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HSPと、心のフィルターのはなし

HSPの多くの人は、「やさしい」という印象を持たれるのではないかと思う。

わたしもよく、そんなふうに言われることがあるし、幸い仕事でも、声かけや教え方に関して、「やさしい」「やる気が出る」「わかりやすい」という言葉をいただくことが多い。

ただ、冷静に分析してみて、
それはわたしがすごいとかではなくて、
わたしは「心のフィルターの目が細かいから」ではないかと思うのだ。

たぶん、人は、自分の心のフィルターを通してしか、言葉を選べないことが多い。

よほど意識的にならないと、自分の心のフィルターどおりの言葉のチョイスをしているはずだ。

自分の心のフィルターに引っかからないことに関して、「相手のフィルターには引っかかるかもしれないから言葉の選び方を気をつけなければ」と考えられる人は、ほとんどいないと思うし、

そもそも自分の心のフィルターに引っかからないことを、こんな風に立ち止まって考えるなんてしないだろう。

逆を言えば、自分のフィルターにちょっとでも引っかかる言葉は、自然と避けるものだ。
 

繰り返しになるが、わたしは心のフィルターの目が細かすぎて、日常的にたくさんの言葉に引っかかってしまう。

向こうは何気なく放った言葉、ただ相手のその日気分で接された瞬間でも、
たちまち嫌な気分になってしまったり、何か自分に原因があるのかなと思ってしまったりする。


「されて嫌なこと」「言われて嫌なこと」の量が、たぶんものすごく多い。
「自分にとってオーケーな対応」とみなされるレベルがあまりに高いので、それをクリアする対応をしてもらえることは、なかなかない。

だから、逆に「わたしの人への対応」は、無意識のうちにこのフィルターを通して形成されているので、
「わたしがされた側だとしても、完璧にクリアになる対応」を自分自身でやっていることになる。


たくさんの子どもたちをみなければならない日々の仕事のなかで、「相手の心フィルターだったらどうか」ということをじっくり考えて接することは、とても難しい。


だから、仕事柄、わたしはものすごく、自分のフィルターの細かさに感謝しているし、信頼もしている。

わたしの心のフィルターを自然に通ることができた言葉たちは、たぶん、よほどのことがない限り、ひとを傷つけない。

「わからなくてつらい」「こんな質問をしたらバカにされるかもしれない」「前も同じことをきいたのに大丈夫だろうか」

きっとそういうゆらゆらした不安な気持ちで教室に居る子どもたちもいるはずだし、学校や家庭で何かトラブルを抱えて揺れている子どもたちもいるはずだ。

自分が学生の頃は、面倒な自分の心のフィルターが、いつも邪魔をした。

でも今は、
そういう繊細な心に対して、間違った言葉のチョイスをすることを、無意識のうちに避けることができるから、
自分の心のフィルターのことが好きだ。

「すごいね」「いつもがんばってるもんね」「これは難しいだろうから、自分でできなくても心配しなくて大丈夫だよ」「すこしでも自信がないところがあったら、すぐにきいてね」「間違えても、何も恥ずかしいことはないんだよ」

わたしがかつて言って欲しかった、ときには全然もらえなかった言葉を、毎日届けている。

怒りたいときでも、必ず「なにか理由があったの?」ときく。

「送信側」になるとき、細かすぎる心のフィルターは、関わるひとの心を包み込むベールになる。

「受信側」としては、つらすぎることも多いHSPの心のフィルター。

学生時代は、苦労やつらい体験の方が圧倒的に多かった(しかも、その頃HSPというものを知らなかったから、自分を責めるしかなかった)。

でも、社会人になってからは、「自分を受け入れて、最大限に生かす」ことが、すこしずつできるようになってきている気がする。

大きな流れとしては「受信側」である学生というスタンスから、「送信側」になることが、社会人になるということの一つの側面かもしれない。

「鈍感力」を身に付けることは、「受信側」になるときの盾として必要な場合も多いけれど、「送信側」として、自分の言動だけには、いつまでも妥協したくないと思う。

自分の感じる過剰な痛みには、鈍感に。
でも、誰かの痛みには、いつまでも繊細でいたい。すべてのものを、大らかに受け止める、それでいて、関わる人を優しく包む存在でありたいと思う。

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