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憑 狂 ~ツキクルウ~ Ⅱ

 大基はめずらしく午後の授業をサボってアパートに帰った。
 1DKのボロアパート。画材を置くスペースが必要なため、多少の贅沢をして広めの部屋を選んだのだが、今では台所にまで紙やら筆やら絵皿やらがはみ出してきて足の踏み場もない。大基の居場所はたった一箇所、ベッドの上だけだった。いつも持ち歩いているカバンとスケッチブックをベッドに放り出して自分も尻を落ち着ける。

 久しぶりに、絵を描きたいと思った。ベッドの上に胡坐して膝を机代わりにスケッチブックを開く。枕元のペン立てから抜き取った鉛筆を持って、さて、何を描こう。と白々しく考えるフリをしてみたが、描きたいものはただ一つ。高坂百合子の姿だった。

 ところが実際に紙に鉛筆を置くと、百合子がどんな顔をしていたのか、輪郭は、耳は、首の長さは、すべてが曖昧に手をすりぬけて何一つ描くことができない。

 目をつぶれば、ただ、彼女が呼ぶ「大ちゃん」と言う声と、見つめられた感触だけがよみがえり、大基は半そでから出た二の腕に鳥肌がたつのを感じた。腰から背中までをかけ上る快感を覚えた。
 ぶるっと身震いして、一人きりの部屋なのに何故かバツが悪く、自画像でも描こうと鏡を引っ張り出してのぞきこんだ。

 ふと、違和感を感じた。
 オレの顔って、前からこんなふうだったっけ?

 なぜか見慣れた自分の顔という感じがしない。しかしつくづくと検分してみても、どこかが変わったようにも思えない。無精ひげのせいかもしれない。そう結論付けて鏡は放り出してしまった。

 大基は大の字にベッドに寝転んだ。百合子の顔を思い出そうとする。
 しかし、美しいと言う印象と彼女の声ばかりが現れ、具体的な顔立ちは思い出せなかった。

 明日、学校でまた会えるだろうか……。その時を想像すると、また腰から背中へ這い上がるむず痒さを感じ、誤魔化すように目を閉じた。
 大基はそのまま眠ってしまった。


「おーい、元宮」

 教官の牧田に呼び止められ、大基はギクリと足を止めた。思わず顔がひきつる。そっと首を巡らして牧田の方に顔を向けたが、足はいつでも逃げられるように前を向いたままだ。

「あ、はい、なんでしょう」

「なんでしょうじゃないだろ。お前、グループ展の作品どうなってるんだ」

「あの……。ちょっと、まだ……」

 牧田の眉間に深く刻まれたシワを見ないふりをして大基は視線を宙にさ迷わせた。
その答えを半ば予想していたらしい牧田は大きな溜め息を吐いてみせた。

「出来てないのか。とりあえず、テーマと題名だけでも教えてくれ。チラシの印刷に間に合わん」

「えっと、それも、まだ……」

 顔も体もいかつい牧田の、さらにいかつい眉毛が跳ね上がる。

「テーマもまだって、お前、何やってたんだ!」

「いや、あの、ちょっと、他の課題で手一杯で……」

 しどろもどろでちゃんとした言い訳も出来ない大基に、牧田はあきれた様子で首を振った。

「もういい。とにかく、テーマと題名だ。明日の朝まで待ってやる。それを過ぎたら単位はやれんぞ」

 重々しく静かな声で宣言して歩み去る。自業自得と分かってはいても、背中に重い荷物をしょったように感じる。足を引きずるような思いで次の講義に向かうため廊下を進んでいった。

 誰がどこで吹き込んだものか、食堂で顔を合わせた途端、さゆみは大基の単位が危ない件について糾弾してきた。

「ほとんど毎日大学にいるのに、単位落とすなんて信じらんない!」

「落としてないよ。まだ」

「まだ! まだですって。やっぱり落とす気、満々なんじゃない」

 大基はそっぽを向いて、じゃがいもばかりのカレーを食べ始める。

「あーあ。油彩を落としちゃうなんて、これじゃ美術教師になるのは無理ね。二人一緒の卒業式も怪しいわね。あたし、かなしーい」

 口の中でじゃがいもをモゴモゴもてあそびながら大基は反論する。

「墨彩はちゃんとやってるし、油彩だって二単位は取ってるよ。
人を無計画なアホみたいに言うなよ」

 さゆみが言い返そうと口を開くのよりも早く、大基はカレーを胃袋に流しこむと、そそくさと席を立った。

「こらあ! 逃げるな! ……ったくもう」

 深いため息をついて、さゆみは伸びきったワカメソバに箸をつけた。


 まったく身が入らぬまま午後の講義を終え、大樹はとぼとぼと駅へ向かった。

 途中、百合子の後ろ姿を見つけた。大きなダンボール箱をかつぎ、よろよろと歩いている。ダンボール箱の幅は薄いが百合子の背丈ほどの高さがある。
 大基は一目散に駆け出すと、百合子に追いつき声をかけた。

「先輩、持ちますよ」

 振り返った百合子は、全身で微笑んだ。まるで、大基に会えた事が至上の喜びだとでも言わんばかりに。あまりに眩しい微笑みに、大基はニヤけそうになったのを、ぐっとこらえる。百合子はそんなことに気付いているのか、いないのか、素直に嬉しそうだ。

「ほんと? 助かったわ。ありがとう、大ちゃん」

 中身はキャンバスだろう。五十号くらいか。大柄な大基にとっては大した重さではないが、小柄な百合子は、持ちにくさも相まってか、完全に振り回されていた。か弱い儚さ、そんな姿も美しい、とガラにもない言葉を心の中でつぶやき、大基は一人で照れてそっぽを向きながら荷物を受け取った。

「これは、課題ですか?」

 肩に荷物を揺すり上げながら聞くと、百合子は首を横に振る。

「ライフワークの作品なの。先生が見たいっておっしゃってくださったから持ってきたんだけど……。ちょっと張り切って大きく描き過ぎたわ。まさか、持って歩くことになるとは思わなかったから」

「ライフワーク……。まだ学生なのに、すごいですね」

「大げさな言い方になっちゃったけど、昔からずっと描きつづけてるから
一生続けようと思っているだけなのよ。ちっとも、すごいものじゃないわ」

「テーマは、何ですか?」

「成長。弟の成長記録なの」

「なるほど」

 そこで、会話は途切れた。
 大基は百合子に会ったら聞いてみたいことが山のようにあったのだが、実際に本人を目の前にすると頭の中はカラッポで、いったいぜんたい何を聞きたかったのか、ちっとも思い出せない。沈黙が続くことに耐えられず、何か聞くべきことを探して頭をフル回転させていると、百合子が口を開いた。

「あのね、大ちゃん」

 立ち止まって大基を見上げた。大基はドギマギしながらも、百合子の視線をなんとか正面から受け止める。

「え。なんでしょう」

「敬語を使われるの、あんまり好きじゃないの。あと、先輩って呼ばれるのも。名前で呼んでくれる?」

 大基はさらにドギマギする。名前でって、苗字のことだろうか、それとも下の名前? 判断がつかず、いつも頭の中で呼んでいる通りの呼び方を選ぶ。

「……百合子、さん?」

「はい」

 百合子はうれしそうにニッコリと笑う。大基は首から頭のてっぺんまで真っ赤になっていって、完全に血が上り、百合子に返すためのうまい言葉が見つからなかった。
 しかし頭の片隅では冷静に、この笑顔を見るためならオレはどんな要求にも応えるだろう。そう思っていた。


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