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詩仙堂

「寺を見るなら誰も居ない寺が良い」

修学旅行で初めての京都を訪れたとき、帰り際にそんなことを思ったのを覚えている。修学旅行生と観光客で溢れる清水を歩くのは、お世辞にも寺本来の魅力を味わえているとは言い難く、荘厳な寺院とはしゃぎまわる同級生とのギャップに、どこか不出来なテーマパークを散策しているような気分だった。

「生涯のうちに何度京都旅行をする機会があるのだろうか」なんて当時は思ったものだが、案外早くそのチャンスは訪れる事になる。

19歳、大学一年生の夏。西の大学に進学した友人の招きで、私は再び京の地に立っていた。私が京都についたのは夜行バスに揺られての朝方、友人との約束である夕方までにはかなりの時間がある。私は思いがけず、京都小旅行の機会を得たのだ。

どうせ見るなら落ち着いて見られるところを、もっと言えば庭の美しい場所を。そんなことを考えながら西の友人に聞くと、こんな答えが返ってきた。

「それならば、京都一乗寺の詩仙堂に行けばいい」

その寺は、京都の中心から離れたこじんまりとした町のなかにひっそりと佇んでいた。

詩仙堂、京都市は左京区にある江戸時代初期に作られた文人・石川丈山の山荘跡である。現在は曹洞宗の寺院でもあり、別名を丈山寺という。元が個人の隠居場所だったからだろうか、この詩仙堂は家と呼ぶには大きいが、寺というにはいささか小さい。その門に至っては、一般家庭とさほど違いないほどである。この寺院は紅葉の名所として知られており、そのシーズンには多くの人が訪れるのだという。だが今は初夏、オフシーズンとも言うべきこの詩仙堂に人の影はまばらだった。

ひっそりとたたずむ門をくぐると、その両脇に竹林が迎え出でてくれる。青々と輝く竹の林は、この寺を外界から遮断するかのようにまっすぐと伸びており、時折風に揺られて木漏れ日を散らしている。

石造りの階段を少し上ると、詩仙堂の建物が見える。古めかしく、落ち着いた雰囲気がある建物は初めて訪れるはずの自分にもどこか懐かしさを感じさせてくれる作りだ。

建物自体は先に言った通り、それほど大きくも、珍しくもない。この詩仙堂の最大の魅力は、大きく開かれた縁側から見える日本庭園にある。

眩しいほどに輝く白石と、対照的に深い緑。薄っすらと聞こえてくるせせらぎの音と、時折響く鹿威しの音。決して広大とは言えない空間だが、そこには見るものをその世界に惹きつける引力のようなものを感じずにいられない。時折聞こえてくる鳥の音と、竹林の風音。夏の激しい日差しの中にあって、ここだけは何処か静寂に包まれた別世界のようである。

縁側に一人胡坐をかいて、その庭園を見渡してみる。植木、石、水たったこれだけのパーツで形作られたこの空間は、その一つ一つが輝きを放つ宝石箱のようであり、それでいて全体が奇跡的なほどまでにお互いが調和しあった一個の絵画のようである。今は初夏だが、季節が廻れば紅葉、また雪景色とその光景に移ろいを見せるのだろう。

かつてのこの堂の主、石川丈山は終の棲家としてここを選び、この庭を眺めながら詩作の日々を過ごしたという。この庭の主であるという事の価値は、江戸の栄よりも丈山にとって価値のある事だったのだろう。350年の時を経ても色あせない輝きに、私は憧憬の念を抱かずにいられない。

夏の日差しの下にあって、ゆっくりと過ぎていく時間。そのあまりに贅沢な瞬間を私は噛みしめるように味わっていた。

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