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「SPICA」 第三話

 俺の部屋に時計は無い。それでも目覚める時間はいつだって六時三十分きっかりと決まっている。人々が活動を開始するには僅かに早いその時間になると、脊髄を揺らす振動と重低音が部屋に鳴り響くから。

 この街が発する鳴き声は、地下にいるとその存在感を一気に増す。これが一日にあともう一度、二十二時にやってくる。それが俺の部屋で正確な時間を知る唯一の方法だ。

 なぜ時計を置かないのかと問われると、理由は二つ。

 一つはシンプルな金欠。ここしばらく、俺とノアは栄養ゲルで夕食を済ませなければならないほど俺たちの懐事情は緊迫している。

 そしてもう一つは何も考えずぼんやりすることが趣味になり始めた俺にとって、時計は邪魔に思えたから。

 その日も俺はいつも通り、押し潰す重音で目を覚ました。

 圧迫感から寝ぼけ眼で毛布をどかそうと胸元に手を伸ばす。だが、伸ばした手は毛布ではない何かに触れた。

「っんー……」

 まだ聞き慣れていない少女の唸り声がした。朧げな思考の中でそれが誰かを理解すると、呆れながら問いかける。

「なにしてんだスピカ」

 少女は再び唸り声をあげるだけで起きる様子はない。雑に肩を揺らしてもその瞳が開く気配はなかった。

 面倒臭く感じた俺は少女を無理矢理体の上から転がし、リビングに向かう。

「……よう」

 リビングにはノアがいた。ダイニングテーブル脇の椅子に腰掛け、薄い隈の付いた目で、目の前に浮かぶ半透明のディスプレイたちを忙しなく操作している。

「おはよう」横目でこちらを見つめる彼女が、短く返す。

「徹夜したのか?」

「え、あぁ、うん。スピカのこと、ちょっと気になって」

「そうか」適当に返して、俺は彼女と向かい合うように席についた。

「そういや聞いてくれ。あのガキ、なぜか俺の部屋で寝てたんだよ。昨日リビングで寝てたよな?」

「あぁそれ、あたしがあの子をアルトの部屋に入れた」

 俺の告げ口に対して、ノアは当たり前のことを言うかのように作業の片手間で答えた。一瞬耳を疑って、困惑が顔に出る。

「は? なんで?」

「あの子、深夜にあたしの部屋で寝ようとしたから適当にそっちにぶっ込んだ。面倒見るんでしょ?」

 ノアは作業の手を止めぬまま言う。何か言い返そうと口を開くが、その先は彼女に口論で勝った記憶がないのを思い出してやめた。

「で? 何か情報はあったのかよ」

 反論の代わりに俺ができたのは、悪態づいて話題を逸らすことだけで、自分がかなり惨めに思えた。

 そこでようやくノアは手を止めて、俺の部屋の方に視線を送る。

「大丈夫、二度寝中だ」

 俺がそう言うと、ノアは大きく体を伸ばした。

「それがなーんにも」彼女はポケットから飴玉を取り出しながら話を続ける。

「セーフゾーンの学校の生徒とか、資産家や重役の家族に関する誘拐事件だとかで情報を洗ってみても全く情報なし。他にも関連しそうな単語総当たりで検索AI走らせてるけど掠る気配すらないね~」

「つまり……お手上げってことか?」

「馬鹿言いなさんな。今じゃ脇道を歩くネズミ一匹だって頑張りゃ特定できんだ。ネズミじゃなくて人間なら、一夜で経歴くらいは掴めんの」

「要するに?」

「明らかに情報が無さすぎるってこと。誰かが意図的に情報を隠蔽しているとしか考えられない」

 ということは、ただの金持ちの娘という線は薄いだろう。情報を隠蔽する理由がない。俺の考えをよそにノアは続ける。

「まぁ相当ディープな部分まで潜ればなにかしら掴めるかもだけど。これ以上はリスクとリターンが見合ってないね」

 ――つまり、お手上げってことじゃね?

 俺の中のぼやきが聞こえたのか、彼女はわざとらしく咳をする。

「そういうわけで、少し方向性を変えてみようと思う。これ見て」

 ノアが指先を弾いて俺の前にディスプレイの一つを持ってくる。そこに映るのは、俺たちがいつも仕事で使う非公式の賞金稼ぎ用サイト『Golden Shot』の手配書だ。簡単に言えば一般人が人や物に賞金を掛けて共有し、それを捕まえた賞金稼ぎが依頼主とコンタクトをとるなどの用途に使われるダークウェブで、画面の仕事依頼はまだ記憶に新しい。

「昨日の仕事、懸賞金は男と荷物は個別で掛けられてたのは覚えてるよね」

 たしか男の方が五百万でスーツケースの方が七百万だったか。ノアは俺がトラウマで戦えないのを考慮して、荷物だけでも盗れば良いと言っていたのを覚えている。

 しかしそれがなんなのだろうと一瞬考え、すぐに意図を理解する。中身の知らないスーツケースに七百万もの大金を掛ける馬鹿はいない。

「依頼主はスピカのことを知っていたのか」

「そ。どれだけ知ってるかは不明だけど、少なくとも何かは知ってるはず。それをこいつに聞く」

 連絡はサイトを使えばいいし、協力するつもりがないならスピカを餌に誘い出して尋問すればいい。なかなか良い作戦に思えた。

 が、ノアの顔が曇る。そして彼女は少し気まずそうにしながら「でも一つ問題があって」と言う。

「この手配書、昨夜撮った写真なんだよね。今朝確認した時には懸賞金とそれを掛けていたアカウントは削除されてた。つまり『Golden Shot』を使ったコンタクトは取れない」

「サイトから依頼主を特定するのか?」

「不可能。『Golden Shot』のデータはネット上じゃなくてオフラインの保存機器に入ってるから、ネットからじゃ限界がある」

 彼女は「ネットからじゃ」を強調させて繰り返す。

 ……とてつもなく嫌な予感がする。

「アルトにはそのデータが入った保存機器の元に直接行ってきてもらいたいの」

 予感は的中した。

「……どこにあるかの目星はついてるのか?」

「あたぼうよ。保存機器があるのは第三居住区域の端っこ、コルカ貧民街」

 ノアはボロい大通りが映った別のディスプレイをこちらにスワイプさせる。

「通称、ならず者たちのメッカ『ブラックマーケット』」

 前言撤回をしよう。予感のさらに上をいってきた。

 そこに行かされると聞いて顔が曇らないやつは少ない。この街の最先端技術やマニアックな物が流れ着く、金の匂いの絶えぬ場所だ。アウトゾーンの中でも特に治安が悪い一帯で、噂じゃ人肉を黙って振る舞う店もあるとかないとか。とにかくロクな場所じゃない。

「『Golden Shot』を運営してる組織がその一角に拠点を構えてるらしくてね、データの入った機器もそこにあるはず」

「なぁノア、一つ質問なんだが……ブラックマーケットに行くのは本当にデータ目的なんだよな? 部品目的じゃなく」

 ブラックマーケットに行きたがるやつは少ない。だがいないと言うわけじゃない。技術を愛する機械オタクや後ろめたい犯罪者たちにとっては歓楽街だ。そしてノアには、特に前者が当てはまる。

「も、もちろんだよアルト。でもまぁ、その、ついでに壊れたチャールズ7号の修理部品もあったらいいなぁって」

 ノアはあからさまに目を逸らしながら言うのを見て、俺は大きなため息を漏らす。だがもうこの際なんでもいい気がした。あくまでスピカの特定がメインであることは変わらないだろう。

 それよりもまずは、目先の小さな問題から片付けることにしよう。俺は椅子から立ち上がり、外出の準備始める。

「とりあえず朝飯にするか。買ってくるけど何か希望は?」


 第八居住区のロープ繁華街、そこには知る人ぞ知る隠れたタコス専門店がある。

 繁華街の大通りを外れて小道に入り、さらにそこから裏路地の非常階段を四階分上がった場所にあるその店は、名前を『タコスライフ』と言ってこの名前から想像できるシンプルさがまたいい。メニューはたった四種類だけだがどれも絶品で、この下手にメニューをかさまししないところも含めて“わかっている”と感じる。

 ――特にこの買って帰る時に袋からする香りがまた……。

「まだ食べちゃダメなの?」

 気持ちよく感傷に浸っていた俺の服の裾をスピカが引っ張った。

 俺は顔を顰めてスピカを見る。

 俺がタコスを買いに行くと聞いた途端飛び起きて、自分も連れて行けとごねだした。どうやら繁華街に出かけると言うのが彼女の“やりたいこと”の一つだったらしい。ダメだと言っても聞かないので仕方なく連れてきたが今度はタコスを早く食わせろとごねないかが心配だ。

「家まで待ってろ。すぐ帰るから」

 スピカは平坦な声で「けち」と小さく呟いた。

『もしもーし、聞こえてる?』

 左耳に埋め込んでいるサポートデバイスからノアの声がした。

「どうしたノア、タコスならもう買ったぞ」

『いや、そうじゃなくて本題は別』

 通信越しからパネルを操作する電子音が聞こえると、俺の視界に地図と一人の女の顔写真を映し出した。

 地図はおそらく、今いるロープ繁華街のものだ。しかし女の方に見覚えはない。黒のショートボブでインナーカラーは青、優しそうな柔らかい目つきをした女性で、年齢は俺より三つは上だろう。

『ついさっき繁華街付近で賞金首の目撃情報があったの。どうやら近くのバーで賞金稼ぎと小競り合いをして逃亡中っぽいんだよね』

 状況から何となく察していたが、やっぱり仕事か。

「いくらだ?」

『生死問わずで二百万。『Golden Shot』に載せられたのもつい最近で、情報だと黒いフードローブを着てるとか』

 俺はスピカの方を見る。彼女はこちらの話に毛ほどの興味もなさそうに俺が持つタコスの袋を見つめている。早く帰りたがっている彼女のことを考えると捜索する時間はあまりないだろう。

『あ、別に捕まえてこいってわけじゃないよ。近くであったから一応知らせておこうと思って』

 何気なく俺は非常階段上から真下の路地裏を見下ろす。

「――おい、外見をもう一回言ってくれ」

『ん? えーっと、黒いフードローブってだけだよ?』

 俺は静かに左眼を起動させ、スピカを抱えて非常階段から飛び降りた。

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