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好きの解像度を上げていく

こんばんは。かめのうらです。
2日連続になるのですが、昨日に引き続き、忘れたくないなぁと思った感情の機微について少しだけ書いていきたいなと思った次第です。

「好き」を掘り下げてみる

中学生くらいの頃、ちょうど推し活、みたいなものにハマり出した頃に、「好き」と言う感情について悶々と考えていた時期があります。
今思えば、典型的な思春期エピソードかもしれません。自分の存在意義とか、生きる意味とかについてもグダグダと考えながら1日を過ごす、なんてことを始めたのもその頃でした。
Twitterもやっていましたし、その頃から、不特定多数に向けて自分のなんてことない感情や考えを書き綴り始めていました。今と何ら変わりません笑
推し、というとちょっと違うかもしれませんが、伝わりやすいように言うと、推しに向けてファンレターを書いたり、小説を書いて押し付けるような行為に中高生の頃、夢中になっていました。
好き、と言う言葉はだいぶ抽象的です。なんか便利だから、乱用してた時期があるのだけど、よくよく考えるとすっっっごい細分化される言葉だなと気付いて、もっと繊細になろうと思ったわけです。

どうして「好き」と思ったのか

好きであれ、嫌いであれ、根拠があるものじゃないですか?
嫌い、の方が直感的というか、理不尽な要因が多い気もしますが、何かしら理由があるもの。
昨日の日記では、「転移」が起こってしまったと書いたけれども、それにしても、良いなと思ったところがあるから起こってしまうわけで、関係性にしろ見た目にしろ、やっぱりきっかけはあるわけです。
僕の場合、いろいろなタイプの「好き」があって、何となくタイプ分けできるものだなぁと自覚しています。

話聞いてくれるから「好き」

割とこれは、僕の特性上の「好き」かもしれません。
僕は話をするのも聞くのも割と嫌いじゃないですし、インプットもアウトプットも自分のものにしてやろうという気概があります。
クドクドと、僕のどうでもいいような苦悩を聞いてくれるとか、それをさらに馬鹿にしないとか、誠実な対応、と言うやつなのかもしれませんが。

僕は中学生の時に担任に、「ポジティブネガティブ」と言われたことがあって、噛み砕いて説明すると、
僕の根底はネガティブなんだけど、そこにポジティブが重なってネガティブが加速してしまう
と言うことだったと思います。
普段ヘラヘラしているので、一見ポジティブに見える、と言うのもあるかもしれません。

考えてくれるから「好き」

その担任は、僕のことが嫌いだったんじゃないかなと思います。何よりも面倒くさいタイプだったし、普通に勉強も上手くできないし。
でも、僕を分析して、考えてくれたんだなぁと思うと、嫌いになれないというか、ありがたい、に近い「好き」かもしれない。

僕は、「まぁ大丈夫でしょう」と放っとかれるか、「面倒だし厄介だから」と放置されるかのどちらかだった気がします。
たまに僕を放っとかない人もいますが、何となく、周りの人たちは僕の分析を誤っているような気がしてなりません。
大学4年生になって、やっとこさ周りが僕と言う存在を受け入れ始めた感があるのですが、大体2〜3年は様子見しないと受け入れられないような感じがするようです。
もしくは、短期間で喧嘩もしながら親密になるか、のどちらかです。

僕は欠点だらけの人間だと思います。平均よりも欠点の多い人間、かなぁと。
希死念慮もあるし、頻繁に「しんど〜い」と嘆いています。
ただ、それを周りに隠そうとする傾向があり、理解されないところがあるみたいで、あと、だいぶ無理してポジティブな風に装っていたり、用意周到にしていったりと、努力と言われれば褒め言葉、虚勢を張っていると言われれば貶し言葉になるような性格だなぁと思います。
僕を分析するには、僕と話すか、だいぶ注意深くプロファイリングしないとわからないんじゃないかなぁと思います。もしくは、わかって欲しいから僕がめちゃくちゃ主張するか。
昨日書いた続きになりますが、めちゃくちゃ主張した結果、考えてくれたなぁとも思うのです。
素で汲み取ってくれるようなことは他人に期待していないので…。

まず、ネガティブを聞いてくれて、その上で考えてくれる、と言うのがレアケースだという気もします。

転移については、その、考えてくれる、見ていてくれると言う要素も強いのですかね。そっちの専門じゃないので全然わからないけれど。


そういえば

中学生の頃、優しくない人が好きだなぁと考えていたこともあって、優しい、と言うことに対して恐怖心がある気がします。
人と関わること自体、嫌いじゃないのですが、苦手でもないのですが、怖いと言うのは常にあって、だからと言って厳しくされたいわけでもなく、そのバランスが難しい。ややこしい人間なのです。

しんどい、と言う話を祖母にした時、「人間だっていう証拠だ」と言われました。確かに、もし僕が人造人間か何かだったら、しんどいという感情から感じないように設計されているでしょう。
人間だからこそ、「好き」をモチベにしながら、しんどいことを乗り越えようとするのではないでしょうか。その結果、しんどいと思ってたことも楽しくなってきて、それが成長なのかもしれないとも思いました。


昨日よりは、解像度を上げて考えられたような気がします。また思いつき次第。

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