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深夜の病室に笑顔を灯す

忘れることのない大切な日々を、いま振り返って。

小さく生まれた赤ちゃんの子育て

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寒い冬の夜、里帰り出産で実家に戻っていた私は、あたたかい部屋で生後1ヶ月を過ぎた息子と過ごしていた。ほ乳瓶を使って授乳していると、突然、息子の顔色が蒼白になった。呼び掛けても反応がない。

私は動揺のあまり、泣きながら出産した病院へ電話をかけた。状況を伝えると「すぐに病院へ連れて来てください」とのこと。実家から病院まで、車で40分はかかる。その間に何かあったら…。必死に不安を振りほどき、母に付き添ってもらって祈るような気持ちで車を走らせた。

息子は予定日よりも1ヶ月余り早く生まれた。出生体重は2500g未満の低出生体重児で、生まれてすぐNICUに入院し、1ヶ月後に退院した。

小さく生まれた息子は呼吸が上手ではなく、普段から授乳のときや大泣きしたときにうまく呼吸ができなくなることがあり、注意深く育てていた。

授乳の度に、もしかしたら呼吸が止まってしまうのではないかと緊張した。授乳に限らず、白湯を飲ませるときや、なかなか泣き止まないとき、息子の呼吸が心配でドキドキした。常に顔色を確認できないと不安で、夜は一晩中電気をつけっぱなしにして過ごしていた。そして、恐れていたことが起きた。

病院に到着すると、その場で入院が決まった。NICUを出て自宅に連れて帰ってから9日目、再びの入院である。

既に息子の様子は落ち着いていたけれど、先生には、ほ乳瓶は乳首の種類によってミルクの出る量が異なるため、入院して息子に合うほ乳瓶の乳首を探しながら授乳を練習しましょう、と言っていただいた。

NICUにいるときは、生まれたばかりの息子を連れて帰れないことがつらかった。今回は小児科病棟に入院となり、私が付き添うことになった。

親子で一緒にいられることはとてもありがたい。しかし、入院してすぐ、付き添い入院には大変な苦労が伴うことに気づいた。

病室では息子のベッドの隣で長いすに横になり、薄い毛布をかぶって眠る。深夜でも、息子が泣いたり、血液中の酸素濃度が下がってアラームが鳴ったり、オムツを替えたり、授乳をしたりする度に、長いすから起き上がって対応した。

水分量を管理する必要があったため、取り替えたオムツは毎回病院の共用トイレにある計量器まで重量を量りに行った。

お風呂は共用のシャワー室を予約して使った。シャワー室の鍵は壊れており、鍵をかけずに急いでシャワーを浴びていた。

院内の廊下を歩けば、病気や怪我などで重い症状を抱える子どもがたくさんいることに気づく。救急車のサイレンは日常的に鳴り響き、病室にもこだまする。

これまで想像だにしなかった場所に自分がいる。自分の知っている世界がいかに狭いものであったかを痛感した。

入院生活は5日ほど続いた。この入院を含め、息子は生後3ヶ月までに3度の入退院を繰り返しながらも、たくましく乗り越えて成長した。

育児日記に欠けていたもの

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先日掃除をしていたら、当時の育児日記が出てきた。毎日の様子が自分の字で詳しく書かれている。久しぶりに読み返してみると、あることに気づいた。

育児日記には、私の「弱音」が一言も書かれていなかった。どのページも前向きな言葉が綴られ、文章だけを読めば育児を楽しんでいるようにさえ見える。

実際には、当時の私に育児を楽しむ余裕など全くなかった。息子をちゃんと育てられるという自信は微塵もなく、怖くて仕方がなくて、誰かに向かって泣き叫びたかった。

「この子が助からなかったらどうしよう!!誰か助けて!!お願いだから助けて!!!」

しかし、全ての責任は子どもを小さく生んでしまった自分にあるのだという思いがあった。里帰り出産をしていた私は、両親にも夫にも大変な苦労をかけていた。これ以上みんなに負担をかけることはできないと思った。

そして、私は自分の心の叫びに蓋をした。極力弱音を吐かず、育児日記には前向きな気持ちだけを書いた。そうしなければ生きていけないような気がしていたし、弱音を吐く自分を許せなかった。

息子は生後3ヵ月を過ぎるとだいぶ呼吸が上手にできるようになり、入院することはなくなった。育児をしながら、当時のことを思い出す度に苦しくなったけれど、全ては自分のせいなのだと責め続けた。

あれから年月が経ち、ようやく穏やかな心で当時を振り返ることができるようになった。

本当はあの頃、心に蓋をせず、誰かに弱音を吐いたり、カウンセリングを受けたり、紙に本音を書き出して自分を客観視したりして、もっと自分をいたわればよかった。そう反省している。

最近は低出生体重児のママサークルが全国に広まっているようだ。当事者にしか分かち合えない悩みを共感できる場所が増えていることを、心からうれしく思う。

ほんとうはみんなに支えられていた

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苦悩があった一方で、私は周囲の支えがあったからこそ困難を乗り越えることができた。

息子にも支えてもらった。赤ちゃんだった息子の付き添い入院をしていたある日。息子が生まれて初めて笑顔を見せてくれた。深夜のことだった。

なにか楽しい夢でも見ているのだろうか、眠りながらにっこりと笑っている。とても幸せそうな顔だ。

それは奇跡のような瞬間に思えた。私の心の中に熱い勇気が湧き上がってきた。

「この笑顔を忘れずにいれば、何があっても乗り越えられる」

そう思った。

両親にも支えてもらった。息子の入院中、母がお弁当を持ってきてくれたことがある。毎日3度の食事を病院の売店で購入していた私にとって、手作りのお弁当はありがたいものだった。

父も何度か病院へ来てくれた。仕事を終えた夜に病院へ来て、私が病室の長いすで眠り、父は床に座り壁にもたれて仮眠を取る。深夜2時頃になると父は自宅へ帰り、朝まで少し眠った後、いつも通り出勤していた。今思い返しても両親には頭の下がる思いである。

ちなみに、私の父も低出生体重児で生まれた。私はそのことを息子が生まれるまで知らなかった。今ほど医療体制が整っていない時代に低出生体重児として生まれ、快活に過ごす父の姿は、私にとって希望になった。

病院では、スタッフの方々がいつも笑顔を絶やさず接して下さり、何度も救われた。

私は一時期、自分だけが全ての苦労を背負い込んでいるような気持ちにとらわれて苦しんでいた。しかし、本当は周りの人が全力で支えてくれていた。

自分の思いにとらわれ過ぎて、周りが見えなくなっていただけだったんだ。そう気づいたとき、私は再び涙を流した。あたたかい涙だった。

人は誰かの支えがなければ一人では生きていけない。私もみんなに支えられている。

想像できなかった未来がここにある

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私は低出生体重児についてほとんど知識がないままに出産し、自分が直面した現実を受け止められずにいた。もし出産前に低出生体重児のことを知っていれば、私の心構えはもう少し違っていたのではないかと思う。

日本では、子どもが低出生体重児で生まれることは決して珍しくない。自分の子どもや、身近な人の子どもが小さく生まれる可能性があることを知っておくと、役に立つ場面があるのではないだろうか。

いま、息子は成長して中学生になった。めったに病気をすることもなく、青春の真っただ中を元気に過ごしている。赤ちゃんの頃には想像できなかった未来が、時を経てここにある。

挫けそうになっていた私に病室で笑顔を見せてくれた息子のことを、私は誇りに思っている。

「この笑顔を忘れずにいれば、何があっても乗り越えられる」

あのときの気持ちは今も変わらない。

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