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背中7 憑 狂 ~ツキクルウ~
画廊から出てきた百合子と『背中』を見て、さゆみの足は考えるよりも先に駆けだした。画廊まであと少し、というところで斗真が駆けだして来て、百合子の前に立ちふさがった。すぐに刑事が出てきて、刑事はさゆみの前に両手を広げて立ちふさがる。
「はい、ストーップ。あんたはこれ以上、近づけません」
「何言ってるの! 彼がどうなってもいいの!?」
刑事はため息を吐いた。
「いいもなにも、本人が高坂百合子の弟だって言うんだから、しかたないさ」
「……見捨てるの?」
刑事はさゆみの腕を拘束しながら、振り返って斗真に声をかける。
「ほら、そこのにいさんも。どきなさい。善良な一般市民ともめ事を起こしたら、いかんぞ」
斗真は、刑事の腕から抜け出そうともがいているさゆみを見て、慌てて駆け寄ってきた。
「柚月さん! 追ってください!」
百合子は大吾と並んで悠々と歩いていく。何事もなかったかのように、楽し気に。
「ダメだ。にいさん、追うなよ。軽犯罪法に触れる。見逃せなくなるからな」
「何を言っているの! あの人が危険なのがわからないの!?」
もがき続けるさゆみの肩を斗真が静かに押した。
「あの男は、自分で、高坂大吾と名乗ったんだ」
さゆみは目を見開いた。
「高坂……大吾って……」
「誰なんだ、高坂大吾って」
斗真の問いにとっさには答えられない。さゆみは百合子と共に消えた背中を、今はもう見えなくなった背中を目で追うように遠くを見つめる。遠い過去を見透かそうとするように。
「高坂百合子の、死んだ弟の名前……」
さゆみの声には力がなかった。落ち着いたのだろうと、刑事が力をゆるめた。その隙をついて、さゆみは腕をふりほどき、画廊に駆け込んだ。
「きゃあ!」
入り口で美和を突き飛ばしたが、止まらずに『背中』に駆け寄る。一番年若い『背中』を壁から剥ぎ取り、額装を壊さんばかりの勢いで取り外した。
『大吾 十歳』
確かに、絵の裏にはそう書いてある。
「何をするんですか!」
立ち上がった美和が叫ぶ。店内に駆け込んできた刑事が、さゆみから絵を取り上げる。斗真が、さゆみに駆け寄ろうとする美和の肩を押さえて止める。
さゆみは静かに美和に視線を移した。
「この絵の題名、あなた、知ってる?」
「題名……? 『背中 十歳』……」
「違うのよ。正しい題名は『大吾 十歳』」
美和は眉根を寄せて刑事を見る。刑事は絵の裏に書いてある題名をじっと見つめていたが、美和に見えるように裏返した。美和は名前を確認して動きを止めた。
「本当だ……。大吾って書いてある。お兄ちゃんと同じ名前……?」
「あなたのお兄さん? さっき、高坂百合子と一緒に出て行ったのは、あなたのお兄さんなの!?」
さゆみは恐ろしい剣幕で美和に問いかけた。
「そうです、兄の船木大吾です。それが、何か……。あ」
美和は両手で口をふさいで刑事を見上げた。刑事は嘘をついていたことを白状した美和を軽く睨んでから、美和に絵を渡した。
受け取った絵の裏側をじっと見つめて、美和は呟いた。
「すごい偶然……」
「ええ、本当に。こんな偶然があるなんて。百合子はとうとう見つけたのよ、弟を」
美和がさゆみを見つめる。さゆみが何を言っているのかわからない。斗真も似たような表情でさゆみの顔を覗きこんだ。
「どういうことだ、弟を見つけたっていうのは」
「高坂百合子はずっと探していたのよ、本当の弟のことを。死んだ弟を」
美和のスマホに電話がかかってきた。橋田オーナーに画廊の固定電話に出なかった理由をしどろもどろで話そうとしたが、何と言ったらいいのか、言葉がまとまらない。
刑事がスマホを取り上げて、これから事情を説明しに行くとだけ言って、通話を切った。
「あんたたちは、どうするんだ? ここにいても何も出来ないぞ」
刑事はさゆみと斗真に、暗に帰れと促したのだが、さゆみは気づかないふりをした。
「どこかで作戦を練り直します」
「そうか。作戦とやらが決まったら、連絡をくれ、必ずだぞ。手を貸す」
「ありがとうございます」
刑事から電話番号を書いたメモを受け取って、さゆみはそれを見もせずに、ポケットに突っ込んだ。刑事は黙って見ていたが、何も言わずに美和と別れて歩いて行った。
「加藤田、どこかに腰を落ち着けようか。作戦を練る前に休憩した方が……」
「いいえ。高坂百合子の家に向かいます」
「高坂百合子のって。近所の人に見られたら、ストーカーだって通報される恐れがあるんじゃ……」
「せっかく刑事の知り合いが出来たんだもの。最大限、使わせてもらう」
「どういう意味だ?」
「職務質問されたら、刑事さんに電話して事情を説明してもらいます」
斗真は呆れた様子でさゆみを見つめた。
「刑事さんが連絡先を渡したのは、そういうことのためじゃないと思うけどな」
「あら、そうですか。私はそうは思わなかったですけど」
それ以上口を開くことなく、さゆみは駅に向かう。斗真が何度話しかけても、さゆみの耳に言葉は届かなかった。
駅から人目をはばかることもなく堂々と高坂百合子の家へ向かった。
さゆみは門に近づいてインターホンを押す。反応はない。なんの音もしない。
「きっとこのまま、永遠にインターホンは鳴らないんでしょうね」
斗真が何か話しかけようとしていたが、気付かなかったふりをして邸の塀に沿って歩きだした。
この邸と隣り合う建物は一棟だけで、邸の三方をぐるりと見て回ることが出来る。塀の高さは三メートル近くはあり、それより高い庭木がのっそりと頭を出しているのが見えるだけだ。
隣の家も相当なお屋敷だが、和風の平屋建てで、そちら側からも塀の中を覗き込むことは出来ないだろう。
「柚月さん、一度、戻りましょうか」
「ああ、それがいいと思う」
「作業着って、持っています?」
「作業着? いや、持っていないが」
「じゃあ、まず作業服を買いに行きましょう」
「何? 何をするつもりなんだ」
いぶかしがる斗真を放っておいて、さゆみは歩きだした。振り返りもせずに歩いていく。斗真は高い塀を一度振り仰いだ。コンクリートの塀とうっそうとした庭木は、その内側に包み隠しているものがなんなのか、知りもしないかのように、しんと立っていた。
「おい、おい、おい、加藤田! 正気か!」
「静にしてください、人目をひきます」
さゆみは2トントラックをレンタルして、作業着を取り扱っている店とホームセンターをはしごした。
水色の上下そろいの作業着を二着、黄色いヘルメットを二個、伸び縮み出来る二連式の梯子を一脚、工具セット、電動ドリル、折り畳み式ノコギリ、ガラス切りなど、工務店を始めたいのかと問いたくなるような品々をそろえた。
さゆみは百合子の邸に沿って脇道に入り、梯子を高く伸ばしていた。水色の作業着は斗真とお揃いで、さゆみはきっちりとヘルメットをかぶっていたが、斗真は手に持つだけで戸惑っている。
さゆみは工具箱からドライバー、ペンチ、釘抜きなど、作業着に詰め込めるだけの工具を突っこんだ。
「冗談だろ、加藤田」
さゆみは斗真の言葉を無視して梯子をコンクリートの塀に立てかける。梯子の頂上から塀のてっぺんまでニ十センチ。安定するちょうどいい高さだ。
「柚月さん。帰りますか?」
さゆみは作業着の腰に小型ノコギリをぶら下げながら斗真に確認した。
「加藤田が帰るなら、俺も帰る」
「じゃあ、梯子を押さえていてもらえますか」
はっきりと「帰らない」とは言わないことで、さゆみの本気の度合いが知れた。斗真は否応なく加担させられた。諦めたようにため息を吐いてヘルメットをかぶると、さゆみが上り始めている梯子をグラつかないように押さえた。
さゆみは梯子を上りきり、塀の向こう側を覗いた。きょろきょろと周囲を確認して、塀の上に上りきってしまう。
「どうします、来ますか?」
冷静な口調でさゆみに問われ、斗真はじっと、さゆみの顔を見上げた。さゆみは返事を待たずに梯子に手をかけて、引き上げ始めた。
「待て、俺も行く」
斗真はすいすいと梯子を上る。塀は幅三十センチほどはあり、立ち上がるには十分な広さがある。周囲を見渡し、人目がないことを確かめてから、梯子を引き上げ、庭の方に下ろす。斗真が先に立って下りた。
塀の中は森のように木々が茂っていて、薄暗い。さゆみも下りてきて、梯子を縮める。斗真が受け取って担いだ。
「犬を放し飼いにしたりしていないだろうな」
キョロキョロしている斗真に答えることなく、さゆみは建物を見上げながら歩きだした。その無防備すぎる歩き方に斗真は小さな声で苦言を呈した。
「おい、加藤田。もう少し注意して動かないと見つかるぞ」
「べつに、かまいません。高坂百合子に見つかったところで、痛くもかゆくもありませんから」
「不法侵入したのを見つかるのは、かなり痛いことだと思うぞ」
「柚月さん」
さゆみがぴたりと足を止めた。
「なんだ? 反論があるのか?」
「あれ、模様じゃなくて穴ですよね」
さゆみが指さす壁の上部には四角い穴が開いている。
「通風孔かな。けっこうデカいな」
斗真が穴を見上げているのを気にせずに、さゆみは先へ進んでいく。ぐるりと建物の周りをめぐって表までやって来た。壁に四角の切れ込みが入っていて、かなり大きな鍵穴が開いている。
さゆみは試しに押してみたが、びくともしない。
「鍵がかかってるんだろうな」
こぶしを握って力いっぱい叩いてみても、役にもたたない。コンクリートが分厚すぎてペチペチと情けない音しかしない。それなのにこぶしはジンジンと痛む。
斗真も隣でコンクリートを叩いたり蹴ったりしているが、一向に音は立たないし、開くこともない。
さゆみはまた、無言で建物に沿って歩いていく。ぐるりと一周して、通風孔のある壁面に戻ってきた。
さゆみは通風孔のちょうど真下になる場所に梯子を立てて、伸ばし始めた。
「おい、まさか忍び込むのか」
「もう忍び込んでいます。いい加減、腹を決めてください」
斗真はぐっと言葉を飲むと、さゆみが上っていく梯子を支えた。
通風孔は下から見上げて感じていたよりも、ずっと大きかった。小柄なさゆみが潜りこむには十分な広さがあった。
穴に嵌まっているブラインドのように廂を重ねたような形状の蓋の隙間から奥を覗いてみたが、どこまで続いているか見当もつかない。真っ暗で何も見えない。
「……うだ、かとうだ、かとうだ!」
徐々に大きくなって、やっと聞こえてきた斗真の声に呼ばれて、さゆみは下を見下ろした。斗真は口をパクパクさせて、手ぶりで下りてくるようにと伝える。
さゆみが梯子を中ほどまで下りたあたりで、斗真が小声で話し始めた。
「俺が入る」
「無理です。柚月さんの大きさじゃ」
「やってみないとわからないだろう。それと、声を低めろ」
「大丈夫ですよ。こんな森の中、どこにも声は響きません」
「用心ってものがあるだろう」
さゆみは最後まで梯子を下りることはせず、斗真を上からじっくりと見おろした。
「早く下りてこい、交代だ」
「用心のために、様子だけ見てきます。室内に入れそうだったら、いったん戻ってきます。それでいいですか」
そう言うと、斗真の返事も聞かず、梯子を上って行った。斗真は手を伸ばしたが、さゆみを捕まえることが出来ず、かといって梯子は二人分の荷重に耐えられるつくりではなく、追いかけることも出来ない。心配気に、見上げつづけた。
ドライバーで蓋を止めているビスを外す。外した蓋は地面に向かって投げた。ドスンと音を立てて落ちた蓋を斗真があわてて回収している。
ぽっかり空いた穴に、試しに右手を突っこんでみたが、障害物はなさそうだった。
通風孔に上半身を突っこんで、スマホのライトをつける。ざらざらした埃だらけのようだが、見える範囲には、やはり障害物はない。匍匐前進の要領で、もそもそと全身を穴の中に引き入れた。
穴の大きさは、ほぼ、さゆみのサイズにぴったりで、両手足を自由に動かすことは出来ない。両肘をついて少しずつ体を前に引きつけていく。
念のために後ろに下がれるかも試してみた。前進するより、ずっと簡単に後退できることを確認して、安心して前に進んだ。
埃ですぐに両手も顔も真っ黒に汚れた。時おり、埃をまともに吸い込んでしまって激しくむせた。マスクを準備しなかったことが悔やまれる。
それでもなんとか進んでいくことは出来る。
ところどころに蜘蛛が巣を張っている。網目状ではなく壁や床に埃の塊のように白い糸が絡まったような形状のゴミのようなものがくっついている。触るとべたべたと手にくっついてきて、嫌な感触だった。身をよじり、出来るだけ触れないように前に進む。
スマホの電池残量を確認する。32パーセント。果たして、この穴の最奥にたどりつくまでもつだろうか。いったい、この穴はどこまで続いているのだろう。その長さの、どのくらいまで進めたのだろう。
気もちが焦る。今にも新しい『背中』が完成するのではないかと。また一人、人が消えるのではないかと。
必死に這い進むが、なかなか思うように進めない。通風孔に入ってから十分が過ぎていた。邸が広いから穴が長いのか、自分が遅くてほとんど進めていないのかわからない。足の方から風が入って来て、行く手の方へ流れていく。寒さで指が痛み出した。
体のあちらこちらに蜘蛛の巣がべったりとくっついている。服越しなのに、その嫌な感触が伝わってくる。今すぐにでも逃げ出したい。この穴から這い出て蜘蛛の巣を全部はたきおとしたい。そんな思いをねじ伏せて前に進んだ。
「……うそでしょう」
行く手に鉄格子が見えたのは、スマホの充電が切れる直前だった。格子にはびっしりと蜘蛛の巣が張り付いていた。まるでこの邸がなにかを絡めとろうとしているかのように。
真っ暗になった通路でさゆみは行き場のない恐怖に震えた。
斗真はレンタルしたトラックに作業着姿で乗り込んで、百合子の邸の門が見える位置に駐車した。
夕暮れ時でも、この姿ならば見とがめられる可能性も減るだろう。乗用車よりはトラックの方がずっと目立つが、怪しさは減る。さゆみの策はなかなか合理的なように思えた。
「加藤田!」
路地から出てきたさゆみを見て、斗真はトラックから飛び降りた。
「大丈夫か? どこか怪我したのか?」
さゆみは顔色を失い、力なくよろよろと歩く。斗真がさゆみの肩を支えてトラックまで連れていく。さゆみは助手席の扉に背中をつけて項垂れた。
「私は……なにも出来ない」
全身に張り付いた球状の蜘蛛の巣。大量の埃で汚れた髪や手、顔。今までの勢いが完全に消えていた。
「なにがあったんだ?」
斗真の問いに答えはない。さゆみは両腕で顔を覆うと、トラックに背中をつけたまま、ずるずるとしゃがみこんだ。
「みんな蜘蛛に食べられちゃったんです。大基はもう食べられて、どこにも……」
ぐいっと腕を引かれて、さゆみは顔を上げた。
「見つけたんだろ? いたんだろ、あの絵の中に」
斗真の言葉に、さゆみはハッとする。諦めないと、絶対に取り戻すと決めてから、ずっと走りつづけてきた。一人で、一人きりで。
「手伝うよ。だから、立ってくれ。そんな顔しないでくれ」
どんな顔か、さゆみ自身にはわからない。けれど、前を向いてはいないことはわかる。暗闇の中で方向を見失って、どこにも行けないと思っているのだ。
だが、さっき知ったばかりではないか。進めなければ戻ればいいのだ、光が差すところまで。さゆみは、すっくと立ちあがる。
「ありがとうございます」
作業着の袖で埃で痒くなった顔を拭ったが、汚れがひどくなっただけだ。それでも気力が戻った瞳を見て、斗真はほっと胸を撫でおろした。
「とりあえず、着替えと風呂だな」
笑顔の斗真に、さゆみは力強く頷いてみせた。
さゆみを家に送ってから、斗真は百合子の家の前に戻ってきた。
数時間だがこの場所から離れていたせいで、百合子と大吾が今、邸の中にいるかどうかはわからない。だが、ここで待つ以外に出来ることはない。ハンドルの上で腕を交差させて開かない門を睨んだ。
ノックの音で朦朧としていた意識がはっきりと醒めた。
あわてて窓の外を見ると、さゆみがコンビニの袋を掲げてみせた。 汚れ切った作業着は処分してきたが、それでもさゆみは動きやすい軽装で、また塀を乗り越える気ではないかと斗真は一瞬、気を張った。
しかし、さゆみは笑顔を浮かべている。安心して車を少し動かす。助手席側からさゆみが乗り込んできた。
「ただいま」
「お帰り。べっぴんさんになったな」
汚れを落としてさっぱりしたからか、さゆみの顔は生き生きしている。
「柚月さん、ずっとここんいいたんですか。よく通報されませんでしたね」
「本当だな。トラックだと停まっていても怪しまれにくいみたいだな」
さゆみはビニール袋からサンドイッチと缶コーヒーを斗真に差し出した。
「ありがとう。張り込みだけど、アンパンと牛乳じゃないんだな」
自分が言った冗談を自分で面白がってニヤつく斗真に、さゆみは同情の目を向ける。
「その話、二十代には通じませんよ」
そう言いおいて、百合子の邸を睨みつけるように観察しはじめた。
「二人が家の中にいなかったら、まったくの無駄足だなあ」
「無駄じゃないですよ。出かけていたら、帰ってきます。家にいたら、いつかは出てきます。どっちにしろ、待つだけです」
サンドイッチの包みを破りながら、斗真は、なるほどと頷いた。
「でも、百合子は家の中にいます。そして、出かけます」
確信を持って言うさゆみに、斗真は首をひねった。
「なんでわかるんだ?」
さゆみは視線をそらすことなく、答える。
「今まで百合子に消された男たちは、みんな最後にどこかで目撃されているんです。百合子に疑いがかからない形で」
「なんだ、それは。アリバイ工作みたいじゃないか」
「みたい、じゃなくて、そのものですよ」
「……聞いてもいいか」
「何をですか」
「加藤田の彼氏の時も、そうだったのか」
さゆみは黙り込んだ。斗真は顔をしかめて口に出した言葉を悔やんだ。しかし、さゆみは動揺することなく静かに語りだした。
「大基は、失踪したその日、学校で色んな人に会っています。百合子の家にいなかったことは、私が証明することになりました。百合子のところに乗り込んでいって、部屋をすべて調べたんです。大基はそこに、いなかった」
さゆみは大切なことを告白するように、目をつぶり、大きく息を吸って止めてから、続きの言葉を口にした。
「私が、大基を消してしまったんです」
目を開けたさゆみは、再び厳しい視線をまっすぐに百合子の邸に向けていた。もう二度と逃がさないと、その視線が語っていた。
「大基の周りで変なことが色々起きていたのに、私は振り回されるばかりで、何が起きているのか調べようともしなかった。不安で怖くて、でも大基が肩を抱いて慰めてくれたから、それでいいと思っていたんです。私は守られるだけでいいって、思っていたんです」
斗真は黙って聞いていた。さゆみは静かな、それでいて強い口調で呟いた。
「今度は、私が守ってみせる。今度こそ」
夕暮れ時、車の往来は多少あったが、道を歩いていく人はいなかった。お屋敷住まいの人は皆、車でしか出かけないものなのかと思いながら、斗真は通行人に怪しまれることがないことに安堵した。
「来た!」
さゆみが叫んで車から飛び降りた。見ると、百合子が邸を出ようと門を開けているところだった。斗真もあわてて後に続く。
門から出てきた百合子が駆け寄ってくるさゆみに気付き、微笑みかけた。さゆみは百合子に体当たりしそうな勢いで、その両腕をとった。百合子の手から門の鍵が落ちる。さゆみは低い声で百合子に話しかけた。
「お出かけのところ申し訳ないですけど、家に戻ってもらいます」
斗真が追い付いて鍵を拾い上げた。百合子は驚きもせず、優しく微笑んでいる。
「また、家探ししたいの? あなたの元宮君は、いないのよ」
怒りのせいで、さゆみの顔に朱が差した。手に力がこもる。百合子の腕をキリキリと締め付けているが、百合子は笑顔を崩さない。
「知ってるわ、そんなこと。私が誰よりも、知ってる」
「じゃあ、今度は何を探しに来たのかしら」
「探しものじゃないわ。船木大吾さんを返してもらう」
「ふなきだいご、さん?」
百合子は不思議な言葉を聞いたかのように首をかしげた。
「どなたかしら」
「あなたの弟でしょ」
百合子は眉根を寄せて不快気な表情を見せた。
「私の弟は、確かに大吾という名前ですけれど、苗字は当然、高坂だわ。加藤田さん、いったい何を言っているの?」
「とにかく、家に入りましょうか」
腕を握ったままのさゆみに促され、文句を言うこともなく、百合子は建物に向かった。斗真が二人の後からついていく。百合子が逃げ出そうとしたらすぐに動けるようにと気を付けていたが、百合子は抗うこともせず、カバンからもう一つの大きな鍵を取り出した。
手のひらに収まらないほどの巨大な鉄製の鍵だ。丸い取っ手に、腹の部分には大きな突起が三本だけという簡単な作りだ。その鍵を鍵穴に差し込み、回した。ガチャリと重い、金属がぶつかる音がした。そのまま戸を押して、大きく開けた。
部屋はがらんとして人影はない。
「船木大吾はどこ?」
百合子は困ったように眉根を寄せる。
「船木さんという人は、本当に知らないのよ。うちにいるのは私の弟の大吾だけ」
「会わせて」
「どうぞ、こちらよ」
百合子は部屋の奥、真っ暗な空間に入って行った。ついて行くと、パッと明るくなった。真っ白い光が目を焼く。手廂で光を避けながら見ると、部屋の真ん中に船木大吾が座っていた。うつろな目で自分の足の先のあたりの床を見ている。
「大ちゃん、お客様なんだけれど、ちょっといいかしら」
ふらりと視線が揺れて、大吾は百合子を見上げて言った。
「……おねえちゃん」
さゆみが叫ぶ。
「違う! その女はあなたのお姉ちゃんなんかじゃない!」
百合子は困ったような微笑を崩さない。
「大ちゃん、この方が、あなたのことを勘違いしているみたいなの。お姉ちゃんと家族だって、教えてあげてちょうだい」
大吾はぶるぶると小刻みに震えながら、さゆみの方に顔を向けた。さゆみは正面から大吾の目を覗き見た。どこを見ているのかわからない焦点の定まらない目だ。さゆみのことを認識できているのかどうかも怪しい。けれど、話しかけてみるしかない。
「名前は言える?」
「……こうさかだいご」
「違うでしょう! あなたは船木大吾!」
「……こうさかだいご……です」
百合子がくすくすと笑いだした。
「ほら、大ちゃんは私の弟でしょう。船木さんなんていう人は知らないわ。ねえ、大ちゃん」
大吾はぼうっとした表情のまま頷いた。
「その大ちゃんに、電話だ。船木美和さんが話したいそうだ」
部屋の入り口で足を止めていた斗真が近づいてきた。スマホをスピーカーフォンに切り替えて、音声を部屋中に聞こえるようにする。
「船木さん、どうぞ。お兄さんに話しかけてください」
『もしもし、お兄ちゃん? どこにいるの? 大丈夫なの?』
百合子がいぶかしげに斗真に尋ねる。
「だれからの電話ですって?」
「船木美和さんですよ。知っているでしょう」
「ええ。画廊の受付の女性でしょう」
『お兄ちゃん! 返事してよ!』
大吾はぼうっとしたまま、斗真がかざすスマホに目を向けた。
『お兄ちゃん、聞いてる!?』
「聞いてる……よ」
大吾がぽつりとこぼした言葉に、百合子が眉を吊り上げた。
「大ちゃん? 何を言っているの?」
「何を……言っているの?」
大吾は百合子の言葉を繰り返した。百合子はほっとしたようで、元のような微笑に戻った。
「いやだわ、大ちゃんたら。真似っこして遊んでるのね」
『お兄ちゃん! どうしちゃったの? しっかっりしてよ!』
「……しっかりしてる」
百合子が口を挟もうとしたが、さゆみが掴みかかっていった。百合子を押し倒して口をふさごうとするが、百合子は抵抗して顔の前で手を交差させた。二人は床を転がって揉みあう。
「大ちゃん! 大ちゃん、助けて!」
呼ばれた大吾はぼんやりとした目で取っ組み合っている二人を見た。途端に大吾の目に光が戻る。
「百合子さん!」
叫んで駆け寄り、さゆみを突き飛ばした。
「百合子さん、百合子さん、大丈夫ですか!」
大吾に手を引かれて、百合子はぼろぼろと涙をこぼしながら起き上がった。
「大ちゃん、ああ、大ちゃん、ありがとう。私を守ってくれて」
「当然ですよ。俺は百合子さんの……、百合子さんの……」
大吾は百合子から手を離した。額に手を当て、考え込む。
「百合子さんの……なんだ?」
「大ちゃんは私の……」
「船木大吾さん!」
百合子の言葉を、さゆみが大声で遮った。
「あなたは、船木大吾さん! それ以外の何者でもない! しっかりして!」
大吾はもうろうとした状態に戻ってしまおうとしているようで、視線がフラフラと揺れている。斗真が大吾の手にスマホを持たせて無理やり耳に当てさせた。
「駄目よ、大ちゃん! 聞いちゃ駄目!」
百合子が大吾に手を伸ばしたが、さゆみは抱きついて止める。
『お兄ちゃん! お兄ちゃん!』
スマホから聞こえる声に、大吾は反応したようだった。スマホを両手で握って、耳に押し当てる。
「美和」
『お兄ちゃん! どうしたの! 何があったの、無事なの?』
「……ごめん、美和」
そう言うと、大吾は電話を切った。床にスマホを投げ捨てると、再びさゆみに近づいていく。
「おい! やめろ!」
斗真が大吾の肩を掴むと、大吾は床にへたり込んだ。起き上がろうともがいているが、力が入らず立ち上がれないでいる。
「大ちゃん! 助けて、大ちゃん!」
「お姉ちゃん……、お姉ちゃん……」
うわごとのように、大吾はつぶやき続ける。しばらくすると、大吾はぐったりと床にくずおれた。斗真があわてて脈と呼吸を確認した。どちらも問題なく、気を失っただけのようだった。
「放して。大ちゃんを介抱しなくちゃ」
もがくのをやめた百合子が落ち着いた声で言う。さゆみはそっと、百合子から離れた。百合子はおぼつかない足取りで大吾のそばに近寄り、しゃがむと、大吾の頬をそっと撫でた。
「疲れちゃったのね、大ちゃん。モデルは疲れるものね」
落ち着いて見てみると、大吾はげっそりとやつれていた。百合子宅にやって来てから数時間しか経っていないとは思えないほど、頬はこけ、体も一回り小さくなったようだった。
投げ捨てられたスマホを拾って、斗真が救急車を要請する声を、百合子はぼんやりと聞いていた。
大吾を外に連れ出すことに抵抗するだろうと思っていたさゆみは、百合子の大人しい様子に驚き、動けなかった。
やって来た救急隊員がストレッチャーに大吾を乗せて運んでいく。百合子はついて行くことなく微笑を浮かべて見送っている。
「……いいの? 弟について行かなくて」
さゆみがいぶかし気に聞くと、百合子は部屋の真ん中に据えられたイーゼルを指し示した。大きなキャンバスが立てかけられ、『背中』が描きかけのまま止まっていた。
「この絵を完成させなくちゃ。大ちゃんの絵を描いてしまわなくちゃ」
百合子は陶然と宙に視線を浮かせている。自分の世界に入ってしまって、他のことには注意を向けていないことがありありと見て取れた。
大吾を取りもどす。その目的を達成したさゆみは、顔をそらし、百合子に背を向けて部屋を出た。
「本当は、もう少し、ゆっくり描きたかったんだけど。ねえ、大ちゃん」
大吾が座っていた、今はからっぽの椅子に語りかけて、百合子は絵筆をとった。
さゆみと斗真は病院まで大吾に付き添った。連絡した美和が到着するまで病院の待合室にいた。その間に倒れた状況など、詳しく話を聞かれた。二人が話す内容を聞いた医療関係者は首をかしげた。どうして大吾がここまで衰弱したか、見当がつかない様子だった。
美和が病院に駆け込んできた。何があったかわからない美和のために、さゆみと斗真はかいつまんで事情を話した。
医師に呼ばれた美和は、大吾の今の状態や今後の処置などを説明されたのだが、思いのほかの重症だという診断に顔色が一気に悪くなった。
各種の手続きを済ませて待合室にやってきた美和は長椅子に倒れ込んだ。
「大丈夫?」
さゆみの問いに美和は黙って頷いたが、両手で顔を覆って、深いため息を吐いた。
「お兄さんの具合は、そんなに悪いの?」
美和は疲れ果てて顔を上げる気力もないようで、床に言葉をこぼすようにして話す。
「衰弱がひどいらしいんです。一週間も何も飲み食いしていないんじゃないかと思うほど弱ってるって。どこかに病気があるんじゃないかって、これから詳しく調べていくそうなんですけど……」
美和が膝に下ろした手をさゆみが握ってやると、美和は深く息を吸った。そっと吐く息に疲労がにじんでいた。
「たった一日で健康な人がここまで弱ることは考えにくいって言われたんですけど、兄には持病もないんです。百合子さんの家で何があったんでしょうか……」
さゆみも斗真も、美和の問いに答えることは出来なかった。なんの力にもなれないまま、二人は病院を後にした。
大吾が亡くなったという連絡が入ったのは、それからたった二時間後。
集中治療室で意識を取り戻した大吾は一般病室へ移動したが、職員の目が届かない時に自分の首を爪でえぐり、血管を引きちぎったという。
見つかった時にはすでに失血死した後だった。
執筆に必要な設備費にさせていただきたいです。