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誰と勝負するんだ

「じゃんけん、ポン!」

じゃんけん、それは誰もが馴染みのある簡単な勝負である。グーとチョキ、パーの3つの指の形で相手の出す指の形よりも強い手を出せばいい。と、じゃんけんの話は誰もが知っているだろうが、勝負ということを思ったとき、ふとじゃんけんのことが思い浮かんだのである。僕らは誰と、何と勝負しながら人生を進めていくのだろうか。ここでありきたりかつ、誰もが年を重ねながら、様々な書籍や人と出会うなかで行く着く答えがある。それが、自分自身との勝負である。これは紛れもなく、誰と比較しても比較しようがない。自分の人生であるからである。もしも、自分が自分以外の誰かの人生を生きているというのではあれば別の話だ。ここで、ほとんどの人は自分以外の誰かの人生なんて生きてるはずがない、と言いたかったのだが、どうもそういうわけではないような気もしてきた。そうだ、ほとんどの人は自分の人生ではなく、誰かから言われた正しい人生やこれが当たり前であると言われてきた人生、世の中の常識のレールの上をスムーズに進んできた人生を歩いてきたし、今もその上を歩いているだろう。ここ最近は、このnoteを始めYouTubeもそうだが、個人の発信媒体がフリーで使えるようになったこともあり、自分のルールで生きている人も増えてきたとは思う。だが、それも一部のメディアを賑わせている人や著名人たちが主体だと思う。もちろん、ローカルや地下の領域でも自分のルールを貫いて日々を奮闘している人たちも沢山いる。ただ、これもマジョリティではない。圧倒的なマイノリティたちである。おそらくほとんどの人は、まだ他人の人生を生きている。もしくは他人でもなく、自分という自覚すらなく、ただただその日暮らしのように過ごしている。しかし、だからといって適当に生きているわけでもない。その日、目の前にある人や仕事のために一生懸命向き合ってはいる。ただ、その日が終わるころ、今日という一日は一体なんだったのだろうかと思いながらも、その問いはまるで手から離れたヘリウム風船のようにフワフワと自分の頭の中から離れていく。あっという間に頭から消えていくのである。

では、改めて。僕らは誰と勝負しているのか。また、そもそも勝負しているのか。そして勝負するべきなのか。答えは残念ながらないのだが、自分が何を求めているかに気づくことが重要なのではないだろうか。勝負することによって自分の目的が果たされるのであれば、勝負すればいい。目的からそれるのであれば、勝負しなくてもいい。これは決して逃げではない。あくまで勝負するかどうかは闇雲にやるのではなく、目的ありきである。戦国時代の武将が、相手の領地を得たいとか、相手の姫を妃にしたいとか、相手の金を奪ってやるという目的で勝負を仕掛けるのであれば分かる。しかし、なんとなく勝負したいからとか、なんかしないといけないぽいからだと言われると、これはもはや勝負することで何も目的が果たされることがない。ただケガをしたり、死者を出すだけである。そんな勝負に誰が乗り気になるだろうか。勝負しているかどうかも、勝負するべきなのかどうかも、自分に問うべき質問としてはとても大事である。しかし、これを強要することも、ねばならぬことと定義されても、それは何の目的も果たさないのである。少なくとも、自分が昨日よりも成長したい、上を目指していきたい、そのための手段として勝負していく必要があるのであれば、それを選択すればいい。

誰とでも、何とでもない。勝負するべきか、しないべきかでもない。

必要であれば勝負すればいいのだ。

無意味な戦ほど、無責任なのものはない。

~fin~

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