また俗意そのままである。作者は「雨が降ろうとする模様におそれて、慌ただしく麦を乾した筵を打ち畳んだわずかの間に、はや夕立の雨がこぼれて来た」という意味でよんだのであろうが、「畳む間」と言う詞の正しい意味には、時短の長短を限定しないのをどうするのか。「畳む間」が長くかかることもあろう、短いこともあろう。その「畳む間」とのみ言って、短い時間のこととするのは、すなわち俗語の「畳む間」であり、俗意の「畳む間」である。言語の雅俗を混交して、歌をよむことができるならば、歌ほど軽便なものはないだろう。作者は口語と歌詞との区別すら知らないのである。
「楠の枝までがなきかずに入る」とは何か。正当な語法上でこの意味を解することができる人があるだろうか、私はできないのである。
翻って正当な語法以外から考えて来れば、わずかにその意味をうかがうことができる。これは、この小楠公の死を言うものである。そうしてその意味をうかがうことができる理由は正当な語法がそうであるのではなく、我々の習慣的な感情上からわずかに推知することができたのに他ならない。
おそらく作者は比喩法を知らないのである。比喩をもって始めたのであれば全篇が比喩をもって終わるべきで、いささかの事実をも混ぜてはならないのである。この歌は「風さえしそのくすの木のさ枝さえ」と言い、「あとの寒けさ」と言うあたりは明らかに比喩であるけれども、「なきかずに入る」と言う一句の事実を交えたために、このような曖昧で不達意の歌になったのである。
これも比喩によって作られた歌であるようだが、一句の「君がため」が事実であるがゆえに、正当な語法上は「君がために花が散る」と言うことが解し難い。語法も考えずに出放題によむ結果は、みなこのような不完全な歌になる。作者は猛省すべきである。
狐などのゴソゴソ歩いて行くさまであろうか。人の上のことを歌ったのであるならば、作者は本気の沙汰ではないに違いない。
否、このようなつまらないことも、臆病めいたことも、本気になって「かな」などと感じ入る所は、すなわち明治の大歌人である所である。
「千代をしらべて」とはどのようなことであろうか。作者は「松風の音が千代をしらべて」と言う意味であろうが、「松風の音」と言う詞は、この歌にない。不完全な歌の甚だしいものである。
また、五句の「嶺」と言う詞は落ち着かない。庭とでも改めるべきで、あるいは浜とでも岸とでも改めるべきである。はたまた「九重の松」とも「大庭の松」とも改めるべきである。作者はみだりに出放題の歌をよまず、ちょっとは句法に注意せよ。
これは平凡な景色である。作者がこのような景色にすら「かな」と言うとは、「かな」の濫用も極まれるかな。否、「かな」の階級も卑しき哉。
規模を問えば狭小、精神を論じれば繊弱、そうして品質は卑俗、そうして格率は乱猥。私はこの類いの歌を挙げて痛罵を百日しても尽きないのである。「廟廊皆婦女」[朝政を執る殿舎は、みな婦女である]。国を危うくする者は、大丈夫の元気が衰えて、女性がこれに克つことにある。今や上下の者が挙げて、この類いの女性的な和歌を崇拝する。その害は果たしてどうであろうか。
そうしてこの他になお甚だしいものがある。彼ら歌人の多数は「恋歌」を排斥しないのである。排斥しないのはまだいいけれども、これを奨励する者があることにおいては、もってのほかと言わなければならない。「「恋歌」は歌の真髄で、よむことが最も困難なものである。これを易々とよむようになって、初めて歌を知り得たのである」と言って、まず伝授するのに『百人一首』『伊勢物語』などの情歌をもってし、これを長くつづけて模倣的な情歌が作られる。題としては「初恋」「通書恋」「逢恋」「恨恋」をいう。甚だしいものになると、「思二人恋」「比丘尼恋」「思伯母恋」などという題さえある。教える者と学ぶ者、老人と青年が互いに座を交えて歌い、彼らは得意げである。そうして醜聞が往々妙齢の歌人の間に起こる。世の中に風俗を壊乱するものがあるとすれば、私はこの「恋歌」をもってその一つに加えるのを躊躇しない。読んでここに至れば、全くこの道をよく知る者でないとしても、誰が袖をもって眼を覆わないだろうか。ああ「亡国の音」、私はみだりに罵る者ではない。
高崎正風先生、小出粲先生のような方は、私にとってはみな先輩である。先輩としての敬礼は私が常に重んじる所である。されどそれはなお「私の情誼」に属する。「情」をもって「理」をなくすことはできない。歌学で正非を論じるに当たっては、私の眼中には既に先輩後進の階級はない。ただ旗鼓堂々と対陣して相見えるべきである。先生が果たしてこの道を愛しておられるのであれば、「無礼」をもって私をお責めになるべきではありません。思うに先生のようなその地位は、まさに明治の紀貫之であり、藤原定家である。そうしてその学派が香川景樹、八田知紀[幕末の歌人]を祖述すると称することは、世間が先生を模倣されるのと同じようなことである。模倣の毒に先生は既に病んでいて、先生の毒はさらに当世を病ませようとしている。否、都鄙[都も田舎も]至る所で、いわゆる「宮内省派」を模倣するタワケ者が多いことを見れば、先生の毒は現に当世を病ませつつあるのである。「革新は進歩の一段階である」。先生のような現代の歌人を代表する者が、翻ってその「自己」を顧みられんことを望む。
私の「亡国の音」は、思うにこの希望をもってなる。
(完)