「意思決定支援」を考える ー意思とはそもそも何か?決めることができるのか?ー

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今年一年は在宅診療の深みをじっくりと学ぼうと、在宅専門医取得に向けてプログラムに乗りながら診療に携わっていました。この一年で一番考え、学んだことは「意思決定支援」です。

そもそも今年在宅医療にしっかりと関わろうと思ったきっかけは、複雑な意思決定支援がまだまだできないと思っていたところが大きかったです。

今思うと、当初は方法論つまり「決め方」を主に学ぼうと思っていたので甘かったです。部長から直接ご指導いただき、意思決定支援の概念や姿勢の深遠なる世界の入り口を体感することができたと思います。

医療現場における「意思決定」の実際

在宅診療では、様々な「意思を決定する場面」があるとされます。

「延命治療はするのか、しないのか。」
「点滴・輸血はするのか、しないのか。」
「病院での搬送をするのか、しないのか。」
「最期は自宅でまで過ごすのか、病院に行くのか。」

これら一つ一つ、患者さんやそのご家族の人生の最期を決定づけるとても深刻な内容だと思います。しかし、医療者が考えなくてはいけないのは、「意思決定支援」という名の下に、決定の責任を患者さんやご家族にだけ押し付けていないかということです。それはとても酷なことだと思います。

そもそも「意思」は「意志」とは異なります。前者は「そうしたいと思う気持ち」であり、後者は「特定の対象に向かう意欲」です。医療現場の「意思決定支援」は、意図して「意思」を使っているか、私は調べることができませんでした。

しかし、本来は「意思」決定であるにも関わらず、現場で行われていることは「意志」決定とも思えるやりとりが多いように思います。すなわち、医療者が患者さんに「どう考えているか、どう思うか?」を伺うのではなく、「どうしたいですか?」と迫ることが多いように思います。

そもそも「意思」は決定するもの?

そもそも、意思であっても、意志であっても良いのですが、いずれも「主観的なもの」には違いありません。では主観的なものをを決定することにどこまで意味があるでしょうか。

確かに、医療者が関わる上で、見通しが見えるということで安心することはできるかもしれません。では、患者さんや家族にとって決定することにメリットはあるでしょうか。

在宅医療の現場では「自宅で過ごしたい」と患者や家族がずっと話されていたとしても、いざご病態が悪くなられると「やはり不安なので、大変なので入院させてほしい」とおっしゃる方も少なからずいらっしゃいます。

逆に、事前に「決定した」と医療者が思うことで、いざというときに「自宅で過ごしたいとおっしゃいましたよね?」と決定を家族・患者に迫ることで、本来は「支援」であるべきなのに、「医療者の責任回避」になっていることも見受けられます。

だからといってどうするか、意思を確認しないのが良いという訳でもありません。いつかはその選択を決める時が来ますし、元気のうちから話し合うことは患者様さんの療養生活において様々な観点から有用とされています。

あくまでも、患者さんが「どう考えているか、どう思うか?」ということが大切であり、それは事情によって変化しうることを前提に、医療者はそのゆらぎを許容する必要があると思います。

そう考えると、意思は決定するものというよりは、共有し、参考にするものにすぎないのではないでしょうか。

「意思」がないことなんてたくさんある

さらに、医療現場では患者さん自身が意思がわからないことなんてたくさんあります。その上で、医療者に迫られると「まあ、先生の良いようにやってください」と話される患者さんも少なくありません。

そもそも治療の方針や、延命治療、最期どこで過ごすなんか尋ねられても、普段の日常と乖離しているので、よくわからないというのも当然です。さらに、そこまで日常的に自分の考えを明確にするということ自体慣れていないのも現状ではないでしょうか。

意思の前提には、情報を的確に理解し、自由意志で判断を下して、その判断の責任は自分一人で負うというリベラリズム(自由主義)的発想が根底にありますが、そんな「大人」の発想を日常的に患者さんはするでしょうか。

そんな主体的な方はごく一部の人でしょう。意思決定を「決める」という手段して求めることは、結局、意思決定支援という無理難題を患者・家族にふかっけて、責任を押し付けたいようにも見えます。

意思決定は「決める」手段ではなく「決まる」出来事

在宅の現場で意思が決まる過程を振り返ると、患者・家族が医療者とある程度のプロセスを共にすることで「決まる」出来事のように思います。その過程は、対話の時もあれば、検査・治療・介護といった経験の時もあります。

在宅で多い状況として、本人は「自宅で最期まで過ごしたい」と話される一方で、家族は自宅療養は難しいと考え「最期はどうしたら良いかわかりません」と話されることはとても多いです。

しかし、本人・家族も医療・福祉スタッフの支援のもと介護・治療・自宅療養の経験を積むことで、本人・家族共に、自宅で最期まで過ごすことができそうと「決まる」こともあれば、難しそうと「決まる」こともあります。

また、その状況を見て、医療・介護者の認識の中でも、自宅で最期まで過ごすことができると「決まる」ことや、難しいと認識が「決まる」。患者・家族・支援者でも認識を共有し、その結果最期がどこで過ごすか「決まり」ます。

意思決定は手段として誰かが決めるいうよりは、出来事として患者・家族・医療者・支援者間で共有され、協働で合意をつくっていこうという中で出来事として決まるものとも言えます。

そこには、決定に対して、患者と医療者のどちらが責任を取るというものでなくなり、責任も共有されたものとなります。部長はよく「情報や価値観だけを共有するのではなく、責任も共有することが大切」と話されます。

「意思決定支援」から「欲望形成支援」という捉え方に

意思決定についてこの一年考えさせられてきました。最後に最近納得させられた言葉を紹介します。哲学者の国分功一郎氏は「意思決定支援」ではなく「欲望形成支援」にしてはどうかということを提案しております。

僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから瞬間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか”熱い”過程です。

欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。それを支援するというならとてもいいと思うんです。

            ー 国分功一郎 精神看護 2019年1月号  ー

確かに、意思決定支援と言いながらも、大切にしたいのは、結論よりも「プロセス」ですし、さらに「どう生きたいか」の前向きなものとして意思決定支援を捉えたいと考えると欲望形成支援という言葉は良いと思いました。

意思決定支援について様々に考察していきましたが、結局は、患者さんとの対話というプロセスを大いに楽しみながら診察に携わっていきたいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。

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