休日スイッチと自由度

すこし足を伸ばしたところにある、街の公園が好きだ。たくさんの木や、花が植えられていて、小さな川が流れている。

わたしは毎週末、ここに来る。
朝、コーヒーと小さなお菓子を持って。

川のそばのベンチに座って、ゆっくりと朝の空気を吸い込み、1日の鼓動を感じる。

コーヒーも、気に入ったお店の豆で淹れて家から持ってきたり、途中にあるコーヒーショップで買ったり、気分に任せる。

おやつもまた然り。好きなものを、一つだけ持ってくる。

コーヒーを味わい、お菓子を一口かじる。

甘さと苦さが溶け合い、満たされたところに、涼やかな川の水音が、静かに心に流れ込んでくる。

朝の公園は、そんなに混んでいない。
でも、休日とあって、ぽつぽつと、
お年寄りの方、小さい子どもを連れたお母さん、新聞を読んでいる中年の男の人、
そういう思い思いの時間を過ごす人たちがいる。

どこか緊張をはらんだ平日が終わり、心がときほぐされて、まるで風景の一部のように、存在している。

お菓子を食べ終えると、すこし、お気に入りの本を読んで、家に変える。

愛車のクロスバイクは、わたしがペダルをこぐたびに、ふんわりと秋風を運んでくれる。

毎週末の幸せなひとときを終え、季節を全身で感じながら、家に帰る。

そして、卵焼き、納豆、味噌汁、炊き立てのご飯といった和食できちんと朝ごはんをとり、休日がスタートする。

この時間は、HSPであるわたしにとって、1週間の疲れを癒やし、またきちんと翌週を迎えるために、なくてはならないものだ。

わたしはHSS型の気質ももっているので、以前は、休日の朝から、なにかと用事を詰め込んで、しょっちゅう旅行や趣味の遠征にも出かけていた。

趣味がきっかけで、方々に友だちもできたので、彼女たちと会うのも楽しみだった。

しかし、それで、心のある部分が満たされはするけれども、やっぱり体はくたくたになってしまって、精神的にも、リフレッシュできた部分と、疲れを余計増幅させた部分があるように感じていた。

でも、やはり楽しいことはやめられず、行きたい気持ちを我慢するより、ちょっとくらいきつくても無理をしてしまう方を選んでいた。


しかし、今年2月頃から、
こんな世の中になって、好きに旅行することができなくなった。

行きたかったイベントも、次々と中止になり、東京や大阪に住む友人たちとも、自由に会えなくなった。

以前の生活からすると、わたしの精神的なストレスを発散する場がすべて失われてしまったようなものだ。


もちろん、たしかに寂しさはあった。
でも、わたしは全くと言っていいほど、ストレスを感じなかったのだ。

休日は、特にどこにも行けないので、毎週なにも予定が入っていない状態。
翌週も、その次も、その次の月も、予定が特にない。

なんだか、気分が軽やかだった。

もちろん、ウイルスは怖いし、ウイルスのせいで、たくさんの命が失われていることを考えると、悲しくて、その悲しみや恐怖の渦に飲み込まれそうになることはある。
HSP特有の想像力は気をつけていないと暴走する。

ただ、「予定がない」ということについて言えば、気分が軽やかだったのだ。

この期間は、仕事も休業になったりしたので、家に居て見たいものを見たり、インテリアにこだわったり、曲を作ったり、勉強したり、好きなことをとことんやった。

朝起きて、予定がないと、「今日はなにをしよう」と、自分の気分に語りかけて、1日を好きなように過ごせる。
そのワクワク感は、遠征に出かけていくワクワク感をしのぐほどだった。

この期間を通して、
HSPにとってもっとも必要なものの一つは、「自由度」だと、改めて思った。

HSPは、気分屋なところがある。
でも、動けないほどよほど体調が悪い場合を除いては、気分を出さまいとし、自分の都合でキャンセルしたり、予定を変更したりというような、人を振り回すことはできない。

だから、「決められた予定」があると、朝起きて自分の心身の調子がうまくいっていなくても、無理に従ってしまう。

今思えば、楽しみで入れた遠征や友人との会合も、当日になると今ひとつ気乗りがしないということもあった。
でも、一度もキャンセルしたことはない。

だから、わたしにいちばん必要だったのは、精神的なリフレッシュを派手にすることよりも、
「今日はなにをしようかな」と、自分の心をいちばんに優先し、寄り添う贅沢だったのだろう。


街の公園は、これまでもよく利用していたけれど、
自粛期間が明け、屋外へのお出かけなら、という空気になったころ、改めて訪れてみると、「ここを自分のスイッチにしよう」という思いが降ってきた。

ここを訪れて自分だけの時間を過ごし、「今日はなにをしようかな」と、自由に過ごせる休日に翼を広げる。自由を感じる、休日スイッチ。

誰に縛られるでも、何に縛られるでもない、ただ空間に身を委ねる時間。

ここは昔から、「この街の大好きな場所」のうちのひとつだ。

小学生の頃の遠足の行き先もここだったし、はじめてのピアノの発表会があったのも、この公園の中にあるホールだった。

幼い弟とわたしを連れて、夏休みは母がしょっちゅうここに連れてきてくれた。
中学校の合唱コンクール、亡くなった祖母との散歩。

ここには、思い出がたくさんある。

気づけば、もうずっと、ここはわたしの大切な場所だったのだろう。

ベンチに座って、水音に耳を澄ませていると、この広い公園の中に、いろんなわたしが生きているような気がした。

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