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無職といふこと

 アラームが鳴ってスマホを見ると七時、もう起きないと遅刻する。そう思って枕から頭を離した。

「そうか、もう仕事行かなくていいんだ」

 ぽふりと頭は枕に戻る。ぼんやりと天井を見つめる。白い天井に午前のゆるい光が届いてわずかな起伏がやわらかな影を産む。それが遠くに飛んでいくような眩暈を感じて目を閉じた。

 次に起きた時には時刻は十一時を過ぎていた。いささか寝過ぎて頭が重い。起き上がり、途方にくれた。
 いったい何をすればいいのだろう。
 仕事に行っていると時間はいくらあっても足りなかった。仕事をなくすと時間はいくらでも転がっていた。好んで辞めたわけではない。契約期間がきれただけだ。

 契約社員という仕事は不思議だ。どこに行っても同じような仕事をして、どこに行っても他人行儀な顔をして、どこに行ってもすぐにさよなら。まるで吟遊詩人のようだ。彼らも流浪することを望んだわけではないのではないか。ふいに歩き出してしまったせいで止まることができなくなった、それだけで歩きつづけたのではないだろうか。

 牛乳を一息に飲んで髪を切りに行った。連日の残業と風邪ひきのせいで二ヶ月切っていなかった髪は、鋏を入れられるごとに黒々とした模様を床に描いた。
 少しずつ少しずつ降りそそぐ黒が描くその模様は、蝶のようにも魔女のようにも見える。不安定な綱渡りを始めた私の心は、どちらを見つめるのだろうか。

 昼下がりのスーパーにいるのは高齢の女性ばかりだ。レジの店員が重いカゴをサッカーテーブルまで運びつづける。
 私は店員にショッピングバッグを持っている事を告げる。そうするとポイントカードにエコポイントというものが加算される。けれどポイントカードは書類カバンの中だったことを思い出す。毎日持ち歩いたカバンの中だったことを。
 私のエコポイントは電子音だけを残して取り消され、消えてしまった。

 働くということは日々のリズムにメロディをつける作業のようだ。たんたんと続く拍子に彩りと陰影と、そして意味を与える。働かない私には何か意味があるだろうか。日々たまっていくエコポイントのように蓄積される何かはあるだろうか。

 明日も七時に私は目を覚ます。そうして途方にくれる。何をしたらいいのだろう、と。それでもスマホのアラームは消さない。
 それは私の通奏低音、流れ歩く私の大事な切り札。そこに乗る和音は様々な楽器が奏でる。チェロが、リュートが、ギターが。
 けれど今の私には華やかな楽器の持ち合わせがない。私は途方にくれる。
 そうして枕に頭を戻し、白々とした天井を見ないふりして目を瞑る。

 軽くなった頭から細かい髪の切れ端が落ちる。日々のささいなことのようにさらさらと落ちる。
 さらさらと、さらさらと、さらさらと。
 日々はただ落ちていく。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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