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複数の言語を勉強して思うこと

私は英語教育に特化した幼稚園に通っていたため、英語という「日本語以外の言語」に触れる時期は、比較的早かった方だ。

3歳の頃から、日常的にネイティブの英語を聴いていたし、英語で返事をしたり、英語の歌をうたったり、発表会では英語で劇をしたりしていた。

当時は文法もよくわからず聞こえた通り発音したり覚えたりしていたが、そのおかげで英語への抵抗はなく、日本語と全く違う!という感覚すら全くわいてこないというか、そう感じることすら感じない、ようなところがあった。

しかし、中学校に上がって、その感覚が変わった。

今は英語教育が進んでおり、小学校でも授業がある。早くから英検にチャレンジすることもメジャーになっている状況だ。しかし当時は、ほとんどの生徒にとって、英語は中学校で初めてちゃんと習うものだった。

そのため、周りで英語嫌いが続出するし、テストで高得点をとるいわゆる「できる子」でも、発音となると、本来の英語とはかけ離れたものだった。

もはや日本語の一部のように定着している英単語に関しては、カタカナで書かれることによって日本語の音で発せられるのが普通だ。

ただ、私にとって英語とそれらの「カタカナ語」は別物であったのだが、学校で同級生たちが「英語」として発する音、人によっては英語の先生たちが教える音は、明らかに「カタカナ語」に類似したものだった。

ここで初めて、「日本語と英語はこんなにも発音が違う」という事実、「日本人にとって、英語の発音がどれほど再現が難しいか」という現実を知った。

少し話は変わるが、私が出会った先生の中で唯一、スキルも人柄も心から尊敬できる先生が、中学で出会ったある英語の先生だった。その先生はこの事実に対して、日本人が作り出した英文法用語や、カタカナ発音を一切使わずアプローチしてくださった。

その先生が指導に入った私のクラスはみんな進んで英語を勉強するようになり、生きた発音や知識を身につけていっただけでなく、普通の公立中学の一つのクラスであるにもかかわらず、英語のテストのクラス平均はいつもほぼ90点だった。

先生はいつも私の発音を褒めてくれたが、私にとっては、幼稚園で聞いていたネイティブの先生たちの英語が初めて触れる英語だったので、逆に「ジャパニーズイングリッシュ」が言えなかっただけである。

「they」の発音をカタカナでは「ゼイ」と書くなんて、中学で初めて知った(実際は不要な知識だ)。

先生の授業を思い出すたびに、「実践的な英語」と「日本のテストで点数をとるための英語」は違う、というのは言い訳なのかなと思う。本物の力をつける指導は、どんなタイプのテストにも有効だ。今は私も教育に携わる一員だが、いつもそういう教育ができているだろうかと自問自答しては、とてもあの先生には追いつけないと思う。

話が逸れてしまったが、中学に上がって私は、「日本語と英語の発音が全然違う」ことを改めてきちんと認識した。

このときは、「英語と日本語が」そういう関係にあるのだと思った。しかし、この認識はまた少し変わることになる。

大学の言語の授業で、韓国語と中国語を学んだ。また、機会があっていくつかヨーロッパの言語に触れる機会もあり、英語のように普通に会話ができるレベルになるほど勉強してはいないが、大まかな文法や発音には一通り触れた。

そこで、「日本語という言語の発音の特殊さ」を実感した。

日本語は、世界一難しい言語のひとつだとも言われる。だがそれは、おそらく文法的なことに関してであるのだろう。漢字も使われるし、品詞や活用が複雑だし、方言による言葉の違いも激しい。おまけに、尊敬語や謙譲語があるし、助詞ひとつで失礼に聞こえたりと、言葉のニュアンスが難しい。

しかし発音に関しては、曖昧母音がなく、とてもシンプルだ。厳密に言えば、曖昧母音的発音は会話の中に普通に使われてはいるが、どんな「あ」も「あ」と表記(認識)されるというように、音の「カテゴライズ」が非常に大まかだ。

例えば、英語や韓国語に、

「オ」っぽいけど「アとオの中間」

のように説明されることがある音が存在する。

日本人は、「オ」は「オ」じゃないの!?、なんでオが2種類もあるの!?、と混乱してしまう。ここで、多くの日本人学習者が挫折する。

よほど意識して大袈裟に発音してもらわないと違いが聞き取れなかったり、自分で発音しようとしても全く同じ「オ」になってしまったりするのだ。

日本語は子音の発音カテゴライズもシンプルだ(韓国語の激音や濃音を知ったときには、私も混乱した)。しかも日本語の場合子音の発音にも必ず最後に母音がついてくるので、結局母音に依存する。日本人が発音する「book」は「ブック」だもんなぁ…

発音に関しては、日本語はまるで絵の具の基本色みたいだな、と思う。色の塗り方も、たっぷりと筆につけ、そのまま塗るという。

他の多くの言語は、もっとグラデーションがあって、ちゃんとそれに名前がついている。塗り方も、水で薄めたり、濃淡をつけたり、様々だ。

でも、50色くらいの絵の具を与えられると、いざ「赤を選んでくださいと」言われても、「どの赤が赤だろう?」と思ってしまうし、「そのまま塗って」と言われても、「どの程度白を混ぜるの?水を混ぜるの?」となってしまうだろう。

海外の方が日本語を発音したときの感じは、これに似ているのではと思う。

赤ど真ん中!の赤をいざ発音しようとしても、様々な赤の存在に慣れている別の言語圏の人たちは、「どの程度がちょうどど真ん中の赤なの?」という逆の戸惑いが生じ、塗り方も選択肢が多すぎて混乱が生まれる。

だから、日本人からすると、ちょっと口がすぼまりすぎているような不思議な発音に聞こえたり、子音だけが流れていくように聞こえたりする。

他の言語を学ぶときに、「発音をカタカナで書くな」という注意をよく聞くが、例えば「ク」とカタカナで表記しても、それが本当は日本語の「ク」ではなく「k」の発音だと耳がちゃんと知っていれば、問題はないように思う。

人間は、必要のなくなった力は逆に退化してゆくと聞く。日本語しか話さない場合、日本語のカテゴライズでしか音を区別できなくなってしまうことが、他言語学習における一番の問題だと思う。

だから、小さい頃から英語を、という今の時代の流れは、理にかなったものではあると思う。

ある程度のレベルまでは、言語学習は単語力がものを言う。ただ、日本語の発音カテゴライズのまま発音し(最悪の場合、発音を覚えないまま字の並びだけを覚えて)意味を暗記してしまっては、「聞く」「話す」の領域においては、それは全部使えない単語行きになってしまう。

その前に、学習しようとする言語の発音カテゴライズ(プリセットのようなもの)を習得することが、真の単語力、理解力、コミュニケーション力につながるはずだ。

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