見出し画像

本当の優しさとは?


優しさってなんだろう。
幼い頃から、わたしの脳内には、常にこの疑問が浮かび続けている気がする(HSCの幼少期は、こういうことを考えやすいのだろうか… わたしの関心事はいつもこういうことで、周りにはこういった話が通じる子が誰もいなかったし、当時はHSPという概念も知らなかったので、小学生の頃は、常に人間関係に苦しんでいた)。

誰かのことを本気で心配する心、助けの手を差しのべる行動、労いの言葉、自分より他人を優先すること、相手を思いやった嘘…


どれもが優しさかもしれないし、どれも優しさではないかもしれない。

色んな優しさがある。
だけど、わたしはやっぱり、踏み込みすぎる優しさは苦手だ、と思うのだ。
もともと自分に自信がある人、あるいは、なかったけれど努力でそれを勝ち取った人は、自信が持てない人に対して、ときに価値観を押しつけてくる。


特に、努力で自信をつけてきたタイプのひとは、

「自分もこうだったけれど、努力してこうなった!だからきみも!」
「きみは◯◯を気にしすぎだ!もっと△△にしないと!」
のように、自分の経験と結果ばかりを主張してきがちだ。

誰にでも、「何事も心の持ちようだ!自分の心次第で、なんとでもなる!」ということを、手を替え品を替え押しつけてくる。

みんながみんなそう、とは言わない。
でも、多くの「踏み込みすぎる」ひとたちは、
「自分と全く違う心がある」ということを、想像しないのだ。

そもそもの心のつくりの違い、という概念を考えない。

だから、「俺だったら」「私があなたなら」という、お門違いにも思える助言をする。

「自分の心」で、相手の立場に立とうとする。



だから、わたしは言葉を放つのが怖い。

わたしは日頃から、そういう「自分の考えを、知らず知らず押しつける」ことはしたくないと思って、注意を払っているつもりだ。

でも、その人にとって、その人の心にとって、何がふさわしくて何がふさわしくないかなんて、本当にはわからないのだ。

自分では選びに選んだ言葉であり、注意に注意を払った上で届けたはずの言葉でも、相手にとって本当に何を意味するのかは、知る術がない。

例えば、悲しい(と自分が感じるような)話を聞いて、「つらかったね」としんみり言うのが正しいとは限らない。

「そうじゃなくて、ひどいねって一緒に怒って欲しかった!」と思うかもしれない。

「同情なんていらない!」と、逆に嫌な思いをさせる場合だってあるかもしれないのだ。
この場合、相手を思いやってかけた「つらかったね」の言葉は、いちばん言っちゃいけない類いの言葉だ。

とにかく、その話を、「悲しい」と思っているのは、自分の心だから、相手の心が同じだとは限らない。

わたしは、誰かの愚痴や、その他ポジティブではない話を聞くときは、まず、じっくりと話を聞く。
「そうなんだね」や、相手が言ったことを繰り返す程度の相槌を交えながら、ただ聞く。

「話を聞く」
「話を聞いてもらう」

それだけは、きっと誰も嫌な気持ちにしない。
それだけは、きっと誰もが心の奥では確実に望んでいる。

優しさとは、
相手のために何かを言ったり、相手のために動いたり、相手に何かを与えたりすることじゃなくて、ただ、受け入れることなのかもしれない。

相手を受け入れることは、相手のことを大切にしている象徴である。相手に「自己重要感」を与える。

それを感じることは、人間にとって、最も強い願望のひとつだと思う。
誰もが、心のどこかでは、大切な存在だと思われたいと願っているはずだから。


ただ、こんなことを考えていること自体が、なんだか打算的なような気もして、
結局、純粋な「本当の優しさ」「ホンモノの優しさ」からは、遠ざかっている気もするのだ。

優しさ探しの旅は、これからも、半永久的に続きそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?