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花虹源氏覚書~第二帖帚木(三ノ一)

昔々その昔、帝の御子に光る君と呼ばれるお方がおられました。
源の姓を賜り臣下となられましたが、三人のお子様は、お一人は帝に お一人は皇后に お一人は人臣の位を極められたそうな。
そのお血筋の末の末、千年を経た世のとある姫さまに教育係の女房が語る光源氏の君の物語

帚木(その一)はこちら

帚木その三 一、左馬頭の話

むかしがたりをいたしましょう

雨夜の宿直のつれづれに女人の品定めに興じるうちに夜も更けました。

我と彼の境目を曖昧にする夜の暗さゆえでしょうか、光の下では各々が隠している秘め事などを打ち明けたくなるようです。

口火を切るのはもちろん左馬頭でございます。
「私が、女人を知り始めた頃のことを好色がましいと思われるかもしれませんが申し上げましょう」と。

私がまだ若く身分も軽いころ、ある女と深い仲になりました。

情の深い女で、私のために心を傾け手を尽くし、とにもかくにも細やかに世話をやくのです。
気が強い一面もありましたが、私に対しては小さなことでも意に沿わぬことがないようにとたいそう従順でした。

また、醜貌を私に疎まれぬようにと化粧などを工夫して見栄えよく取り繕い、ひたむきに愛情を向けてくるのです。

その頃の私のような数ならぬ身を、何故かくも深く思ってくれるのか、といぶかしみつつ、愛すれば愛されるが道理であって女への愛情も自然と深まって、妻のように遇しておりました。

しかし、美しいとは到底言えぬ女でしたから、この女が自分の生涯の妻となるのか、もっといい女がいるはずだ、と物足りぬ気持ちもあり、若い浮気心をおさえかね、他の女たちのもとにもひそかに通っておりました。

それがこの女には我慢のならぬことでありまして、嫉妬のすさまじさはおそるべきものでした。
ひとたび妬心が起これば、腹を立て、泣き、騒ぎ、恨み言を述べ立てて、あまりにも容赦なく攻め立てられるのではたまったものではありません。

「そんなに気性が激しくてはどんなに夫婦の縁が深くてもふっつりと切れてしまうよ。私たちの仲をもうこれ限りで止しにしようと思うのであれば、みっともない大騒ぎを続ければよい。
末永く契りを結びたいのであれば、つらいことがあっても心のうちに秘めて我慢して少しばかりの浮気は男にはよくあることと思いなして、そのような妬心は捨ててしまいなさい。」
と教え諭しました。

この女は私に嫌われるのを恐れているのだから、愛情が失せたふりをして冷たくしてみせれば、本当に見限られてしまうかもしれない、と懲りて、嫉妬も止み、おとなしくなるのではないかと思ったのです。

「私が出世して世の中で重く扱われるようになれば、貴女も並ぶもののない正妻として敬われるのだから、今、くだらないことで騒ぎ立てて捨てられるようなことにはなりたくないだろう」
と、調子に乗って勢いよくまくし立てました。

すると、女はうすく嫌な笑い方をいたしました。
「他から抜きんでて秀でているわけでもない貴方に連れ添い、いつか人並みに出世するかもしれないとあてにならない期待をすることに、なんの苦労がありましょう。
しかし、浮気に苦しみ、いつかその心根が改まる時が来るのでは、とむなしい望みをかけては裏切られて年月を重ねていくのは、ひどく苦しいことです。もう互いに背を向けるときがきたようですね」
などと憎々しげにいいだすではありませんか。

かえって女に侮られて腹が立ち、散々に悪態をついたところ、女は、突然私の指をつかんで引き寄せ、がぶりと噛みついたのです。

あまりのことに
「こんな大怪我をしたら、内裏に出仕することなどできはしない。そんなことでは、おまえが侮った低い官位も、これ以上あげられるわけがなかろう。行く末に望みをなくした、もう世を捨てるしかない」
などと言い脅して
「さらば、今日でもうおわかれだ」
と噛まれた指をわざと曲げて見せつけて、女の家を立ち去りました。

――― え、噛みついたの?指に?どうして?
    やきもち焼きの人ってそういうことするの?

「嫉妬は緑色の目をした怪物」と遠く泰西では申すとか。
激しい嫉妬は、時に制御が難しく、人を思いもよらぬ行為に駆り立ててしまうことがございます。
とはいえ、「噛みつく」というのは、あまり他では聞きませぬ。
だからこそ左馬頭がとっておきの話題として語っているのでございましょう。

―――なんだかいやねえ。それで、そのあとどうなったの、教えて?

左馬頭の語る後日談でございます。

この女とは大喧嘩になったとはいえ、本気で関係を断とうとは思っておりませんでした。
しかし、気まずさゆえに文のやりとりなどもせず、ほかの女のところを渡り歩いておりました。

凍える霙の夜、遅くまで内裏におりまして退出はもう夜更けでございました。
朋輩が足早にそれぞれの家路をたどるのを見ながら、さてどこへ行こうかあれこれ考えたのですが、「家路」として思い浮かぶのはこの女のところだけでした。

いつもの部屋に入ってみますと、灯りはほどよい明るさに調節し、着慣れて柔らかくなじんだ厚手の綿入れを大きな伏籠にふんわりとかけて香りをうつし、几帳や帳などの調度類は片付けて部屋を整えて、今宵はきっと私の訪れがあろうと待ち受けている様子なのです。

ところが、当の女本人は親の家に行っているとかで留守でございました。
私が来ると思ったうえで、艶めいた歌も心のこもった文ものこさずに出て行ってしまったというのは面白くなく、さて、これは私に会いたくないということなのか、私に嫌われたとてかまわないということなのか、とあれこれ邪推いたしました。
しかし、一方で私の衣装は、常よりも美しく行き届いた色合いで仕立てられていて、やはり私に並々ならぬ愛情を抱いているのだろうと思われるのでした。

このすれ違いの後も、なんだかんだとお互いに強情をはっているうちに、私の心がもはや戻らないとでも悲観したものか、女はひどく嘆き悲しみ、とうとう亡くなってしまいました。

今にして思えば佳き女でした。
かるい戯れ言を交わすことも真剣な相談することもでき、染色の腕は龍田姫、縫い裁つ技は織姫かと紛う技量を持っていました。
何より細やかに気を配り、愛情深き女でありました

―—— この女人は、先ほど、左馬頭が語っていた「よき嫡妻」の条件そのままね。
    北の方を決めきれずにふらふらしているのは、この方の面影を忘れかねているからなのかしら。
    なんだか哀しいわ。

左馬頭の話を聞いていた頭中将も思わぬ結末に心をうたれ、しんみりと慰めの言葉をかけました。

しかし、ここで終わらぬのが左馬頭の語りの巧みさございます。
続けて、同じ頃に通っていた女人の話を始めました。

やきもち焼きの女を当座の妻としていたころに、気安い通い所のひとつとしていた女がおりました。

たいそう美しく家柄もよく、人柄も明るく、和歌も音曲も達者な風流な女で、付き合っていて楽しい女でした。

ところが、妻とも思った女が亡くなったのち、足繁く通うようになりますと、派手好きの男好きの面が気にかかり、嫡妻にはふさわしくないと思えて、通いもいつしか途切れ途切れとなっておりました。

神無月のある月の夜、内裏より下がる折に、同僚と一つの車に相乗りすることになりました。
この男が「こんな風情のある月夜に訪れを待っている女人は辛かろう」などと申します。
ちょうど通り道沿いのこの女の家の塀の崩れから池に月影が映っているのが見え、月ですら宿っているのにこの私が通り過ぎるのも無粋だろうと、男を誘い車を降りました。

月の光は冴え冴えとして、やや盛りを過ぎて霜にあたり色がうつろいかけた菊の花、風に舞い散る紅葉も趣があって美しい夜でした。

男はうきうきと笛を取り出して吹き鳴らしました。
催馬楽の、女を誘う艶めいた思わせぶりな曲でございます。
すると、女が和琴を弾き、合奏が始まったではありませんか。

懐に用意よく忍ばせてあった笛
調律を済ませ響きよく整えられた琴
今思えば、あらかじめふたりで示し合わせていたように思います。

私の驚きと不愉快には気づかぬ体で、ふたりは、菊花、月光、楽の音にことよせて歌を詠みあい、色めいたやりとりを交わしたかと思うと、今度は流行りの調べで再び合奏が始まりました。

たいそう聴きごたえのある合奏で、この女の楽器の才は見事なものでしたが、さあ、このあてつけがましい婀娜めいたふるまいはいかがなものでしょうか。
結局嫌気がさして、その夜を境に訪れを絶ってしまいました。

左馬頭はこのように事の顛末を語り、さらに道化て付け加えました。

さてさて、お若く高貴なおふたりは、御心のままにいかなる花をも手折れましょうが、たわむれ好きの遊び女にお気をつけなさいませ。宮中雀の笑いものになりますぞ。
この賤しき私めの恥ずかしき戒めをお忘れめされるな。

左馬頭は語りおさめ、熱心に聞いていた中将はうなづき、光る君も少し微笑んで「随分とみっともない身の上話ではないか」と皆で興じておられました。

―――結局、笑い話に変えてしまったのね。
なんだか本気で好きになって嘆き悲しんだ最初のひとがかわいそうだわ。
ねえ、教えて、やきもちって焼く方が悪いの?焼かせる方が悪いの?

「不実を咎めること」と「やきもちをやくこと」は、別のものにございます。
不実を咎めてもやきもちは焼かぬものあれば、不実はなくともやきもちを焼くものもおりましょう。
また、やきもちをやくのが悪いと決まったことでもございますまい。

その問いの御答えは、姫様がご自身でとっくりとお考え下さいませ。
むかしがたりには考える種がたくさん含まれておりますよ。

続く