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「SPICA」 第一話

あらすじ

 灰色の大街『グレイシティ』。そこで生きる一人の賞金稼ぎ、アルトはある夜、一人の賞金首を追っていた。しかし、追い詰めた賞金首は何者かの手によって殺されてしまう。
 殺した相手はこの街の絶対的存在、中央政府であった。
 アルトも彼らに殺されそうになるが、一か八か、アルトは賞金首の持っていたスーツケースを抱え、その場を逃げ出した。後に開かれることとなるそのスーツケースの中には、記憶喪失の少女、スピカが入っているのだった。
 そうしてアルトはスピカをめぐるいざこざに巻き込まれていく……。

登場人物

アルト

非公式の賞金稼ぎ。
灰色のコートと金の幾何学模様が描かれた黒い傘、そして左目の義眼を持つ青年で、賞金稼ぎにもかかわらず、過去のトラウマから戦うことができない。

スピカ

記憶喪失の謎の少女。
名前のほかに憶えていたのは自身の”やりたいこと”だけだった。感情の存在を疑うほど常に無表情で、ノアからは実は人形なのではないかと思われている。

ノア

アルトとタッグを組んでいる非公式の賞金稼ぎ。
アルトとは幼馴染で主に彼のサポートを行い、小道具の制作から仕事の斡旋、ドローンを使った周囲の索敵など多岐に渡る。基本的に働きたくないと思っているが、アルトのせいで毎度面倒事に巻き込まれる苦労人。

本文

 この街は、何もかもが曖昧だ。

 常に濁った空模様、決して明かりを失わない夜、善人でも悪人でもない人間たち。

 そんな灰色みたいなものばかりだから、きっとこの街は『グレイシティ』なんて名前なんだと思う。

 決して綺麗な色ではないけれど私を深く魅了する色。いつからだろう。その色の中で生きてみたいと思ってしまったのは。

 これは灰色の街の灰色な物語。完璧な白でも、完全な黒でもない、そういうひどく澱んだお話。


 ※


 深夜の篠突く雨の中、一人の男が路地裏を駆けていた。雨風によってひどく汚れた白衣と眼鏡を身につけた知的な男だ。おそらくは何かの研究員か、技術者か。その類いの人物だろう。

 男は入り組んだ路地を抜け、フェンスを不慣れな手つきで飛び越える。

 隣に連れられるスーツケースはその一挙手一投足全てを邪魔したが、男にそれを手放すという選択肢はない。華やかだった彼の人生を地獄に変えたそれは、皮肉にも今はこの地獄から抜け出すための蜘蛛の糸であったからだ。

 顔を流れる水滴の一体どれほどが雨粒でどれほどが汗なのか、わからないほど走ったがそれでも彼が立ち止まったのは疲労からではない。なんとなれば彼の目の前はどこともしれぬビルの壁、つまるところ行き止まりがあったからだ。

 引き返そうとする男の足取りは目の前に現れた一つの人影によって阻止される。

「よう。ご苦労さん」

 街明かりが作るシルエットは落ち着きはらった声で言う。身長は170cmほどだろうか。輪郭からゆったりとしたロングコートを羽織り、手には傘がこんな天気だというのに閉ざされた状態で携えられていることが窺える。

「だ、誰だ……!」萎縮しつつも声を荒げ、体はスーツケースを守るように数歩前へと出る。

「誰だろうな? 賞金首さん」

「……賞金稼ぎか」

 影は沈黙で返答する。

「……クソクソ、クソが! どうして、なんで私が!」

 男は地団駄を踏み、髪を掻きむしる。その後も譫言を吐き捨てる彼に同情してか、影の口調は少し和らいだものへと変わった。

「別に殺すつもりはない。大人しく荷物と一緒についてきてくれるって言うなら乱暴する気もな」

「黙れ! それじゃ駄目なんだよ。何も知らない癖に物を言うな!」

 影のため息が雨音に混ざる。そして影は呆れたように口を開いた。

「そうかよ。なら悪いが――」

 ――その時だった。

 狭く湿った路地裏にスタッカートの効いた重い短音が鳴り響く。

 その後に続くのは何かが倒れる鈍い音。男だ、倒れたのは白衣をまとったあの男。先ほどまで騒ぎ立てていたのが嘘のように今は静かに地面へ突っ伏している。

 倒れる彼の頭からどす黒い鮮血が垂れ広がる。

 どうやら先の短音は銃声だったようだ。


 ――なんでこうなった?

 一本の長い路地の真ん中、入口からの射線を遮るように置かれたダンプスターの物陰で件の賞金稼ぎ、アルトは一人考えていた。

 賞金の掛けられた荷物と男を生きた状態で捕獲する。楽な仕事だった。

 とっととこなして賞金で豪華な食事へと洒落込もう、そうアルトは考えていたのだ。しかしどういうわけか今現在、賞金首は生ゴミに変わり自身は袋小路で絶賛死にかけ中。当然手元には札束もタンドリーチキンもない。どうしたってため息一つは出てしまう。

 あの銃声の瞬間、アルトは左眼を使った。

 正確には銃声よりもコンマ数秒早かったが、十八年の人生で磨かれた彼の直感がそうさせた。

 左眼がなければ今頃は、路地裏に転がる死体の数が二つになっていたことだろう。

 アルトは物陰から僅かに顔を出してこの路地裏唯一の入口の方を見る。確認できる人数は三人。全員がフルオートのライフルに黒で統一された重厚な装備、さながら映画に出てくる特殊部隊といった風貌だ。そして装備の随所には所属を表す五芒星と閉じた瞳のロゴ。この街の人間なら誰もが知っているマークだ。

「どうしてここに中央政府が……」

「アルト。状況はわかってるよね」

 光学迷彩を解いて虚空からドローンが現れた。サッカーボールサイズの丸く無骨なそれから聞こえる声は、珍しく神妙なものだ。

「ノア、なんであいつらがここにいんだよ」アルトは声の先にいるノアと呼ばれる人物に問いかける。

「そりゃああたしだって聞きたいよ。今は依頼主が情報を伏せてやがったとしか……」

「こうなった以上賞金がどうとか言ってられる状況じゃない。逃げるぞ」

「駄目、アルトの姿が見られた。このままじゃすぐに特定されて終いだよ」ノアはピシャリと言い放つ。

 そして今度は少し声色を和らげてノアは尋ねた。

「一応聞いとくんだけどさ、今は“あれ”、大丈夫だったりしない?」

 質問の意味を理解してか、アルトは不甲斐なさそうにドローンから目を逸らす。

「……無理だ。多分」

「そっか」

 ノアは優しく呟くと、これまでの空気を壊すようにあっけらかんとした調子で言う。

「そんじゃ、あたしと一緒にギャンブルする気は?」

「ギャンブル?」

「そ。ねぇアルト、なんであいつらは銃を乱射してこないんだと思う?」

 確かに疑問だ。物陰とは言ってもダンプスター、銃を乱射すれば簡単にアルトごと貫けるだろう。ならばなぜそれをしてこない?

 アルトが答えるよりも早くノアは続ける。

「多分、あいつらの狙いは賞金首が持ってたスーツケースなんだよ。中身が何か知らないけど、あいつらはそれへの流れ弾を恐れて追撃してこない」

 スーツケースは路地の最奥、アルトからの距離は目視で5mほど。一本路地のこの場所ではどうしたってアルトとスーツケースは直線上にある。

「それがなんだって……おい、待て正気か?」

「この街に正気なんてものを求めちゃいけない。でしょ? もちろん、ここから逃げることはアルトなら簡単だろうね。でもその後は? 中央政府はあたしらみたいな人間を絶対に許さない。確実に消しに来る」

 雨音に混じりながら、彼らがにじり寄ってくる足音がする。どうやら残された時間は少ないらしい。

「道は二つ。逃げて死ぬか、賭けて掴むか――だよ?」

 アルトはただただ黙っていた。中央政府に刃向かうことの意味と、その無謀さを彼はよく知っていたから。


 ダンプスターの物陰から、勢いよく何かが上に飛び出した。それは螺旋状に捻じ曲げられた、変わった形の小瓶だ。中の青とオレンジの液体はすでに混ざり始め、その色を段々緑へと変えていく。

 小瓶は雨に打たれながら位置エネルギーの最高点に到達すると同時、中身が緑一色に染まる。

 ――弾け飛ぶ。飛び散るのは僅かなガラスの破片と大量の生ぬるい煙だ。

 一本の細い路地はすぐに撒き散らされた煙によって満たされて、その瞬間にダンプスターの裏から一つの影が飛び出す。ぼやけきった煙の中に三度の銃声と発火炎が混ざった。

「やめろ! 目標に当たったらどうする!」

 声を荒げた男の隣を影が一瞬横切ったが、影の足音は止まることなく路地裏から離れていった。

「構うな。別働隊に任せておけ。今は目標の回収が第一だ」

 すぐに煙は雨と風で洗い流され、視界は明瞭なものになっていく。

 しかし、そこにあるはずのスーツケースはすでに姿形を消していた。


 ※


 喧騒と生活の明かりから少し逸れた脇道を、俺はスーツケースと共に走っていた。

 人口増加による度重なる改修工事で“アウトゾーン”の街並みはひどく歪で複雑だ。異なる素材と様式で建てられた建物たちがチグハグに積み重なって乱立し、その間を縫うように何層にも重なった車道が伸びる。そして何百、何千もの通路やロープウェイがそれらを必死に繋ぎ合わせて、いつ見ても不恰好な街だなと思う。

 昔はここももっと綺麗な街だったと聞いたことがあるが、俺はそれを信じていない。どっちにしたって今の俺には関係のないことだし。

「アルト、隠れて」

 細く分岐の多い路地裏に差し掛かったところで耳元から声がした。光学迷彩のせいで見えないがノアの声だ。俺は言われた通り近くのパイプたちの裏に身を潜める。

 無数にある分かれ道の一つから、先の三人組と同じ装備をした男たちが現れた。数が多い。五人組だ。

「どうする。振り切るか?」囁き声で彼女の判断を仰ぐ。

「いや、見つかるリスクは避けたいな。この方向に逃げてきたって知られたくないし。やり過ごす方針で」

「了解」と短く返し、体とスーツケースをパイプのさらに奥へと押し込む。

 だが彼らは近づいてきているらしく、足音が段々鮮明になっていく。

 嫌な汗が頬を伝った。

「十秒待って。右の扉、今開ける」電子的なタイプ音を混じらせながらノアが言った。

 隠れているパイプを辿り壁を見ると、確かにそこには電子錠で施錠された扉があった。いつでも開けれるようにと俺はそれのドアノブに手を掛ける。

 正直、こうなると俺にできることは何もない。見つからないよう必死に体を奥へ奥へと縮こませて、一秒でも早く扉が開くのを祈る。

 一辺倒で無機質な革靴はその主張を強めていき、万が一に備え俺は左眼を使える準備をしておく。まだ扉は開かない。

 水たまりを踏みつける音がすぐ真隣から聞こえた。

 ――仕方がない。

 立ちあがろうとした瞬間、掴んでいたドアノブが突然下がり扉が開く。わずかな浮遊感と共に重心が後ろへ傾き、俺はスーツケースと共に建物中へと流れ込む。三段ほどの短い階段を転がり落ちた頃には、扉はすでにノアのドローンによって閉められていた。

 おそらく彼らにこちらの姿は見られなかっただろう。それでも流石に何かの存在には気づいたようで、叩くというよりは殴るという方が似合う強さで扉の向こうをノックされる。

「扉を開けろ。我々は政府の者だ。調査のため室内の確認を要求する」

 当然開けるつもりはない、後退りでスーツケースを連れて俺は建物の奥へと逃げた。

 薄暗い部屋を飛び出ると、そこは映画館の廊下のような場所だった。赤のカーペットが敷かれた床に、両脇の壁には一定間隔で黒い両開きの扉が並ぶ。

 出口を求め、とりあえず廊下に沿って走る。突き当たりは二手に分かれ、左右どちらも同じような廊下が続いていた。

 背後から聞こえた扉の破壊音らしき音に急かされて、俺は適当に右の廊下を選ぶ。

 廊下の先、他の扉よりも一際目を引く華やかな装飾のついた扉。そこを出口と踏んで俺は勢いよく通り抜ける。

「げ、行き止まりかよ!」

 そこはだだっ広い割には、真ん中に劇場用の椅子が一つ寂しく置かれただけの薄暗い部屋だった。入ってきた以外に扉はない、完全な行き止まりだ。

 今から急いで引き返して、間に合うだろうか。この部屋には隠れられるようなものもない。強いて言うなら中央の椅子の裏があるが、子供のかくれんぼだってもっと良い場所に隠れるはずだ。

 ――引き返すべきか、隠れるべきか。

 まとまらない頭の中を空にして、とりあえず部屋の奥へと走ろうとした。だがそれはすぐに左手の違和感によって中断される。

「ちょ、ちょっと待った」どこにいるのかわからないドローンに向かって言い放ち、違和感の方へ目をやる。

 左手、ハンドル、本体部分と、なぞるように左手からスーツケースへ視線を下ろして、車輪部分で止まる。

 スーツケースの底面四隅についたタイヤの一つが外れていた。パイプの奥へ押し込んだ時か、一緒にここへ倒れ込んだ時か。数十分の付き合いだが壊れるタイミングに心当たりが多い。

「こうなったら中身を直に抱えた方が楽かもしれない」スーツケースを床へと寝かしながら呟いて、留め具を一つ一つ外していく。

 中央政府が狙うくらいの物品だ。新型のインプラント、軍用兵器、データチップ、なんでもありえる。もしかするとこの状況を打破できるようなものの可能性だってある。すぐには思いつかないがなんかこうすごい装置だとか、そういう類の。

「急かすわけじゃないけどあんまり時間はないからね」

 扉の奥からドアを次々に開ける音が聞こえる。どうやら虱潰しに捜索しているらしい。

「わかってる!」開きの悪い留め具に苛立ちながら答える。「よし! 開い――」


「「――え?」」


 ノアと声が重なった。理由はお互いスーツケースの中身を見たからだろう。

 そこにあった。いや、居たのは金銀財宝でもなければ精密機器でもない。一人の少女が入っていた。透き通るような白い髪と肌を持ち、ぶかぶかのTシャツに包まれ膝を抱えながら瞳を閉じている。体が腹式呼吸によってわずかに膨らみ、そして縮む。間違いなく生きてる。

 ――状況が飲み込めない。どういうことだ?

「……ん」

 少女が瞳をぱちぱちとさせながら目を覚ます。不思議そうな、眠たそうな瞳で起き上がるとその目をしたまま首を傾げた。

「おにいさん、誰?」平坦な声で少女は言う。

 こんな時どう答えるべきなのか、そもそもなぜ政府はこんなものを狙っているのか、どちらもわからず俺は固まる。だが、すぐに軽く頭を振って現状を見つめる。

「と、とりあえず黙って俺に――」

「……アルト、どうやら時間切れ」

 部屋を二つに別つように、背後から光が差し込んだ。振り返るとそこには俺を睨みつける五つの銃口があった。

「動くな、我々は中央政府の者である。直ちに両手を頭の後ろへ置き、少女をこちらへ渡せ」

 彼らにしては珍しく発砲前の忠告を入れる。よほどこの少女のことが大切らしい。俺は言われた通り両手を頭の裏へと回し、横目で少女の方を見る。

 少女は眠いのか、はたまた状況を理解していないのか。ただぼんやりと他人事のような様子でこちらを見ていた。

 今の俺にできることはたった二つ。このまま命令に従うか、ただひたすらにチャンスを待つか。

 俺は唾を飲む。起きるであろうチャンスを待って。

 だがそんな俺の思考を否定するように、耳先を弾丸が掠めた。

「動くなと言ったはずだ」

 背後から何か重いものが地面へと叩きつけられた音がした。見なくても想像はつく。

 ノアのドローンが撃たれたのだ。

 ……どうやらチャンスは訪れないらしい。

「いいか、次はない。今すぐにそいつをこちらへ渡せ」五人組の先頭に立つ男がせかすように言う。

 俺は再び少女の方を見た。俺の視線に気がつくと彼女もまた俺の目を見つめ返す。快晴を溶かしたような綺麗な澄んだ色の瞳をしていた。

 こんな時、他の賞金稼ぎ、いや、この街の人間ならどうするのだろうか。

 ――俺は答えを知っている。

「おい、あっちに行きな」俺は少女に向かって言い放つ。

 俺は知っている。この街で中央政府に刃向かう意味を。それが辿る結末を。

 今更大人しくしたところでもう遅いのかもしれない。だが、それでも俺にはこれ以外の選択肢は残されていない。見逃される可能性が絶対にないというわけではない。それならこの手が最善の方法だ。

 少女は一瞬、本当に一瞬だったから俺の気のせいかもしれないけれど、悲しそうな表情を浮かべた気がした。だが、瞬きした時にはあのぼんやりとした表情で彼らの元へと歩き出していた。

 一歩ずつ離れていくその小さな背中から、俺は逃げるように目を逸らした。これが最善だと自分に言い聞かせて。

 ――このままでいいんだろうか。

 そう考えて、回した拳に力を込める。

 だがそうすると、俺の中の黒い塊の声がする。

「お前じゃ無理に決まってる」と。いつもそうだ。

 俺は半年前から、誰かを傷つけようとするとこの声が聞こえるのだ。

 ――でも、何もできないわけじゃないはずだ。

「考えろよ。お前はいつも肝心な時に失敗する。どれだけ迷惑を掛けてきた?」

 ――どれだけの代償を他人に払わせた?

 拳に込めた力はどこかへと消えた。

 腹が立つが、こいつの言っていることは正しい。そう感じて俺は静かに瞳を閉じる。

 でもふと、一瞬考えてしまった。

 ――こんな時、“あいつ”ならどうしたのだろう。


 気づいた時には、一筋の白い閃光が薄暗い部屋に煌めいた。


「なっ!」

 一瞬で俺と彼らとの距離が縮まる。俺の左眼から放たれる白い光が閃光となって駆けたのだ。

 握る傘は弧を描くように振り切って、軌道上にいた四人を壁へと殴り飛ばす。

 不思議とあの声は聞こえない。

 ――いける、動ける。戦える!

 少しの全能感と上がる鼓動に身を任し、左眼の光もそのまばゆさを増していく。

 飛んでくる弾丸を盾のように開いた傘で弾いて、残された男と距離を見る。

「……その灰色のロングコート、金の刺繍の黒い傘、そして白い光を放つ特殊戦闘用義眼。おいおい、まさかお前! カノープスの亡霊か!?」

 残された男が苦虫を噛み殺したような声で言った。

「死に損ないが! クソッ!」

 それと同時、再び俺は白い閃光となって彼へ駆ける。飛んでくる弾丸はどれも閃光には届かない。全て流すか躱される。

 瞬きするような時間で、男の前まで駆け巡ると俺は傘を大きく振り上げる。

 あとはそれを振り翳せばよい。シンプルだ。

 銃は俺の眉間を捉えていたが、今ならその引き金を引くより早く振り翳せる、そんな気がした。だが――、

 ――熱っ!

 顔の左側を内側から焼いたような激痛が走った。突然のことに左眼に向けていた集中が乱れてしまう。

 左眼から白い光が失われる。

 残されたのは鈍重に感じる体だけ。

 おそらく左眼を長時間使いすぎたのだ。熱が抜けるまで再使用もできないだろう。

 ――これ、躱せな……。

 弾丸が自分の頭を貫く光景が脳裏よぎった。やはり痛みはないのだろうか。そんなことを考える。

『――アルト! 今!』

 だがその時チャンスはやって来た。周回遅れの待ちに待ったチャンスが。

 部屋の照明が一斉に点いた。僅かに男の引き金にかけた指が緩む。その隙を逃さない。歯を力いっぱい食いしばって、傘を振り落とす。

 右腕の強い反動と共に男の意識を遥か彼方に殴り飛ばした。

「……」

「終わった……?」わずかな静寂を挟んでから、俺は虚空に確認を取るように呟く。

『なぁ~にが「終わった……?」だよアルト! あたしの仕事がちょっとでも遅れてたらどうなってたか!』

 耳元のサポートデバイスからノアの怒鳴り声がした。古い型のを使い回してるせいで彼女の大声が直に頭に響く。近いうちにノイズキャンセリングぐらいはつけてもらおう。

 そう思いながら、安堵のため息を一つ吐く。

「……ほんとに助かったよ」

『お礼は後で。それより今はあの子と、あとあたしのチャールズ7号を連れて帰ってきて。せっかく高い金払ってクラス3の光学迷彩積んだばっかなんだから』

「わかりましたよ」と茶化すように軽く返して、少女の方に向き直る。

 しかし、少女の姿を確認するより前に俺の視界は黒で覆われた。直前に何か、大きな機械の重いレバーを下げたような音を響かせて。

 なんだ? 部屋が急に暗く――、

 天井を見上げて、俺は息を呑む。

 そこには満天の星空があった。深くて淡い、吸い込むような群青色の空。そこを埋め尽くさんばかりの小さな星々が散りばめられている。星々の光は圧倒的で、真っ直ぐで、ただひたすらに綺麗だった。

 確か、こういうのをプラネタリウムというのだったか。昔誰かが話していたのを聞いた気がする。

『やば、さっき焦ってシステムを荒らし回ったから変なのが作動しちゃってるかも。そっちの状況確認できないけど大丈夫?』

 俺は抜けるようにあぁ、と返す。正直、あまり聞いていなかった。

 数秒か数十秒か、はたまたもっと長い時間のあとで、ようやく視線を下へと下ろす。

 少女もまた、映し出される星空を眺めていた。しかし俺とは違い無表情で、つまらないものでも見るかのような顔をしている。

 ぴくりとも表情を動かさない姿は星明かりのせいもあってか、どこか作り物めいて見えた。

 俺は少し悩んでから、そっと語りかける。

「なぁ君、名前は?」

「……」

 少女は口を開かない、無機質な表情で目線をこちらに向けるだけだ。

 瞬きすらも一定で、流石にかなり不気味に見える。本当はすでにこの子は死んでいて、俺は幽霊を見てるのではと一瞬本気で考えた。

「……もう話していい?」長い沈黙を終え少女は小さな声で尋ねた。

「え……? あ、あぁ、もちろん」

「よかった。おにいさん、さっきは助けてくれてありがとう」

 少女の感情は声からも見えなかった。そしてまさか、俺が黙ってろと言ったからずっと黙っていたのだろうか。

「それで名前、だよね」

 抑揚が弱いせいで確認を取るようにも、自分に言い聞かせるようにも聞こえたが、俺は一応頷いておく。

 少女は天井を向いて何かを探すと、ゆっくりと部屋の奥へ進み、すぐに立ち止まる。

 数えきれないほど光る星の中。

 その中で最も青白く、煌々と輝く一等星の真下で少女は向き直った。

「スピカはスピカっていうの」

 少女、もといスピカの自己紹介はそんな簡潔な一文で終わる。その後になにかを続ける様子はない。

「えっと……他には?」

 投げかけに、スピカは何かを考えているのか目線を右へ持っていく。

「スピカは名前以外、あんまり覚えてない。でも、自分がやりたかったことは覚えてるよ」

「やりたかったこと?」

「うん。たくさんあるの。数え切れないくらい、いっぱいね」

 ――困った。

 少女の話を信じるならば記憶喪失というやつだろうか。普通ならそれを信じるほど俺は馬鹿じゃないが、今の彼女にはそれを信じさせるだけのものがある。

「それでおにいさん。スピカと友達になって欲しいの」少女は突然そんなことを言い出した。

「え、な、友達?」

「そう。友達なら、スピカのやりたいことに付き合ってくれるでしょ。スピカのやりたいことはスピカ一人だと難しいから」

 ――断る、そう言いそうになったが寸前で止まる。改めて考えてみると、俺の目的は政府との交渉のカードとして身柄を確保することだ。なら、この提案は逆に使える、そう思った。

「友達になったら、俺と一緒についてきてくれるか?」

「もちろん。友達のお願いは聞いてあげるべきだから」

 これは使える、そう確信した。

「じゃあ、俺とあんたは友達……だ」あんまりにも自分に似合わない言葉に顔を熱くしながら答えた。

「よかった。よろしく、おにいさん。名前は?」

「アルトだ」

「そっか。よろしくアルト」

 スピカは静かに呟いて、小さなその手を差し出す。俺はまだ顔に残る熱を感じながらその手を取った。

 この物語はこうして始まる。

 血と、泥と、その他化学薬品に塗れた、どうしようもない灰色の物語が。

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