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【読書日記】5/5こどもの日+物価高騰を考える。「宝の山/梶よう子」

宝の山 商い同心お調べ帖
梶よう子 著 実業之日本社

澤本神人は、北町奉行の諸色調掛同心。
新任のお奉行様の「お主、顔が濃い」の一言で隠密廻りから諸色調掛にお役替えになったという逸話のある二枚目。
妹の忘れ形見の姪っ子を男手ひとつで育てている三十路。

諸色調掛とは、「市中にあふれる品物の値を監察し、またお上の許しなく出版物が出ていないかを調べる。あまりにも悪質な場合は奉行所にて訓諭するというお役目」です。
 だから、神人のもとには、「物」と「商売」に関する様々なもめごとが寄せられます。
 べっ甲(の偽物)の櫛を法外の高値で買った隠居が殺された謎。
 本来売られてはいけない物が売られてしまった謎と、虚礼で贈答される物たちの満ちた献残屋の嘆き。
 ご禁制の「鶴」はどこに消えた?
 ももんじや(獣肉料理店)で客が倒れた理由とその背景。
 などなど、これらの事件を追っていくうちに、神人の父が死の間際まで追っていた大きな事件との因縁が見えてきて・・・。
「物事はなるようにしかならない」が信条の神人の行く先は如何に。

「物事はなるようにしかならない」 

神人は、不本意なお役替えも澤本家の行く末も「転がる石を無理に止めることもない。川の流れを変える必要はない。諦観でも達観でもなく、むしろ楽観的にそう思っているのだ」と淡々としています。

顔は濃いのになんだか冷めた主人公だな、と思ったのですが、読み進めていくうちにこの「物事はなるようにしかならない」の奥にある熱さ、厳しさに気付かされます。

世の中はな、なるようにしかならねえ。それはてめえが起こしたことが、どんどん転がってくってことなんだぜ。いいふうにも悪いふうにもな。

宝の山/梶よう子

ああ、そういう意味の「なるようにしかならない」か。
自分の力の及ばない外的要因もあるけれど、それに対して自分がどう動くのか。
 止まっているビー玉にどのような力を加えるのかを決めるのは自分。その結果どのように転がるかは「なるようにしかならない」と腹をくくる。
 将来どうなるのか分からないのが不安で動けなくなるときに見習いたい考え方だと思います。

「物の値段」と人々の暮らし。

「諸色調掛」は、物価が適正か、商売の在り方が適正かなどについて目を配るという庶民の生活の安定をはかる大事なお役目ですが、奉行所の花形のお役目とはいいがたい。
 神人も幼い姪のためには、昼夜も無い激務で危険も伴う隠密回りよりも諸色調掛の方が良い、と「物事はなるようにしかならない」と思ってはいたけれど、奥底では忸怩たる思いがありました。
 しかし、お役目を務めるうちに「物の値が乱れればすぐ庶民に跳ね返る。商いが滞れば暮らし難くなる。日常を守れなくて何が奉行所だという思いに変わってきていた。」と気持ちが変わってきます。

値決めは経営(稲盛和夫氏)」といわれますが、物の値段を決めるというのはそれだけ難しい経営判断を要することです。
 原価(原材料、人件費、諸経費)と利益を考慮して決めた価格を顧客がどう評価するのか。
 昨今は諸事情により値上げが続いていますが、その結果が吉と出るか凶と出るか。
 消費者としても物価上昇は頭の痛い問題ですが、物やサービスの対価が適正でなければ結局は経済は円滑には回りません。
 そんなご時世だからこそ、物の値段も含む商いの工夫や心意気、その人々の暮らしの安寧を守ろうとする神人の物語を改めて読みたいと思いました。

「こどもの日」に読みたい「宝の山」。

 神人の七つになる姪、多代。妹は嫁ぎ先から離縁されたのちに多代を産み落としてすぐに亡くなってしまいました。
 それ以来、神人は姪っ子の面倒を見てきました。多代ちゃんをめぐる神人の思い、多代の本当の父親(妹が嫁いだ相手)と多代の関係、本当の父親とその母親(妹の姑)との関係など、親子の関係の在り方についても考えさせられます。

 そして、何より表題作でもある「宝の山」がこどもの日に読むのに良いのです。
 紙屑買いの三吉は生まれつき「ちいっとばかしのんきなおつむり」の持ち主。育ててくれたおじいさんが亡くなったあと、長屋の人々に助けられながら時折こすっからい相手に騙されつつも素直で正直でひたむきに商いに取り組み、かなえたい夢がある、とこつこつとお金を貯めています。
 そんな三吉がある日、襲われて大けがをします。しかし、なぜだか相手をかばっているようで・・・。三吉はなぜ襲われた?

紙屑買いは、町を呼び声をあげながら流したり出入りの商家や武家を回って反故紙などを買い取り、それらを売り物にしたり再生したりする商売人たちへと転売する仕事です。

 三吉は、他人が捨てた紙屑でも自分が「買い上げたものはまた違う誰かが使うものになる。べつな物に生まれ変わるのだから大事にする」と言い「この世にいらねえモンなんて生まれてこない。これは宝の山だ。」と大事にしています。
 そんな三吉の「かなえたい夢」の顛末と神人の「おまえのまわりはお宝だらけでうらやましい」という言葉が響きあいます。
 書いてしまうと興趣をそぐので分かりにくい説明でもどかしいですね。

さて、今日は「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」というこどもの日。
しかし、日々、子どもの生活を念頭において回っている自分の生活を鑑みるに「365日こどもの日じゃないか」と言いたくなります。
そして、この最後の「母に感謝する」というところの付け足し感。

母親は子供の衣食住の世話が不足なくできて当たり前で、欠けると責められる100点満点からの引き算の評価。一方で父親はやった分(保育所に送った。お風呂に入れた)だけ評価される足し算の評価。

だから、お母さんのやっていることは「当たり前のことをしているだけ」と思われているから「母に感謝する」といってもぴんとこない人が多い。
電気ガス水道などのインフラと同じで、当たり前のことを当たり前に提供するのがどれほど大変か見えにくい。

そんなお目汚しな愚痴もたまってはいるのですが、本書を読むと縁があって私のところに生まれてきた命ですから大事に育みたい、「子宝」という言葉がしっくりと胸に落ちる子どもの日の読書なのです。

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