花虹源氏覚書~第二帖帚木(一)
昔々その昔、帝の御子に光る君と呼ばれるお方がおられました。
源の姓を賜り臣下となられましたが、三人のお子様は、お一人は帝に お一人は皇后に お一人は人臣の位を極められたそうな。
そのお血筋の末の末、千年を経た世のとある姫さまに教育係の女房が語る光源氏の君の物語
帚木(その一)
むかしがたりをいたしましょう
光源氏の君が まだ十七、八とお若く 近衛中将の頃のお話でございます。
「光る君」と華やかにもてはやされ、口さがない宮廷雀の噂は留まるところがありませんが、ご本人はありふれた色事はお好みではなく案外に物堅くお暮らしでした
——— あら、おかしいわ。
光る君といえば、ご本家の六条御殿や二条御殿に女君たちを住まわせて、あたかも花々が咲き競う天界の如しと聞かされてきたのに。
左様でございますね
それでは 光る君が百花を愛でるように、多彩な女君に目を向けるひとつのきっかけとなりました、とある雨の夜のお話をいたしましょう
梅雨の長雨で晴れ間も無いころのこと
帝の御物忌が続き、光る君の内裏での滞在が常よりも長引いていらっしゃいました。
―――物忌みは災厄を避けるために行動を慎んで不浄を避けることね。
帝が御物忌みになると、光る君は内裏にいないといけないの?
どうして?
帝の御物忌みともなりますと、内裏全体で行動を慎まねばなりませぬ。
魔物のつけいる隙を与えぬよう 内裏と外界の出入りも閉ざして 帝をお守りいたします。
その間、帝の御用を承り、また守護するために近侍のものたちは事前に参内しそのまま内裏に宿直となるのですよ。
―――まあ、それでは御物忌みの間、家に帰れないのね。
光る君は左大臣家の姫様と結ばれたのでしょう?
最初ぎくしゃくしてらしたけれど、その後、円満になったかしら?
光る君は、相も変わらず内裏の宿直所、母君の御局であった桐壺にとどまることが多く、左大臣邸への訪れは途絶えがちでございます。
左大臣は、光る君のそのようなふるまいが不安で、うらめしくお思いになることもおありですが、大切な婿君なのは変わりなく、ご装束のあれこれを贅を尽くして調え、心を込めてお世話しておられました。
左大臣家のご子息たちも光る君に親しくお仕えし、中でも御嫡男で頭中将を務める方は、御年も近いことからとりわけ心安いお付き合いをなさっておいででした。
―――頭中将に任じられる殿方は、家柄が良くて才能豊か、武芸にも通じて、帝の御覚えもめでたく、将来が約束されたようなもの。
だから、婿君候補としてお友達の間でいつも噂の的よ。
光る君の時代もそうだったのかしら?
頭中将は、帝に近侍して公私のお役目を承る蔵人頭と宮中警護を担う近衛府の次官・近衛中将を兼ねるお役目ですから、千年の昔の世から注目を浴びるきらきらしいお立場でございます
とりわけこの方は、左大臣とその嫡妻、桐壺帝の妹皇女を両親に持つ申し分のないご身分に加え、見目麗しく、また、才ある公達として光る君と常に並び称されておられます。
当然のこととして、女人にもてはやされますし、明るく派手好きなお人柄ですから、流した浮名は数知れず、「好き者」としての名は光る君の及ぶところではございません。
―—— 光る君とは、従兄弟で義理の兄弟の間柄ね。
仲は良かったの?
すべてが極上の光る君と比べられたらあまり面白くないのではないかしら。
頭中将は、左大臣邸のご自身のお部屋を華やかに設えて、光る君と連れ立ってやってきては、夜も昼もご一緒にうちとけて学びも遊びも共になさっておいでです。
負けず嫌いのところがおありで、学門も遊芸も何かと光る君に張り合っておられます。並の公達であれば光る君と競おうなどとは最初から思いませぬ。
それだけ藤原の嫡男としての自負心も、それに見合う能力もおありということでございましょう。
―—— 光る君と対等に付き合おうとするお友達がいて良かったわ、そうでないと寂しいもの。
でも、葵上よりもその兄上とばかり仲良くしているなんて、左大臣としては気がもめるわね。
頭中将もどこかに婿入りしたのではなかったかしら。そちらはどうなったの?
まだ蔵人少将でありました年若な時分に、右大臣家の姫、四の君とご結婚なさいました。光る君が左大臣家に迎え入れられたのと同じ頃でございます。
政を安定させ家と家のつり合いをとるための縁組でございましたが、右大臣も四の君も頭中将を婿君としてそれは大切にお世話しているのですが、それを重たく御思いなのか、あまり寄り付かずご実家の左大臣家やあちらこちらの通い所を彷徨っておられます。
―—— あらまあ、ご夫婦仲がしっくりといっていないところまで似たもの同士だなんて。
話がそれてしまったわ。
教えて、光る君の宿直の夜に何があったの?
終日つれづれと雨は降り暮れてしめやかなる宵を迎え、宮中は人少なにひっそりとしています。
光る君は宿直所にしている桐壺で明かりを灯し、手元の厨子に入れていた女人からの文などを読んでおりました。
光る君を訪ねてきた頭中将がそれらの文を見たがりますが、「見苦しいものもあるから」とやんわり断り言を口にします。
ところが「その見苦しいものこそ見たいのですよ。ありきたりのものであれば私は見飽きています。君の不実をなじったり、移ろう愛を嘆いたり、また、夕暮れに君の訪れを待ち焦がれる胸のうちを切々と綴ったりといった文が見たいのに。」と大げさに仰るので、光る君は、思わずお笑いになりました。
本当に隠さねばならない大切な文を、その辺に放置しているはずもなく、まあ、この程度の「二流のもの」ならば見られてもかまうまい、とお許しになりました
頭中将は、機嫌よく数々の文を面白がり、この書き手はあの御方か、いや、あの君かもしれないなどと当て推量を言いながらさらさらと見流しておられました。
光る君が「君のところにこそ興味深い文が集まっているはず、それを見せてくださいよ」と仰ると、頭中将は「ご披露する価値のあるものはなかなか」とお答えし、そうそう、「めったにないもの」といえば・・・と語りだしました。
―——心を込めた手紙がどうでもいいもののように扱われて他の人のお笑い種になるなんて嫌なことね。
私は手紙を送る相手はよくよく選ぶことにするわ。
さあ、教えて、頭中将は何を語り出したの?
姫様、そのようにお口をへの字にしているとそのお顔がくせになってしまいますよ。
今からそれでは、この先の語りが続けにくうございます。
さて、頭中将の言うことには、「世の中に欠点のない女人などめったにいるものではない」とのことです。
風流を気取って洒落た応答をしてみせるからといって真の教養があるかというとさにあらず。
底の浅い知識で上辺だけとりつくろっていたり、わずかな取柄を誇張していたり、と良い評判を信じて実際に会ってみたらがっかりした、ということが多くてね、などとためいきをついてみせます。
――― 失礼だわ。殿方だって欠点のないひとはいないでしょう。
女人に勝手に幻を見ておいてがっかりするなんて。
姫様、お口がまたへの字になっておりますよ。
いにしえの女人たちは、御簾の奥深くに慎み深くおられますので、おそば近くのもの以外にはその姿も人となりも伝わりませぬ。
殿方にとっても 女人は ほのかに見える夢のようなもの。
憧れが凝って「幻想の恋人」を作り上げてしまうのも、若い時分にはよくあることでございましょう。
さて、光る君がおっとりと素直に聞いているので頭中将は調子に乗ってさらに語りました。
人の「品」が高く生れた姫君は、それはもう大切にかしづかれて育てられるから、おのずからこよなく優れた雰囲気を身に着けるものですよ。
周りがこぞって多少の欠点は覆い隠してしまって、たちまち非の打ち所のない姫君の出来上がりです。
しかし、これでは、絵姿のようで面白くはないでしょう。
その点、「中の品」の女たちは各々の考えや趣味が際立って個性があり、実に手ごたえがあって付き合い甲斐があるというものですよ。
などと、いかにも世慣れた風を装った言い草です。
光る君にとって、妻となった葵上も、密かな想い人の藤壺の宮をはじめ桐壺帝のきさきたちも、すべて「上の品」の女君です。
今まで目にもとめなかった「中の品」の女人について語る頭中将の持論に興味を惹かれたようで、どのような方々が「中の品」に含まれるのか、お二人でさらに論じられました。
元はやんごとない高貴な身の上でも零落して、生来のご身分に応じたお立場を得ることができないのであれば、お気持ちは昔のままの気高くとも手元不如意でお心に任せないこともあり、世の人の評判も時世にそって衰えてしまうので「中の品」
本来はそれほどの身分でもないのに時世にかなって上達部になりあがった家のひとは、自分たちは上流の仲間入りをしたと思いあがっても世の人はそうは見てくれないでしょうから、こちらも「中の品」
また、受領階級についても頭中将は一家言あるようでございました。
光る君や頭中将たち「上の品」の方々は、都から遠く離れた任地に赴き田舎者の間に立ち混ざる受領を見下げ、人の数にも入らぬかのような扱いをなさるのが習いでございます。
ところが、頭中将は、お目に留まった受領階級の娘でもございましたのか、すべてをひとくくりに切り捨てられない、中には侮れぬもの、思いがけず煌めくものがあるなどとしきりと持ち上げておられます。
「中の品」であっても朝廷で重く用いられて評判も良い人々が、家内に心配事も足らぬこともなく晴れやかに朗らかに暮らしているのは、傍目にも快いものです。
そのような家の娘は、ありあまる財を惜しげもなく使って教育し磨き立てられるので、見目もよく立ち居振る舞いも見事です。
宮中に出仕して才覚を表し、高貴な方の目にとまり嫡妻に迎えられ「幸い人」となる例もあるのだ、などとどこぞの北の方を引き合いに出してお話しなさいました。
――― 「上の品」の自分たちの妻はほったらかしておいて、「中の品の女人が興味深い」だなんて。
まるで舶来の珍かな生き物を眺めて面白がっているみたいでいやだわ。
姫様、どうしてもお口をへの字にしたいのであれば、扇でお隠しなさいますように。
さて、どういたしましょう。
この夜は、あろうことか、物忌みの徒然を慰めようとさらに二人の公達も加わりなんとも聞き苦しいことどもが次々と語られたのでございます。
御不快とあらば、これでかたりおさめといたしましょうか
―――とんでもない。腹は立てているけれど、聞きたくない、ということではないの。
むかしむかし、私の遠い御先祖にどのようなことがあったのか知りたいのよ。
だから教えて。全部お話してちょうだい
かしこまりました。
それでは、「雨夜の品定め」と後世に伝わる話をとっくりとお聞かせ申し上げます
ですが、夜も更けました。
今宵はここまでといたしましょう
続く
岩波文庫源氏物語(一) 35ページから40ページ
見出し画像は「週刊絵巻で楽しむ源氏物語」より
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