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北村透谷「蓬莱曲」現代語訳

詩人 北村透谷の代表作である劇詩『蓬莱ほうらいきょく』の現代語訳である。この詩は明治24年5月2日に脱稿し、同29日に養真堂から出版された。発行者の丸山垣穂は透谷の実弟であり、自費出版である。

まず劇詩について見ておこう。坪内逍遥が「西洋詩に三派がある。抒情詩と叙事詩とドラマとなり」(『小説三派』)と書いているように、西洋文学が明治日本に紹介されたとき、劇あるいは戯曲はまだ詩の一分野とされ、科白は詩の言葉で書かれていた。このことは、能・歌舞伎など日本の劇においても、音楽に合わせて歌う要素が大きかったので、違和感なく受けとめられたようである。透谷の劇詩『蓬莱曲』は、シェイクスピア『ハムレット』、ゲーテ『ファウスト』、そしてバイロン『マンフレッド』という西洋を代表する劇詩をモデルとして、西洋流の劇詩を日本に導入することを試みたものである。『ハムレット』は坪内逍遙によって、『ファウスト』は森鷗外によって日本語訳されたが、劇詩を本格的に移植しようと試みた者は北村透谷をおいてなかった。この試みが容易でないことは透谷自身もよく理解しており、自ら詩論「他界に対する観念」を書いて、その要因を分析している。

透谷の劇詩の試みは、その後の日本で継承されることはなかった。ほぼ同時期にヨーロッパではイプセンによって始められた近代劇の運動、すなわち劇を詩の一分野から解放し、写実を基調として人生や社会の問題を扱う日常の口語による演劇が、ストリンドベリ・ハウプトマン・チェーホフなどによって広まりつつあった。日本でもこれにならって明治の後期になると島村抱月が『人形の家』を翻訳して上演するなど、戯曲は詩から独立し、詩語から口語による劇へと移ったのである。

『蓬莱曲』における詩的な修辞法としては、「倒置表現」と「対句表現」が多用されている。明治期において単に「詩」というと「日本漢詩」を意味し、日本に西洋文学を導入した漱石も鷗外も日本漢詩を作ったことは広く知られているが、透谷が西洋流の劇詩を導入するに当たっても、やはり漢詩に見られる「倒置表現」と「対句表現」が重要な役割を果たしていることは興味深い。

『蓬莱曲』を現代語訳するに当たっては、読みやすさの観点から、全体の表現形式を現代における戯曲に近い形に改めた。本文の改行の仕方は統一されておらず、細かく改行が設定されているパートもあれば、全く改行を行わずに追い込んでいるパートもある。前者については基本的に透谷の表現にしたがうように努めたが、読みやすさの観点から改めた部分もある。後者についてはそのままでは極めて読みにくいので、訳者の判断で比較的自由に改行を設定した。
 その他に、透谷が用いた改行記号の『 」』については、実際に空白行を導入して記号は除いた。句読点としては『、』と『。』のほかに、セミコロンに対応する「白ゴマ点」すなわち白抜きの『、』が用いられている。これについては文脈に応じて『、』と『。』に振り分けることにしたが、文が長くならないように『。』に置き換えて処理した場合が多い。

現代語訳の底本としては、小田切秀雄編集『北村透谷集』(明治文学全集29、1976年10月、筑摩書房)に所収のものを用いました。あわせて『北村透谷・徳富蘆花集』(日本近代文学大系9、1972年8月、角川書店)に所収のものを参照し、佐藤泰正氏による注釈から多くを学びました。注釈の一部を現代語訳に利用させていただいたことを明らかにし、感謝を表します。


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現代語訳「蓬莱曲」

北村透谷 著 上河内岳夫 現代語訳

 『蓬莱曲』をまさに脱稿しようとする時に友人某が来て、これを一読しなじって言うには、「蓬莱山[富士山]は、古来から、瑞雲がたなびく所、仙人が楽しく徘徊する所である。お前はどうしてみだりに霊山を不祥な舞台にかりてきて、狂想者を悲死させるのか。またどうしてわが国の固有の戯曲の体裁を破って、ほしいままに新奇をてらおうとするのか」と。 
 私は直ちにこれをさえぎって言った、「私の蓬莱曲は、戯曲の体をなしているけれども、あえて舞台で上演しようという野心があるわけではない。私の乱雑な詩体は、詩と言っても詩と言わなくても、私が深く関する所ではない。韻文の戦争には江湖に文壇の良将がある。ただ私がこの編を作る理由は、私の胸中にわだかまる感慨の幾分かを寒灯の下で、あの蚕が営々として絹糸をその口から延べ出すように、私の筆の端にはっきりと漏らすのに過ぎないのである。しかも彼らがつとめるのは家を造って入ろうとするためであるが、私が昼間の激務の後に、滴々と未熟な句を書きつける理由は、私が無駄に借金して価値のある白紙を反古にするには止まらないことを知る。蓬莱山は日本に詩の精をほとばしり出させる、千古不変の泉源を置いた。農夫もこれに対してはインスピレーションを感じ、小学生もこれに対して詩人となる。私もまた彼らと同様に蓬莱山に対する詩人となってから久しい。回顧すれば16歳の夏であった。独りその絶頂に登った時に、私は初めて世の中に鬼神という者が存在することを信じようとしたことがあった。険しい山道のような人生の行路は、遂に私にあの瑞雲が横たわり、仙翁が楽しく棲むという霊嶽をかりて幽冥界に擬し、半狂半真の柳田素雄を悲死させることになったのである」と。
 友人は再び言った、「それならばおまえは魔鬼まき魑魅ちみの類いを信じるのか」と。私は答えて言った、「信じるのでもない、信じないのでもない。悲哀が極まって急に眠る時に神女を夢に見たり、激しい熱を病んで壁上に怪物が横行するのを見るようなことに過ぎない」と。すぐ友人は大声をあげて笑い、去っていった。そこで召し使いの少年に灯火に油を加えさせ、筆を走らせて談話の概略を記し、それをもって序に代える。       

透谷橋[数寄屋橋]外の小楼において  明治24年晩春            
                   せん羽子うし[透谷] しる

蓬莱曲

登場人物

    鶴 翁つるおう  (蓬莱山の道士[仙人])
    源 六げんろく  (樵夫きこり
    雲 丸ゆきまる  (仙童[仙人に仕える童])
    柳田やなぎだ素雄もとお (子爵、仏道の修行者)
    勝山かつやま清兵衛せいべえ(柳田の従者)
    露 姫つゆひめ  (仙姫やまひめ
    大魔王、鬼王若干、小鬼若干、
    恋の魅、青鬼、等。

                         ―――――――――――――――――――――――― 

第1幕 

第1幕 全一場  蓬莱山麓の森の中 

                               時:日没後       
        
        (柳田素雄は、琵琶を抱いて森の中を徘徊し、
         従者の勝山清兵衛は、少し遅れて来る。
         素雄は琵琶を取り出すが、一弾の調べもなさず、
         仰いで蓬莱山の方を恨み見る)

 柳田素雄 [蓬莱山を隠す]雲に切れ間ができてくれ、
      わが灯火ともしびであるべき星も現れよ。
        この身はさながら浮き草のようで
      西に東に漂う時間の明け暮れに、
        慰めとなったのはこの霊山。
        どうして、今宵こよい、麓に着いたのに
      見えないのか、悲しい、悲しいことだ。
        恋しい姿すがたが見えないのは、どうしたことか、
       わが心が、千々ちぢに砕けるこの夕暮れだ。

      わがさすらいは、いく春秋になろうか。
      歳月をとどめる関所はないが、その歳月を軽いと言って
      恨めしい草のわらじを容赦もなく履いては捨て、履いては捨てた。
      踏んでは残し、踏んでは残した多くの足跡は
        大海原の白波のように立ち消えて 
      越えて来た方を眺めると
        水泡みなわのように失せて行く浮世だ。

      牢獄さながらの世間から逃げ延びて
        いく夜になるだろうか、旅寝の草枕は。
      夢のような行路をはるばるとたどって来たが
        頼りにならないのは行く末だ。
      折々に訪れると思われた
        彼岸に咲く麗しい仏法の華を何とか
      もだえながら捕まえようとすると、どうしたことだ、
        真実まことと見たものは、これもまた夢の中だ。

      浮世の水は何処いずこへとも知れずに流れて行く、
        私もまた、流れるままの旅の身を、
         寄せて休ませる当てもない。
      川の流れが、早く遅くと変わるのは、水の習いだが、
        変わってもとどまることはない。
      わが旅もまた、急ぐ時も急がない時もあるが、
        いつかは真に静まることがあるだろうか。
      そのやや静まるみぎわでは、
        海女の刈る藻の根[煩悩]を断ち切れず、
         嘆かわしくも、わが思いは堰き止められるのだ。
        
      あちこちの珍しい山、珍しい川を、
        愛でているうちは、やや心安らかで、
      蝉の羽のように薄い衣で、冷えわたる寝床で眠ったが
        眠ると言ってもまなこのみで、
      心は常に目覚めていて、世間の無情を
        にらみながら、嘆きながら、不平を言った。
      それほどに嫌われる私なので、
        逃げ出すことは容易であるが
      わが逃げ出す道には、くろがね
        連鎖くさりがあるのは、誰のどのような心だろうか。
      それならばと、とどまろうとすると
        むちを振り上げて追う者がある。

                 出家をした時に
      切ない思いで別れた恋人は、はかないことに
        無常の風の誘いが来て
      「死者の仲間に入った」と聞いてから
        花の都も、故郷ふるさと
      空しくなって、私をのみ込もうとする
        菩提寺ぼだいじだけが待っているようだ。

      「去れよ、去れよ、あの世ではお前の友が
        思いこががれて、招いているのに」
      とののしる声は、死の使いから出たものだろうか。
        「私もこの世を去りたい」という思いは、
      昨日今日のことではないのに、どうしたことか
      
  招いてみると、死もわが友ではないのだ。

      どこを見ても鞭を持つ鬼が、
        わが背後を、わが眼前を取り囲むのである。
      「行け、行け」と追われるままに
        行方を定めぬ旅衣たびごろもは、
      汚れやつれて見る影もない様子で
        鬼の姿にも見まがうだろう。
      だからと言って世間を避ける身で
        どうして新衣に着替えるいとまがあろうか。

        世間の鞭がやや遠のく時には
      深山に霞が立ち込めて、空しく迷わす夕べもある。 
        浮世の風が小止みになる所では
      朝霧を渡る水の音に驚いて、目覚める時もある。
        どこを宿とも定めていないので
      何ものにも追われていない時には、心も急かされず、
             夢はうつつに変わって、
        書物を取り上げて、眠気を払いながら
      灯火が疲れ果てて、おのずから消えるまで、
        書物のない時にはまた
      狂うまでに自然という書物を読んで、
        世の怪しい奥、物の道理、世間の様子も
      すでにあらかたは究め学んで、
        生命の終わり、未来の世のことまで、
      おのずから神のような境地に達するまで、悟ったのだ。

        指を折って数えても、数え尽くせないほどの
      名所の数々を、昔と今とで訪れ果たして
      月をも花をも飽きるほどに眺めた。
        さても西の都[京都]の麗しいことも、
        また東方の花の堤[墨堤]の屋形船の酔心地も、
      思いかえすと、恨みであり、夢であり、幻であった。
      南の末を漂泊した時には、煙を吐く山を
      北の果てを探し回った時には、凍氷の丘を、
         珍しい、珍しいと
      たたえて喜んだが、
      これもまた一時ひとときの慰めであった。
      今はもはや、夢にものぼらず、回想も動かない。
        私には、もはや珍しいものはなく、楽しいものもない。
        この世よ、この世よ、美しいこの世よ
      この世は、悲しいかな、いったい今は何ものだ。
      この世は、山を河を、野を里を、宮を城を、
      乗せきれないほどに乗せ、置き飾っても、
      わが眼には、ただ空虚だと見えるだけだ。

      空しくも見えることだ、山と積む書物の中へ、
        私に来いというのか、招かないでくれ、
      何が楽しいのだろうか、その中でしみではない私が。
      空しくも見えることだ、美しい恋心は、
        私に来いというのか、招かないでくれ、
      何がうれしいのだろうか、狂うばかりに欺かれるのが。
      空しくも見えることだ、いかめしい家作りは、
        私に来いというのか、招かないでくれ、      
      何を喜ぶのか、人を平伏させて、鬼ではない私が。
      爵位などはないほうがいい、私のためには。

        それはそうだが、捨てた世間の
      忌まわしい縄は、私をなおも幾重にも
                巻きつなぎながら、
      「逃しはしないぞ、この男」とののしる声が
                         どこからともなく聞こえてくるのだ。
      ぬぐっても、ぬぐっても、わが精神たま
                鏡の曇りをどうすればいいのか。
                その鏡には、無情なことに
      過ぎ来し方[過去]だけが明らかで、
      行く手は悲しいことに、闇の闇だ。
      その常闇とこやみの中を尋ね巡り、探し回っても
        いまだに真理の光を見ることはなく、
      見るのは、立ち消える漁火いさりびのような偽りだけだ。

      悲しいのはこの身だ、世間に従い難くて、
      世間に充ちる魔物の軍兵になってしまわずに、
        在家も出家もあまねくうち従わせて
      世間で我が物顔をする怪しい鬼の
        囲みの中にあるからこそ、
               辺りは暗く人は眠っているのに、
      私は独り寝の床で、涙の露雫つゆしずくを流すのだ。

勝山清兵衛 (素雄の袖を引いて)しばし、しばし、
      心をおとめ下さい、怪しい声がするので。
 柳田素雄 なに、怪しい声だと。
      私には聞こえない、それは何の声だ。
      近くのあちらの森を襲う風が鳴っているのかも。
勝山清兵衛 いや、そうではありません・・・あれ、また聞こえる・・・。
      今聞こえているのに。はてどこだろう、怪しいことだ。
 柳田素雄 私には聞こえない、それはどこだ?
勝山清兵衛 どこかは分からない・・・・・・あちらこちらにつぶやく声が。
 柳田素雄 あちらこちらだと? つぶやく声だと? 怪しい!
      そうかそうか、声がするな、私も今聞いた。
      いったい、いったい、どのような者の声だろうか、
      鬼神の類いが近づいたのか。そうでなければ、
      御山の霊が迎えに出て来たか。
勝山清兵衛 走って逃げても、とても今は仕方がない、
      恐ろしい目に会うかもしれない。
 柳田素雄 何を清兵衛は恐れるのか。鬼神は
      ここだけでなく、どこにも住んでいるのに。
        静まれ、私は今、
      彼を呼び出だそう、どのような者なのか。
        おお、声がするぞ、声がするぞ。
      私に語るようだぞ、面白い。
 空中の声 どこから来たのか、賢明ぶって世間をののしる若者よ、
      塵を集めて造られながら!
      世間の鬼に悩まされて、世間から逃れようともがくのか。
      ああ笑止だ! いつまで旅路を続けたら思いを遂げることになるのか。
      五十年の年月が、長いか短いかを問う暇もないうちに、
        暴風雨が吹き起こり、秋気がおどると
      波にのまれる捨小舟すておぶねのように、散り落ちる木の葉のようになるのだ。
      死の波が寄せる時にはどうするのだ、身の秋が来る時にはどうするのだ。
      哀れ、哀れ、塵を集めた空蝉うつせみの五尺[はかない人間]よ、
        それでも誇り顔で、狭い世間を旅して渡って、
      しばしとどまる春の駒[年月]に、
        鞭を打って、おのれの終わりを急がせるのか。
 柳田素雄 おかしなことを言って、あざけることよ。
        いったい何者なのだ、定まっている人間の運命を
      自分を別物にしてそしるとは。
 空中の声 愚かなことだ、俺を知らないのか。
      この霊山に住み慣れて、世の神々を
      下女下男として召使い、平伏させる者が、
      俺であることを知らないのか。
 柳田素雄 怪しいことを言うものだな。
        さては神々の上の神であるのが、おまえか。
      いやまったく、愚かなのは神と呼ぶものだ。
        世の中に災いのわざだけをして、
      正しい者を滅びさせ、偽りの者を栄えさせ、
        なお神であると自ら名乗るのか!
 空中の声 まだののしるのか、塵の生き物!
        狭い世間の旅は早くやめて、
      俺が住む山に登るのだ。高い神気を受ければ、
      誤った道理の夢が覚めもしよう。
      雲を踏んで登らないか、神の力をもって、
        語ることは彼方にて語ろう。
      おさらばだ、ここは浮世だ、長くは語るまい。
 柳田素雄 ああ怪しい神だ、早くも去ってしまったか、
      瞬く間に現れて、早くも消えてしまったか。
      珍しい声、珍しい罵言ばげんだ、
      どこに失せて行ったのだろうか。
      濃い雲を離れて現れる星がひとつ、
      それだろうか? それではないな、それも早くも隠れた。
      どこに去ったのだろう、もう一度現れないだろうか、
      ままよ、もはや呼び返すべきすべはない。

      「御雪みゆきを踏んで登れ」と言った。
        「神の力をもって登れ」と言った。
      かねてからの望みではありながら、
        どうして私が、この私が、
        神の力がなくて登ることができるだろうか、雪の御山に。

      清兵衛よ、これをいかにすべきだろうか?
勝山清兵衛 父君にゆだねられて、都を跡にした旅鳥のように、
        ねぐらがどこであるかも知れない君を、
      白波がうち返し、うち返しする荒磯のような君の心を、
        主人だからこそ・・・、頼みだからこそ・・・見守ってきた。
      わが身は、たとえ深山路みやまじ
        苔のたもとで、老い朽ちてもかまわない、
      君の身がつつがないようにと、祈りつつ
        願いつつ、歳月は空しく過ぎてしまった。

      君が持ち続けてきた不満、不平、不和の
        初めと終わりを知っているこの身は、
      とても世間にお帰りにはならないと、
        涙ながらに思い、諦めても
      さても悲しいことだ、君の心が荒くして
        悪魔を呼んで、友人とするとは!
        今夜、どのような理由からか
      樫の根を枕にした昨夜の夢のうちが、
        心にかっているその時に、今の悪鬼の
      嘲罵の声音こわねは、わが強い足が、
        歩けなくなるほどに、恐ろしい、恐ろしい。

 柳田素雄 昨夜の夢だと? 奇妙なことがあったのに、
      どうして今まで隠していたのか。

勝山清兵衛 いいえ、奇妙なことではありません、恐ろしい
        目に会ったのです。
 柳田素雄 その恐ろしいことこそが、奇妙なのだ
        
さあ語れ、語らないか。
勝山清兵衛 君はあちらの樫の根を、
      私はこちらの樫の根を、枕として、
        狼の遠吠えが絶えて、寝につくと心はすぐに眠り、
      眠ると思えばまた覚めて、
        眠るのと覚めるのとの境もわずかだったころ、
      世を去られたと聞いております
        露姫・・・が、思いがけずに、わが枕辺に
      たたずんでおられました。
 
 柳田素雄 何に、露! 露姫だと!
      露がどうした・・・姫がどうしたのだ。

勝山清兵衛 姫はやつれて衰えた姿をして、
        「素雄殿を、なぜよこさぬ」
      と、ひと言を聞いたが、あとは野風が
       そよ吹くだけ。

 柳田素雄 おかしいぞ、夢は偽りが多い。
        そのことを心にかけなければ、世の中には、
        真実はなくなってしまうだろう。
      姫のことを、私も思わないわけではないが
      空蝉の殻はこの世に止まっても、魂魄こんぱく
        飛んで、億万里の外にあるものを。
      つくづくと思えば、この私も、
        この世の形骸むくろさえ脱ぐことができたならば、
      姫の清いたまの、ひらひらとした胡蝶を、
        追って空高く舞うであろう。
        人の世の塵の境を離れられず、
      今日まで、愚かなことに、虚しく坑の中で呻吟しんぎんしていた。
        どうしようにも限ることがない苦悶を
        今夜解き去って、形骸むくろ
      世間に捨てて行こうか。「死」とでも「滅び」とでも
      世間の名前を付けて、私を忘れさせ、
        彼方の御山の底のない
        生命の谷に魂を投げいれよう。

勝山清兵衛 「死」ですと、「滅び」ですと? 
      それは恐ろしいものであることだ。わが君が
      これを願われるとは、ああ悲しい、神よ仏よ護り給え。
 柳田素雄 いたずらに神の名を呼ぶな。
      死は恐れるべきものではない、
        しばしの間の別れの悲しみにすぎない。
      私のように世間に縁のない者は、
      死こそが帰るのと同じ喜びだ。
      去るのではなく、分かれるのでもない。
      巡り会う人もあるだろう、きっとうれしいと思うだろう。
        世間にあって、
      はりを走り、仏壇にひそみ、
      棚をかすめ、鍋をうかがうわざは、
        鼠はするけれど、人の仕事ではない。
      鉄の鎖につながれて、窓には風も通わない
      牢獄の中で、世間の人は安々と眠るけれども、
      悲しみを覚えた身では、まどろむことができず、
        親しむものは、寂しくかかる軒の月だ。
      軒下の狭くむさくるしい籠の中で、
      すり餌で育てあげられたウグイスが、
      春になって「鳴かないのか、なぜ鳴かないのか」と責められて、
      声は折々にあげたけれども
        庭面にわもの梅の香が欲しくて鳴いただけだ。

      この牢獄を、この籠を、
      今夜でなければ、いつ破ることができようか!
      おさらばだ、清兵衛よ!
      この牢獄も、この籠にも、おさらばだ!
      これからは、私が私の主人だ!
      魔でもあれ、鬼でもあれ、来てくれよ、来てくれよ
      わが道案内をさせてやろう、
      早く行こう、おさらばだ!
勝山清兵衛 お待ちください、わが君よ。
        悲しい思い出をさせられることだ、
      都には「恋しい、恋しい」と年老いた
      父母が君を待ちわびておられるのに。
        それを捨てて、どこへ渡っていかれるのか。
 柳田素雄 要らないことは言わないでくれ、
      この世は私のものではない。
      私のものではないのだ、父母も。
        恋しい親しい睦みだとしても
      母が落としたひとしずくでも
        思えば長くはないこの世の宝だ。

      誰がいったいどのような心で造ったのであろう、
        この私を、塵の私を、牢獄の中の私を、
      くらさ、さびしさ、やましさ、かなしさを
        知らず顔をした造り主は誰だ?
        (素雄は、行こうとする) 
勝山清兵衛 これはどうしたことだ、わが君は狂われたのか?
        どちらへ行かれるのか。
 柳田素雄 狂いはしない、静かに家に帰るのだ、
      私を捨てておけ。おまえは行って、
      牢獄の中の家を守ってくれ。
      おさらばだ、前から期待に背いた父母にも!
勝山清兵衛 いいえ、どこへでも従わせてください、
      君のためならば何も惜しくはない。
 柳田素雄 だめだ、だめだ、私ひとりでなければ・・・・・・
      雲の中には、連れは用はない。
      いざ、いざ、別れだ、別れだ。
      生き別れとでも、死に別れとでも、
        なればなれ! 

        ―――――――――――――――――――――――― 

第2幕

第2幕 第1場  蓬莱原の1

       (柳田素雄は、琵琶を抱いて、ただ一人この原を過ぎるところ)

 柳田素雄 おさらばだ! 煙の中に消えよ浮世、
      おさらばだ! 住み古して旅なれた
               塵の世よ。
      これからはののしらないから、私にも物を思わせるな、
      互いに忘れよう、敵意も恨み心も、
        私がこの世にいた痕跡も無にしてしまえ。

                思い出すのは、
      終日の歩みの疲れに、仮の宿である
        草叢くさむらで、しばしまどろむと、
      歯を噛ませて、眼を開かせた野ばらだ!
        その花のゆかりで、奇しくも
      一夜を眠りもせずに過ごしたのに、
        明くる朝は無残にもとげのために、
      わが手に血の紅斑こうはんを見た。

                木の枝を
      そのままで旅の杖として、
        一叢ひとむらの茂った花の野に投げ置いて、 
           横雲を眺めてぐっすり眠った。
      日が赤々と昇るころに起き出して、
        見るとわが杖は花の蔓に巻きつかれて、
          私とともには起きなかった。
            うち捨てたのは人のいない山路で、
      今はどうしているのか、いばらの茂みの下で
        朽ち果ててしまっているだろうよ。

      自分だけが捨てられたという思いは間違いで
        無情な人に飼われたからか、
      あわれなことに、痩せさらばえた子犬が
        わが前に悲しく尾を垂れて
      物欲し気に鳴いたので、私も
        物言わぬ涙を催して
      かてを分けて取らせながら、
        旅路の伴としたこともあった。
          あの犬は、今どうしているだろう、
      けつに飼われて、ぎょうに吠えるように
        私を忘れてしまっているだろうか。
   
      実に思い出せば限りがない、
        みなともに彼方の煙に埋もれてしまえ。

      ここは新しい世界に違いない
        夜陰の中でも物の気色が変わって見える、
      雪の御山から送る山颪やまおろし
        高い所に雲の宿をつくるのだろうか、
      見ているうちに濃い雲が淡くなっていって
      面白いぞ、たちまちに星空だ!

      御山を巡って広がっている
        裾野の原は、見渡す限り草ばかりで、
      そして微かに見える遠い山々と、
        それと交わる模糊とした煙は
      上界と下界との垣根であろうか。
        その垣根を越えてきたわが身の
          今立っている所が神の原で、
          払い尽くしたのは浮世の塵だ。
  
          今は神の時代であるのだろうか、
      遠方では恐ろしいとまで聞いた
        雪崩なだれの音も全く止んで、
      世間にいた頃には胸がとどろいた流星も
        今見る天には絶えて落ちない。
      誰が連ねたのか、限りのない虚空にすきもなく 
      美しい星の花を咲かせて、歌人うたびとに、
        「面白い曲を歌えよ」と促すのだ。
          ここに来てわが胸は、
      燃える炎が消えかかり、この世のものならぬ春風が
      そよそよと吹くので、さすがに私もたおやかになって、
      かつて笑った岸の柳は、今のわが身だ。
        吹けよ、神風、ひるがえし
          ひるがえし、連れて行けよ。
 
      見上げれば雲の外に出た蓬莱の山は、
        雲の上は白雪、雲の下は春の緑で、
      下には卑しい神が住んで
        上には尊い者が住むのだろうか。
      まぼろしが眼に入ると、聖なる霊体みすがたは、
        星を隣りにして微笑むようだ。
      なんと美しいことか、いわおの白雪は、
        私が踏み行くのは、彼方だぞ、彼方だぞ。

      去って行く、去って行く、浮世の響きが、
      立ち消える下雲の彼方に静まった。
      聞き慣れた呪いの車がきしる音や、
      憂き目を見た罪の火が燃えるさまは、   
        すでにわが傍らから消えてしまった。
      吹く春風に送られて
        何かしら白雲の彼方を目当てにして、
      心の駒の手綱をゆるめて、いざ行こう。

        (再び立ち止まって)
      わが琵琶の音をしばらくは聞かない
        恋しいものはおまえであるのに。
      この寂しさ、この面白さには、
        たとえ昔の恋妻と、
      野の月を窓の内までのぞかせて
        歌いながら弾きながら睦んでいたころの
          楽しさはないとしても、
      心地がさわやかで、思いわずらうことのない今夜は、
        あたりの草花に耳を傾けさせ、
        空を行く鬼神の精霊たまをも
          驚かせよう、驚かせよう。

        (背中から琵琶を取り下ろし、熟視して)
      これだ、これだ、この琵琶だ
        いつも変らないわが友は。
      朽ちて行き、すたれ果てた味気ない世間で  
        滅びの身、塵の身を、あわれと
          音で慰めるものは。
      弱いわが心が、狭いわが胸が、頼みのない
        未来をはかなんで、消えてしまいたいと
      祈り願った時に、この琵琶が、
        わが胸の門を叩き初めた。
      この時からは、明け暮れの世間の波が寄せる憂鬱な時も、
      月に浮かれる小夜さよなかも、花の霞のその中も
      ひと時として離れぬ連れとなったのだ。
        独り寝の、寝ることができない
      闇の夜に、目覚めながら歯ぎしりする苦悩も
        起き出して、この琵琶を取り上げ、
      切々と揚げて弾くと、隠れていた悲しみが湧き上り
      そうそうと抑えて弾くと、重ね積もった憂鬱は消える。
        毒を吐く大蛇おろちのとぐろに道をふさがれる
      こわさ、かなしさ、なさけなさを
      この琵琶だ! 琵琶を一調高く弾けば、毒気を散らせて、
      大蛇の姿を見えなくならせた。
      この琵琶だ! この琵琶だ!
      夜がらすが、苦しく枯れ枝に叫ぶ夜半も、
      ほととぎすが、窓をかすめて飛んで行く時も、
        おまえを頼みにして、調が乱れながらも、
      わが魂の手を尽くして奏でたならば 
      たちまち現世に真如の光が!
        まばゆいばかりのその光に、
      かきくらまされて、
      いつしかまた曇る、わが精神たまの鏡が、
      これもまた琵琶の音に、
      再び取り返したのが、仏の顔だ!
      世間の人のいたずらな恋の闇路も、
        この琵琶が、わが灯火であった、
      世間の人の空しい欲の争いにも
        この琵琶が、私を静めてくれた、
      世間の人の様々の狂った業にも
        この琵琶が、私を定めてくれた。
      それにしても険しい世間に、いったいわが琵琶のように
        わが悲哀にも、わが歓喜にも
          友となり、連れとなるものがあるだろうか。
        (調を整える)
      御山の裾には鬼神が住むと聞いた、
      鳴れよ、鳴れよ、驚かすまで!
        ([前奏を]かき鳴らす)
   
   いかなる曲を弾こうか、
      誰の作を弾こうか、どの詩人のを、
        (黙って考えて)
  
    どの曲を弾こうか、どの曲を。
        (空中に唱歌の声がある)
 柳田素雄
 あれ、怪しいぞ。どちらから送られてくるのか、妙なる声は、
      こちらの森の千代の松が、風に浮れて
                 歌い出したのか、
      あちらの雪の岩間から、落ちる雪解の水音が、
      わが琵琶の音を心に浮べて                               
        おのずからなる歌曲を歌うのか。
      そうでなければ、天津乙女あまつおとめ[天女]が降りて来て
        虚空からもたらす天の歌であるかも。
      歌えよ! 歌えよ!
      さあ、わが琵琶を合わせよう。
        仙姫やまひめが、内にて歌う)
 仙姫の歌
   君を思い、君を待つ夜は更けやすく、
        ひとりさまよう野は広い、
        彼方なる丘の上に咲く草花を
        手折り来つつも、連れなき身、
        誰の胸にかざして眺める由もなく、
        思わずも揉んで散った花片を、
        また集めても花にはならぬ。
          ******
          ******
        (仙姫が通り過ぎ、二頭の鹿がこれに従う)
 柳田素雄
 怪しいことだ、怪しいことだ、人が来た!
      けもの一匹住まぬ所と思ったのに。
          さてもその人は、その人は
      怪しい光を先に立てて、
      美しいことだ、美しいやま乙女おとめだ! 
        やさしい珍しい鹿もともに。
      私は今日までの長い遍歴に
      この姫のような者を見なかった、
        前に聞いた歌を天女と思ったのも道理だ
        この姫の唇から洩れたものならば。
      あれ、知らず顔で通り過ぎるのか、私の前を、
      露も宿らぬ浅茅あさじの野を、足元に珠玉を転がして。
        知っているのか、知らないのか、私がいるのを、
      何が珍しくて、天のみを仰いで、
        数えたとしても、よもや星の数は尽きないのに。
      鹿もどうして心がないのか、ひい——というその鳴き声は、
        誰を呼ぶのか、誰を恋しいと慕うのか。

        (素雄は、琴を置き捨てて、歩み寄り)
  
    そこにいる山姫やまひめに申します、
      ここにおりますのは登山の者が、お尋ねします。
   仙姫 あら、驚かされました。
 柳田素雄 許してくれ、許してくれ、思いもよらぬ所で
      めぐりあって、思わぬ琵琶の合わせ歌だ。
        その歌の意味を問うことなしに
      別れることが惜しくて、
        ぶしつけと知ってはいるが、君を止めたのだ。

   仙姫 その声は、人の世のものらしい、
      ここは世ではない所であるのに、どうしてあなたは、・・・・・・
      紛う方なく世の人であることよ! 
      さてはこの人の調べであろうか、先に聞いた琵琶は。
      琵琶が天高く鳴り渡ったので、
      かしこの家[天]のわが住いを迷い出して、
        この原で君に会うことになったのですよ。
 柳田素雄 恥かしいことだ、未熟な調べのことは。
      思わぬところまで琵琶が騒がしく鳴って、
      君の妙なる天津あまつしとね[眠り]を妨げたとは。
        さてもまた、珍しいことだ
      ここは名にし負う広野で、
      目の届く限り数十里に亘る寂寥の中で、
        君はどうして一人、この辺りに住んでおられるのか。
      夜は更けて、世に聞きなれた夕方の梵鐘の音も、
        奈良も東国も、彼方の空だ。
          その空の、あの浮雲の下だ
      あの浮雲の下だ、麻にからんだ世間のもつれは!
        さては、さては、わが美しい姫も、
      あの世に呪われてか、親兄弟に離れてか
        鷹かはやぶさに追われた小鳥かも知れない。
      いや、いや、いや、鬼が人でも、人が鬼でも
        そんなに惨くはしないぞ、この花に、この玉に。
   仙姫 ほほ、何を怪しむことがありましょうか、
      鬼が人でも、人が鬼でも、この世の者ではないので
      ————愛でることも、呪うこともないのに。

 柳田素雄 はて、いぶかしいぞ、その声音は
        昔のわが妻によく似ている。

      わが妻だ、わが妻だ、彼女だ、彼女だ、
      初めて世の中のあわれを私に教えた者は。
      狂うが上に狂わせた者は、
           また彼女だけだ。
      私に優しさを教えた者、
      私に楽しさを覚えさせた者だ。
           そうは言いながら彼女が冷え渡る
      寂しい墳墓に入ってから、はや幾年になろうか。
      天の下に新しいものが何もない年々は、
      梓弓、春の足が早いので、行く秋の飛鳥川は、
      枯れ枝も枯葉も流れを堰き止められない。
               思いを思い回らせば
      行く水は流れは流れて、あの一葉は、今は
        どこ川や海を漂うのだろうか、闇の先だ。

      ある夜の寝覚めの夢まくらに
        驚いて起きると、君の姿が
          灯火の裏に消えていくのを、
      呼び止められなかった。あの明石潟の旅宿では、
        寝返りをうち、寝返りをうって床の中で、
          暁のからすの鳴く音が、待たれたのだ。

        (はるかに牧笛を聞く)
   仙姫 わが童子であろう、あの笛は。
        (仙童の雪丸が来る)
  
 雪丸 わが姫は、ここにおられましたか。
      あちらこちらと探してくたびれました。
      さあ行きましょう。
        (素雄を顧みて)
      
ここにいる人は、何者ですか?
   仙姫 珍しい旅の客ですよ。
   雪丸 面白い物語でもありましたか。
        さあ、姫君、参りましょう。
 柳田素雄 (姫に向かって) さても君の身は、
      楽しい境遇ではないですか。
   仙姫 そうですね、自らは楽しいとも苦しいとも感じませんが、
      昼となく夜となく野遊びをして
      疲れるまで、草花を探し回る。
          また疲れれば、
      森の木陰に自然がしつらえた草の庵で、
      よもぎをかぶって床にすると、
      夜風がいささか寒いけれども、
      美しい楽しい夢を見られます。
      赤々と木の葉に朝日が映る時に、
      起き出すと鹿が集めた
          山の木の実が香ばしく
      足りない時には、自らも立ち出て、
          掘り取る草の根は甘いですよ。

 柳田素雄 それは楽しさの極みだ。
      私の苦しさに、恋の苦しさに引きかえて、
      露姫よ! 露姫よ! あなただけが
      老いることも知らない平穏とは?
   仙姫 露姫ですと!
      それはどのような人ですか?
 柳田素雄 隠さないでくれ、隠さないでくれ、
      あなたこそが、わが恋人ではないのか。
        (仙姫も、仙童も、鹿も去る)
 柳田素雄
 のう、のう、待ってくれ、露姫よ!
      一言も、私を思うと言わないで、
      また、新たに思いわずらわせようとするのか。
      一言を残してくれ、私を愛していると、
      愛していないのか、恋していないのか、のう、のう、露姫よ!
      腹立しい、腹立しい、この琵琶よ、
      彼女を呼び出したおまえは、罪を負えよ、
      もう、おまえにも用はない、
      打ち壊してしまおう、
        (琵琶を取り上げると、かん高い音が響く)
   
   いや、いや、いや、おまえは壊すまい
      私のはらわたが破れるのに任せよう。

                         ―――――――――――――――――――――――― 

第2幕 第2場  蓬莱原の2

                     時:雲が重く垂れて、夜は暗黒

        (蓬莱原の道士の鶴翁と柳田素雄が、連れ立って出る)

 柳田素雄 わが眼は怪しいことに、わが内だけを見て外は見ず、
      わが内にある諸々の奇しき事柄は必ず究めて、残すことはない。
      一方また怪しむのは、
      光の中で内だけを注視していたわが眼が、いま闇に向かうと、
      内を捨て外なるものを明らかに見極めようとすることだ。
      
      闇の中には、忌まわしい者がはっているのを見る、
        けれども私は彼を恐れる者ではない。
      闇の中には、いとわしい者が住んでいるのを見る、
        けれども私は彼を嫌がる者ではない。
      闇の中には、醜い者が居るのを見る、
        けれども私は彼を退しりぞける者ではない。
      闇の中には、激しい性質の者が歩むのを見る、
        けれども私は彼の前から逃げる者ではない。

      わが内だけを見る眼は、光にとっては外界の、
        この世のものに甚だしく悩んで、そこを逃れたが、
      どうして闇の中にわが敵を見るだろうか。
      闇を嫌がったのは、私が幼かった時だけで、
      光の中に敵を得てからは、闇はかえって私を隠す頼りなのだ。
      今、私の友である闇に、自分の閉じて朽ちた眼を丸く開いて、
      今日まで私をませわずらわせた、
        種々の光に住む異形の者が、憎げなく眠る様子を見る中に、・・・・・・
      また私が今、闇に住む怪しい者どもが楽しみ遊ぶ様子を見る中に、
      ただひと言が足りない心地がするのだ。
   鶴翁 それはどういうことか。
      世の人に心配があるのは常のことだ。
      けれども大方わが道術でやされない者はいない。
      君が足りないと言うのは、いかなることか、
      語り聞かせよ、私はこれを立ち所に癒やしましょうぞ。
 柳田素雄 私は、まだわが不足を癒やす者に会ったことがない。
      そもそもわが不足は、私自身の中から生まれるからだ。
      世間は、自分に向かっては空しい紙のような物、
        その中のあらゆる物は、無益な物のはかない墨のすさみだ。
      けれども自分の目には、墨の色はただその表面に浮かんでいるだけで、
      その中は空しい紙であることを映すのだ。
        自分は世間に敵を持っていた、
        自分は世間にいとわしい者を持っていた、
      けれども、これが私が世間を逃れた本当の理由ではない。
      私が世間を捨てたのは、一片の紙を捨てるのと同じことだ。
      ただこのおのれを捨てて、この己を————
        この己という思いわずらわせるもの、
        この己という怪しいもの、
      この己という不満足がちなものを捨て去ることが難しいのだ。
   鶴翁 これ、これ、若い旅人よ、
      その己というものをぎょすることが、
      難しいというのは、仕方がないことだ。
      わが道術が向かうのは、そこだそこだ。
        その己というものは、わがまま者、
        その己というものは、おきて知らず、
        その己というものは、向こう見ず、
      お聞きなさい、わが道術は他でもない、
      自然に逆らわないことを基礎とするだけだ。
      その己というわがまま者は、種々の趣好があるものだ。
        石塊いしくれを拝むのも彼であり、
        酒に沈むのも彼であり、
        佳人に楽しむのも彼であり、
        墨で表現する山水に酔うのも彼であり、
        しみとともに書庫に眠るのも彼である。
      無邪気な己であることよ、
      これらはわが道術でうまく苦しみから救済できたものだからだ。
      世間には、また種々の苦しみがあるので、
      私は「望み」というものを、
      わが術で世の人の胸の中に投げ入れて、
      悩み恨んだ者の青ざめた頬に血の色をあらわし、
      またわが術で、世間の、見えないが権勢の強いものの
      緊縛を解く「自由」というものを憤り嘆く者の手に渡して、
      喜びの声を高く挙げさせるのだ。
      こうしてほとけとならない者はいない。 
 柳田素雄 やめろ、やめろ。
      わが時間の速いことは、
      彼方の峰を駆け回る電光に似ていて、
      わが誕生と最後とは、
      地に近づいた流れ星が火となって走り下り、
      消え失せるいとまよりも速い。
      
      私が物を思うことは、
      あたかも秋の蝉が樹にとまって小止みなく声を振り立てるようで、
      おまえが説く偽りの道で、ほとけになるべき性質ではない。
        自由だって? これは頑是ない子どものおもちゃにすぎない!
        望みだって? これは年老いた女の寝覚めのうわ言にすぎない!
      哲学も偶像も美術もまた美人も、私の身を託する宿ではない。
      ただ、私の思いは、
        見よ、あの空間を走る雲であり、
        見よ、あの峰を包む精気である。
        雲もなお己の本当の願いではなく、
        精気もなお本当の己の願いではないが、
      そうではあるが、
      人間の世界とこの「己」とが離れることだけが
      今の楽しい望みであるのだ。
   鶴翁 哀れな不満を訴える者であることだ。
      人間の世界を離れるのは、
      身を人間の世界に置いても叶わないことがあるからか。
      たとえ人間の世界を離れることができても、
      おまえのような者は、真の慰めがある者にはなるまい。
      考えよ、蒼穹にも星くずの数は限りがなく、
      争いは日として夜として絶え間がなく、
      砕かれて、負かされて逃げ落ちて来る者が多くはないのか、
      たとえおまえが光を放つ者となることができて、
      高く彼方に懸ることになっても、おまえの願いは満たされないぞ。
 柳田素雄 私は、願いを満たすのが望みではない。
      私は、願いというものを蓄えていない。
      私は、満ちるか欠けるかを意にとめていない。
      ただ、わが心は、時に離れて間に隔たり[時空の束縛を脱して]
      あたかも、あの箒星ほうきぼしと呼ばれる君が、
      自分の軌道を、何にも煩わされることもなく
      駆け走るようなことを楽しもうとするだけだ。
      この退屈な世、この所業のない世、この偽形ぎけいの世、
      この詐猾さかつの世、この醜悪の世、この塵芥の世は
      どうして己の心をひととき休息させることができるだろうか。   
      地面のとても汚いあたりに、楽しく住んで
      夜になると悲し気に面白い音をなすみみずを、
      子どもはかぎの頭で苦しめて、魚をあざむく餌料とするが、
      私は世の子どもが、ついにみみずに似ているのを憐れむのだ。
      みみずも己をはからず、子どもも己を知らない。
      みみずもその住む所を美しい家と思い、子どもも己の宿をこよなき所と思う。
      みみずもその声を面白いと夜もすがら鳴いて、
                      子どももその心情が楽しいと短い世に誇る。
      夜の白むまでは、己を見る眼さえないのだ。
      私は怪しんでいる、
      人間が智徳の窓であり、美の門であると
      ほめちぎる者の双眼は、本当に開いているのだろうか?
      開いたら、どこを見るのか? 
      本当に開いたならば、見るべきなのだ、哀れな人の世の様子を。
        そのけがれた鼻を、そのただれた口を、
        その渇いた状を、その飢える態を、
        そのんだ腸を、その崩れた内心を。
      聖いとして、気高いとして、厳格だとして、
      万者の長であるとほこおごった人類は、
      わが涙の色を紅にするものだ。
      どうしてどうして、わが慰安を人の世に得られようか、
      どうしてどうして、道師の優しい術で、この暴れた心の風を静められようか。
   鶴翁 何と稀有なことだ。
      わが術はこのような者に施す手段がない。
      おまえは、私を頼んで生きるたぐいの者ではなく、
      また私を頼んで死ぬたぐいの者でもない、
      私がおまえにすることができることはない。
      行けよ、行けよ、行っておまえの心のままになせ。
      極楽と——地獄と——道は明らかにこの二つに分かれる。
      そのどちらでも、おまえが選ぶがままであろう。
        (鶴翁は、去る)
 柳田素雄 ちっ! 私が行くべき所は、
      この二つの道の他にはないのか?
      極楽か? 地獄か? それにしても
      わが露姫はどこへ行ったのか?
      あなたが行った世はどこか? 
      そこだ! 私が行くべき所は。
      地獄か、極楽かは、私が深く意にとめるものではない。
      あなたがいれば、地獄はどうして地獄であろうか、
      あなたがいなければ、極楽はどうして極楽であろうか。
      私があなたを思うのは、恋のいたずら心ではない、
      私は、本当にあなたがいなければ、笑うべき機会がないからだ。
      露姫よ! 露姫よ! どこにいるのか、
      どこで待っているのか、どこで臥しているのか、
      思えば奇しき恋であることよ。
                         ―――――――――――――――――――――――― 

第2幕 第3場  蓬莱原の3 広野

 柳田素雄 私は、わが心を知ることができず、
      私は、わが足の行く所を定めることができず
      何を願って、この荒野あれのに入ってきたのか。
      私が願う所は何か? 私が思う所は何か?
      大地を開かせ、青海原を乾かして、
      経過してきたそれぞれの時代の出来事と、
      その中で働いた巨人どもを呼び出して、
      面白い物語をするのか。これはわが力では及ばない。
      そうではあるが、そうではあるが、これをなさなくては、
      死せる者を、呼び活かさなくては、
      わが愛しい者であり、私を慰藉する者である、
      わが露姫を呼び出すことは叶わない。
      仙姫やまひめとなって、その姿を現した露姫は、
      自由に物を言うことができない、
      露姫よ、露姫よ、あなたが「妻ですよ」と言うことができないのは、
      「死」という悪鬼がつきまとうからだ。
      私が、軽い草鞋の足跡が到らない所はないけれども、
      まだ一度ひとたびも踏み入ることができないのは、
      死の関の彼方だ。

      今夜、死せる者を呼び活かすことが、いよいよ難しければ、
      私から、よし、死の関を踏み越えよう。そうだ! そうだ!
        樵夫きこりの源六が、登場)
   源六 
そこにいるのは何者だ。
 柳田素雄 私は諸国遍歴の者だ。
   源六 どこから来て、どこへ行かれるのか。
 柳田素雄 私は来た所を知らず、行く所をも知らないのだ。
      風は北から来るが、その行く所は、
      南であるわけではない、北に帰るべきだからだ。
      私もまた行く所があるようだが、
      本当は元に帰るだけだ。
   源六 元に帰るとは、どこに行こうとするのか。
 柳田素雄 知らないのか、「死ぬ」ことが、帰ることであるのを。
   源六 ええ! 「死ぬ」ことが、帰ることであるとは!
      あそこの底なしの坑から、微かに聞えるおさ[機織りの道具]の音を
      君は、何とお聞きになるか。
            あれこそは、名にし負う死の坑だ。
      人であそこに落ちる者があれば、再び返らぬ別れだ。
      誰が言うともなく、あの坑の中には美しい姫がいて
      誰のために織るきぬであろうか、筬の音は。
      ほのかに聞いた所によれば、あの筬の音は、
      変わることのない歌を歌うと言うことだ。
      恨んでいる男があって、その男が来るまでは
      あの坑で筬の音を絶やさないだろうと言うことだ。
 柳田素雄 十分だ、もう十分だ。それ以上は説明しないでくれ。
      その坑こそが、私が行くべき場所だ。
   源六 何を言われるのか、その場所は恐ろしい地獄の道
      であるのを、お知りにならないのか。
 柳田素雄 いや、いや、地獄を恐れる者と思うのか。
   源六 恐ろしい、恐ろしい。
 柳田素雄 何を恐れることがあろうか、わが恐れる場所は
        この世であったのだ。死とは帰ること、
      死とは帰ることだ!
      おさらばだ!
                         ―――――――――――――――――――――――― 

第2幕 第4場  蓬莱原の4 あなの中

 柳田素雄 闇の源泉みなもとである死の坑よ!
      人生のすべての業根を焼き尽くして、
        人を善ならしめると聞く死の坑よ!
      私たちの限りのない絆を断ち切って、
        暗闇のうちに入らせると言う死の坑よ!
      善悪の岐路を踏みたがえた者も、
      踏み守った者も一様平等に
        静寂な眠りにつかせると聞く死の坑よ!
      私はおまえに問うことがある。
      おまえの中で、一人の姫に、昼となく夜となく
      休みなくおさの音をなさせるのはなぜか。
          いまもその筬の音は
      わが耳をつんざくように聞こえるのだ。
          恨むように、哀しむように、訴えるように
          責めるように、嘆くように、かこつように。
      「死」よ! おまえは、いかなる権力ちからがあって、
      この音を、この楽を、この歌を、この詩を、なさせるのだ。
      闇の闇である死よ! 私はおまえを愛する、
        けれども、おまえがこの筬の音の理由を、
        つまびらかに私に語らぬうちは
      私はわが身をおまえに任さないぞ。
        (一醜魅しゅうき[恋の魅]が、登場)
 柳田素雄 さすがに、暗闇の源泉みなもとである死の坑の鬼だな、
      なんと醜い顔であることよ。
      おまえは何者だ。
  恋の魅 俺は「死」の使者であるが、おまえの問いに答えようと出てきたのだ。
 柳田素雄 面白い、面白い。それならば語れ。
  恋の魅 およそ死の使者が、数多くあるうちに、俺は「恋」という魔で、
      世の中に行って愚かな者をとらえてくる役目に従うのである。
      俺は、本当はおまえが今見ているように、醜いおにだが、
      世の中に行って働く時には、
      稀な美しい姿となって、心空しい男女を尋ね歩くのだ。
      これに会うときは、まずその眼を俺の魔術でくらませておいて、
      そうして後に、その胸に乗り入るのだ。
      俺が乗り入った後は、賢い者も愚かになり、愚かな者も賢くなる。
 柳田素雄 待て待て、さてはおまえなのか、恋の魅と聞いている鬼は。
      鬼よ、私は語るべきことがあれば——私には語るべきことがあるが、
      おまえの醜い顔を見ては、さすがに私も語り難いぞ。
      おまえの魔術で、しばらくは麗しい者となって、私の前に現れよ。
      私は恋というものを嫌わないわけではないが、
      その恋の本性を極めないわけでもないが、
      やみ難いのは、露姫を思う情だ!
      美しい恋しい姫の姿となって、今、わが前に現れよ。
        (醜魅[恋の魅]は消え去って、後ろのふすまが開くと、
         露姫が機に向かっておさを止める)

 柳田素雄 露姫よ、露姫よ!
      これが二度目の今夜の逢瀬だ。
        どうして物を言わないのか。
      露姫よ、露姫よ! 私があなたを愛するのは、
      世間で言う恋ではないのだ。
        どうして物を言わないのか。
      露よ、露よ、私があなたを思うのは、
      世間の物思う情ではないのだ。
      紅蓮ぐれん大紅蓮、浄園浄池があったとしても、
      あなたがいなくては、私に何の楽しみがあるだろうか。
          どうして物を言わないのか。
      そのやつれた姿は、私を恨んだ心なのか。
            思い出すと
      六年の昔に早くもなったが、世間に激しく激することがあって
      家出しようという心が、何かに追い立てられるような気持ちで
      世間をはかなみつつ、己に迷いつつ、文字通り闇のような夜に、     
          せきたてられて、裁断した旅衣に、
      露姫が、涙とともに縫い込んだ、袖に隠れる小さな櫛を
          踏み折っても思い残すことはなかった。
      梨の杖ひとつに生命の導きをさせて、
      あちらこちらをさまよって長い年月に、
      小夜月のおぼろな中で世間の様子も、
      人の様子も学び、学んで早くも疲れた。

      恋というものの引き綱の力が足りなくて、
      世間の荒浪に流れ出した捨て小舟おぶねが、
      寄せては返り、返ってはまた寄せるのは無情の波だ。
          この私がどうして世間を憎むだろうか。
          世間もまた、それほどには私を憎まなかったのに、
      怪しいことに、いつの間であろうか、
      世間は私の敵となり、私は世間のかたきとなった。
          彼が近づいたのか、私がちかづいたのか、
      誰が打つのか鼓を、誰がひらめかすのか剣を、
      見えないうちに、恐ろしい戦いとなり果てたのだ。
          この戦争は私を狂わせて、
          出家の旅も住家と同じく、
      苦痛の中で悶えさせた。
      人の楽しみはわが楽しみではなく、
      人の栄誉はわが栄誉ではなく、
      人の欲、人の望みは、わが欲、わが望みではなく、
      人の喜び・人の悲しみは、私の喜び・私の悲しみではなくなったのだ。
           今さら思えば、訳もない、人が笑いも泣きもしない所で、
      私はあごがはずれるほど大笑したり、血の涙を流したりしたのだ。

        露姫よ! 露姫よ! どうして物を言わないのか。

      秋風が、松の葉越しに鳴る声を聞くと、
      君の死の便りが届いたのだ、
      悲しいことだ、悲しいことだ、
            わが胸に、それから凍ついたのは冬の氷だ。    
      はやくも散ってしまわれたのか、
      正木まさきのつる草は幹を離れて、
      招きもしない秋がはやく来て、くずの葉がひらひらと
      落ち散ってしまわれたのか、ああ無残なことだ!
        露姫よ!露姫よ! どうして物を言わないのか。

      散ってしまった後の露姫は、
      魂魄たましいが、わが旅寝の空に舞って来ることはなく、
        いや来たけれども、夢にだけだ。
      どこの宿に身を置いているのか。
      浮世の旅の修行の間を、
        しばしの間は、はなればなれになっても
      いつかは元のように、二羽の鳥が互いに翼を並べて
        高砂の尾上の松を下に見て
      空を連れ飛ぶだろうと思っていたのに、
        実に連れない別れとなった。

      露姫よ! 露姫よ! どうして物を言わないのか
        (露姫は、おさはじいて歌う)
   露姫 露だから、露だから、
        消え行くべしとかねて知る、
      露だから、露だから
        草葉の陰が宿と知る。

      露だから、露だから
        月澄む野辺におくべしと知る、
      露だから、露だから
        ひとたび消えても、また結ぶなれ。

      露の身を恋しいと思えば尋ねてきてよ
        すみれの咲いた谷の下道。
                         ――――――――――――――――――――――――                                                                                                                                                                                                                      

第2幕 第5場  蓬莱原の5 滝に対する崖道

        (素雄は、滝に対する崖道に立つ)

 柳田素雄 ゆきけにかさんだ滝の水は、
      何を怒って轟き渡るのか。
      転がり落ち、転げ下る滝の瀬は、
      何を追って雷光よりも速く落ちるのか。
      湧き上がり、巻き登る滝煙は、
      何を包もうとして狂い回るのか。

      私は見る、白龍が水を離れて、走り躍り跳ね舞うのを。
      白龍よ! 白龍よ! 私がおまえを呼ぶのに、
      しばし静まらないか。
      私は面白くない世間に生れて、
          憂鬱を友とするので、
        辺りに騒ぐ小鳥の声も、
      私を慰めるものではない。
      また独り住む山の奥にも、
      わが心には休みなく騒がしい響きが絶えないので
      声もなく渡るホトトギスも、
      私の耳には百雷が合わせて落ちるようで、
      長い夜をまばたき少なく、窓をにらんで、
      わが身の滅びを近くに引き寄せた。
      滅びもわが物にはならず、
      招くと背を向けて走り去るまどろっこしさに、
      私はおのれを促しつつ、世間の縄を断ち切って、
      麗しい自然の中に入ろうとした。
      自然もまた、私を迎えず喜ばず、
      ののしって言うのだ、
      「死すべき者よ、どうしてすぐに死なないのか」と。
      白龍よ! 白龍よ! 今、おまえに頼むことがある、
      むごく悲しく世間のあらゆる者に捨てられたこの私を、
      おまえこそわが友ではないか、
      私を抱いて、渦巻き怒る底無しの水に連れて行ってくれないか。
      たつよ、龍よ。鬼に従わず、神に従わない龍よ、
      私は、この私の身をおまえに任せよう。
        (黙って座っていること、やや久しい。
         雲を開いて、月が皎々と中天に照り、
         雄鹿と雌鹿が相追って崖を登って来て、
         続いて仙姫もつたにすがって登る)

 柳田素雄 美しいことだ、美しいことだ、白玉の盤よ、
      美しいことだ、美しいことだ、清涼宮よ、
      月輪よ、あなたを思うごとに、見るごとに、
      雲に桟橋がないことを怨むのだ。
          暗い夜の寒いしとねに、
      浦の潮風が吹くときに、
      私はあなたを招いて、わが琵琶を、
      夜とともに、奏で明かしたことがいく度あっただろうか。
      今も、私が命じることを白龍は聞かない、
      白龍が聞かないので、私の胸に
      あなたに聞かせるべき訴えごとが積り起こった。
      さあ、わが琵琶に・・・。
                (仙姫が歌おうとする)
 柳田素雄 その歌は、誰だ、誰なのか、
      歌えよ、歌えよ、その声は恋しいものだ、
      その声は、わが琵琶が慕う声だ。     
 仙姫の歌 美しや、大空歩む光の姫は、
          物を恐れず一人旅。
      星をあたりに散り去らせ、
        行く手の雲を消えさせる。

      私も一人で住みます、この山に、
        寂しいと思う今日今宵、
      松の枝つたってお降りください、
        語り明かそう、短夜を。

      羽衣はごろもなき身をいかにせん、
        君を恋うとても舞いがたい、
      翼を並べて舞えたらばと
        むだな思いも是非もない。

      大空は、とても楽しい旅でしょう、
        ここにも楽しいことはある、
      来てください、来てください、わが洞に、
        草花束ねて差し上げますよ。

   仙姫 月は、聞いてくれない。
      むなしい願いをすることか。
        松の枝がにくくて、その陰に、
      光を残して行ってしまった。
        それならば私も洞に帰って、
      寝て待てば、明日は日が出るでしょう。
        鹿よ、さぞかし疲れているでしょう、
      今夜はいとまを取らせましょう。

        (雄鹿と雌鹿は、去る)      
 柳田素雄 (仙姫に歩み寄って)仙姫よ、再びお会いいたします。
   仙姫 先ほどの旅人ではないか、
      とてもとても悲しい顔色でおられるのは、どうされたの。
 柳田素雄 そうなのです。
      私は白龍がのぼりくだりするのを見て、
      自分を連れて水底に沈めよと命じたが、聞かない。
      私は、月を見て君が歌ったように、
      雲に掛け橋を得て、登って行こうとしたけれどできない。
      猛り落ちる瀑布、滝壺を揺るがし砕け湧く水煙、
      これを見る私の胸も、そのような内の乱れゆえに、
      外には悲しさが溢れ出るのだ。
      けれども、けれども、わが悲しみを、
      ぬぐう道がないわけではない、
      拭う道がないわけではないだ。
   仙姫 それはどういうことですか。
 柳田素雄 露姫だ! 露姫だ! 
      私の悲しみを拭うことができるのは。
      仙姫やまひめよ、仙姫よ、露姫は君にそのまま似た者だ、
      仙姫よ、仙姫よ、君はそのまま露姫であるよ。
      露姫よ! 露姫よ! 私があなたを思う心を知らないのか。
      あなたがいなければ、この琵琶も、
      この琵琶も。悲しく鳴るだけだ。
      この琵琶が、呼び出した仙姫は
      露よ、露よ、あなたにとても似ている。
      あなたではないのか、露よ、露よ!
   仙姫 その露姫に似ているという、
          君の恋人に似ているという
      私も今夜は、なぜか寂しい心地がいたします。
 柳田素雄 どうして寂しいと言うのか。
   仙姫 寂しいと思う心地は今日までは感じなかった。
      なぜとも知らずに寂しいのです。
          わが洞には、焚き火の用意もあり、
      ‥‥‥今朝集めた、よもぎもあるので‥‥‥
      さあ、客人まれびとよ、来て下さいな、
      来て下さいな、来て下さいな、ためらわないで。

                         ―――――――――――――――――――――――― 

第3幕

第3幕 第1場  仙姫のほら

        (素雄が、仙姫の洞の外に立ち出る)

 柳田素雄 眠りよ! おまえを怪しいものだと、今は知った。
      どうして仙姫やまひめにだけ来て、私には来ないのか。
      おまえが来なければ、私ひとりが夢のように目覚めて、
      この洞の中では、堪えられない心地がするのだ。
        ここに立ち出ると、
      むら雲の行方も知れず、月だけが冴えまさって、
      草も花も、樹も土も眠らないものはない。
      眠りよ! 怪しいのはおまえだ。
      この原のすべての物をやすませて、
      どうして私ひとりを安ませないのか。

      さらに怪しいのは露姫だ。
      わが安まらない胸は、
      彼女には通わないのか、
      彼女の昔の恋はどうしたのか?
      眠りというものは恋の友ではない。
      彼女の恋が、昔あった通りであるならば、
      どうして私をこれほどまでに寂しい洞で、
      目覚めさせておけるものか。
        (素雄は、再び洞に入る)
      それにしても美しいことだ、仙姫は。
      いずこの宝の山から、この珍しい珠玉を取ってきて、
      誰のたくみの技で彫り上げたのか、
      この姫を?
      覆っているよもぎは、なければいいのだが。
      影をなす松の梢を、残ることなく折り去って、
      満々としたあの月を、ここに下ろして来て
      天がなしたまことの美を調べ尽くしたいものだ。
      堅く結んだその花の口元には、
      時代を知らない永遠の春を含んで、
      その唇は、暁の赤い雲と迷わせる。
      堅い黄金も、どうしてその暖かい
      吐息に会って溶けないことがあろうか。
      緩くは握っているが、君のたなごころの中には、
      尽きぬ終わらぬ平和と至善を、
      堅く閉じてはいるが、君の眼の中には、
      不老不死の詩歌と権威を
      集めていると見える。
      黒髪のひと筋ふた筋が、君のひたい
      天地に満ちる美を集めているように思われる。

      霊だ、神だ、なんとおごそかなことか!

      いったい誰であろうか、この姫は? 
      わが露姫だろうか? 
      いや、私はそうではないことを悟った。
      そうではないのか、本当にそうではないのか、
      わが露姫の姿であるのを、どうするのだ。
      これは幻であるだろうか? 
      これはうつつであるだろうか?
      これはまことであるだろうか? 
      これは偽りであるだろうか?
      わが想いと、わが恋と、わが迷いとが、
      ともに私のためのたくみとなって
      この原に、露姫を、この原の気から作りだしたのか!
      誰も知らぬ者はいない、
      わが想いの様、恋の様、迷いの様は、
      悪魔、わが敵である悪魔まで
      つまびらかに、これを知っているだろう。
      悪魔か、彼だろうか、ここに露姫を生かし出したのは。
      しかし、この露姫はもとの露姫ではない、
      私が恋した露姫は、このようにつれない姫ではなかったのだ。
        (あたりを見回して)
      笑止だ、笑止だ、誰にとががあるだろうか。
      私を迷わせた者は、このおのれに他ならないのに。
      私を眠らせぬ者は、この己に他ならないのに。
      去れよ、去れよ、むかしの記憶よ。
      恋という魔物に、この己を、
      惜しいことに、卑しい迷いのしもべにするのは悲しい。
      恋よ! あなたと私にはどのくらいの縁があるだろうか? 
      何度かあなたを退けて、
      「私の肉体を腐らせたのは、あなただ」とののしりながら、
      この身はいつしか、あなたのいとしい友となる。
      あなたのために、地獄と極楽の境に
      咫尺しせきわきまえない[視界が効かない]
      霧を重ねることが常になった。
      露姫よ、起きよ! 露姫よ、起きよ!
      見よ、この露姫は魂のない珠だ。
      露姫よ!露姫よ!どうして起きないのだ。
        どうして眠るのか?
      安息というものは、あなたの無意無欲の世には用はないだろうに。
        何を夢見て眠るのか?
      世のわずらいも恋のもつれもない、あまたの山の住まいに。
        何を楽しんで眠るのか?
      憂き悲しみの暇にしばしの慰籍を求めて、美しい嬰児みどりごになるためではなくて。 
      眠れる人よ、眠れる人よ、いったい誰のためだ。
      その快げな微笑む顔は?
      露姫なのか、そうではないのか、
      いったい私の恋人か? そうでないのか?
      私が、闇に求め、光に呼び、
      天に探し回り、地に探った露姫は、
      この苦しい胸の、乱れるいとをおさめる者ではない。
        (高らかに笑う声が、松の樹の中から起こる)
 柳田素雄 
こら! 何者だ? 
      眠っている天地の寂寞じゃくまくを破って、
      怪しい笑い声をなすのは?
        (松の樹を伝って下りるのは、一青鬼)
  
 青鬼 俺だ、おかしさに堪えられず笑った者は。
 柳田素雄 何者だ、何者だ? 
      鬼か、鬼か、珍しいぞ。
      さてもおまえの顔色の青く苦いことよ。
      どんな悲しいことがあって、そうなったのか。
      それは後でさらに聞こう。
      いったいどうして私の前で笑ったのだ。
   青鬼 俺が笑ったのは、おまえのすることが、
      あまりにおかしかったからだ。
 柳田素雄 どうしておかしいのか。
      恋というものを知らないのか。
      私が狂っているのは、理由がないわけではないのだ。
   青鬼 恋とは、どのような愚か者を迷わせる雲であろうか、
      その雲の中で迷う者を見るたびに、
      俺はおかしさに堪えられず、
      思わず笑いあざけるのだ。
      人は、これを呼んで、神聖なものとする。
      これを喜ばない者はなく、これを願わない者はいない。
      そのなすことを見ると、
      暗い辺りで手を取り合って、
      「君がいなければ、わが命も何になろうか」と言うのに、
      「私もまた、君がゆえに長らえるのです」と答える。
      愚かなことだ、明朝あすは死ぬべき命を、
      恋というものゆえに、一夜を千年も変わらないとちぎることは。
      俺は数多くの乙女が、小暗い窓の下、風が通いもしない辺りで
      人知れず露の玉[涙]をこぼすのを見た。
      これを問うと、恋ゆえだと言う。
      俺はなん千度も、若者が悲しげな顔をして、
      ともしびの油が尽きてしまった後に膝を組んで、
      思いを巡らせる者を見た。
      これを問うと、恋ゆえだと言う。
      また、山をも抜いたような喜びではないか
      と思われるほどに、誇り楽しむ者を見た。
      これを問うと、恋が成就したゆえだと言う。
      死するのも生きるのも恋ゆえに、
      春も秋も恋ゆえに、泣くのも笑うのも恋ゆえに
      ——その恋というものは、人を楽しませるとは聞いたが、
      俺が見る所を言えば、
      楽しませるのではなくて苦しませるのだ。
      仮りであり、偽りであり、
      まぼろしである恋というものゆえに——
      人の麗しい顔が、価値のない動物のひとつと見えるのは哀れだ!
 柳田素雄 さては一度も恋というものを 味あわぬ鬼よな。
      おまえの青い面では、
      誰が恋衣を縫う愚かなことをするか。
      どうして変化へんげの術をもって、
      美しい男となって、世に来て、
      優しい乙女の門に立たないのか。
   青鬼 冗談ではないぞ。
      俺は恋というものに狂うほど愚かではない。
      俺が乙女を見るときは、
      それがどうして優しいかを疑わないことはない。
      美はないし、情はないのだ、俺の胸には。
      どうしておまえの迷う心を汲むことができるか。
      来い、この仙姫を呼び覚ませて、
      彼女の恋心がどうであるかを尋ねるのだ。
        (素雄は、押しとどめて)
 柳田素雄 その仙姫は、わがものだから、
      おまえのすさんだ手を触れさせることはできぬ。
      眠れる人よ、眠っているうちに恐ろしい夢を見るだろう、
      これも仕方がないことだ、わが恋人よ、
      私は今去るべきだ、今去るべきだ、
      眠れよ眠れ、覚めることなく。
        (素雄は行こうとし、鬼を振り返って)
 
     鬼よ、来い、おまえとともに山に登ろう。
   青鬼 山に登ることは、鬼と魔の他はかなわぬこと、
      おまえはどうやって登る権力を得たのか。
 柳田素雄 愚かなことだ、私は人の世に属するとは言っても
      風をぎょし、雲をつかむことを
      難しいとする者ではないのだ。
   青鬼 しかしおまえは塵の児だ、
      どうして霊なる者がなす業をなしえようか。
 柳田素雄 私は、塵の児だといっても、
      塵ならぬ霊をも持っている。
      この霊を洗い清めるために、さあ御山に登ろう。
   青鬼 それなら一人で行け、俺は止まるべきだ。 
 柳田素雄 どうして行かないのだ?
   青鬼 御山には、おれの権力の元である王が住んで、
      俺には「山の麓を守れ」と命じられて、登ることは許されない。
      ここでは、鬼と魔が身を養うことができる、気の中の物
      ——
      (そもそも鬼の食い物は見える肉ではなく、気の中に流れる精だからである)
      
——
      を得ることは容易ではなく、おれの体を肥やす手段はなく、
      空しく世の中のおかしな者を、多く見て多く笑うだけなのだ。
 柳田素雄 それだから、おまえの顔が青ざめて見えるのか。
      実に哀れな鬼よな。
      鬼の中にもおまえのように幸のない者を見るとは、
      私の予期しなかった所だ。
      けれども貸すことができる力はない、
      私も鬼の世に、私がなすべき所はなく、
      おまえも鬼ではない私に借りるべきものはなかろう。
      行け、木陰に入って、再び形のないものとなれ。
      けれども、私は必ずおまえを戒めるぞ、この仙姫を覚ますなよ。    
        (青鬼は樹に登り、素雄は去る)
                         ――――――――――――――――――――――――  

第3幕 第2場  蓬莱山頂

        (素雄は山頂に達して、四方を眺望する)

 柳田素雄
 大地は渺々びょうびょう、天は漠々ばくばく
      三界さんがい諸天しょてんの境界は明らかだ。
      万景・万色が一つになって広がって、
      山河・都邑とゆうは無差別な夜陰の中だ。

      六道ろくどう八維はちいは雲に隠れ、雲に現れて、
      すべてをわが脚下に見下ろすのだ。
      鉄囲てつい——金鋼こんこう——須弥すみ——
      これらを、幻界と視界との二界の中に見る。
      無辺・無涯・無方の仏法も、
      玄々げんげん無色むしきの自然も、
      この霊山において、悟るのだ。
      小賢しい小鬼よ! 無益な世間の知恵よ!
      大地は大きくはなく、蒼天は高くはない!
      わが眼よ! わが心眼よ! 今神に入れよ、
      この瞬時を、わが生命の鍵としよう。

      さあ、御雪を踏み立てて、彼方にそびえ立つ岩の上に立とう。
        (そびえ立つ岩の上に登る。
         雪崩なだれの響きがすさまじい)

      大地は、今崩れるのか?
      用のない大地は、今崩れるのか?
      崩れても惜しくはない。いや、いや、いや、
      聞こえるのは雪崩の響きだ。

        俯瞰ふかんして)
      底は見えず、断崖は幾千仭いくせんじん
          誰が立て掛けたのか、この壁を。
      鬼神おにかみでも、よもやここを飛び登らないだろう、
      電光いかずちでも、鳴神なるかみでも、この山側やまがわには住まないだろう。
      思えばわが身は羽毛ではないのに、
      雪さえが積もったこのいわおの、
      角に立つとはどうしたことだ、どうしたことだ。
      人だろうか? 神だろうか? 
      人の世はすでに去って、神の世が来たのか?
      神でなければ、どうして、この業が・・・?
      神であろうか私は? 私は神か? ちっ!
      ちっ! どうしてこの私が・・・!
      なお形骸むくろがある! 形骸、形骸!
      塵の形骸! 昨日のままの塵の形骸! 
      ちっ、なお人だ。
      私は神ではない。天地の神は父だ。
      さあ父を呼ぼう、神に祈ろう。
        (巌上に端座して、祈請きせいする)
      天地に満ちる霊よ、照覧しょうらんあれ、照覧あれ、
      日をり、月を|丸くした者よ、耳を傾け給え。
      私が世の形骸むくろを脱ぎ去りたいと願うことは久しい、
      霊山に登って、たまは、魂は浄められたが、
      いまだに残る形骸が、私の|仇あだの巣だ。
      悪鬼・夜叉に攻め立てられて、今までの生命は、
      長いひと夜の、寝られない闇の中だ。
      脱ぎ去らせてくれ、この形骸むくろを、この形骸を!
      そそぐべき恥辱の山が高いので、
      払うべき迷いの虚空が広いので、
      脱げ去らせてくれ、この形骸を、この塵の形骸を!

        (鬼王三個が、部下若干を率いて出る)
 第一鬼王 こら! おろかな者よ! 何を祈るのだ?
        (素雄は、飛び起きて)
 柳田素雄 誰だ、誰だ、愚かとあざけるのは?
 第一鬼王 俺だ、この俺だ、さてもおろかな者よ!
      塵で造られながら、形骸むくろをいとうとは。
      行け、行け、再び世間に返って、
      草小屋の陰に隠れればよい。
 柳田素雄 ちっ! ののしるのか、生々なまなましい鬼め!
 第二鬼王 愚かな者よ! 静まれよ!
      この山の魔に従わないか、
      この山の鬼の一族にならないか。
 柳田素雄 こら! 悪鬼あくきよ、私を知らないのか!
      の児だぞ! おまえとは異なるさがだぞ!
 第三鬼王 踏みにじれ! 蹴り倒せ!
      粉々にして、塵にして、地下に投げてやるぞ。
      小賢しい若者め、思い知らせてやるぞ。

        (小鬼どもが、どっと笑う)
 柳田素雄 黙れ! 小鬼ども! 
      神に背いて人を呪い、世を逆行させる愚か者め!
      裁きの日を待って、おまえを、おまえを、熱火に投げ入れてやる。
      怪しいことだ、この霊山で悪鬼を見るとは、
      さては霊山も、頼みのない末の世になり果てたのか。

        (小鬼どもが、再びどっと笑う)
 第一鬼王 神だと? 愚かなことだ、
      神なるものは、もはや地上では統治者ではないのを知らないのか。
      われらの主である大魔王が、ここを攻め取って年を経た。
      おまえのように愚かな者は、悶え滅びさせ、
      賢い者には、富と栄華を下さることを知らないのか。
      裁きの日だと? ああ不憫なことだ、
      今日このごろの裁きを知らずに、
      いたずらに首を伸ばして、知らぬ未来を待つのか。

 柳田素雄 わずらわしいぞ、おまえのような者は私の言葉ことばがたきではない、
      行け、私は魔王を待とう、行け小鬼ども!

小鬼の一個 れ者め、生賢しい男め、
      諸ともに撃ち砕いて、この岩から投げてやる。
      いざ、いざ、皆のもの!————来れ、来れ。

        (大魔王が、出る)
  大魔王 またしても小鬼どもの働きだては、無益だ、無益だ、
      うち捨てよ、引き去れよ、鬼ども。
      この男は、塵とは言っても面白いのだ、
      骨があればこそ、ここへ呼んだのだ。
      早く行け、引き退けよ!

 鬼王ども (一声に)王の仰せだ、
      わが大王の仰せだ、みな慎んで聴け、
      万世に生きよ、わが魔王よ!
      万歳、よろずの歳が、君の物となれ!
        (鬼王・小鬼は、皆去る)
  大魔王 塵よ! 俺を覚えているか、どうだ。
 柳田素雄 そうか、おまえは山門に現れた者だな。
      声のみはあそこで聞いた。
  大魔王 おまえのことは、俺は始めから終わりまでみんな知っている。
      世間を憤り、世間を笑い、世間をののしり、世間を去り、
      恋人を捨てて、なお足りずに己のほろびを願うとは、
      あわれな塵の子であることよ! 
      いったいなぜ、こうなったのか。
 柳田素雄 私の悲しみは、魔王よ、おまえが知る所ではない。
      私の憤りは、魔王よ、おまえが喜びおどる所ではないのか。
      私が嘲笑し、私が罵るのは、人生の深奥を思い回らすからだ。
  大魔王 おかしなことだ、おかしなことだ。
      王侯貴族は、珍宝権威を得れば、
       勇み喜んで世をこの上ないものと思い、
      商人は、黄金の光の輝きを見れば、
       苦もなく気がかりもなく笑い興じて世間を渡る。
      農家は、秋の穂並みが美しいのを見れば、
       濁酒のほろ酔いに酔う楽しさを忘れないと言う。
      少女は小唄を歌いながら卑しい夜なべ仕事のかたわらに、
       恋のささやきを聞くことをまたとない憂さ晴らしと思うようになり、
      少年は目元が涼しい乙女の肩に寄りかかって胸がどよめくのを、
       天下に唯一の極楽と思うようになる。
      それなのに怪しいのはおまえだ、
      何をそんなに苦しんで悶えるのだ。

 柳田素雄 およそわが眼が向かう所は、浮世の短い楽しみではないのだ。
      望みにも未来にもあざむかれ尽くして
      わが心はもはや、世間の偽りを座して待つ忍耐をなくした。
      初めには楽しいと思ったことも、
        後にはその後面をのみうかがう習慣となり、
      わが眼は、おのずから塵の世を離れて、
        高きが上により高い形而上のみを見つめるのだ。
      私には大鵬の翼はなくても、
        よく世間の紛雑ふんざつをはたいて、青空に魂を舞い遊ばせた。
      わが魂は青空を舞って、心地がわずかに清々しくなったので、
        わが苦しむ顔色も和らいで——ここに初めてなめるのは恋の味だ。
      あたかも百種の草花が一度に咲いた花園のよう、
        私と彼女が、彼女と私が、抱き合って歩むようで、
      この世の中から、忌まわしい地獄を排して、一朝にして変わった極楽の園だ。
        そうではあるが、世の極楽は長くはなく、
      たちまちに悪鳥が花をついばみ去って、
      嵐も草をなぎ倒していった。
      恋というものも、はかない夢の跡だ。
      恋も偽りの楽しみだと、初めて悲しんだのだ。

  大魔王 さてもさても、怪しい男であることだ、
      語れよ、語れよ、休まないで語れよ。

 柳田素雄 思えば、わが内には、
      決して和解しない二つの性格があるらしい。
      ひとつは神性、ひとつは人性、
      この二つは私の内で、小止みなき戦いをなして、
      私が死んで生命が尽きる時までは、
      私を病ませ、疲れさせ、悩ますのだろう。
      つらつらとわが身の過去を思いかえすと、
      光と闇とが入り混じって、わが内に、
      私とともに生い育ったこの二つのものは、
      互いに主権を争って、屈強な武器をとりそろえ、
      いつ果てるとも分からない長い恨みを醸しているのだ。
      この戦いを休ませるものは、
      「眠り」という神女が贈るものはあるが、
      眠りの中にも恐ろしくて氷の汗をしぼることもあるのだ。
      眠りはさらにまた長いものではなく、
      起き出すと野に充ちる小幟こはた大旗おおはた
      山を崩すいくさの叫喚、
      鳴神の銃の音、電光の剣の火、
      外の敵には、少しも恐れること知らぬ私であるが、
      内なるこの戦いには、眼をつぶって、
      ただひたすら胸の中の兵士をにらむだけだ。

  大魔王 もう説くな、もう説くな、
      さても愚かな苦しみであることよ。
      私はその戦いをやめ、
      おまえを穏やかに、楽しい者とするが、どうだ。

 柳田素雄 おまえの力で、できるならば面白い。
  大魔王 それならば来い、彼方のいわおに登ろう。
        (二人は歩み出して、彼方へ登る)
  大魔王 しばらくここで、眺めていろ、
      私が再び返って来るまでは。
      おさらばよ!
        (大魔王は、去る)
 柳田素雄 あやしい魔王だ、ここで何を見ろと言うのか。
      天の美か、地の和か、私を静めるものは何だ。
        ふししうかがって)
 柳田素雄 あれ、間近なあの煙は? 
      燃え上がる、あの火は? 
      その色が白い黒い、赤い青いのが
      入り混じったのは、何事だ、何事だ!
      あれ、あれ、あの火は都の方だ!
      都だ! 都だ! 都はいつの間にか、
      この山の麓に移ったようだ。
      その火!  その火!  都だ!  都だ!
      都だ!  なんとまあ私が産声をあげた所は、
      都だ!  私が戯れた所、無邪気だった所は、
      都だ!  私を迷わせた学びのちまたも、
      私が狂い初めたいつわりのことわりも、
      私が誤った知恵の木も、
      親しかった者も、憎かった者も、そこに、
      あれ、あれ、あの火の中に!

      なんとまあ、あの白い火は? 
        出たのはこれは、広大な屋敷と美しい御殿の間から、
      なんとまあ、あの黒い火は? 
        これは多くの書物や貴重な書物の真中から、
      なんとまあ、あの赤い火は? 
        これは大いに酔って踊る人々のあわいから、
      なんとまあ、あの青い火は?
        これは茅屋ぼうおくや廃家の傍らから。
      陰々いんいん陽々ようよう瞹々あいあい憺々たんたん[暗く静かに]と、
      煙となっては火にかえり、火となってはまた煙となって、
      立ちのぼり、立ちあがる——虚空も焦げて星も落ち散る、
      ものすごいぞ、ものすごいぞ。
      あの火の下に、あれ、あれ、何者だ?
        (巌の角の先端に進んで)
      あれ、あれ、私が住みなれた辺りは
      はや灰となった、はや、はや灰だ、灰だ!
      昔の家はなく、生命の気もない、
      仲良く遊んだ者も優しかった乙女子おとめごも、
      私が植えた草も樹も、
      ひとつは髑髏どくろになって道に倒れ、
      他は死の色に変わった。
      あれ、あれ、忌まわしいことだ、
      悪鬼どもが灰を蹴り立てて、
      飛びつつ躍りつつ、勝ちどきを挙げる。
      白鬼が、黒鬼が、赤鬼が、青鬼が、入り乱れて行き違い、
      叫びながら舞いながら、鼓を打ち跳ね遊んで遊び、祝歌を歌って、
      酒むしろを広げて、酔ってはなおも狂い躍り、
      落ち散る骨をかき集めて、打ちたたき、
      「まだ足らぬ、まだ足らぬ」とつぶやく声が聞こえる。
      ああ、わが都よ! ああ、ああ、都よ!
      捨てたとは言え、返らないだろうとは言え、
      わが都よ、悲しいことだ、あの火は!
      無残だ、限りなき人を遅からず、みな灰にするのだろうか。

      どこに隠れたのか、妙なる法の道は、
      どこに逃れたのか、本当に世の中を愛する人は、
      あの火に焼かれたのか、それとも恐れて去ったのか、
      ああっ! ああっ!
        (大魔王が、再び出る)
  大魔王 何に、そんなに悲しむのか。
 柳田素雄 恐ろしい世の中の様子を見たからだ。
  大魔王 どうして、そんなに悲しむのだ。
 柳田素雄 出たからと言って世の中は、
      私が本当に憎む所ではない、
      本当に忘れ果てる所ではないからだ。
      
  大魔王 (からからと笑って)愚かなことだ! 
      世は笑いながら泣きながら消えて行くのに、
      おまえ一人は、忘れないのか、忘れられないのか。
      神として崇めるものは、この世ではもはや
      権力がないのを知らないのか。
 柳田素雄 あれ、あれ、あの火の中には、
      神も仏も、よもや住まないのか。
  大魔王 住まないのかとは愚かなことだ、
      神より強い者が、彼に打ち勝って、
      彼の権威を奪い取ったのを知らないのか。
 柳田素雄 それは誰だ、何者だ?
  大魔王 その強い者を知れば、おまえは降参して拝むのか。
      崇めて、おまえの王とするか、どうだ。
 柳田素雄 もとよりだ。
  大魔王 それは、俺だ。
      罪の火を燃やして、白い黒い
      赤い青い、その火をもって
      この世を焼き尽くそうとする者は、俺だ。
      人を、世を、灰となし、昔の塵にかえす者は、
      こう言っている俺だ。
      火を、風を、電火を、鳴雷を、洪水を、
      高い山を、広い海を思いのままに使う者は、
      こう言っている俺だ。
      闇を広げ、死を使い、始めから終わりまで世を荒らし、
      世をもてあそぶ者は、こう言っている俺だ。
      平伏せよ今、平伏せよ、塵よ!
        (素雄は、なお黙っている)
  大魔王 千万の小鬼・大鬼を従えて、雲に乗り、風に鞭うち、
      雨に交わって、天上天下を横行する者は、
      こう言っている俺だ。
      平伏せよ、平伏せよ、服従しないか
        (素雄は、なお黙っている)
  大魔王 いまだ服従しないのか。
      おまえには通例ならぬきもがあるのを見て、
      ここへ召し寄せて、
      俺の鬼のかしらのひとりにしてやろうと思うのに、
      いまだ平伏しないのか。
        (素雄は、なお黙っている)
      いまだ平伏しない。
      それならば俺の魔力で滅ぼしてやるが、      
      火に投入れて灰にしてやるが、
      それでもなお服従しないと思うのか。
        (素雄は、奮然として立って)
 柳田素雄 こら! 悪魔め! 狂っている、狂っているぞ。
      おまえの雲の住居、おまえの飛行の術、おまえの制御の力は
      わが友とするのに十分だが、
      限りのない呪いのわざ、尽きることのない破壊の業は
      過去・未来・永劫のわが敵だ。
  大魔王 口賢しいぞ! 服従しないのか!
 柳田素雄 服従しろだと、ああ、汚らわしい
      天地が尽きるまでは、
      おまえと私とは親しくする時はない。
      行け、行け、行かなければ、
      わが真如の剣の切っ先を見せるぞ、どうだ。
      面白い、おまえの滅びの力を、
      試みよ、今、この私に。
  大魔王 滅ぼすことは、容易な業だが、
      滅ぼすのは、滅ぼすのは、
      泡沫を消すのよりも迅速だが、
      流石に、おまえを滅ぼすのは。
      服従せよ、服従せよ、もう一度思いを回らせ。
 柳田素雄 いまだ行かないのか。
      いまだに服従しろと言うのか、汚らわしい魔め。
      ちっ、悪魔め、思い知らせてやるぞ。
        (大魔王は、大笑して去る)
 柳田素雄 怪しいぞ、私の眼が自然に見えなくなった、
      明相の時も無明相の時も、瞬きもせずに開いていた私の眼が。
   魔声 俺の力を知らないのか。
 柳田素雄 ああ、魑魅ちみよ、毒魔どくまよ、私を滅ぼす業を、今始めるのか。
      いざ、いざ、この鉄拳で戦うぞ。
      あれおかしいぞ、私の腕が動かなくなった。
   魔声 俺の力を知らないのか。
 柳田素雄 口惜しいぞ、口惜しいぞ、おのれ悪鬼よ、
      私を愚弄するのか、それならば私の足を挙げて蹴るぞ。
      おかしいぞ、両足がしびれて立てない。
   魔声 俺の力を知らないのか。
      憐れな者であることか! 思い知れ!
      いざ行こう、無駄な時間を使ってしまった。
      おさらばだ、塵よ!
        (素雄は、眼を見開いて)
 柳田素雄 どうした、どうしたことだ。
      重くかかる雲を縫って天の門が開け、
      清く流れるのは天の川だ。
      どうした、どうしたことだ。
      わが眼は再び物の色を分かち、
      足も立ち、腕も動くぞ、うれしいぞ。
      はや見えなくなった、あの忌まわしい魔は。
      魔よ、魔よ、どこへ行ったのだ。
      無念さが骨髄に通って、御雪には熱を催させた
      わがふところから、ほとばしるのは凍った血だ。
      無念だ、無念だ、私はなお神でも霊でもない。
      死ぬべき定めにうごめく塵の生命が、なお私に纏いついている。

      その「我」に尋ねよう、「あなたが行くべき所はどこだ?」。
      世間か、返るのか、世間に?
      世間に返ったら、どこに住んで、どんな業をするのか?
      ああ、ああ、わが返る道には、猛虎がいて、毒蛇がいる。
      猛虎も毒蛇も、私が恐れる所ではないが、私は戦うことを好まぬ者だ。
      いや戦うのを好まぬのではない、わが性分は戦争に慣れないのだ。
        世間よ、私が行って住むべき家はあるか、
        世間よ、私が返って、なすべき業はあるか、
      世間よ、あなたがかつて与えた古寺の朽ちた下壁の、
      こうもりと一緒の巣は「寂寥」を宿すには十分だが、
      この暗い所に眠らない者には、一夜をも送れる場所ではない。

      私は世間を家とはしない、世間よ、あなたも私を待たないだろう。
      私の家はどこか? 私の行くべき所は?
      ちっ! ちっ! 魔よ、私をどうしようとするのか。

      見下ろせば、限りの知られぬ山の麓に、あやしい火が上る、
      そこだ、そこだ、私が行くべき所は、そこだ地獄だ。
      死の水の流れは速い、そこだ、そこだ、
      わがいかだを下ろすのは、そこだ黄泉への道だ。
      この身は、生きて甲斐がなく、いても用はない。
      思いを決めて、さあ一躍して奈落の真中に!
      風のように、火のように、雷のように、流星のように落ち下るのだ。
      どうなってもかまわない、粉となっても、塵となっても。
      舞い下ろう! 舞い下ろう! 
      思えば簡単なことだ、元々が塵なのだ。
      世間のおきてを乱し、世間の定めを破る者は、
      わが後には生れるな。
      いま去ろう、消え失せよう、世間の外に。
        (一躍して巌を離れようとする時、
         樵夫の源六が走って来て、素雄を抱き止める)

 柳田素雄 誰だ、誰だ、何者だ、
      私を止めてどうするのだ?
   源六 待て、待て、旅人よ。
 柳田素雄 樵夫きこりではないか、どうしてここへ来たのか。
      また、どうして私の死を止めるのか?
   源六 危なかった、危なかった、そこは険しい、
      滑り落ちては‥‥‥こちらへ、こちらへ。
 柳田素雄 いやだ、この世は私を苦しめ、また欺いた。
      私を亡き者にしようとしたのだ。
      どうして長く留るべきか、もはや興味もないので。
      見よ、世の中の方に燃え盛る火を、
      どうして、私は長らえることがあろうか、
      今が時だ、死ぬべき時だ。
      見ろ、彼方に面白く翼を張るものがある、
      あれ、あれ、あの鳥だ、あの鷲だ。
      私が、どうして劣っていることがあろうか、
      さあ、ひとおどり、奈落への旅路を急ごう。
        (源六は素雄をとらえて、動かさない)
   源六 あわれ、旅人のむごく狂うことだ。
      おそろしいことだ、この頂から舞いくだろうとは、
      しばし都の人よ、しばし静まってくれ。
      これはどうした、これはどうした、
      どうして、そうしてもがくのか。
 柳田素雄 なだめるな、なだめるな、偽りのかたちよ、
      おまえも小鬼の一人であろう。
      思えば、人は誰が鬼ではないのか、
      美しい顔であっても、優しい様子であって、
      極端な言葉を吐いても、気高い行いをしても、
      厳かに説くとも、あらたかにあげつらうとも、
      優れた挙動も、清らかな意志も、
      外は神であっても、内は鬼だ。
        人はみな鬼であるのか、
      私が見たような灰の中でときめく者どもは人か鬼か、
      鬼であろう、鬼ならば人であろう、人ならば鬼であろう。
      行け、樵夫よ、私は鬼の世には返るまい、
      知らない地獄には、また楽しいこともあるだろう。  
        (源六は、素雄が仙姫洞に残した琵琶を取り出して)
   源六 おそろしく狂うことだ。
      さても旅人よ、この琵琶を覚えていないか。
      私が鬼ではないことは、これでお分かりになろう。
 柳田素雄 それは、私の琵琶ではないか。
      どうしたのだ、わが精神たまのとても親しい者ではないか。
        (一滴の涙が、凄然せいぜんとして[物寂しく、痛ましく]落ちる)
      どうしたのだ、どうしたのだ、わが琵琶よ、
      わがために、どんな音で鳴ろうとするのだ、いったいここで。
      琵琶よ、わが乱れる胸は、おまえの慰藉いせきの境を越えて‥‥‥果てはない。
      見よや、私を納めるべき天は、見るうちに
      高きから高きへ、青きから青きへのぼりにのぼって、
      私が入るべき門は、とても遠くなった。
      見よや、私が離れるべき地は、ただ見るのは、
      蛟龍こうりゅうの背を立てたように、怒涛が湧くように、
      私の方に近寄り近寄って、埋めようとし、
      呑もうとするるのだ、その暗き墟に。
      琵琶よ、おまえを伴ってどうするのだ、
      おまえを頼んでどうするのだ。
      わが精神の、わが情意の真の友であった、
      わが琵琶よ、もはや用はない。
      清くけがれのない蓮華の上に、おまえを携えて、
      浄土の快楽が長いだろうと思ったことは、
      いつわりであるのかも、いや実に偽りであることだ。
      今はもはやおまえに暇を取らせるべきだ。
      私が埋もれるであろう世の奥である地獄の地に、
      おまえが通う道があるかどうかは、疑わしい。
      行け、行け、夜も恐れないで空を翔る
      あの、あの鷲の跡を追えよ、おまえも自由の身だ! 
      琵琶よ、おまえも不羈の身だ! 
      天地には心がないのか、おまえのために流す涙はないのか。
      行け、行け、わが先駆けをせよ!
      どこへ行くのか? 行け、どこへでも!
      私と一緒になるだろうか? 
      行け、行けばおまえが通う所があろう、
      私が通う所は、まだ知りはしない。
        (琵琶を投げ下ろす)
      面白いぞ、面白いぞ、わが琵琶は、
      風にひるがえって、気を払い除けて、
      怒るのか、恨むのか、泣くのか、笑うのか、
      喜ぶのか、悲しむのか、その音は?        
      自然の手に弾かれて、
      わが胸とおまえの心とを契り合わせつつ、
      落ちて行く、落ちて行くのだ!
      えー、えー その音は、えー、えー その琵琶の、
      えー、えー わが琵琶のその音は、私に最後を促すのだ!
      いざ、この私をも舞いくだらせよ、
              舞い下らせよ、
      いったいまあ、烈火の中にか、熱鉄の上にか。
      いざいざ、私も行こう、
      地よ、私を噛むのに、虎のきばを現せよ、
      海よ、私を呑むのに、わにの口を開けよ、
      いざいざ、わが中でも、生命が私を脱け出そうともがくようだ。
        (素雄は振り切って、飛び降りようとする)
   源六 危ない、危ない、さても怪しい旅の客だ。
 柳田素雄 怪しいだと? 世間の生涯こそが怪しいのだ。
      過ごしてきた経験が、鏡のように・・・
      死こそが物の終わりなのだ、死んで消えることこそが、
      死ねばこそ、また他の生涯にも入るのだろう。
      来たれ死よ! 来たれ死よ!
      この崖を舞いくだらなくても、
      わが最後の力は、世に満ちる精気の力と協力しあって
      私を死に至らせるのに、難しいことがあろうか。
      さあ私が命じているのに・・・さあ私が命じているのに・・・
      ・・・さあ私が命じているのに・・・私が招いているのに
      ・・・私が招いているのに・・・
      死よ! 来たれよ、おまえ!
      来たれよ、おまえ! ほほえむ者よ!
      来たれ、来たれ、すぐに刺せよ、その針で。
      いま衰えた、いま物をわきまえなくなった、
      いま消えて行く、いま死だ、いま死だ! 
      死よ、おまえを愛しているぞ。
      死よ、おまえより心安い者はない。
      おさらばだ!
        (素雄、倒れる)
   源六 これはどうしたことだ。これはどうしたことだ。
      舞いくだりもしないで、ここで終わってしまうのか。
      あやしいことだ、ああ無残だ! 
      旅人よ、旅人よ! 
      もはや起きない。その魂はどこに行くのだろうか。
      おそろしい、おそろい!
      あわれ、あわれ、死んでしまった、なくなってしまった。

                         ―――――――――――――――――――――――― 

蓬莱曲別篇

蓬莱曲別篇を付すについて

 私の自責の愛児である『蓬莱曲』は、初め二篇に分けて世に出そうと企てられた。すなわち素雄が山頂に死するまでを第一篇とし、慈航湖を過ぎて彼岸に達するまでと、さらにその後を綴って後篇としようとしたが、持病が私を苦しめることが、筆を握るごとに甚だしく感じられるので、中道で変更してこれを一巻とすることにした。それゆえわずかに慈航湖の一幕を付加するだけにとどめざるを得ないことになったのである。しかしながら後日病魔が退くのを待って、別に一篇を書こうという心がないわけではない。しばらくはこれに未定稿と記して巻末に付すにとどめることを、読者よ了解してほしい。
                                著者 識す

蓬莱曲別篇(未定稿)

第1幕 慈航じこううみ

        露姫は、玉で飾った竿さおを使う
        素雄は失心して、船中にある

   露姫 ここは慈航の湖の上。
      波は穏やか、水は滑らか、岩は静かで、
      水鳥は何気なく戯れ泳いでいる。
      松の上に昨夜の月が軽く残って、
      富士の白峰に微かに日光がはい上る。
      面白いここの眺望を打ち捨てて、
      さあ急ぎましょう、西の国[極楽浄土]へ。
        (倒れている素雄に向かって)
      素雄さま、早く目覚めて下さい。
      世間とは離れて、あなたが恐れるものは
      ひとつも、ここにはないのですから。
      君のために死んだ露は、今君を乗せて、
      この船におります。
      君を迎えに出て、原の彼方で顔を合わせた
      露は、今君の傍らにおります。
      起きて、起きてよ、素雄さま
      西の国への旅路は珍しいのに。
      まだ起きない、それならばこの琵琶で
      呼び覚ましましょう。
        (琵琶を取り上げて、弾じる)
      素雄さまは、どのような夢に——楽しんでいるのか、
      悩んでいるのか。まだ起きない。
        (再び、琵琶を鳴らす)
      素雄さま、どうしてお目覚めにならないのですか。
      では、もう一度。
        (三たび、琵琶を鳴らす)
 柳田素雄
 誰だ、誰だ、わが魂をかき乱す者は?
      その鐘の音は何だ。私の行くべき所は、まだ定らないのか。
      空しく澄むことだ、梵音ぼんおんは。私は自分を悪魔の手に任せて、
      ——いや、任せたとは言え、わが好意で与えたのだから、
      そのがいかに美しくても、その調べがいかに甘くても、
      わが地獄よみへの路を閉じることができようか。 
   露姫 まだ目覚めない。自分を魔に与えたと言われるのか、
      はかなくも狂い果てたことよ。
      さあもう一度、この琵琶の音を澄まそう。
        (四たび、琵琶を鳴らす)
 柳田素雄 走れ、走れ。急げ、急げ。
      あれ、あちらに、それ、こちらに。
      ここにもいる、あそこにもいる。
      鬼ども、急げ、急げ、急げ、
      私を陰府よみに連れて行けよ。
          とは言いながら、たとえ、
      この私は、永遠の毒火に焼かれるとも・・・
      ・・・思えば、いとしい彼の人は、
      彼の人は、わが行く道にはいないだろう。
      そうすると永い離別もこの一時に決まるのだな、
      悲しいのは、このことだ。
   露姫 まだ狂うよ、さあもう一度。
        (五たび、琵琶を鳴らす)
 柳田素雄 それは何だ。竿さおの形をしたものは陰府よみの槍なのか。
      わが苦痛の時が来たのか。それは何だ。
      優しい鬼であることよ、その優しい顔で私をどうするのだ。
   露姫 私は鬼ではありません。
      露姫ですよ、露姫ですよ
      あなたの妻でありますよ!
        (六たび、琵琶を鳴らす。素雄は、がばりと立って)
 柳田素雄
 わが露姫だと?
      その音は私の琵琶ではないのか、わが精神たまではないのか。
        (四方を顧みて)
      ここはあやしい霞の中だ。どうしたことだ、どうしたことだ
      わが露姫がここにいるとは。
   露姫 そのことは決して語りません。
      蓬莱が原で仙姫やまひめとなって、君に会った時にも語らなかった、
      死の坑でおさを止めて、顔を合わせた時にも語らなかった、
      すみれが咲く谷の下道にある洞でも語らなかった。
      私には、そのことを語れる力がありません。
 柳田素雄 そうだ、そうだ、私は蓬莱山の霊野れいや
      入ったことを覚えている。
      露姫よ、あなたが鹿を連れて過ぎていったのを見た、
      あなたが死の坑で、おさの音を止めたことも、
      また瀑布をめぐって、あやしい谷の洞で、
      あなたが眠るのをおびやかしたことも‥‥‥
      またこの私が雪を踏んで霊山に登って、
      世の王の嘲罵に堪えられずに‥‥‥倒れたことまでは、
      うつつに覚えているが、後は知らない。
      さては、私はもはや世の中とは離れたのか、
      死の関も、もはや越えてしまったのか、
      珍しいこの和らぎの湖は、
      これが神の庭に入るべき水であろうか。
      餓鬼道がきどうに入っても
      惜しくはないこの身だと思い定めていたのに、
        私は、ついに世を出た。
        私は、ついに救われた。
        私は、ついに家に帰った。
        (奇鳥が、過ぎる) 
 柳田素雄 あれを見よ、あやしい霊鳥ではないか
      あの名を知っているか、どうだ。
   露姫 私は知りません。
 柳田素雄 見よ、あの鳥は私の方を見つめつつ、浮き木にすがって、
      物を言いたそうに見えるのだ。
      言わせよう、言わせよう。
      霊なる鳥よ、どこから来て、どこへ飛ぶかは尋ねはしない。
      語れよ語れ、語るべきことがあれば。
       (鳥は水を離れて、言葉を残して飛ぶ)
霊鳥の言葉  悟れ! 悟れ! 夢から覚める者よ。
       祝え! 祝え! 世から帰る者よ。
       楽しい西に、はやく急げ!
       彼の岸に、はやく上がれ!
       魔は、これからは、あなたの敵ではない!
       よろずのものが、みなあなたの友になるだろう!
       楽しめよ、楽しめよ!
        (霊鳥は、去る)
 柳田素雄 本当だ、私も私の長い夢を初めて破って、
      今朝けさ生命いのちに帰る心地がする。
      露姫よ! 露姫よ! 私は初めて悟った。
      その玉の手を貸してくれ。
        (露姫が手を出すと、握って)
      露姫よ、一昨日おとついは恋の暗路の連れ、
      昨日きのうは世間の苦悩の慰安なぐさめの者、
      昨夜ゆうべは変わって眠りを乱す者であったが、
      たちまち今朝けさはともに誓った慈航の友だ。
      日輪が霞の彼方に立ち上ったので、
             ためらうならば遅れるだろう、
      はやく、彼の岸に至ろう。
   露姫 彼の岸よ、彼岸ひがんよ、楽しい所は彼岸よ。
      恨みがなく、憂いがなく、辛さがないのは、彼岸よ。
 柳田素雄         彼岸よ、実に‥‥‥
      友を追って、分かれて来た雲は消えていき
        雁金かりがねは、尽きることのない宿に帰っていく。

 (明治24年5月、養真堂刊)

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