背中3 憑 狂 ~ツキクルウ~
珍しく、オーナーが店にやって来た。緊張して背筋が痛むほど姿勢を正す。
「ご苦労様。変わったことはないかな」
「はい。特には」
尋ねられても、本当になーんにもない。お客はほぼ来ないし、来ても冷やかしだし、絵を買おうなんて奇特な人は、この不景気の中、いないんじゃないかな。
「あ……」
オーナーが私が漏らした呟きに反応して、首をかしげる。
「なにか、あったのかね?」
なにかというほどのことはない。先日の熱心なお客様のことを思い出しただけだ。報告するほどのことでもないのかもしれない。しかも、もし見込み客だったのなら、逃がしてしまって、私の能力にマイナス査定がつくかもしれない。
「えっと……」
それでも、この変化のない毎日に投じられた小石が生みだしたさざ波を誰かに伝えたいという思いがせりあがった。
「熱心に絵をご覧になっていた女性がいらっしゃいまして。でも、すぐに帰ってしまわれたんですけど」
「若い女性?」
オーナーが興味ありげに、こちらに向きなおった。これは、もしや、重大事だったのかしら。
「二十代後半くらいの、えっと、普通の女性で。高坂先生のライフワークの絵をじっと見つめていらしたんです」
「百合子君の絵を。兄の絵ではなく?」
「はい……」
画廊の隅に、ほんの少しだけ置いてあるオーナーのお兄さんの絵をチラリと横目で見る。確かに、橋田坂下の絵なら、取りつかれたように見つめるお客様は多い。そして、そんな客は、どんなに高額でも即座に買って行くと言い張る。
だが、高坂百合子の絵を描いたいと言った客は今まで一人もいない。
美大を卒業してはいるが、美術展の受賞経験もないうえに弟の背中しか描いていない人の絵を誰が買うだろう。
「その女性は名乗ったかね?」
「いいえ、お名前は……」
オーナーは腕を組んで考え込んだ。いつも、売り上げ帳簿を見て眉を顰めるときよりも、ずっと厳しい顔をしている。
「もし、その女性がもう一度来たら」
顔を上げたオーナーの表情は、見たことがないほどに引き締まっていた。まるでこれから戦いに行くゲリラ兵士のようだな、と、ゲリラ兵士など見たこともないのに思う。
「引き留めておいてくれ。そうして連絡をくれ。すぐに来る」
「え……、でも。先日はお急ぎだったみたいで、すぐに走って出て行かれて……」
「いいから」
オーナーは今まで見たことがないほど怖い顔をした。
「その女性が、加藤田さゆみなら、絶対に引き留めるんだ」
私は迫力に押されて、ただ、頷いた。
オーナーが店に出てくるのは本当に珍しい。月に一度は会計に関する用で出てくるが、それ以外はほぼやって来ない。月に五度もやって来たら、天変地異の前触れかと恐ろしくなるだろう。
この画廊は儲け度外視で、無料の美術館のように絵を飾っている。
それもそのはず。
オーナーの兄は世界的に有名な画家で、何点もの作品が世界中の美術館に高値で買い取られている。
その権利の半分は弟であるオーナーが持っていて、その資産は軽く億を超えるらしい、というゴシップ記事を読んだことがある。その記事によると、オーナーの兄は変死、その弟子が殺したのではないかと疑われたが、彼女には不可能だったと証明された。
その弟子、高坂百合子にはしっかりとしたアリバイがあり、また、亡くなった画家の関係者が全員、彼女を擁護したのだ。
彼女は亡くなった画家の財産をすべて受け継いだのだが、オーナーが相続権を主張して彼女の権利の半分を譲り受けたらしい。
……全部、雑誌で読んだことだけど。
そもそも、私は画廊に掛けてある『背中』の絵の作者に会ったことがない。彼女が他の絵を描いているのかどうかも聞いたことがない。
ただ、その姿はよく知っている。この画廊にある亡くなった画家の絵はすべて彼女の、高坂百合子の似姿だからだ。
とても美しい女性だ。美しく、どこか生気のない絵。彼女の視線がすべてどこか虚空を見ているように見えるせいかもしれない。
ふと、先日やってきた女性客のことを思い出した。どこか憑かれたような、目の前にあるものを見ていないような視線。どこかこの世でないものを見ているような視線。その視線は絵の中の高坂百合子の視線と似ていたような気がした。
珍しくお客が来たお昼時、私はちょうどバックヤードでお弁当を食べていた。ドアが開くと鳴るセンサーの音を聞いて、慌ててお弁当に蓋をして表へ飛び出した。
「いらっしゃいませ」
画廊には一人の背の高い男性がいて、高坂百合子の絵を見ていた。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せない。どこと言って特徴のある感じではない。
背は結構高いけれど、顔も、体形も、髪形も、いたって普通としか言いようがない。どこにでもいそうで、誰とでもすぐに交代できそうだ。
男性は私に向かって小さく頭を下げてみせてから、高坂の絵に視線を戻した。邪魔になっても悪いので、受付カウンターの中に引っ込んで仕事をするふりをすることにした。
お客の来ない画廊に、そんなに仕事があるわけもなく。私は大抵、顧客名簿を何度も何度も何度も何度も、確認して、年賀状の宛名書きに向けて字の練習をしている。字がうまいことは一生の宝になると、おばあちゃんが言っていたから、気合も入る。
男性が奥へ移動した気配に顔を上げた。高坂百合子が描かれた絵の前で足を止めてじっと見つめている。ああ、この人も買って行くのかな。お金があるようには見えないけれど、人は見かけによらないもんね。
商談用の書類を音をたてないように準備していたのだけれど、男性は踵を返してドアに向かった。立ち上って見送りのためにドアを開ける。
すれ違う時、男性は私の顔を見て、ぷっと吹きだした。それからあわてて口を手で覆ってから、男性は真面目な顔を取り繕って言った。
「あの、唇に青のりがついていますよ」
顔が真っ赤になったのが自分でもわかった。男性は申し訳なさそうな表情で会釈して店から出て行った。
バックヤードに駆け込んで手鏡で確認してみると、確かに、ぺったりと青のりがくっついていた。犯人はちくわの磯部揚げだ。恥ずかしくてたまらない。
まあ、いい。一見のお客なんて二度と顔を合わせることはないんだから。
そう思っていたのだが、男性とはすぐに再会することになってしまった。
その時はまだ、気付いていなかったのだけれど。
あいも変わらず、お客も来ない画廊の受付をしつつ、自分の人生についてぼんやり考えてみた。私はこのままでいいのだろうか、と。
ほとんど雑談のような接客と、掃除、たまに絵を買いたいというお客が来たら、電話してオーナーを呼び出す。簡単な出納帳をつけるけれど、本当に収支を書くだけ、お小遣い帳みたいなものだ。あとは月に一度、会計士が取りに来るから出納帳を渡す。私の仕事はそれくらいだ。
あ、重要な仕事を忘れていた。電球の交換だ。一度、これを忘れて、よりによってお客がいる時にライトが消えたことがある。
ライトに照らされなくなって、なぜか絵は陰影を濃くしたように見えた。一番大きな背中の絵がふいに息づいたような気がして、ぞくりとした。
お客も同じように感じたのか、そそくさと出て行った。すぐに電球を交換して明るい光にさらされた背中は、のっぺりとした壁のような印象に戻った。けれど、それ以来、私は出来る限り背中の絵を見ないようにするようになったのだ。
それは置いておいて。とにかく、私の人生設計について本格的に考えるべきだと思うのだ。このまま、この画廊がいつまでも長く存在するとは思えない。
高坂百合子の絵は売らない、オーナーはお金持ちだから仕事は趣味の範疇。時々、オーナーの兄の絵がかなり高い値段で売れるけれど、収支を見ているととても儲かっているとは言えない。オーナーは経費でいろいろ高額なものを買い漁っているようなのだ。
そんな職場でキャリアも積めず、ビジネスマナーにも不安がある。受付嬢なんて若いか、仕事がさばける人でないと務まらないだろう。私の取り柄は若いことだけ。年々、その価値は下がっていく。
そんなことを考えていたある日、ふいにオーナーが画廊に顔を出した。もちろん、この店のオーナーなのだから、いつ来たって不思議はないのだが、月に一、二度しかやって来ないオーナーが三日連続でやってきたのだ。そして何をするでもなく私を観察して帰っていく。
もしかして、私が何かミスでもしたのだろうか。いや、そんなにミスを出来るほどの仕事はしていない。では、なんのために?
もやもやしたまま、まさか「なにをしに来たんですか?」なんて聞けるはずもないまま、数日を過ごした。
「美和君」
私がお昼休憩をとろうとバックヤードに引っ込むと、五連勤のオーナーに呼ばれた。
なんで下の名前で呼ぶの? 今までは普通に苗字で「船木君」と呼ばれていたのに。
「最近はお客様の来店数はどうかな」
どう、と言われても。まったく来ていませんともいいにくい。
「ええ、まあ。変わらずといいますか、えっと……、変わりないです」
しどろもどろの私にオーナーは微笑みかけた。ちょっと、気持ち悪い。
五十いくつか知らないけど、いい年をしたおじさんなのに、自分ではカッコいいつもりなのが丸わかりで、私はオーナーが苦手だ。高そうなブラックスーツも、オールバックに固めてテラテラ光る髪形も、なんだかジジ臭い。体形だけはキリっとしているけれど、スケベったらしい雰囲気がぷんっぷん臭っている。
「この画廊はあまり知名度が高くないから、君も暇じゃないかな」
なんだなんだ。暇じゃないかなって、もしかして、解雇とかそういう話?
「えっと、でも、毎日、いろいろお仕事させていただいてまして、働き甲斐があります」
「そうかね。若いんだからもっと仕事量が増えても大丈夫かなと思ったんだけど、どうかな」
「はい! ぜひ!」
やった。この暇な毎日に新しい刺激がやって来る。スキルアップも出来るかもしれない。
「良かった。じゃあ、新しい仕事の内容について、今晩、食事をしながら話そうか」
「え……、食事って」
「もちろん、美和君の好きなものでいいよ。何がいいかな? この近くにフレンチの美味しい店もあるし。そうそう。この季節なら鍋なんかもいいね。座敷で、二人で、ゆっくり話も出来る」
ゾワっと背中に鳥肌が立った。この人と二人でなんてって考えただけでダメだ。
「美和君、どうかしたのか?」
近づいてきて手を握られた。どうしよう、逃げたい。でも、ここで逃げたら仕事がなくなるかも……。でも、このままだと何をされるか……。ああ、どうしよう。ドアはオーナーの向こう側だ。突き飛ばしでもしないと逃げられない。どうしよう!
その時、表のドアが開いたことを知らせるチャイム音が鳴った。
「お客様です!」
甲高い声が出た。でもそんなことにかまっていられない。オーナーを押しのけて表に出て行く。
「いらっしゃいませ!」
救いの神だ! 救いの神だ! 今すぐにでもすがりつきたい!
入って来たのは若い女性だった。長い黒髪、ほっそりした体、真っ白な肌。そして、どこか遠くを見ているような瞳。
その瞳が私をとらえた。高坂百合子……。
私は彼女の美しさから目をそらすことが、出来なかった。
「オーナーは、いらっしゃる?」
上品で甘い声だった。いつまでも聞いていたいと思うほど耳に心地いい。
「どうかなさいました?」
ぼーっとしていた私に彼女は首をかしげた。ハッとしてあわてて姿勢を正す。
「いらっしゃいませ、オーナーですね。すぐに呼んで……」
「おや、百合子君じゃないか」
呼びに行くまでもなくオーナーが出てきた。それはそうか。店内は防犯カメラでチェックしてるんだもの。
百合子さんはオーナーに向かって軽く頭を下げた。
「突然お邪魔してしまって、申しわけありません」
「とんでもない。この画廊は言わば君のものなんだから、いつでも足を運んでくれ」
ちっとも心がこもっていないセリフをオーナーが口にする。百合子さんから奪い取った店でのうのうとしているくせに。
「ここで立ち話もなんだし、どこか近くでコーヒーでも」
「いいえ、すぐにすむ用件ですから」
百合子さんはチラリと私に視線を向けた。私は会話の邪魔なのかなと気を利かせてバックヤードに戻ろうとすると、百合子さんは私に声をかけた。
「あの、あなたのお名前をうかがっても、よろしいかしら」
「船木美和です」
「美和さん。かわいいお名前ね」
そう言って百合子さんはニッコリと笑ってくれた。こんなきれいな人から褒めてもらえるなんて、私は生まれて初めて、自分の名前を誇らしく思った。
「橋田さん」
百合子さんがオーナーに視線を戻す。先ほどの笑顔が嘘のように消えていた。
「『背中』の新作を納めたいのですけれど、今回も号数が大きくなってしまって。搬入作業に人手をお借りしたいの」
年若い百合子さんはオーナーに対しても堂々としている。画廊のオーナーに対する作家というよりは、画廊のオーナーと雇われマネージャーのように見える。
まあ、それもそうか。今のオーナーの財産は百合子さんの恩情で与えられたものなわけだし。
「もちろん、力を貸すよ。すぐに業者を手配しよう。作業には私も立ち会うから、安心して欲しい」
「いいえ、橋田さんの手をわずらわせるつもりはないんです。でも、出来たら、彼女」
百合子さんがまた私に笑顔を向ける。
「美和さんに、お手伝いしていただきたいのですけれど」
突然の指名に驚いて思わず、オーナーに目を向けると、オーナーも驚いたようで私を頭のてっぺんから、つま先までジロリと見おろした。なんだか不愉快になって、すぐに目をそらしたけれど、オーナーの視線はこちらに向いたままだ。
「ね、美和さん。お願いできるかしら」
「もちろんです!」
考えるよりも先に返事が口から飛び出した。
「ごめんなさいね、無理にお願いしてしまって」
「とんでもないです! 光栄です!」
『背中』の搬出の日に訪れた百合子さんの家は、驚くほど広かった。
庭は森みたいだし、建物はコンクリート打ちっぱなしでカッコいいし、何より、靴を脱がない家なのだ。映画の登場人物になったような気分だ。驚きすぎて目が点になっていたんじゃないかと思う。私は、はしゃぎたくなるのをグッとこらえていた。
「業者さんが来るまで、お茶にしましょう」
百合子さんの後について行きながらキョロキョロと部屋の中を見渡してしまう。入り口を入ってすぐの部屋にはソファが一つ置いてあるだけで、広々とした部屋はガラーンとしている。扉は三つ、一つは出入口、というか、玄関扉。一つは真っ暗で何の部屋かわからない。もう一つの扉、百合子さんはそちらに向かった。
扉をくぐるとすぐ目の前に次の扉。廊下は左右に長く伸びているのだけれど、どちらも暗くて何があるかはわからない。この建物はどうして、こんなに暗いんだろうと思って、窓がないからだとハタと気づいた。そういえば、建物に入る時に窓は見なかった気がする。
「どうぞ、座って待っていて」
廊下から入った部屋はダイニングのようで、洋画に出てくるような十人は座れそうな長いテーブルがある。それなのにイスは三脚しかない。
部屋の奥の扉がキッチンに続いているようで、百合子さんはそちらへ入って行った。
言われた通りイスに腰を落ち着けて、部屋を見回す。真っ白な壁で、天井がものすごく高い。建物全体の天井高が高いのだけれど、座って見上げると、より高いように感じられる。広々している、というよりは寒々しいと思うほどに広い。
部屋の中は家具が少ない。部屋の角に白いチェストがあって、真っ白な花瓶に大きなユリの花が活けてある。白ばかりなのに香り立つようで豪華で上品なイメージなのは、さすがの芸術家という感じがする。
これもまた真っ白な大型のキャビネットがあるのだけれど、中には何も入ってはいない。洋酒の瓶でも並んでいたら似合いそうな家具だけれど、百合子さんがお酒を飲んでいるところなんて想像できない。からっぽなのが、ちょうどいいのかもしれない。
「お待たせしました」
トレイを持って百合子さんが戻ってきた。大き目のティーポットとソーサーに乗ったカップが二つ。本当にどれも真っ白だ。
百合子さんが紅茶を淹れてカップを私の前に置いてくれた。
「すみません、お手伝いに来たのに、何もせずにお茶をいただいてしまって」
「いいのよ、気にしないで」
百合子さんは私の対面のイスに腰かけて、ニッコリと笑う。緊張がほぐれていくような優しい笑顔だ。
「冷めないうちに、どうぞ」
うながされて紅茶を一口飲む。なんだか花のような甘い香りがする。
「じつはね、来てもらったのは、絵の搬出のためじゃないの」
「え?」
紅茶から顔を上げると、百合子さんは真剣な表情になっていた。
「聞きたいことがあって。画廊に来るお客様のことなんだけれど」
「あ、はい。どういった……?」
「オーナーから何も聞いていないかしら。特別なお客様のこと」
上得意のお客がいるとか、そういうことだろうか。それとも、他の話だろうか。ピンとこないまま、首をかしげた。
「たとえば、画廊に若い女性が様子を見に来たりとか」
「あ!」
「なにかあったの?」
「あ、はい。以前、女性のお客様がいらして。その話をオーナーにしたら、また来たら引き留めてくれって。確か、名前も聞いて……。なにか珍しい名前……、カトウダ?」
「加藤田さゆみ?」
「そうです!」
百合子さんは軽く眉をひそめてため息を吐いた。
「そう。さゆみさんは、まだあきらめていなかったのね」
「まだ、っていうのは?」
ちらりと目を上げて、百合子さんは私の顔をうかがい見た。面接官みたいに、じっと、観察しているみたいに。
「ここだけの話。人には話さないでくれる?」
「はい」
頬に手を当てて何かを考えてから、百合子さんは口を開いた。
「加藤田さゆみさんは、私の弟を追い回しているの」
「それって、ストーカーとか……?」
「ええ。さゆみさんは弟の恋人だったの。でも、弟からお別れを言ったらしいのだけれど、さゆみさんは聞き入れてくれなくて。だんだん行動がエスカレートして。身の危険を感じて、弟は姿を隠しているの」
「警察に相談はしなかったんですか」
「したわ。でも、女性から男性への迷惑行為には真面目に動いてくれないというか……。さゆみさんは相変わらずの行動を続けていて」
驚いた。画廊にやって来た加藤田さゆみは、とてもストーカーなんかしそうにない、普通の女性にしか見えなかった。
「だから、彼女が画廊にやって来ても、何も話さないで欲しいの。お願いできるかしら?」
百合子さんは眉を寄せて心配そうに私を見る。うなずこうとして、ふと止まった。
「あの、オーナーからは加藤田さゆみが来たら連絡するように言われてるんですけど……」
「橋田さんは、きっと私を助けようとしてくれてるんだわ。でも、面倒をかけたくないし、弟がどうしているのか説明するのは避けたいの。弟がこの家にいないっていうことを知っている人は少ないほどいいでしょう」
「わかりました。絶対に誰にも何も言いません。オーナーにも」
百合子さんは、とても嬉しそうに、ふわあっと花が咲くみたいに笑った。
お茶を飲みながら色々話をした。主に、私の氏素性とか、故事来歴とか、そういうこと。本当に面接を受けているみたいな質問だったけれど、百合子さんに聞かれると不思議となんでも、するすると答えてしまう。
百合子さんの会話術の秘訣は、その美しさのせいかもしれない。
容姿だけではなくて、声も、姿勢も、しぐさも、何もかもが美しいのだ。きっと心の中も真っ白で美しいに違いない。
いつまでも話し続けていたかった。私のことを全部知って欲しい。こんな気持ちは初めてだ。まるで最良の飼い主に出会った犬のような気持ち。お腹をさらけだして、なんでも言うことをきいてしまいそう。
絵を搬出するために業者がやって来たのが残念でならない。もっと遅い時間に来てくれれば良かったのにと憎らしいくらいに思った。
百合子さんが業者の人、二人を案内していく後についていく。ソファのある部屋の奥、真っ暗な部屋に灯りがともる。真昼のように真っ白な光だ。まぶしい。
部屋の真ん中に、大きなキャンバスがあった。画廊にある最大の絵と同じ号数みたいだ。やはり、男性の背中の絵。それはそうか、『背中』っていうタイトルなんだもの。今までの作品と同じ、弟さんの背中なんだから。
黄色のシャツを着た細い背中。やけに首が長い。まるで首に縄をかけて引っ張ったみたいな。姿勢よく座っている。
業者さんはテキパキと梱包していく。絵の梱包なんて始めて見た。用意されていた額に嵌め込んで、額の四隅に緩衝材を止めつける。プチプチの梱包材でくるんで、段ボール製の箱に入れて、またプチプチでくるむ。
百合子さんは真剣な表情で、じっと作業を見つめている。大切な絵なんだから、どういう風に扱われるか心配なんだろう。
ふと、百合子さんの表情が変わった。笑ってる?
なぜだか、ぞっとした。この世のものとは思えないほど美しかったのだ。まるで美しさで獲物をとらえる妖花のようで。
見てはいけないものを見たような気がして、私はあわてて目を伏せた。
新しい『背中』の絵は無事に画廊に運びこまれた。画廊で待っていたオーナーが大きくドアを開けて待っていた。オーナーが働くところを初めて見た。まあ、ドアを開けただけだけれど。
業者さんは今かかっている絵の隣に、新しい絵をかけるところまで、やってくれた。何もかもお任せでいいものだとは知らなかった。てっきり運ぶところまでで帰ってしまうのだと思っていた。
作業が終わるまでに時間があったので、業者さんたちのためにお茶を淹れた。椅子もテーブルもないから、立って飲むしかないのだけれど。それでも嬉しそうに飲んでくれたのは、こちらとしても嬉しい。帰っていく業者さんに挨拶してドアを閉めたところで、私の仕事は一段落した。
「美和君、百合子君と話があるから、奥の部屋を使うよ。人が来ても通さないでくれ」
そう言ってオーナーと百合子さんはバックヤードに入って行った。オーナーは見たことがないほど緊張した面持ちだった。なんの話なんだろう。気にはなったが、まさか立ち聞きするわけにもいかない。けど、知りたい。
気持ちを落ち着けようと、新しく入った『背中』の絵を見上げる。正式な名前は『背中 二十三歳』だ。今までは一番大きかったのが『背中 二十歳』だから、それから三歳年をとったわけだ。
弟さんは、いったい何をしている人なんだろう。二十三歳なら就職して働いているだろうか。それともまだ学生か、もしかして何もしていなかったりして。百合子さんほどの財産があれば、弟くらい一生、面倒をみられるだろうし。
いや、でもそれはあまりにも現実的じゃないな。姉弟、二人で一生一緒なんて。
二十三歳の背中を見ていると、ふと違和感を抱いた。なんだろう。なんだか、この背中が全然知らない人みたいな気がした。
もちろん、百合子さんの弟さんとは会ったことがないのだから、知らない人だ。けれど、毎日、二十歳の背中を見ていて、すっかり見慣れたものだから、よく知っているような気がしていたのだ。
百合子さんの絵がすごく写実的で、生きているみたいに見えるから、本当の人間の背中を見ているような感じがするのだろう。
背中だけでなく、二十歳のこの人のすべてが、この絵の中にあるような。そんな感じを受けていたのだ。
これが才能っていうものなのかな。
ドアが開いて、人が入ってきた。あわててお客を出迎えようと振り返ると、入って来たのは加藤田さゆみだった。
さゆみはまっすぐこちらに向かってくる。何かされるのではないかと身をこわばらせたが、さゆみは『背中 二十三歳』の前に立って、じっと絵を見つめた。
ほっと息を吐いたが、安心は出来ない。きっと百合子さんの弟さんを探して、ここに来たのだ。もしかしたら百合子さんの家からずっと尾行してきたのかもしれない。そうでなければ、どうしてこんなにタイミングよく、ここに来られるの?
新たに気が張り詰めた。けれど、さゆみは眉をひそめて、じっと絵を見上げつづけるだけで何も言わないし、何もしない。
そう言えば、以前来た時、二十歳の絵の前でも、そうとう長い時間を、じっと立ったまま過ごしていたっけ。
その時は懐かしいものを見ているような優しい、悲しそうな表情だったけれど、今日は違う。何か怒っているような感じだ。その怒りの矛先がこちらに向かないように、そっと受付の机に向かった。
「あなたは」
机にたどりつく前に、声をかけられた。
怖い、何を言われるのだろう。肩をすくめて振り返った。けれど、さゆみは、案外、優し気な雰囲気だった。
「あなたは、どこまで知っているの?」
「え?」
「橋田坂下の家から、高坂百合子と一緒に出て来たでしょう。何を知っているの?」
やっぱり、さゆみは尾行してきたんだ。恐怖が増す。なんとかごまかさなくては。ストーカーのことを知っていると言ったら、危ないかもしれない。
「何を、って、なんのことですか?」
精一杯、平静を装ったつもりだけど、もしかして声が震えていたかもしれない。それくらい、怖かった。尾行なんてする人が、ストーカーなんかする人が、普通の会話が出来るとは思えない。
「もし、何も知らないなら」
さゆみは言葉を切って、防犯カメラに目を向けた。
「高坂百合子から逃げた方がいいわ。この画廊にいない方がいい」
そう言い残して、さゆみは出て行った。
百合子さんとオーナーはバックヤードのモニターで加藤田さゆみのことを見ていたらしく、会話の内容を問い詰められた。そのことについて「他言無用だよ」とオーナーから釘を刺された。
百合子さんを見ると、ニッコリと微笑んでくれたから、誰にも喋らないことに決めた。
いつまた、さゆみが現れるかとビクビクしながら毎日、出勤していたけれど、二週間たっても、何ごとも起きない。怖がっていたのがバカらしくなった。
「いらっしゃいませ」
そのお客は画廊には似つかわしくないほど汚い風体だった。ジーンズはおしゃれのためのダメージではない、すり切れただけの穴が開いていて、スニーカーはなんだか薄汚れているし、というか、この人自体が薄汚れていた。
三十歳くらいだろうか。無精ヒゲとぼさぼさの髪、襟の内側が黄色に変色したシャツと、アイロンなんか知らないようなトレンチコート。
絵を見に来たのではないことが一目でわかる。冷やかしだろう。
と、思っていると、絵に目を向けた。二十三歳の背中の絵をじっと見上げている。あまりにも真剣な、一途なまなざしが見た目と違って、驚いた。
じっと見ていると、その人と目が合った。あわてて視線をそらしたけれど、観察していることはバレている。お客に対して失礼千万。苦情を言われかねない。
ほら、まっすぐ、こちらに向かって来た。
「ちょっと、聞きたいんだけど」
そう言って、ジーンズの後ろのポケットから取り出したのは、警察手帳だった。本物を初めて見た。思わずまじまじと見つめてしまう。金色のカッコいいマークと、身分証明書みたいな写真。あ、そうかこれは警察官の身分証明書だ。
写真の中のこの人は制服を着てきちんとしていた。小奇麗にしていれば、かなりカッコいい人だ。
目を上げて本人を見ると、とても同一人物とは思えないけれど、顔の作りは、なるほど、整っている。
「あの絵は、いつから飾ってあるの?」
二十三歳の背中の絵を指し示して聞かれた。いったい、何ごとなのかと身構えてしまうけれど、警察官に嘘を言う必要も、隠す必要もないだろう。素直に話すことにした。
「二週間ほど前です」
「作家は来たの?」
「はい。搬入の際には」
「どんな人?」
どんな、というのは、何についてなんだろう。年齢、性別、職業……は画家に決まっている。とりあえず、一番に伝えるべきことは。
「美しい女性です」
「それは知ってる。橋田坂下のモデルだろう」
画廊の奥、オーナーの兄の絵を振り返って、刑事はその姿を確認した。外見のことじゃないなら、なんだろう。私が知っていることといったら。
「優しくて、すごく親切な方ですよ。上品で、見かけだけの美しさじゃないって言うか……」
「親しいの?」
私の言葉を遮って質問は続いた。
「いえ、一度お会いしただけですので」
「ふうん。弟には会った?」
「いえ、一度も」
「加藤田さゆみを知ってる?」
ああ、ストーカーの捜査に来たのか。それなら、全面協力しないと。
「知っています。二度、来店されました」
「あんた、記憶力いい方?」
突然、何の話だろう。突拍子もないところから喋りだす人だ。
「悪くはないと思いますけれど」
「じゃあさ、この人が来たら、連絡して」
刑事は一枚の写真を差し出した。男性の写真だ。どこかで見たことがある気がする。いつ、どこで? と、ふと思いついた。
「あの、もしかして、この人は百合子さんの弟さんですか?」
「いや、違う」
あれ、違ったか。『背中』の絵と雰囲気がそっくりだったんだけどな。
「とにかく、見たら連絡をくれ。それと、今日のことは人に話さないでいてくれると助かる」
「わかりました……」
刑事は、しわくちゃのメモを置いて出て行った。携帯の電話番号にかけるように言われたそのメモには『北条』という苗字も書かれていた。見た目にそぐわないキチンとした文字で、なんだかおかしくなった。
刑事に聞き込みされたなんて、出来れば誰かれかまわず話してまわりたいけれど、百合子さんの弟さんのためだ。我慢、我慢。
そう言えば、「誰にも」言うなと言われたけれど、百合子さんには、どうすればいいんだろう。刑事さんが来たなんて言ったら、かえって心配をかけるかな。黙っていようか。うん、そうしよう。
その時、ハッと思いだした。あの写真の人、知ってる!
いつだったか、お弁当を食べている時に来店されて、私の口の青のりを笑った人だ!
思い出しただけで、カッと顔が赤くなった。そうだ、さっきの刑事さんにこのこと話した方がいいかな。
店の外に出てみたけれど、刑事さんの姿はなかった。ずいぶん前の話だし、見たら連絡を、と言われただけだし、わざわざ電話するほどのことでもないよね。
メモは受付のデスクにしまった。今日は青のりがついていないか手鏡で確認したけれど、大丈夫だった。
執筆に必要な設備費にさせていただきたいです。