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早春の朝

午前四時のコンコースは閑散としていて、時折響く改札の電子音だけがむなしく響き渡っている。始発前の駅は人の波もなく数名の駅員たちがあくびを噛み殺しながら、来るべき人々の波に備えて一日の始まりを迎えていた。

まだ日も登らない春の日の明け方。瑠璃色の光に包まれた駅前の桜並木は、来るべき春の日に備えてその蕾を今にも咲き誇らせんと膨らませている。吹き抜けのように北口から南口までが一直線でつながれたこの駅に、通り抜ける冷たい春の風。冬の残り香を感じさせるその風に、いつものマフラーとくたびれたトレンチコートに身を包んだ私はぶるりと身を震わせた。

ゴロゴロと引くキャリーケースは自分の荷物と昨日までの暮らしを詰め込んだはずなのに、どこか伽藍洞のようにその音を響かせている。毎日通いなれたはずの駅に響く私の足音とキャリーケースのキャスター音は、世界から自分以外が消えてしまったみたいに見慣れたはずの景色を非日常に見せていた。

父と母との別れは昨日のうちに済ませた。まだ年端もいかない兄弟や、ペットの猫とも。旅たちの日に見送りを断ったのは自分だ。「この先一人で生きていこうと決めたのだ。その始まりは独りであるべきであろう」そう言った私の言葉に母は曖昧な笑みを湛えたまま頷いてくれた。

普段は厳格な父が、昨晩は酒に酔っていた。飲みなれない日本酒に顔を真っ赤にしながら、繰り返しうわごとの様に私の旅立ちを心配する父は、18年の歳月を共にした厳しくも頼れる家長としての顔ではなく、娘を心配する一人の父親としての姿だった。「戻りたくなったらいつでも戻って来い」そういって私の頭を撫でた父の姿は普段よりもずっと小さく、それでいて大きな優しさを感じさせてくれた。思えばこうして父に頭を撫でられるのは何時ぶりだろうか。かつて大好きだったはずの父の優しさを、思春期の葛藤の中で拒絶し、知らず知らずのうちに父を傷つけていたのではないだろうか。そう思うと、ぎこちなく私の頭を撫でる手が、とても愛おしく、そして離れ難く感じられた。

この駅で切符を買うのも久々だ。長い長い路線図で終点にあたるこの駅から、最も目立つように大きな文字で示されたその駅への切符を買う。自動発券機には数枚のお札が吸い込まれていった。代わりに出てきたのは小さな切符。改札口を抜け、聞きなれた電子音と共に、印を押されて出てきたその切符を私は大事に財布へと挟み込んだ。

ホームへと続くエスカレーターは、私が近づくとその眠りから目覚めるように緩慢な動きでモーターを回転させ始めた。聞きなれた機械音が、人のいない駅構内にひどく響く。一歩踏み出して足を乗せた私を、エスカレーターはゆっくりと運び始めた。

ふと、後ろ髪をひかれるような気分がして後ろを振り返ると、遠ざかっていく改札口が見えた。いつも帰り道に何度も見た景色だ。その光景が遠ざかっていく事に、どこか寂しさを感じている自分がいた。私はこの決断を後悔する日が来るのだろうか。

私の意志とは無関係に、エスカレーターは私を運んでいく。私にできたのはその最初の一歩を決めることだけだ。後は、その一歩が間違っていなかったことを祈ることしかできない。きっとこの先私はこの一歩を何度も思い出すのだろう。願わくば、その時に後悔だけでなく、この決意も同時に思い起こせればと思う。私自身の明日の行く末を祈るように、私はぎゅっとキャリーケースを握りなおした。顔を上げて見上げると、ようやく顔を出した日の光がホームの朝露を反射して眩く輝いている。朝露に湿ったホームが乱反射する朝日と、頬を撫でる冷たい風が、私の旅たちを見送っていた。

おかずが一品増えます